屋島・総門跡 | 治承・寿永の覚書

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1184年、一の谷の戦いで敗れた平家は、安徳天皇を奉じて四国の屋島(香川県)に着き、

再起を計ります。

長門(山口県)の彦島にも拠点を置いて瀬戸内海の制海権を握り、

水軍を持たない鎌倉軍とはしばらくの間休戦が続きました。


天皇の内裏ができるまで行在所を六万寺に置き、ここに門を構えて海辺の防御に備えました。

総門はその遺跡です。

現在この辺りは完全に陸地ですが、当時は海岸に近かったようです。


鎌倉軍は海から攻めてくると平家軍は読み、船隠しといわれる湾の入り組んだところに船を隠して、

敵が中まで入り込んだところを挟み撃ちにしようと計画します。

(この船隠しは「セカチュー」のロケ地のすぐ傍です。)

ところが義経の陸上からの奇襲により、この総門も占領されてしまいます。


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向かって右には立派な碑、そして左に今にも崩れそうな衡門(こうもん)。

総門といっても中世や近世の城や館にあるようなものではなく、

関所のような役目だったと考えられています。

きっと周囲は民家がまばらにある程度だったでしょうから、

海もすぐ見えて、眺めのよい場所だったのだろうと思います。



江戸時代、高松藩主だった松平頼重が遺跡を伝えるべく、衡門を立てました。

頼重は徳川家康の孫で、水戸黄門でお馴染みの徳川光圀の兄です。

黄門だから衡門ではないですよ(笑)。


総門の南東に木戸と呼ばれる集落があり、

そこが本来の総門のあった場所ではないかと言われています。

頼重は人々に知ってもらうために、

木戸ではなく、街道筋に立てたのではないかということです。→高松市のサイト


現代なら広告会社に勤めると良いのではと思われる、宣伝上手な殿様ですね。