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318(前) 春本番!安芸太田から邑南町の神社探訪 ① “ここにも忌部瀛(イン)氏がいた!”

        20160417

久留米地名研究会(編集員) 古川 清久


春になりスケジュールが過密になって来ましたが、下記の関係団体のスケジュールで行動すれば、ほぼ、四、五日おきにどこかで何かがあることになります。


 久留米地名研究会(久留米大学公開講座)

 太宰府地名研究会(トレッキング)

 菊池(川流域)地名研究会

 玄海地名研究会(宮地嶽神社)不定期

 百嶋由一郎神社考古学勉強会(サブ研究会)

提携団体

 菊水史談会

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 久留米大学公開講座(古代史)九州王朝論


 このスケジュールの合間を縫って、懸案としていた安芸太田周辺の神社を見に行く事にしました。

 勿論、この一帯には過去何度か入っています。

 ただ、そのころの関心は民俗と温泉探訪でしかなく、神社に絞り込んだフィールド・ワークはやっていませんでした。

 しかし、アングルが変わると見えてものが違って来るものです。

 ともあれ、熊本人工地震の五日前の昼過ぎには大分県日田市の天瀬温泉五馬高原研修所を出発し、中津市経由で関門トンネルを目指しました。

 夜9時には山口手前の小郡インターから中国自動車道に入り11時にはパーキング・エリアで車中泊する事にしました。

 車中泊には快適な季節になりました。車内でパソコンを起動させネットから安芸太田周辺の下調べしながらいつしか眠りに就きました。

 翌朝も6時半には高速を走り7時半には広島県北西部の戸河内インターを降りていました。

 高速泥棒公団にはできるだけ金を廻したくないことから極力深夜での移動を心がけ今回も2200円 に抑えましたが、料金が高すぎるため産業用の車両が高速道を利用せずに(トラック協会の一幹部からも「これほど高い高速料金を払っていたら商売にならない ので一般国道をしか利用できない…」といった声が聞えてくるのです)国民の役に立たないまま劣化だけが等しく進んでいるのです。

 こんなものは、国民や国家の財産ではなく税金(国富)を一部の利権集団が吸い込むブラック・ホールでしかないのです(就中、不便で利用されない中国自動車道は既に厄介者でしかないのです)。

 さて、安芸太田の「太田」はオオタタネコの「大田」を思わせます。


世界大百科事典 第2版の解説 おおたたねこ【大田田根子】

記紀の伝承で三輪氏や賀茂氏の始祖とされる人物。《日本書紀》は大物主神(おおものぬしのかみ)の子と記すが《古事記》では4世の子となっている。オオは〈大〉,ネコは尊称,タタは〈田〉を意味するか。《古事記》によると,崇神天皇の代に災害や疫病が続いたときオオモノヌシが天皇の夢枕に示現してオオタタネコに我を祭らせよと語った。そこで託宣のとおりにしたところ災いは去ったという。このオオタタネコは夫なくしてはらんだ玉依姫(たまよりひめ)の子であるが,その異常な誕生のいきさつを語った説話が三輪山伝説である。 HP「コトバンク」による


神々の祭祀と三輪の伝説

崇神天皇の時、疫病が大流行して多くの人々が亡くなったという。
天皇はこの事態を愁き嘆いて、床にお休みになった。その夜に大物主大神(オオモノヌシ大神。書記の一書ではオオクニヌシ<
前述>と同神としているが三輪山の祭神と考えた方が無難)が夢の中に現れていうには、「この疫病は私の意志によるものだ。意富多々泥古をして私を祭らせるなら、神の祟りによる病も起こらず、国もまた安らかになるだろう」と神託をくだされた。(夢での神託=夢託)

そこで崇神天皇は早馬を四方に遣わしてオオタタネコを探し求めたところ、河内にいることがわかり、天皇のもとに呼ばれた。天皇が「お前は誰の子か」とお尋ねになると、オオタタネコは「私は大物主大神が陶津耳命の娘である活玉依毘売を娶って産んだ子、名は櫛御片命の子、飯肩巣見命の子、建甕槌命の子で、私は意富多々泥古です」と申し上げた。(つまり大物主神の五代目の後裔)
天皇は大いに喜んで「これで天下は安らかになり、人民は栄えるだろう」とおっしゃって、早速、オオタタネコを祭り主として、三輪山の大物主神を拝み祭った。


 書記では疫病を静めるために崇神天皇自らが天神地祇に謝罪し、これまで祀っていた天照大神を豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと=前述=崇神の娘)に託し、日本大国魂神を淳名城入姫(ぬなきのいりびめのみこと=前述=崇神の娘)に託した。しかし、しばしの災害に見舞われるため、やそよろずの神々を集めて問うたところ、倭迹迹日百襲姫命(やまととどひももそひめ=前述)に大物主神が乗り移り「私を祭れば、天下は平穏になる」と仰せらた。しかし天皇が祀ったが一向に効験が現れず、もう一度問うと大物主神は「私の子である大田田根子をして祭らせよ」と仰せられたという。


いずれにせよ、オオタタネコが大物主神を祀った。又、伊迦賀色許男命(いかがしこおのみこと)に命じて神聖な土器を造り天神地祇を祭る神社を定めることによって国は平穏になったという。

HP「神々の祭祀と三輪の伝説」による


この安芸太田の中筒賀支所の隣に「これは!」と思わせるものがありました。「大瀛和上の墓」です。

当方も本願寺派の浄土真宗の門徒であることから、多少は同派に対する事は知り得る立場に在るため安芸門徒の中興の祖とされる「大瀛和上」(三業惑乱)の名だけは知っていましたが、その生まれた地がここだったとは全く思いも及びませんでした。

「三業惑乱」は浄土真宗本願寺派内部の教義論争(形式的には当方も同法同行の輩になります)でしかありませんので関心をお持ちの方は「三業惑乱」で検索すれば概要は分かるでしょう。


318-1


浄土真宗殉教の僧、大瀛和上は宝暦九年(一七五九年)この地森家(現在の役場屋敷)に生まれ、幼少より当地西方寺の義諦師に仏法を学び、十一歳の時僧となる。
 後学僧として名高き広島報専坊の慧雲師につき宗学を究め、やがて私塾芿園社を開き、後進を指導した。
時に宗義の大本たるべき本願寺において智洞能化により異説が唱えられ三業惑乱という本願寺一大宗難が起こった時、在野の和上は正論の旗手となり重病の身にむち打ち、江戸寺社奉行所において智洞能化と対決すること数度、遂にこれを論破し真宗の本義は護られるに至った。
 しかし為に病状悪化し文化元年(一八〇四年)五月四日四十六歳にて示寂、江戸築地御坊において葬し、遺骨は同年六月二十二日、可部勝円寺に納め、分骨して筒賀に奉持森家裏山に墓所を設け納骨した。

昭和五十二年十月十日
筒賀村 同心会


本願寺派西方寺 安芸太田町大字中筒賀1730-1


318-2


安芸太田町筒賀支所 カーナビ検索 広島県山県郡安芸太田町中筒賀