061 「隈」(クマ)地名とは何か? | ひぼろぎ逍遥

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061 「隈」(クマ)地名とは何か?

久留米地名研究会 古川清久

20140414


隈(クマ)地名



61-1


 



「隈」(クマ)と呼ばれる変わった地名(本州では珍しいという意味での)が、福岡市、朝倉市、小郡市、日田市、佐賀市他に集中している。

小字単位で調べればこの程度では済まないだろうが、目立ったものを拾い出しただけでも以下のようになる。


日隈、月隈、星隈地名が揃う日田温泉郷と三隈川


肥後(熊本)    隈本、隈庄、隈府(ワイフ)、球磨

肥前(佐賀)    日隈、早稲隈、帯隈、鈴隈、大宅間、久万、熊本、熊川

豊後(日田)    三隈、日隈、月隈、星隈

筑前(福岡)    雑餉隈、月隈、金隈、七隈(?)、干隈、隈元、隈副、田隈、尾の隈、大隈

筑後(甘木ほか)  隈、篠隈、小隈、乙隈、横隈、山隈、湯ノ隈、隈江、今隈

薩摩大隅(鹿児島) 高隈、飯隈 

その他       三隈(山口:ミスミ)、三隈(島根:ミスミ)、千曲(長野)、阿武隈(福島、宮城) …


この分布を見ると、熊本を中心にかなりの広がりを見せているように思われる。

一般的には最も集中している福岡をその中心と考えるのが無難かもしれないが、他の要素を考慮に入れると、仮説段階としては、そのベクトルは熊本から北に展開しているのではないかと考えている。

山陰の二つの三隅は、地形としては九州の隈地名と対応していることから、一応、同種の地名が移動したものを読み換えたものと考えられるのではないだろうか。


本州側の飛地としての阿武隈も九州からの地名と人の移動と考えているが、現地調査(神社、民間伝承…)を行っていない段階では保留したい。

信州の千曲川は、安曇野が安曇族の移動に伴うものということが半ば定説化していることから、当然にも海人族が持ち込んだ隈地名と考えられる。

九州での分布を見ると、筑豊の大隈町(嘉麻市)から東、豊前、日向(宮崎)と長崎、天草諸島にかけては存在していない。

 

大きな川が流れる大平野よりも、小さな川が注ぐ盆地や海沿の低地の方が水を利用しやすく、最初の近代的な水田稲作(陸稲型の雑穀農業、縄文稲作はここでは考えない)はこういった場所で始められたのではないかと考えている。

かつて、「まぼろしの邪馬台国」を書いた宮崎康平もクマ農業と名付けている。

 九州の場合、このような場所に「クマ」と呼ばれる地名があることが多く、稲作農業との関係で形成された地名とも言われている(朝鮮の"コマ"地名と考える説もある)。

 簡略化すれば、川底の深い大河川からは引水することが難しいため、小河川や山からの湧水など、利用しやすい場所に最初の水田が開かれたと想像されたためで、これが「クマ地名」で、佐賀平野では貝塚ラインと並び古代の海岸線を探る一つの指標ともされてきた。


広辞苑には『…②奥まって隠れた所。すみ。源氏物語(明石)「かの浦に静やかに隠らふべき―侍りなむや…」』とあるが、海に川が流れ込む場所は当然に奥まり、堆積によって平地が形成されるので、水田稲作の適地だったと想像できる。


菊池市隈府の菊池城跡

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隈地名を考えるとき、姓名の隈、隈部、隈本、隈元…が気になる。

それは、かつて、九州の宗廟でもあった久留米市の高良大社と並び称せられる大善寺玉垂宮の宮司家が「隈」であることもあるが、熊本でも隈氏が重要な氏族だったからである。


隈姓   187件 1.福岡県  1012. 東京都、熊本県 11件  3.神奈川県  9

隈本姓  379件 1. 福岡県  123 2. 宮崎県     70件  3.佐賀県  50

隈部姓  559件 1. 熊本県  182 2. 長崎県     142件  3.福岡県  47

隈元姓  844件 1. 鹿児島県 378 2. 宮崎県     102件  3.福岡県  56

熊姓   336件 1. 長崎県  145 2. 愛媛県     29件  3.岡山県  18

熊本姓  2406件 1. 福岡県  394 2. 佐賀県     201件  3.広島県  165

熊部姓   54件 1. 熊本県   20 2. 福岡県、岡山県、愛知県、神奈川県   5

熊元姓  40件 1. 鹿児島県、宮崎県 10 件  2. 兵庫県  6件  3.大阪府  5


HP「姓名分布&ランキング」によるものですが、同サイトで確認されれば、もっと実感が湧くでしょう。


通常、姓は地名に基づくことが多く、姓名の分布はその姓名その物ばかりか、地名の移動や震源地を表すことが多い。

また、シンプルな表記が源流である場合が多く、少なくも、隈部よりは隈の方が格式(本家、分家、支配者、臣下)は上の様に思える。

仮に地名の移動が姓名の移動に反映されているとして、南から北、西から東への展開、拡散が上の表からも明らかに読み取ることができる。

景行紀のヤマトタケルによる熊襲退治は熊襲としても、神功皇后紀で皇后に滅ぼされた羽白熊鷲(ハジロクマワシ)も熊が熊襲を意味している可能性は十分あり、隈地名と無関係とは考えにくい。

熊襲タケルがいた場所は、実は川上峡温泉(旧「大和町誌」)、羽白熊鷲の墓は旧甘木市。いずれも隈地名が濃厚なエリア。

熊襲と隈地名に関係があると考えるにしてもその論証は非常に難しい。

熊襲の移動が隈姓などの移動に反映されている可能性は十分にある。

では、阿武隈もとなると、「九州から熊襲が東北に移動したとでも言うのか!」との反論が直ちに予想できる。

しかし、菊池姓が東北に大量にあり、九州に少ない菊地姓と菊池姓が半々程度存在することと関係があるのではないかと考えている。

隈府が中近世以降の地名との説があることは承知しているが、古代にまで遡る可能性は残しておきたい。

当然ながら隈府は熊襲の震源地を表す地名であり、従って隈地名の震源地であるのかも知れない。

久留米地名研究会の神社考古学顧問であった故百嶋由一郎氏は、隈地名は熊本県が起源であり、現在千葉城町と呼ばれる熊本城のある場所に隈本が存在したと語っていた。

一応、鹿児島、熊本間のベクトルの問題は残るが、鹿児島、熊本方面から北に上った地名が福岡に展開し、後には日本海経由で東北まで入っているのではないかと夢想している。


百嶋先生によれば、隈地名の隈は熊襲の熊を意味し、熊は隈が大和朝廷により貶められたものである。隈地名を付ける人々が熊本から移動してきた痕跡地名と言われていた。

実際、佐賀市にも熊本地名があり、確か福岡市内にも熊本(隈本)地名もあるのです。

彼らは熊本市の現千葉城町辺りから移動してきた人々の子孫である可能性があります。

本稿は、20144月、朝日新聞福岡本部からの問い合わせに対して書いたものです。