何気ない一言が、人を傷つけることもある

「頑張れ…」

人は、悩み・悲しみ・苦しみがあって、人の痛みもわかるようになるのはそうでしょう。そのような経験があって、成長するものとはよく言われます。
確かに、振り返ると「あの経験が今に生きている」と思うこともあるでしょう。

しかし、その時代に戻りたいかと言われれば、戻りたいはずがありません。むしろ、忘却のかなたに押しやりたいほどです。

苦悩し、深い谷底に落ち込んでいる時、普段の自分でないことは自分ではわかっています。しかし、どうすることも出来ないものです。

人によっては、立場上、そういうことを見せられない人もいるでしょう。
なんとか無理して、笑顔を振りまいている人もいるでしょう。

そんな時の「頑張って…」の一言は、暗い深い谷底にあって、懸命にもがき続けている人へ、なお一層、その生きるための動きさえ、封じ込めようとするかの如く聞こえるのです。

ブログにおいて、悩んでおられる方、苦しまれている方へのコメントで、
「頑張れよ」に対し、
「頑張ります」と答えられている方は、悲壮感が漂い、痛ましく感じます
意識しなくとも、自分は優位な立場に立って、傲慢なる対応をしているのです。
こちらは精一杯頑張ってるのに…。
状況を知らずして、何を…。とまでなっているかもわかりません。

「一緒に、頑張りましょう」
あなたは、調子が良いのでしょう。こちらはそうではないのです。

過去、こういう人を見ました。
「あなたが、“頑張る”と言うまで、ここを動かない」
ここまでくると、中には憤りを感じる方もおられるのではないでしょうか。

人は、他人を傷つけて生きている

【人間の本質☆虐め対策について(1)☆虐め・差別・偏見】 で、記事にもしていますが、親子・恋人であってもその人の心の中がすべてわかるものではありません。同じように、誰であっても同じです。
ですから、知らず知らず、人を傷つけていることはたくさん行っているのです。
人は、他人を傷つけて生きているとも言えるのです。
ですから、 “親しき中にも礼儀あり”です。人の心に、土足で踏み込んではならないのです。

私も、この瞬間に人を傷つけているかもわかりません。
しかし、気がつけばそれを頭の中に、しまいこみ、二度とその行為をしないようにすることが大切なのでしょう。

頭の中に、どれだけしまいこんでいるかで、人を傷つける度合いが減るというものです。

強い人なんて、いない

告知を積極的に取り入れている有名大学医学部教授が、病に冒され、今までの紳士然としていたのが豹変し、病室で騒ぐ、喚く。果ては、女性看護師さんにセクハラするという内容が、よく小説の題材にされています。

このように、逆境になれば人は変わります
拙い経験ですが、私は、幾度となく見てきました。
平時の際に、弱い人と見られていた人が、修羅場で力を発揮するのも見てきました。
ですから、平時で判断は出来ないということです。
人間、それぞれの限界があります。自分一人のことだけでなく、家族であったり、知人が関係することもあるでしょう。

限界を超えると、理性という作られたものは壊され、人間本来の本能が目覚めてきます。これは、神が与えた、身を守る術ではないのかと思っています。
先の大学教授は、たとえですが、女性のお尻を触ることによって、(意識しなくとも)気を紛らわせることが身を守る防御になっているのかも知れません。

ですから、その限界にまで到達しないようにすることが重要ですし、たとえ他人より多少、その限界に幅があったとて、その悩んでいる人を、見下すことは大きな誤りです。

『人情の機微』がわからぬ人は、理解できない

残念ながら、これは経験でしょう
また、人の話を素直に聞けるかどうか、にもよるのではないかと思っています。
この場合は、経験がなくとも理解し、自分のものにすることが出来ます
経験することは、人によって多い少ないはあるでしょうが、限られています。

・人の話を黙って、素直に聞くこと
・偏見や思い込みだけで、判断しないこと
・相手の立場になって考えられること
多くの人(の心)を受け入れられるだけの度量を持ちえる人間になりたいものだと思います。

このような偉そうなことを書いて、自己嫌悪です。