※転載記事です。(転載元は、下記ご参照ください)

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人を殺すことは割に合わない。

私達はそう思っている。

殴る蹴るされ、父に殺意が芽生えた私達は、如何に報復するかを考えた。
嘲笑した母も同罪だ。
腹わたが煮えくり返るような怒りが殺意に変わるのは当然のこと。
たった一つの舌打ちに対する罰が、殺されかける暴行ではそれこそ割に
合わない。

私達の病はここが違うところかもしれない。

殺すことは簡単。
まして自分が死ぬことなどもっと簡単。

殺意のままに親を殺しても、情状酌量は付くでしょう。
世間の同情を鑑みてもね。

でもね、生きていく上で、殺した親の生きていくであろう人生だった分
まで「罪」として一生背負わされる
なんて冗談じゃない。

人が死ぬと、それがどんな悪人だったとしても、美化されていくものだもの。

世間では仕方なかったと言われた事が、時間と共に「それでもこんな良い
ところがあったよね」と言われるようになる。
「それでも殺すことはなかったよね」「親を殺すなんて信じられないよね」と
変遷した社会の偏見にさらされる。

じゃ、殺した私の方が悪の権化になるじゃない?

私達は少なからず社会に接して生きていかねばならない。
殺人を犯した者が、その社会で生きていくうえで、食う寝るは避けられない
のだから。

殺人を犯した代償は、当然自分の人生が対価にあてられる。

ではどうすれば良い?

人が殺意をおぼえることは、特別なことではない。
誰にでも起こりえることだ。
考えることも自由だし、想像・妄想するのも自由。

むしろ殺意を行動で現してしまうことにこそ問題があるのだ。

行動に移す前に、逃げろ。そして人を頼れ。頼るという事に抵抗が
あるなら利用しろ。

病院の医師、警察や児童福祉施設、NPO法人・・・何処だって誰
だっていい。当事者関係以外なら。

その権利が生まれながらある。(基本的人権の尊重・生存権など)

殺意を行動に移そうとする自分は限界だ。

自分では止められない。それの何処が悪い?全く悪くない。正常だ。



だからまず自分を守れ。方法を間違わずに。


私達の取った方法は間違いだったのだろう。
自分で自分の心を殺してしまった。
崩壊していた自我の分裂を、より深く深く引き裂いてしまったのだから。

選択肢はなかった。
長い間こうして私達は「私」を殺してきたし、「私」は殺されてきた。

屍は山のように転がり、共に記憶も砕けた。

だからその時感じた、怒りや哀しみ、痛みがわからない。
わからないと言うより探せないのだ。

記憶と感情はバラバラに霧散している。

子供だった「私」が生きていくうえで、親は絶対の庇護者だ。

生き残るか殺されるかの過酷な状況下で、幼い子供が何を選択できる?
物心がつくかつかないかの幼き頃から長々と続いていたとしたら?

「私」の解離性同一性障害を発症させた要因としては十分すぎるだろう?

加え、親以外にも手を下した大人がいたとしたなら、死んだほうが楽だっ
たかもしれないな。

死ねるものだったなら。
でも、死なせるわけにはいかない。それがこの病気の根源。

どんなに醜くおぞましいことでも事実は事実のなにものでもない。

これこそ復讐にならないか?
法的に時効になったとしても、社会的には蔑まれ続ける人生を贈答する。

しっかり両手で受け取ってもらおう。「私」を殺した者たちに。


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以上は、ブログタイトル 【解離性同一性障害の私-幻想の安らぎから抜け出して】 の≪まるまるふくろう≫さん から、お許しを得て転載させて頂きました。


なお、転載は著作権法上、許可を得なければなりませんが、その場合においても、全文を改変することなく転載しなければなりませんので、以上は全文通りです。


転載元の記事URLは、こちらです。

【殺意の矛先<テーマ:障害とトラウマ(心的外傷)> 】

http://ameblo.jp/sinkainosora/entry-10817833689.html



まるまるふくろうさん、転載させて頂き、ありがとうございました。

heihachiro