去る2023年5月13日に、230年前と同じ句組(演目)の平曲会に出演しました。
この元となった句組について考察し、表を作りました。
寛政五年(1793年)五月十五日、元祖杉山惣検校百回忌の追善として
惣録役所(一ツ目弁天)にて執行された「平家巻通し」の句組は、
どういった経緯で選ばれたのでしょうか。
幕末の平曲会は、「東都歳事記」「遊歴雑記」、
それから先祖楠美晩翠らの記録に度々登場します。
当道座の官位の低い者から語り始め、官位の序列の高い者へと進み、
江戸の当道座の総責任者「惣録検校(または惣検校)」が語り、
江戸の平曲伝承責任者「宗匠」が語り納める慣わしでした。
惣録検校と宗匠は、同一人物のときもありますが、
天保年間以前の江戸には(平曲全200句中)100句程度の伝承しか無く、
杉山検校百回忌の時は「勾当」が宗匠を務めていました。
このときも、検校任官の序列通りに平曲が語れる検校と宗匠12名を選び、
平家物語巻之一~十二までの担当巻が自動的に決まり、
教習順に編纂された平家琵琶の規範譜「平家正節」を参考に、
平曲の学習歴が浅い者は「平家正節」の最初のほうに習う句を、
平曲の修得が進んでいた者は「伝授物」を選ぶことで、
巻之一~十二までを一句ずつ語る「巻通し」を実現したと思われます。
候補が複数ある場合は、季節感や吉兆となる内容を採用したり、
江戸の伝承句の中から選んだりしたのではないでしょうか。
ちなみに、杉山検校百五十回忌に於いても、
「巻通し」の考え方で句組が決められているように見受けられます。
以下は追記です(2023年5月18日)
小名木検校は、おそらく「開口」の役目。
巻之一担当の飯塚検校より、巻之二担当の岡本検校が先に語っています。
百瀬検校の「宇治川」は、正節一「生好」かもしれません。
表には載せていませんが、全句語り終えてから、全員で「上日」を語り納めています。
検校の序列は手元の史料では確認できておりませんが、
このときの「惣録」が山勢検校で、
小関検校~山登検校は惣録の任期を終えていると考えられます。
天保五年に麻岡検校が「平家正節」を修めて相伝したことで、
この百五十回忌を催した1843年の江戸には全200句の平曲伝承があります。
当日語った句は、平家正節の教習順まで習得が進んでいることになります。
(百回忌のときは、平家正節の句組を参考にしただけかもしれないので)
百回忌のときと比べて、検校たちが平家琵琶(平家、平曲)教習に力を注ぎ、
習得・修得した句が全体的に増えているのは間違いありません。