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先日、ブログを通じて素晴らしい交流をさせていただいているVOXY様より、私の記事(青文字)に対して以下のメッセージ(赤文字)をいただきました。


現在の私は、仏教をはじめどの宗教にもまったく関心がありません。

宗教を肯定も否定もしませんが、今世の私には必要がないようです。

これからの時代は、一人一人が自分の精神性を高めていくことが、当然のように

起こってくる予感がありますが、それを司るのは最早、宗教ではない筈です。

一人一人の中に、神がいます。

その神の部分とつながることで、本当の自分を思い出すことが出来るようになってきます。

今、私はそのプロセスを歩みながら、少しずつそのことを思い出し始めています。

同じ意識の人が、地球上にどんどん増えていることも感じます。

これからは、『人生は素晴らしいものだ』 ということを自分自身が体現し、

私の経験をシェアすることで、今はそのことを忘れている人にも

思い出してもらえる自分であり続けたいと思っています。


> 宗教のことに触れておられましたので

> BONさんに限ってということではないのですが、最近のスピリチュアル、

> 癒しのブームにわたくしは、一抹の不安を感じているものの一人です。

> 万が一、もしも、聖書の記述が真実ならば、すべての愛、癒しはイエス=キリストという

> おかたを源としていることになります。

> まことのいやしはイエス=キリストから来るということが書かれています。

> そのイエス=キリストの教えを中心に、キリスト教の宗教は存在しています。

> 一つのしっかりした理性や知性をふまえた宗教という枠組みで規定するこなしに、

> スピリチュアル(霊的な部分=神の領域)に人間がかかわることは、第二、第三のオウム

> 麻原教祖のような存在を生む危険をわたくしは感じています。 (マタイ福音書24章11節)

> オウム信者は、まことに不思議なことに

> 人間的には、優秀な科学者であり、また、学歴もIQ的にも高い人々でした。

> そのような方々が何故あのような事件を起こすに至ってしまったか。

> スピリチュアルな面に大変大きな問題があったからです。

> あくまで、聖書の価値観でものを言って大変申し訳ないのですが

> ヒーラーの本質については、

> もし可能ならば、映画【パッション】をみていただきたいのですが、そこに

> メルギブソン監督が、かなり聖書に忠実にいやし主の本質を表現していると思います。

> 宇宙、命、愛という概念について愛するものに命を与えるということ

> 特定の宗教【団体】に属される必要はないと思いますが、ヒーラーを目指されるにあたり、

> ぜひとも、聖書との比較研究省察はお願いしたいと思います。

> 勿論本心は、BONさんのような愛情深く、素敵な方が、わたくしたちの共同体に属してくださり

> 助けてくださることことを希望してはいるですが、信教の自由がありますから・・・。

> いろいろ僭越なことを申し上げましたがお赦しください。


VOXY様らしい、愛と思い遣りに満ちたとてもあたたかいメッセージだったので嬉しかったです。

すぐに返事を書こうと思いましたが、宗教という大きなテーマなだけに自分の想いを言葉で表現することの限界を感じ、しばらく返事をかけずにいました。今でも言葉では上手く表現できるとは思えないのですが、心に問いかけて浮かんできた言葉を綴ってみたいと思います。言いたいことの半分も言えないないかもしれませんが、出来るだけ正直な気持ちを書いてみたいと思います。


VOXY様、ご心配いただき本当にありがとうございます。ご指摘いただいた文面から、仰りたい意図は十分理解しているつもりです。私のメッセージを読み返してみても、誤解を生じる表現があったことと深く反省しております。VOXY様には、以前にもお話したかもしれませんが、私が子供の頃には近所に外人宣教師が住んでいて、彼らが開催してくれていた日曜学校にも通っていました。また、ミッション系の大学だったため、チャペルの時間やキリスト教学の授業も履修していました。建学の精神である“Mastery for Service ”に集約されるキリスト教主義に基づく教育は、現在の私の人間形成にも大きな影響を与えてくれていると確信しております。その他、クリスマスコンサートや結婚式で奏でられる賛美歌も大好きですし、新約聖書も愛読しています。キリスト教の献身的な愛や犠牲的な愛を実践する主人公が登場する、作家/三浦綾子さんの作品も大好きでよく読んだものです。


一方、学生時代は観音様も好きだったので、西国の札所を巡っては心の平安を得ていました。大晦日には、除夜の鐘を聴きながら心に去来する煩悩を洗い流すことも好きでした。煩悩により四苦八苦するのが人間・・・四苦八苦=四×九+八×九=36+72=108・・・煩悩を断つ除夜の鐘が何故百八つなのかという意味を知って凄いと感じたものでした。今では、観光以外で寺参りをする機会はめっきり減ってしまいましたが、代わりに自宅で瞑想という形で自分の内なる存在と繋がり、心に溜まった垢落としをしています。


私の考えを述べさせていただけるならば、宗教の教えそのものを蔑ろにしているわけではありません。私自身の輪廻転生(キリスト教では認められない概念ですよね・・・)の過程でも、様々な宗教に関わり、信者として学んでいた過去世の記憶があります。勿論、今生の学びにおいてもキリスト教からは多くのことを学ばせていただいております。夫々の宗教には素晴らしい教えがたくさんある(カルト教団のような例外もたくさんありますが・・・)と感じながらも、現在までどこにも所属しておりません。しかし、宗教からたくさんのことを学んでいますし、今後も必要な知識を得ることにはかわりないと感じています。


宗教が作ったしっかりした理性や知性をふまえた教義そのものは素晴らしい智恵であり、私たちが実践する生き方のヒントであると思っています。しかしながら、固定された教義に基づいて組織を固めていかなければならない古い形の「宗教」の在り方には、甚だ疑問を覚えてしまうのです。本当に素晴らしい教えであっても、他宗を排撃するような人を産出するようになった瞬間に、組織としての宗教の持つデメリットが表出してしまうのだと思います。組織という枠組みを守るために、他の考えを受け入れないという人間のエゴです。愛の教えを崇拝するキリスト教国であるアメリカと、イスラム教圏の国々との火種が絶えないのも、政治や経済利権だけの問題ではなく、根底に宗教観の違いに端を発した人間のエゴが潜んでいるのではないでしょうか?


かつて、時代時代の節目に救世主と呼ばれた偉大な光の存在が、神の教え(宇宙の真理)を説きました。その偉人達が説いた教えが、ある地域では仏教として、またキリスト教として、ユダヤ教として、イスラム教として、儒教として、日本古来の日本神道として、世界の国々で広がってきたのだと思います。ですから、どの宗教もその時代のその地域で必要とされた教えであったと思います。同じ仏教から派生した宗派であっても、日本に伝来されて以降、時代背景や時の権力者の影響を受けて様々な形に変化したことをみてもそれは明らかです。

                                                                  キリスト教の歴史を観察しても例外ではないでしょう。本来、人々を導く愛の教えを説いたイエス=キリストの教えが、時代や環境の変化、その時代の支配者に利用されてしまうのも世界の宗教の歴史を見れば明らかです。イエスの教えとは関係なく、組織としての宗教を利用したり守ろうとする人間の出現により、本質が歪められてきているように思います。キリスト教において、宗教革命が起こったこともそうでしょう。マルチン・ルターを始めとした原理主義者は、自分達が正しいキリスト教者だとして、カソリックと対立し、蹂躙してきた歴史も然りです。


イエス=愛の代名詞とも思っていますし、イエス=キリストという人物が説いた愛の教えは普遍的なものだと思っています。しかし、イエスだけが愛の源ではありません。イエスは神の愛の実践者であり、宇宙に蔓延する神の愛をこの地球に、私たち人間に説いた偉大な指導者だったのだと思います。イエスの教えを学ぶことで、神の愛を学ぶことは素晴らしいと思いますが、キリスト教こそが全てであるという妄信はよくありません。


可能性という点で言えば、一人一人の心にはイエスと同じように神の愛を感じ、体現するだけの力が備わっているのだと思います。これまた極論ですが、増上慢な心で持って、誰もがすぐに悟れるといっているわけではありません。その可能性が誰にでも平等に与えられているといっているのです。何故ならば、全ての人間の本質は光であり、愛であるからです。そして、全ての人間が神の一部であるということを私は信じています。


今の時代もそうです。教祖と呼ばれた偉人が説いた教え(悟り)は素晴らしいものであり、輝きが消えることはありません。しかし、その教えを崇拝しているだけでは決してだめだと思うのです。彼らだけが神から選ばれた特別な存在ではないのです。確かに歴史に名を残し、何十億という人々に影響を与えた素晴らしい光の存在です。ゆえに彼らの生き様や教えは称えられることはあっても、否定されるものでは断じてありません。読まれている方も、これだけは誤解のないようにお願いします。


しかし私は、誰もがひとりひとりの心の中に、彼らと同じ悟りを経験することを可能にする神性な部分を有した存在だと思っているのです。それを、言葉というもので表現することは非常に難しいですが・・・・・宇宙で唯一の真理(叡智)があったとしても、その叡智を感じて表現した言葉(人)が10あると、10通りの解釈が生まれます。その10通りの解釈を聞いた人が、他の人に伝えると、また違った解釈が生まれます。私はその10の解釈が広がり、教えとなったものが宗教だと思っています。どれも正しいのですが、どれもが真理の一部を伝えているに過ぎず、真理(叡智)を100%伝えられているわけではありません。ですから勿論、その教え夫々の違いであって上下はないのです。


私もよく使いますが、スピリチュアルという言葉の定義はあまりに広すぎて私自身も説明できませんが、今の私の立ち位置を表す言葉として、一番しっくりくる言葉ではあります。私が感じているスピリチュアルは、自分の中にある神聖な部分と一体化することです。私自身が光であり、愛であり、神の一部であるということを信じられること。本当は内なる神とつながることで、悟ることも癒されることが可能であるということ・・・全ての救いや答えが、本当は外でなく自分の中にあるということを思い出すこと。そのために、自分以外の全てが存在してくれているという真実に気付くことなのだと思います。


まとまりのない文面になってしまいましたが、上記のメッセージは、あくまでも私の個人的な見解であり、正邪を問おうという意図は全くありません。宗教という非常にデリケートな問題ですので、読まれた皆様、どうか悪意の解釈や誹謗中傷の対象には絶対にしないでください。それ以外のコメントであれば、私の学びにもなりますので喜んで拝聴させていただきます。

                                                                          

VOXY様へ・・・私が影響を受けた様々な書籍の中で、最も私の疑問に対しての答えをくれたのが、ニール・ドナルド・ウォルシュ著 『神との対話』 でした。VOXY様にも是非読んでいただき、どのような感想を持たれるかを訊いてみたいと思います。最後に、重ね重ね失礼な表現があったかもしれませんが、何卒お赦しください。

                                                                          

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最後に、私が学んでいるライフスクールの師である王由衣さんが、彼女のブログでスピリチュアリズムについて次のように書かれています。その中に、宗教に関する今の私の考えを代弁してくれているフレーズ(ピンク色で表示)があったので、参考までに掲載させていただきます。


スピリチュアリズムは、19世紀半ばにアメリカで生まれ、アメリカ全土やイギリスに広がりました。その運動のピークは20世紀前半とされますが、今でもアメリカ、イギリス、ブラジル他の中南米などにメンバーや活動家(司祭/牧師、霊媒、ヒーラーなど)がいて、世間の目にはあまり見えないところで活動しています。スピリチュアリズムは、人間の魂が死後も生き続けることを信仰・信条の土台とします。そしてそれを証明するための方法論として、霊媒(「チャネラー」)とスピリチュアル・ヒーラーの訓練と養成に力を注いできました。


スピリチュアリズムからは多くの優れた霊媒が輩出していますが、ほとんどは無名で活動しています。比較的有名な人では、アメリカ先住部族のスピリチュアル・ガイド、シルバーバーチをチャネリングしたモーリス・バーバネルや、同じく先住部族のガイド、ホワイトイーグルをチャネリングしたグレース・クックなどがいます。欧米のスピリチュアリズムは、活動の形によって幾つかの派に分かれています。独自の宗教運動というスタンスを保っているところもあれば、キリスト教プロテスタント宗派の中に足場を持って、より一般社会の中で受け入れられやすい形で活動しているところもあります。


これは、転生輪廻を通しての魂の進化を教えるスピリチュアリズムが、キリスト教という、転生輪廻の考えを否定する宗教が主流を占める社会で活動していかなければならなかった歴史と関係しています。

私自身は過去6年、アメリカのオランダ改革派教会スピリチュアリスト派のセミナリー(聖職者課程)で学んできました。あと何年かのうちに司祭(牧師)として叙階を受ける予定です。しかし、スピリチュアリズムを「宗教」として広めようとは考えていません。少なくとも、固定された教義に基づいて組織を固めていかなければならない、古い形の「宗教」の在り方は、その役目を終えつつあると思うからです。スピリチュアリズムは、自らを宗教であると同時に、哲学であり、科学であると定義します。簡単に言えば、宗教とは信じること、哲学とは探求し、深く考えること、そして科学とは、証明を通して客観性を求めることです。スピリチュアリズムの視点と方法論は、今の日本に生きる人たちが直面しているたくさんの問題に解決の手がかりを与え、生きるための指針を示すことができると考えています。人は精神的な視野と価値観なしには、生きることはできない。そしてスピリチュアリズムは、そのためのバランスされたアプローチを示してくれる。これが私の視点です。


最近は日本でも、スピリチュアリズムとの関係をうたっているグループや個人がありますが、本来のスピリチュアリズムについては、シルバーバーチ関連の翻訳以外、あまり知られていないように思います。例えば、スピリチュアリズムに「先祖供養」という考えはありませんし、人を不安に陥れるような形で、目に見えない世界とのコンタクトを仲介することもありません。スピリチュアリズムでは、すべての「霊的存在(スピリット)」とのコンタクトは、私たちが人間としてよりよく生きるための癒しや支え、そして学びと成長のためのきっかけや機会として与えられるものであると考えます。訓練された霊媒やチャネラーが提供するのは、このような機会としての目に見えない世界とのコンタクトです。