なぜ、西郷隆盛は勝海舟に会ったのか?(10/31)
西郷隆盛と勝海舟が江戸末期に会談をしたのは、もちろん、官軍が江戸城に迫り、江戸が一大決戦地になろうとしていたからです。西郷隆盛は官軍の総大将だったのですが、一方の勝海舟はまだ若く、幕府を代表する老中のような役職ではなかったのですが、長崎造船所で訓練を受けてスヌービング号を江戸に回航したり、オランダ塾で西郷隆盛と一緒だった経験もあり、滅び行く徳川幕府にとっては勝海舟が適切だったのでしょう。
でも、これらのこと、つまり直接的で軍事上の理由や、勝海舟の個人的な能力や経験を超えて、歴史的な必然性があったように感じられます。
そもそも西郷・勝会談からさかのぼること260年前の徳川幕府は、長く続いた戦国時代の総決算としてできたもので、豊臣家を大阪に滅ぼし、天下を統一した政権だった。それから260年の歳月は人間の社会に何をもたらしたのでしょうか?
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人間というのは生物の中でも特別に頭脳の情報が多く、人類出現までの哺乳動物に対して約4桁速い「進化原理」を有していると考えられます。たとえば恐竜は中生代の始めに出現し、その時には体の小さなトカゲのような格好をしていました。
それが2億年の進化を経て、多くの人が知っているあの「恐竜」になったのです。なぜ恐竜の体が大きくなっていったかというと、同じ恐竜が同じ場所で餌を取り合うと、体の大きい方が餌にありつけるので、体の大きな恐竜の方が子孫が増え、その結果、少しずつ体が大きくなって行ったと考えられます。
しかし、体が大きくなるためには遺伝子(DNA)が変化しなければならず、遺伝子は化学物質ですから、容易な事ではありません。ハッキリした体の変化は1万年ぐらいの時間が必要とされています。
これに対して頭脳を用いた進化は、「書き換え可能」な情報に基づいていますから、瞬時でも可能ですが、定着するには1日とか1年という時間で達成されます。たとえばあるお母さんが毎日お皿を洗っていて、あるときに新しい洗い方を考案したとします。そのお母さんは翌日から「なぜか?」新しいより効率的な洗い方でしか洗えなくなるのです。
つまり、生物は常に「より競争力の高い、より効率のよい」ということを追求して止まず、前の状態でいることができないのです。私はこれを「2パーセントの原理」と呼んでいます。つまり毎年2パーセントづつは進歩してしまうということです。そうすると、10年で20%変化し、100年で7倍になります。つまり、「10年一昔」と言いますが、10年経つと社会が2割変わり、それが「昔は・・・」という感想につながっています。
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徳川260年というと、徳川家康が幕府を開いてから徳川慶喜に至るまで、日本社会は172倍の変化をしたことになり、西郷隆盛と勝海舟の会談も、徳川家康と豊臣秀頼の対決とは様変わりになっていたことは想像に難くありません。
なぜ、江戸は無血開城したのか? それはスヌービング号の回航、オランダ塾などで時を過ごした勝海舟が、「2パーセントの原理」を肌で感じていたからに他なりません。世界は変化し、すでに172倍になっているのに、その体制を維持することはできないことを合意した、それが西郷隆盛と勝海舟が会談して江戸城の無血開城した本当の理由だったように思います。
あるいは、その時に、徳川慶喜が天皇陛下になって封建政治から近代国家に変わる事ができたかも知れません。でも、それは長い日本の歴史と調和しないものであり、徳川幕府を終わりにして天皇陛下を頂点とする近代国家に衣替えをせざるを得なかったのです。
西郷隆盛と勝海舟が偉かったのは、すでに260年を経て徳川幕府が新時代に適合しないことはわかっていても、普通は「一戦を交え、血を流してから納得する」というのを「理性に基づいて血を流さずに収束させた」ということです。それは本当に素晴らしいことであり、2人の卓越した判断であると思いますが、それでも「あまりにも当然のこと」のように思えます。
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さらに考えると、なぜ一気にその時に「お上」を作らずに、「万人平等」の民主主義国家を目指さなかったのか、これも「2パーセントの原理」が働きますから、一気に変化することはできず、77年の歳月と4.6倍の社会変化が必要だったという事です。
第二次世界大戦が終わって新しい日本国憲法ができ、国民が選挙によって議員を選び、公僕として役人を雇うようになっても「お上」、「天下り」などという言葉が平然と使われています。戦争が終わって67年、3.8倍の変化を経てもまだ私たちの心には「お上」という残存物が残っているように感じられます。
日本人、1人1人の心が毎年2パーセントづつ変化し、やがて「お上」がいなくても個人の尊厳で社会が保持されるようになるでしょうし、さらにその次にまた新しい社会が発生することと思います。そして2パーセントの変化は、徳川幕府が260年の変化に耐えられずに崩壊したように、人類というもの自体の自己矛盾のために絶滅する時を迎えると考えられます。
2パーセントの変化は時を経て驚くべきほど大きな変化となり、それはやがて克服せざる矛盾を抱えて崩壊するということを意味していますし、この宇宙が140億年前に誕生してから、それは全くの例外なく確実に行われてきたと考えられるからです。
現代の私たちは西郷・勝のような時代の変化に対する洞察力はあるでしょうか? 戦後67年を経て、2パーセントの原理は何に示され、どうなっていくでしょうか? すでに結婚式に仲人が居なくなって20年、近いうちにお墓というものも無くなるでしょう。封建制度、絶対王政、そして民主主義、当たり前のように進んでいる社会はそれでも次が見えないようです。
(平成24年10月31日)
--------ここから音声内容--------
西郷隆盛と勝海舟が江戸の末期に会談をした訳ですね。この有名な会談ですが、それはなぜ行われたのか。もちろん薩長を中心とする、いわゆる官軍ですね…天皇陛下を頂いた官軍が江戸城に迫り、これを幕府が迎え撃てばですね、江戸が一大決戦地になるはずでありました。
そこで西郷と勝海舟が会談をした訳でありますが、西郷隆盛は官軍の総大将でこれはま~良いとして、一方の勝海舟は幕府を代表するって訳ではなかった訳ですね。例えば老中とかそういった職にあった訳ではないんですが、彼は長崎造船所で訓練を受けてスヌービング号をですね、江戸に回送したり回航したりですね、オランダ塾なんかで西郷隆盛とかその他の薩長の志士ですね、ま~坂本竜馬なんかもそこにいた訳ですが、そういう経験もあってですね、滅び行く徳川幕府にとっては、他には人がいなかったという風に言ってもあるいは良いかも知れません。英傑だったんでしょうね、その意味では。
でもですね私は、もちろんこの二人は飛びぬけて素晴らしい人なんですが、こういった細かいことをあまり考えますとですね、歴史の大きな流れの中での、この会談と言うものが少し薄れてくる様に思う訳ですね。そもそも何で西郷・勝会談が行われたかって言うと、もちろん260年前に徳川幕府が出来たから、と言う事ですね。もちろん徳川幕府が出来なければ西郷・勝会談も無い訳でありますが。
それはどうして出来たかって言うと豊臣秀吉とか織田信長とかですね、そういう人物の名前がでてくる訳で、長く続いた戦国時代の総決算としての徳川幕府ってのが出来る訳ですね。その時にどういう必然性があったのか?それは打ち続く戦乱だとか、中世の日本、ちょうど1600年ぐらいの日本のですね、いろいろ社会的発展というのがそれをもたらした訳であります。
従って徳川幕府が出来たって事はある意味歴史的必然性であったと思うんですね。しかしその歴史的必然性ってのが260年経つともちろん変化する訳ですよ。今の日本で、え~と毛皮を着てですね、いや、動物の毛皮を着て穴倉に住んでいる人っていないし、そうなったら直ぐに警察が行ったりしますしね。それから日本刀二本を差して歩いたら捕まってしまいますし、人の・・・人間社会の歳月って言うのは非常に大きな変化をもたらすものであります。
なぜそうなのか?人間というのは生物の中では非常にに進化の速度が速い訳でありますが、これは哺乳動物とか両生類、爬虫(類)動物なんかの4ケタぐらい早いんじゃないかと思われますね。例えば恐竜を見てますと恐竜は中生代の初めに出現したんですけども、その時は体の小さな恐竜だった訳ですね。それが二億年ぐらいの間に少しずつ進化する訳ですが、ああいったあの巨大な体になる為には遺伝子が変わらなきゃいけない訳ですが、何でそうやって変わってきたかって言いますと、同じ恐竜が同じ場所で餌を取り合うとですね、体の大きい方が餌にありつける訳ですから、体の大きな恐竜の方が子孫が増える訳ですね。
大体子孫の数っていうのは食べ物の数に比例しますからね。子孫て言いますとなんとなくオスとメスがSEXしてってな事を考えるんですが、簡単に言えば、ある個体から別の個体が出来てどんどんそれが増えて行く訳ですから、ま~「増産」みたいなものですからね。実際上ここにちょっと絵を貼りましたが、恐竜の体の大きさって言うのはですね、どんどんどんどん大きくなっていく訳ですね。これに二億年かかっている訳です。こういった変化にですね、体が大きくなる変化に時間がかかるのは、遺伝子が変化すると言っていいし、突然変異で大きな体の恐竜が出来たらそれが残る、とま~こういう言い方をしてもいいんですが、いずれにしても遺伝子が変わる訳です。
遺伝子ってのは化学物質ですから、例えばカーボン…炭素に何か窒素がこう着くとかああ着くとかですね、配列が変わるとかそういう事になんなきゃいけないので非常に容易じゃないんですね。大体ちょっとした体の変化がハッキリと分かるのに一万年ぐらいかかる、と言うことですね。例えば人間でも今から4万年ぐらい前に現代人類が出来てもですね、そん時は肌の色は同じだったと思うんですが、北の方に行った人間はですね、生活が厳しいので体が大きくなり、かつ肌が白くなります。それから南の方に行ったのは肌が黒くなってあまり体は大きくなりません。そういったですね、変化がみられるのに大体1万年ぐらいの時間が要る訳ですね。
ところが我々は「頭脳」を用いた進化ってのをする訳ですよ。これはもう瞬時に言わば切り替えられる。瞬時につっても人間の事ですから寝たりなんかしますので、大体1日とか1年とかいう時間で達成される訳ですね。例えば進化の例ってのを私が言いますと、お母さんが毎日お皿を洗っていて、あるときに新しい洗い方を思いついたりする訳ですよ。そうすっと古い洗い方と新しい洗い方ですと、その新しい方が能率がいい訳です。水を使うのが少ないとか、時間がかかんないとか。するとお母さんなぜかは翌日からですね新しい方を選ぶんですよ。と言うかもう古い方を絶対出来なくなっちゃうんですね。これがですね生物の特徴なんですね。進化の特徴とも言えますし、生物の特徴とも言えます。
つまり「より競争力が高い、より効率のよい」事を追求しちゃうんですよ、自然と。別に今の生活でもいいんですけどね。今の生活でもいいのに、より少しずつ変えて行くんですよ。ま~変なもんですね~考えてみれば。これを私は「2%の原理」と呼んでいる訳です。つまり毎年人間は2%ずつ進歩しないとだめなんです。そうすると、10年で20%変化して、100年で7倍に変化するんですね。ま~「十年一昔」とこう言うんですけども、それは社会の中の2割が変わると、どうも人間には「変わって見える」って言う事なんだと思うんですね。
でまぁ、徳川幕府260年とも言う訳ですが、と言う事はですね、徳川幕府を開いてから慶喜(よしのぶ)まで、家康から慶喜(よしのぶ)まで172倍社会が変化したと。172倍ですからね。今を1として260年後は社会は172倍変わった訳ですね。そうしますとね、それはやっぱり西郷隆盛と勝海舟が会談したら…こんな偉い二人が会談したらですね、「いやちょっとみなさん・・・ちょっとね~これ、徳川家康とか豊臣秀頼が対決した時と違いますね」と。「いや~、そうですな~」と。「じゃ~、ま~そろそろ江戸幕府も終わりにしてくれませんか」って言ったら「そうですな~」と。こんな風な事になった訳ですね。もちろん話し合いはそういう事ではありません。
だけども勝海舟にしても西郷隆盛にしてもこの2%の原理を肌で感じてたんでしょうね。恐らく計算して172倍だと思った訳じゃないですけど、体が172倍を感じてたという事ですね。だからなぜ西郷隆盛と勝海舟が会談したか、いやそれは江戸幕府ができてから172倍変わっているからだと、こう言う風に思うんですね。もちろんその時に徳川慶喜(よしのぶ)が天皇陛下になるっていうことも考えられた訳でありますが、これはまた個別の人間の事ですからどっちでも良い訳で、長い日本の歴史には調和しないという事で、天皇陛下を代わりに持って来るっていうかですね、来て頂くとこう言う事になった訳ですね。
しかし、西郷隆盛と勝海舟がなぜ偉かったか?これはですね、260年を経てダメになるという事は分かっている。そん時、普通の場合はですね、何だ知らないけど人間は無駄な事をしまして、一戦を交えて血を流してから納得する。納得するんだったら血を流す前に納得すりゃいいのに、そうはいかないんですよね。で、理性に基づいて血を流さずに収拾したと。これは本当に素晴らしいと思うんですが、素晴らしいと同時に「そんなの当たり前じゃないか」という気にもなるんですね。そういう点ではですね、実はそん時なぜ勝海舟と西郷隆盛は民主主義にしなかったのか?ということですね。
え~天皇陛下を上に置いてって事をしないでですね、別段天皇陛下は象徴かなんかで相変わらず日本の中心としておられますよ。いざっていう時は官軍ができる訳ですが、だけども政治はやらないで、万人平等の民主主義国家をを作ったらいいじゃないですかね!?ところがそれにはやっぱりそれから77年。明治の初めから太平洋戦争が終わるまで4.6倍の今度は社会変化が必要だった訳です。
で、今度また世界大戦が終わりますと、日本国憲法ができまして、一応予定としてはですよ、国民が選挙によって議員を選び、公僕として役人を雇うっていう風になったんですよ。だからつまり議員は国民が選んだ人ですから国民よりか下ですね。それから役人は国民に雇われている訳ですから。これは雇い人なんですが、だけどもお上とか天下りがまだ残っております。戦争が終わって67年。この間3.8倍社会は変化したが、まだ私たちの心には「お上」という残存物がが残っている訳ですね。
じゃあ日本人のひとりひとりの心が今後、毎年2%ずつ変化して、やがてお上がいなくなって、個人の尊厳で社会が保持されるようになる。またその社会が更に変わって行く、というのにはどのくらいの時間がかかり、どうなるだろうか?という事ですね。え~2%(ここで一つ目の音声が終わっていました。)
(ここから二つ目の音声。冒頭は不明瞭)
…なって行くと、徳川幕府が260年の変化に耐えられず崩壊したように、人類もですね、あと5千年とか1万年、もしくは1億年経ちますと、このものの中に入っている自己矛盾のために絶滅すると考えられる訳です。
1年わずか2%ずつの変化であってもですね、長い年月を経ると驚くほど大きな変化になります。これは平安時代、江戸時代と、現代の人の恰好を見ても社会の状態を見ても驚くべき変化でありますね。この変化に古い体制が付いて行けないというのは当然であります。この宇宙も140億年経ちまして、この原則は…「2%変化の原則」は例外なく行われているということですね。そうしますと、西郷隆盛はなぜ勝海舟と会談をしたのかと、いう事を良く考えますとですね、私たちは・・・私たちの今のシステムは、どんな時代にできても古いんですね。戦後体制は67年、もう既に社会は3.8倍の変化をしております。
最近見てもですね、結婚式に仲人がいなくなってから20年も経ちますし、近いうちに恐らくお墓というものも無くなるでしょうね。それは当たり前で、かつては封建制度、それから絶対王政、更に現在のニセ民主主義かもしれませんが民主主義、こういうのが当たり前の様に進んで来た訳です。それでは私たちの次は何か?それが勝海舟と西郷隆盛の会談が意味するところではないかと、私はそう思う訳であります。
(文字起こし by つよぽん)