293 北北東に進路を取れ! ⑬ 本来の目的地だった男鹿半島の真山神社について | ひぼろぎ逍遥

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293 北北東に進路を取れ! ⑬ 本来の目的地だった男鹿半島の真山神社について

20160103

久留米地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久


今回、東北を目指し、越後の彌彦神社を見て山形の手前までは進出したものの、何故か、残り300キロを走り抜ける気力を失い引き返したのは、“余りにも点と点を繋ぐような調査旅行は微妙な変化の連続性を把握できないことから、本来の姿ではない”との思いが、次第に高まって行ったからでした。

 マッカーサーの蛙跳び作戦宜しく、快調に飛んで来てみたものの、あまりにも安直な調査の在り方への嫌悪感が次第に増幅して来たのでしょう。

 次回は、移動は移動として、その周辺をじっくり見て回り、他の地域に色目を使わないと言うやり方を取りたいと考えています。

 それはともかく、最終目的地であった真山神社への思いは消せず、未踏ながら、予習として先行ブログを書くことにしました。

 フィールド・ワーカーが、ネット情報だけを頼りに好い加減な予見を交えた話を書くのは失礼である上に、違法ですらある事は重々承知の上ですが、所詮、その程度のものとして読んで頂く事はあながち悪いものでも無いかも知れません。

その最後の目標としていた神社とは秋田県の男鹿半島の先端中央にある真山神社でした。

一般的には秋田ナマハゲ神社として知られる真山(シンザン)神社です。


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真山神社に伝わる社伝によりますと…。

古事記・日本書紀に記される12代、 景行天皇の御世 に、武内宿禰(たけのうちのすくね)が北陸北方地方視察のあと男鹿島に立ち寄った際、男鹿半島の秀峰、湧出山に登ったそうです。そのときに、武内宿禰が使 命達成、国土安泰、武運長久を祈願するために、この地に瓊瓊杵命(ににぎのみこと)、武甕槌命(たけみかづちのみこと)の二柱を祀ったことが始まりだと言 われています。

御祭神

<主祭神>瓊瓊杵命(ににぎのみこと)武甕槌命(たけみかづちのみこと)

<合殿神>天照大御神(あまてらすおおみかみ)豊受大神(とようけのおおかみ)豊玉毘女神(とよたまひめのみこと)少彦名神(すくなひこなのみこと)大山咋神(おおやまくいのかみ)大名持神(おおなもちのみこと)

塞神三柱神(さえのみはしらのかみ)

※塞神三柱神とは…衝立船戸神(つきたつふなどのかみ)、八衢比古(やちまたひこ)、八衢比売(やちまたひめ)の3柱の総称

同社ホームページから


 「この神社を何故最後の目的地にしていたか…」とお考えになる方も多いと思いますが、理由は到って簡単で、故)百嶋由一郎氏が話されていたからです。

 まず、“この秋田県の真山神社の神様が九州の神様とか阿蘇の神様である”などと言えば、まず、信用されない方が多いと思います。

 正直言って書いている本人も、「どうせ理解して頂く事はできないだろう…」と思いながら書いているのですが、周辺を調べると、やはり百嶋先生がおっしゃっていた事は正しかったのではないか…と考えているところです。

持って回った話を続けましたが、この神社の主神は武甕槌命(塚原卜伝が崇拝した後の春日大神)であり、その実体は、火の国(貶められた表記に変えられた分国以前の肥前、肥後)からの来訪者で崇神天皇の御世に常陸にやって来たとされる建借馬命(タケカシマノミコト)=阿蘇高森の草部吉見=ヒコヤイミミの事であり、東征軍として常陸にやって来る前は、火の国の実力者だったのです。

 以下も、良く読ませて頂いている「神社探訪 狛犬…」です。



この神社は男鹿半島の最高峰・本山(赤神の岳)山頂に鎮座しています。
 古くから山岳信仰の霊場として栄え、かつては本山山頂は女人禁制の場であり、
293-2赤神神社の本殿や薬師堂なども建っていましたが、1952年、航空自衛隊レーダー基地建設のために山頂から遷座されたという事です。
 ここには江戸時代に於ける秋田の有名な紀行家・菅江真澄も文化7(1810)に 訪れ、真澄記に「ここは本山の山頂赤神の嶽。石を積んで囲み、中に薬師如来の堂がある。東には森良山、森山、寒風山が連なり、八郎湖の中から突き出ている ように見える。戸賀の浦、根太島、鼻ケ崎、一の女潟などが良く見える。山陰に多くの鹿がいて、笹原の中を群れて一群で去っていった。」と記しています。
 また本山縁起には、「この赤神神社は、赤神、つまり、中国前漢の孝武帝を祀っており、漢では「火=赤」とされていたために、赤神といわれたのでしょう。またある記録には、景行天皇2年に、赤神が天から降りてきたと書かれています。日本書紀には、景行20年に武内宿禰を北陸道などを平定させるため派遣したと記載されており、後には満願上人が、この山に詣でて12神将を建立しました。12神将とは、薬師如来に従う鬼神、つまり夜叉のことです。延暦3(784)将道が赤神を日光山に勧請しました。貞観2(860)には慈覚大師が赤神山日積寺永禅坊を建立し、武帝飛来の図を描き、御神体と
しました。また智人上人のドクロから4cmほどの薬師像をつくり、瑠璃の箱に入れ、石の宝蔵にしまい、山頂の赤神社に安置しました。」とあります。

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現在、真山神社とは呼ばれていますが、この神社は、かつては「赤神社」or「赤神神社」と呼ばれていたようです。

この点に関心を持たれ、故)百嶋由一郎氏も同社宛に手紙を書かれ、その点を確認され、同社から“元は赤神社と呼ばれていたと連絡を頂いています…云々”と話しておられました。

事実、周辺にも赤神神社と呼ばれるものが数社存在しています。

以下は、百嶋先生の音声を文字化したものですが、元菊池(川流域)地名研究会のメンバーだった牛島稔太さんのサイトからの切出しです。


これは阿多で協議が成立した神武ご巡幸の出発点は阿多でしたが、形として残っているのは、鹿児島県川内市甑島です。甑島には鹿島という、鹿島大神(春日神社の神様の名前)、鹿島があります。そこではその神様の名前、大歳の神だから「トシドン」です。この方は、別の名前が「あか」さんだったんです。「まさかあか」又は「はえひあか」、これが、「あか」が残っているのが秋田県男鹿半島の「あか」神社、現在は真山(まやま)神社といっています。


「肥後翁のblog 民俗・古代史及び地名研究の愛好家」 牛島稔太のHPによる


「百嶋神社考古学」では、「神武東征」は贈)崇神(ハツクニシラススメラミコト)によるものでしかなく、神武の遠征はあったが、神武ご巡幸と呼ばれ、本物の神武(カムヤマトイワレヒコ)による日向からの東征は存在しなかったとします

そ の随行者として、若き日の草部吉見=大歳神=トシドン=正勝吾勝勝速日天忍穂耳命、正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命、『紀』の正哉吾勝勝速日 天忍穂耳尊、『先旧事』の正哉吾勝々速日天押穂耳尊(マサカツアカツ…豊前の赤村のアカも…)=アカ神が存在し、実際に男鹿半島まで遠征している可能性を 否定できないのです。

さらに言えば、鹿児島県のいちき串木野、薩摩川内、阿久根…の沖に浮かぶ甑島には鹿島町(下甑島)があり、武甕槌命=鹿島大神が祀られています。

また、同地にも弧状列島を北上したとされるナマハゲ文化(仮面来訪神)が存在し、「トシドン」と呼ばれていました。草部吉見神の北上とこの赤神社、赤神神社のナマハゲと通底していることに故百嶋由一郎氏は気づかれたのだろうと思うのです。


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民俗学、民族学の世界ではこの仮面来訪神のルーツを遠く赤道辺りまで辿りうるものとします。

ただ、誰一人知らない者のない秋田ナマハゲを草部吉見神=ヒコヤイミミなどと考える事は、トンデモ説、荒唐無稽な話として顔を背けられそうですが、最低でもこの男鹿半島一帯には金ケ崎温泉、金崎、弁天崎、赤神神社、二田神社…といった九州の地名が直ぐに拾えます。

このニ田神社は、新潟県柏崎市の二田物部神社の二田であり、そのルーツも筑豊の物部25部族、筑前は鞍手郡二田郷の二田物部の移動(展開)にあるでしょう。

ま た、金崎、金ケ崎温泉の金ケ崎も福井県敦賀市の気比神社正面の朝倉氏の居城であった金ケ崎城の金ケ崎であり、筑前は宗像大社正面の鐘ケ 岬、鐘崎漁港の福岡県宗像市鐘崎の地名移動であり、弁天崎の弁財天様もこれまで何度も書いてきた宗像大社の市杵島姫であり、草部吉見系耳族、宗像大社(本 当の祭神は大国主命)を信奉する海人族が組織だって進出している事が認められるのです。

勿論、そのベクトルは対馬海流に乗った南から北であり、西から東であろうことは言うまでもないでしょう。


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赤神神社について男鹿半島の本山、真山に祭られている赤神は古くから「漢の武帝」であるとされています。これは、江戸時代に久保田藩士梅津利忠が撰した「本山縁起別伝」にあり、ほとんど通説になっているものです。


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「当山赤神は、前漢の孝武皇帝の祠なり。旧記にいわく景行天皇二年、赤神天より降れり、あるいはいわく、日本武尊化して白鳥となり、漢の武帝を迎う。武帝は白馬に駕し、飛車に乗り、赤旗を建て、西王母と此の嶋に至る。五鬼は化して五色の蝙蝠となりて之に従う。故に蝙蝠を以って使者となす。時に景行十年冬十月のことなり。天皇、武内宿禰をつかわして北陸道を巡視せしむ。宿禰、此の嶋に至り、神異を見てこれを奏せり。ここにおいて朝廷皇女をして行かしめ、これを祭る。号して赤神という。皇女はすなわち赤神明神という(後略)」(原漢文)また、菅江真澄翁の『牡鹿の嶋風』では「赤神山大権現縁起」という名称で、さらに鈴木重孝翁が著した『絹篩』でも「伝記」としてほとんど同じような内容で記述されています。

赤神神社HPから


と、ここまで書いてきましたが、これはただの事前調査に過ぎません。

「この前漢の孝武皇帝の祠なり」…も興味深いですね。再度調査旅行を思い立ちたいと考えています。


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