屋島・佐藤継信の射落畠 | 治承・寿永の覚書

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屋島の戦いの始まりです。

海から船で来ると思っていた鎌倉軍が、1185年2月19日の朝、陸地から急襲。


前夜、義経は屋島に向け、わずかな兵を率いて摂津の渡辺津を真夜中に出立しますが、

ここで梶原景時との間に起こったのが「平家物語」で有名な逆櫓論争。

船の進退を自由にするための逆櫓をつけようとする景時に、

戦う前から逃げることを考えていてどうすると恫喝する義経。

逆櫓の松址碑というのが大阪市福島区のマンション前にあります。

その後、暴風雨のために出航を拒む船頭たちを脅して、

4時間で阿波勝浦に到着したといわれていますが、

出典である「吾妻鏡」が到着日を1日間違えたと考えるのが妥当なようです。

因みに、昔就航していた徳島阪神フェリーは大阪徳島間を3時間30分で結んでいたとか。



屋島の陣で背後を襲われた平家軍は慌てふためいて船で海上へ逃れます。
沖に出て落ち着いてよくよく見てみれば、敵はただ二百騎余りばかり。

それを知った平家軍は激しい矢戦を仕掛けます。


平家随一の猛将である教経は、総門近くに立つ義経めがけて弓を引きます。

その矢の前に立ちはだかったのは、義経四天王と呼ばれた佐藤継信。

彼は左肩から右脇へ向けて射抜かれて落馬します。

義経は彼を洲崎寺の本堂の扉に乗せてすぐさま瓜生が丘の陣(南東に約1キロ)に運び込ませ、

思い残すことはないか継信に聞きます。

継信は、「武士は敵の矢に当たって死ぬことは元より覚悟のこと、

主人に代わって討たれたということは栄誉です」と言って息を引き取ります。



ここが継信が射落とされた、射落畠(いおちばた)といわれるところ。


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総門のすぐそばで、このあたりは激戦地だったようです。

負傷した鎌倉軍の兵士は、近くの洲崎寺に運び込まれました。



NHK大河「義経」では志度寺で平資盛(小泉孝太郎)によって

継信(宮内敦士)が義経(タッキー)をかばって射られたことになっていました。

その後、延々と続く二人の会話。

あれは史実ではありません。

主人公を主に持つと、死ぬはずの部下は大変ですね(笑)。