018  佐賀県に橘 諸兄を祀る神社がある 潮見神社 | ひぼろぎ逍遥

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018  佐賀県に橘 諸兄を祀る神社がある 潮見神社


20131226


久留米地名研究会 古川 清久



諸兄とかっぱを祀る潮見神社

春日神社側の伝承として、「北肥戦志」に次の記録がある。(若尾五雄「河童の荒魂」(抄)『河童』小松和彦責任編集。シリーズ『怪異の民俗学3』より転載)



「昔橘諸兄の孫、兵部大輔島田丸、春日神宮造営の命を拝した折、内匠頭某という者九十九の人形を作り、匠道の秘密を以て加持するに、忽ちかの人形に、火たより風寄りて童の形に化し、或時は水底に入り或時は山上に到り、神力を播くし精力を励まし召使われる間、思いの外大営の功早く成就す。よってかの人形を川中に捨てけるに、動くこと尚前の如く、人馬家畜を侵して甚だ世の禍となる。此事遥叡聞あって、其時の奉行人なれば、兵部大輔島田丸、急ぎかの化人の禍を鎮め申すべしと詔を下さる。乃ち其趣を河中水辺に触れまわししかば、其後は河伯の禍なかりけり。是よりしてかの河伯を兵主部と名付く。主は兵部という心なるべし。それより兵主部を橘氏の眷属とは申す也。」

さらにこの論文で若尾氏は、島田丸の捨てた人形は日雇いの「川原者」ではなかったかと推測している。


(hp「麦田 耕の世界」俳句禅善より)


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「奈良麻呂の変」後、橘氏のかなりの部分が殺され半数が没落しますが、それを悲しんだ犬養三千代が敏達天皇に働きかけ、春日大社の造営に奈良麻呂の子島田丸を抜擢させます。

その背後には、釘を使わぬ古代の寺院建築の技術を持った職能集団(河童とか兵主と呼ばれた)が囲い込まれていたのではと考えています。



詳しく知りたい方は、当方のhp「環境問題を考える」(アンビエンテ)から「兵主」をお読みください。橘氏と河童さらには兵主のことを書いています。ちなみに、武雄周辺では悪口で「ヒョス」が最近まで使われていましたが、これは河童をあざけった兵主からきたものでしょう。


橘 公業(キンナリ)

武雄市橘町永島にある神社。旧郷社。祭神は上宮が伊ザナギ命・伊ザナミ命,中宮が神功皇后・応神天皇・武内宿禰・橘奈良麻呂・橘公業。下宮は今はないが,渋江公村・牛島公茂・中村公光を祀っていた。社伝によれば,往古この地は小島で島見郷と称し伊ザナギ・伊ザナミ2神を祀っていたが,その後橘奈良麻呂が恵美押勝との政争に敗れて当地に逃げのび土着したと伝える。


さらにその子孫の橘公業が嘉禎3年(1237)にこの地の地頭となって赴任し,奈良麻呂の父橘諸兄をも合わせ,その他諸神を配祀して鎮守社としたと伝える。平安期安元2年2月の武雄神社社憎覚俊解状(武雄神社文書/佐史集成2)に「御庄鎮守塩見社」と見え,武雄社と並んで長島荘の鎮守の1つとされていた。また同地の橘氏の流れをくむ武蔵橘中村家の文書,寛元元(1243)年9月6日関東御教書案(鎌遺6235)には,9月9日の流鏑馬を土地の者が勤めないとあり,この流鏑馬は潮見社の祭礼に関わるものと考えられる。


当社には昔肥後国菊池経直が祭礼の流鏑馬に落馬して葬られたと伝える墓がある。…(中略)…

当社は河童の伝承を有し,これは橘公業が当荘赴任の際に全国の河童がつき従って当地にやってきたためと言い伝えている。社蔵の御正体(市重文)は元禄5(1692)年の再興銘を持つが,その銘に「本興建久六乙卯九月一日」とある。以上、久留米地名研メンバー牛島稔大のhp「牛島さんたちのル-ツに迫る」


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ここまで、読まれた方は、橘諸兄の一族が、杵島山の一帯にいたからこそ、和泉式部が中央の橘 道長の妻になることができたのだとお分かりになったのではないでしょうか。

時代は異なりますが、奈良麻呂の変の時の太宰帥は吉備真備でした。


そして、橘 諸兄が太宰帥の時の副官は吉備真備だったのです。このよしみから、敗北した橘一族の一部がこの杵島山一帯に匿われた可能姓は否定できません。


もし、それが正しかったとしたならば、潮見神社に橘 諸兄が祭られることも、廃太子としての道祖王の墓があることも、鎌倉期に橘 公業が伊予から入ってきたことも、合点が行くのです。

さらに言えば、奈良麻呂の子島田丸がなぜ兵部大輔に抜擢されたのかについても、別稿とするため詳しくは触れませんが思い当たることがあります。


それは、杵島山と筑波山の歌垣の存在です。現在でも中国の少数民族が歌垣を行い、また、鼓楼や呉橋を造ることは知られています。


彼らは現在でも、一切釘を使うことなくプレカットされた杉材で、一夜にして高楼に組み上げることができるのですが、その技術をもったビルマ・タイ系の技術者集団が、杵島山と筑波山一帯、少なくとも杵島山周辺にいたとして、また、島田丸がそれを束ねることができる立場にあったとすれば、兵主を使い、一夜にして春日大社を完成させることができた事も納得が行くのです。

そうです、後の橘氏にも繋がる一族は、古くからこの地にいた可能性があるのです。



常陸と肥前に鹿嶋と鹿島があり、奇妙に、杵島と鹿島も、建借間命(タケカシマノミコト)も音通していることも気になりますが、鹿嶋と鹿島が双方にあり、常陸国風土記の建借間命(タケカシマノミコト)の故事も成立したのではないでしょうか?


言うまでもなく、春日大社の主神は春日大神(武甕槌命)であり、藤原氏は一族を守る軍神とするため春日大神を求めたのです。その戦ぶりは、常陸国風土記にあるように、建借間命が配下に杵島ぶりを歌わせ、安心した国栖の賊党をおびき寄せ殺すことができたのです。



藤原氏の出自が春日大神(武甕槌命=草壁吉見=海幸彦)にある可能性否定できませんが、この騙し討ちの手口が、後の藤原氏の手法の始まりなのかもしれません。