長岡国道事務所のページに八十里越に関するページがあり、歴史などが詳しく載っています。
書き出してみます。
古くは1180年、高倉宮以仁王の八十里越伝説がある。
もはやこの時代は伝説としてしか伝わっていないのだろう。
1545年、長尾景虎が諸国漫遊の後、八十里越にて栃尾へ帰る。
栃尾は道の駅の名前にもなっているように新潟側の地名です。
1641年、奥会津で生産された馬が八十里越で越後へ送られる。
1675年、中越地方大飢饉。子供たちが奥会津の村々で助けられる。
1784年、凶作により南山地方の窮民を救済するために越後の米千俵が八十里越で会津へ送られる。
1841年、田島代官平岡文次郎が八十里越開削の必要性を説く。
1868年(慶応4年)1月、鳥羽伏見の戦い。戊辰戦争が起こる。
5月、長岡落城。長岡藩主、家臣団が八十里越で会津に退く。
7月25日、奇襲により長岡城を奪還する。
7月29日、新政府軍の反撃に再び落城。
ここで八十里越を調べていると必ず出てくる「河井継之助」という人物が登場します。
長岡藩士家族等5000人以上と、奪還戦で足に被弾した長岡藩軍事総督・河井継之助は8月6日八十里越で会津へ落ち延びる。
このとき河井が残した句が「八十里 腰抜け武士の 越す峠」だったと。
その後河井は破傷風で亡くなっています。
歴史的な背景はこんなことがあったのですね。
1873年(明治6年)、八十里越の改善に着手したが、道路としての体裁を整えるまでにいたらなかった。
1876年(明治9年)、「八十里峠新道之義二付伺書」の上申書を福島県関係者より県令に提出される。
県令とは今の県知事のようなものです。
これが三島に出されていたら道をぶち抜いていたのでしょうか・・・
この時三島通庸は山形県令、後に1882年から84年まで福島県令となります。
1878年(明治11年)、吉ヶ平・遅場・葎谷の三集落が新線反対を唱え、旧八十里越の修復請願を行う。
従来の道か新線かのすったもんだはこのころからあったのですね。
1881年(明治14年)、福島県は2700円の工事費を背景に、八十里越新線の「中道」(下の地図の緑のライン)を開削するが、破損が相次ぎ、新八十里越「富貴平線」(下の地図の紫のライン)が提案される。
この富貴平線は今回触れませんでしたが、地図を出します。
1889年(明治22年)、「富貴平線」の開削は工事困難を理由に中止。
新潟県側は旧線の「木ノ根線」を部分改修し、「木ノ根線(新道)」(橙のライン)を提案する。
1894年(明治27年)、「木ノ根線」は叶津までの新道開削を完了。
この段階で古道ベースの新道経由、現国道289号線と重複する道が出来上がったのかなと。
1900年(明治33年)、この年の八十里越の通行人員。18500人/年。
貨物輸出入5260個/年。
移出の主なものの価格174303円/年。
開削の費用が2700円なのでこの17万は桁違いの額かと。
1914年(大正3年)、岩越鉄道(現・磐越西線)全線開通。
1926年(大正15年)、未曾有の大雨により八十里越は大被害を受け、これを契機に鉄道利用が増大する。
清水峠にしろ何にしろ山間部はこの未曾有の何とかが命取りですね。
1970年(昭和45年)、一般国道289号線に昇格。
吉ヶ平が集団離村、八十里越は廃道に近い状態になる。
1971年(昭和46年)、只見線が全線開通。
ということはこの碑は場所的に中道か新道に対して立てられたものということになる。
立てられたのは昭和に入ってからで、当時ではないでしょうけど。
ということは、自分の立ったこの道は明示14年に開削された中道であっていることになるんだろうな。
その8年後の明治22年に開削された新道、
今はバイパスが建設されてしまったが、現・国道289号線と重複、そして明治に造られた新道とも重複していた区間なのだろう。