スピリチュアル美容師・本村穂蓉(てつ兄)のブログ                青山・表参道式ヘアスタイル

スピリチュアル美容師・本村穂蓉(てつ兄)のブログ 。
18代続く「お寺」の血を受け継ぎ、霊的感覚を活用しながら社会貢献を目指しています。
髪でも、スピでも、何かしらの、お役にたてると嬉しいです。


テーマ:



いまさらながら・・・・(* ̄Oノ ̄*)


 
  
  そういえば・・・・

  ボクの、自己紹介・・・・あんまりしていませんでした(m--m) 

  よかったら、見てやってくだしゃんせ!


             ダウン









<< ボクの・・・チョイト・・・長いプロフィール。。>>








生年月:昭和年44年1月
出身地:長崎県大村市



表参道式ヘアスタイル・『ヒーリング美容師』・本村穂蓉(テツ兄)の自由気ままな日々。



大村市は、真珠養殖で有名な大村湾があるところで、
綺麗な凪いだ海を見ながら育つ。


父は、海上自衛官、
父から受けた影響は・・・楽天家・企業家精神

父方の祖父は旧海軍将校、
祖父から受けた影響は・・・

「ドーンと鳴ったら、逆に走れ!」

・・・(戦艦が沈むときの対処法)

母は、看護士、母方の本家は、18代続く、真言宗「喜宝院」
母から受けた影響は・・・
・・・「何かあったら、墓参り」、「人とは違うことをやれ!」
母が出産する直前に、不思議な夢を見たというコトや、
有名な某占い師さんに、
「この子は、最強の運の、持ち主」と言われたことを聞き、
幼少から、努力はせずに、すべて運に任せるという、
かなりいい加減な思考を持つこととなる。    

         
また、幼い頃から、三兄弟の長男として、初孫として大切に育てられ、
とても我がまま三昧で、勉強よりもスポーツが大好きな子供時代。

履歴:
昭和50 4 大村市立中央小学校入学
昭和53 4  放虎原小学校編入
昭和56 3  同校卒業
昭和56 4  西大村中学校入学
昭和59 3  同校卒業
昭和59 4  長崎日本大学高等学校入学
昭和62 3 同校卒業
昭和62 4 日本大学経済学部入学
平成 3 3 同大学卒業
平成 3 4 ハリウッド美容専門学校通信科入学
平成 6 3 同校卒業 
平成 3 4 美容師としての修行開始~現在に至る
美容師免許取得 


幼い頃の記憶をさかのぼってみると・・・?
なんと、、スタートは、、「 初恋? 」から(笑)。

初恋は、幼稚園前の頃に、
家の近くの「 シーちゃん 」が大好きで(笑)・・・
彼女の家にいる「 犬 」に逢いたいという理由で、
いつも、逢いに行っていました。

小学一年生の時に、好きなクラスメイトの女の子の靴を、
なぜだか、「ドブ」に捨ててしまい・・・・
それが、見つかって先生に、放課後に正座させられて、
叱られていたのを覚えています。
でも、「 ボクはやってません! 」
・・・と、嘘を言い続けて、
しまいには、父が先生に手紙を書いて、

「 息子が、やっていないというのだから、
  やっていないのだと思います! 」

・・・と伝えてくれたのだそうです。

父に、その時の「 嘘 」を謝ったのは19才の頃。。

「 親父! あれな・・・嘘ついてた!
  おいが、やったとよ!!嘘ついてゴメンネ! 」

・・・・そう父に言うと、父は笑いながら、

「 しっとぉーー!ワイがやったと思ったバッテン、
  息子ば、親が信じてやらんと・・・いかんやろが!!
  バカタレ!!!! ヾ(。`Д´。)ノ 」

・・・と、一蹴されました(笑)
親の愛情に感謝・・・の出来事でした。  

幼い頃から、なぜか? お洒落に興味があり、
小学校二年生の時には、学校に父親の整髪料や、
母の香水をつけて行っていました。
雨の日には、随分と周囲に匂っていたらしく、
嫌な顔をされたことを、覚えています。。

その当時は、
手のつけられないほど、いたずら坊主で、
「ピンポンダッシュ!」は当たり前。
大好きな女の子の上履きを隠したり、
高さのある窓から飛び降りたり・・・
三兄弟の長男坊として、
まるで「お山の大将」気取りな幼少でした。
幼い頃から逃げ足は速く、それを生かして、
小学校6年間は、リレーの選手でした。


小学校2年生から、
父の所属していた海上自衛隊主催の「スイミングスクール」へ入校。
まったく泳げない僕を、プールに投げ入れたり、
竹刀を振りかざす教官を見て、
生まれて初めて怖さということを覚えましたが、
そのおかげもあり、市内では、中学校卒業までの間、
水泳で一位になることも多く得意げにしていました。

冬場には、通常は、サーキットトレーニングや、
器械体操。。。
そして、土日には、温泉地で知られている、
雲仙の麓にある、小浜室内温水プールで、朝から夕方まで、
海水の効いた、温水プールで泳がされていました。
いまでも、温泉の「 硫黄 」の匂いがすると、
その頃の情景が、フラッシュバックされます(笑)&(「0「)。
とにかく、ぜんぜん楽しくない、
つ・・・つらいトレーニングの日々でした。


4年生の時に、
小学校に新しく開設された「 ラグビー部 」に入部。
身長が140センチくらいだったので、
5年生、6年生の大きな人のタックルがとても怖かったけど、
一度、とても大きな先輩が、一人で突進してきたから、

「 ウォーー!!! 三 (/ ^^)/ 」

・・・と、、叫びながら、タックルに行ったら、
数メートル飛ばされたらしく、記憶がない感覚に。。。
担当の先生が駆けつけてきて、

「 大丈夫か!?? 」

・・と、声をかけてくれたのを覚えています。
その担当の先生は、いま、その小学校の校長先生をしていて、
2、3年前に母校を訪問させていただいたとき、
いろいろと、お話をさせていただきました。。感謝!!

5年生から公文式の算数の塾に入校。
計算が、やたらと速くなり、それを得意気にしていました。
でも、中学生の数学まで、どんどん進むもんだから、
自分自身、学校の授業を「 ナメテ 」しまって、
先生の話を、まじめに聞かなくなっていました。
すぐに、天狗になるという、いつもの悪い癖・・・は、
この頃から存在していたようです(笑)

その頃、市内の野球チームに入部。
「オオムラ・クラブ」という名前のクラブで、
市内の、さまざまな小学校から、
いろんな子が、来ていました。
入部前に、簡単な運動のテストがあって、
そのときに、張り切りすぎて、
短パンのままに、ホームベースにスライディングして、
太ももの裏に、大きなスリ傷を作ってしまい、、
こはや・・・血だらけ状態(笑)
でも、そのガッツの、お陰で?
チームに、すぐに馴染めた気がしました。
その野球チームでは、
他の小学校の生徒と、友達になれたのが嬉しかったです。
特に、監督の「カメイさん」のノックが印象的で、
キャッチャーの真上に、ボールを飛ばすノックに、

「すげぇーーー!。。。:*:・( ̄∀ ̄)・:*:」

・・・って、いつもホレボレ、見ていました。


初めて、人にパンチしての喧嘩をしたのも、この頃。。
「オオ00君」と口論になって、
校舎内の階段の踊り場で、お腹にパンチしてしまいました。
彼は、お腹に手をあてながら、

「先生に言うからな!!ヽ(`Д´)ノ」

・・・その言葉に、ビビッていましたが、
先生からは、何も、言われませんでした。
どんな理由があるにせよ、
人を叩くのは・・・ダメです・・・よね(「0「)。。。


6年生の時に、生まれて初めてラブレターをもらいました。
下駄箱に入っていて、
・・・でも、待ち合わせの場所には誰もいなかった。。
その後、その人から、
「 はずかしくて、待ち合わせの場所にいけなかった 」
・・・との、お手紙が下駄箱に入っていました。
ボク自身、嬉しさよりも、とまどい・・・の方が、
大きかったような気がしています。




中学校時代は、水泳部、野球部を掛け持っていました。


中学1年生の時の1学期、
とにかく、モテて・・・(笑)。
その頃が、後にも先にも、最大の「 モテ期 」でした♪
そのあとの時代は、
とにかく、ふられまくってました(「0「)。


下駄箱を見ると、ラブレターが入っていました(笑)。
丸坊主のイガグリ頭なのに・・・
身長も小さかったから、
なんとなく・・・可愛かったのでしょうか?(笑)。

一度、ラブレターをもらって、
放課後に待ち合わせの指示が書いてあったのですけど、
面倒で・・・行かなかったら、
次の日の夕方に、
隣のクラスの女の子6人くらいから囲まれて、

「 なんで?こんかったとね?\(*`∧´)/ 」

・・・と、にらまれて・・・。(「0「)。。
そのままに、走って逃げたら、
家まで、その子達、追いかけてきました。。。
3キロくらいある家まで、、追いかけてくるから、、
怖くて・・・(笑)。
しかも、家のそばまで来るもんだから、
親に知れたら、面倒・・・だと思って、
逃げるのをやめて、その子達の方に歩いていったら、
一人、幼稚園生の時からしっている女の子がいて、

「 なんで?逃げるとね?・・・(* ̄Oノ ̄*) 」

・・・って、怒らずに、優しく言ってくれて・・・、

だから、素直に、

「 なんか・・・はずかしかと!!(///∇//) 」

・・・と答えたら、他のみんなをなだめてくれて、
事なきを得ました。。
とにかく・・・怖かった・・・とは、言えなかった(笑)。。



中学1年生の時、担任の先生の行動すべてに、
納得がいかなくて・・・(生意気ですよね。。)
とにかく、反抗していました。
それが、反抗期のはじまりでした。。
母は、毎日、お弁当箱に、
しおりのような紙に「 ひとこと 」添えて、
心落ち着くように、してくれていましたけれど、
その行為すらも、面倒に思えて・・・・
母にも、ツラクあたっていた時期でした。。。


その時期、幼稚園の頃から、一緒だった、
N君とB君が、ガス自殺してしまいました。
理由は、0000を吸引して、おかしくなって・・・
・・・と、説明を受けた記憶がありました。
母が、救急病等に勤務していて、
そこに緊急搬送されたらしく、
母から電話で、そのコトを聴かされました。

「 ハァ!!!???? 」

・・・って言ったのを覚えています。
とにかく・・・信じれなかったです。

次の日、テレビなどのメディアが学校に取材に来て、
ボク等の表情を、カメラで写していたけれど、
なんだか・・・その行為に、無性に腹が立って、
みんなで、
「 帰れ!!コール 」をした記憶があります。
何も言葉にしてくれないままに、
ただ、カメラを向けられているコトが、
本当に、嫌でした。。。
いまでも、N君、B君が、頭をよぎる時があります。
いま生きてたら・・・何やってんだろう?って。。。
ご冥福を、心より、お祈りします。




中学校2年生の時、一学期の数学の点数が、
珍しく良くて・・・・・
それを、年配の女性の先生に、

「 モトムラ君! すごいじゃない! 」

・・・と、言われたことをキッカケに、
反抗期が収まっていきました。。。
・・・ひとの言葉って、すごいな!!
・・・・って、いまでも思います。。。


その頃、
「 000マ 」という床屋さんで、
頼んでもいないのに、「 まゆ 」を剃られて・・・剃りこみも、
勝手に入れられて・・・それが発端となって、
不良の先輩、T君に目をつけられて喧嘩に・・・
喧嘩に負けた僕は、悔しさのあまり、
地元の『空手道場』、総流・総真会に入門。
それがのちのちの、さまざまな御縁へと繋がって行きます。

総流・総真会という「 空手道場 」の師範・原田先生は、
面白い稽古方法を取り入れている方で、

「 闇稽古 」・・・夜、照明を消しての組み手。
「 多人数との組み手 」・・・1対2人での組み手。
「 鉄槌でのレンガ割 」・・・硬いモノを壊す。

などなど、さまざまな手法で、ご教授くださいました。
また、原田先生の空手への情熱、取り組み方は、
今もって、意識が追いつかないほどに高く、
特に、中国拳法における「 南拳 」のように、
全身を鍛え上げ、そして組み手へ取り組まれているので、
先生の攻撃を受ける手足は、アザだらけ、
先生の「 受け 」だけで、手足にアザができました。
受けだけで、アザが出来るのは、後にも先にも、
原田先生だけでした。。それは、まるで、
「 棍棒 」や「 岩 」と組み手してるかのような、
そんな「 硬さ 」でした。



中学3年生の時、
市内にある進学校への受験に失敗。。
滑り止めに受けていた、
隣の市にある、長崎日大に入学となりました。

高校生活は帰宅部。。。道場での空手は続けました。
放課後の補修の授業をサボっては、
駄菓子屋で、たかし君と、楠田君と、
ゲームをして遊んでいました。。。

高校2年生の時、県下の空手道場の大会 『拳心旗大会』にて、
まさか?の3位入賞。
このことが、中学生の時、
T君との喧嘩で負けた時に無くした『自信』を、
取り戻してくれました。(感謝!)

高校3年生の時、、
大学には、進学するつもりはなかったものの、
付属高校という特徴から、大学統一試験に参加。
マークシートの3番5番を、やみくもにマークしたところ、
奇跡的にも、願書を提出していた経済学部の最低合格点数と同点に。
校長室に呼ばれ、「バイト先は、大学の図書館を見つけてあるから」と、
推薦されて、そのまま上京して、入学を果たしました。

大学時代は、大学が紹介してくれた4畳半1間の、
風呂無し、共同トイレのアパートに住んでいました。
家賃は、17000円。(笑)
築50年、東京大空襲を逃れたコトが自慢の大家さんに可愛がられました。
その大家さんが、一緒に誘ってくれた飲み屋さんで、
元会社の後輩に電話をかけたところ、むげに断られるのを垣間見て、
組織上での付き合いだけでは駄目なのだと体感しました。

大学一年時、
初めて受講した記念すべき『経済学概論』にて、教授から、
『 君達、経済学は学校では学んではいけない! 
社会にでなさい! 学校には来なくてよろしい!』
・・・と言われ、素直に4年間学校には通わなくなりました。

大学時代は、空手と、北海道旅行に明け暮れ、
大学1年時に、総流・総真会にて念願の空手・初段(黒帯)を取得。

オンボロアパートの近くの通っていた銭湯にて、
空手の話に没頭する人物に出会い、声をかけさせていただき、
その方は極真空手の師範で、それが御縁となって、
極真空手をマンツーマンで教えていただきました。
師範が、南米ボリビアの国家警察、軍隊に空手を教える日が来る2年の間、
一回の稽古で、約2キロ体重が減るという稽古を受けました。
(現極真空手総本部責任者・福田勇氏)
師範が、帰国するの時期を目標として、
2年間自主トレに励み、
スクワット400~600回。拳立て数百回、腹筋・背筋など、
猛練習に取り組み、師範の帰国後、自信をもって、
一度、スパーリングをさせていただくも、
まったく、歯が立たず・・・・自分の甘さを知りました。
悔し涙があふれて・・・・
それが、師範との最後の稽古となりました。


同大学一年生の時、
『北海道に行くと、大きな器になれるぞ!』という話を聞いて、
それから4年間、
愚直に北海道へとヒッチハイク、野宿の旅に没頭。                                                          
旅の途中、層雲峡で知り合った『電通』の男性・オオイケさんに、
『美瑛という所の畑で食べた、おにぎりの味が忘れられない!』
そう教えてもらい、その足で美瑛町に行く。
駅の自転車置き場で、野宿しようと準備をしていたら、
通りがかりのおばあさんに、
『あんた、泊まるとこないの?紹介しましょうね~♪』
そう言われ、バイク乗り達が泊まる、
『蜂の宿』という一泊300円のところを教えてもらって・・・、
その後それが御縁で、その宿のおじさん、おばさんに、
可愛がってもらうことになり、自宅にまで泊めてもらうようになりました。
おじさん、おばさんに、今も感謝!  


美瑛の丘に一目ぼれして、それからの4年間、
バイト代が貯まると美瑛に行っていました。
大学4年の就職時には、夏一ヶ月間、
美瑛町の自動車整備工場で働かせていただいて、
美瑛町での暮らすシュミレーションをやってみました。
とても人が温かく、材木加工会社の方からも就職の、
お声をかけていただだき、
美瑛の町に住みたい気持ちは山々だったのだけれど、
『年を重ねてからでも住むことはできる』
・・・そう決断して、他の仕事を探し始めるコトにしました。                                                                                        
当時はバブルの絶頂期で、どこにでも就職できる状態が面白くなく、
自分でできる何かを探し始め、
結果的に美容師の職業を選ぶコトになるのですが、
美容業界のコトがまるでわからず焦る一方で、
何とかなるという楽天的な気持ちのまま年を越しました。              

いよいよ大学卒業となる時、大学職員の先輩に相談すると
、『知り合いが有名な美容師だから・・・』と面接の段取りを。
その先生は当時、有名な大先生で、なんなく就職は決まり、
そして、
空手の師匠が、偶然にも美容業界誌の仕事も兼ねていたこともあり、
いろいろとアドバイスを受け、その美容室への就職を決意しました。

その当時、大学卒業してから美容師を目指すというコトは珍しく、
家族に大反対されながらも、修行の道へ。

同じ長崎県出身で、一年年下の女性「 ミヤモトさん 」が、
教育係りとして、教えてくれました。。
この「 ミヤモトさん 」が、とても厳しい方で、
とにかく、ムチャクチャに、叱られてばかりの日々。。(「0「)。

でも、そのお陰で、闘志が湧いて、
23歳からという、美容業界の中では、遅いスタートの焦りを、
プラスのパワーにかえて、一日4時間半睡眠、
練習時間一日7時間と決めて技術の習得に励みました。
でも。。一年間の間で、体を壊し、二度の入院。
練習禁止令を、オーナーから伝えられました。
とても、ふがいなく、くやしい時でした。。。。

「 ミヤモト 」さんとは、
それから10年以上経ったあるとき、
原宿で、偶然に再会して・・・・

「 雑誌で、活躍しとるね!!! 見とるよ! 」

・・・そう、言ってくださって、

ボクは、泣きながら、

「 ミヤモトさんの、おかげなんです・・・ 」

・・・っていいながら、二人して原宿の路上で、
ワンワン泣きました。。。。
本当に、足を向けては寝れないくらいに、
いまでも、感謝しています。。ありがとうございます。。


その頃は、
週の、ほとんどを、2人の尊敬する先輩の家に上がりこみながら、
美容の価値観について、学ばせていただきました。
( 現リップスオーナー・的場氏 )
( 故 横山氏 )

一ヶ月の給料が、手取りで8万円という、
ジリ貧生活を乗り越えようと、毎週月曜日の深夜は、
コンビニエンスストアーで、明け方までバイトをするも、
次の時間帯のアルバイトの人にレジを引き渡す際に、
100円を5枚数えた時点で、何枚かわからなくなるという、
『 極度の睡眠不足 』を体験し、睡眠の大切さを知ることに。

毎週火曜日(サロンの定休日)には、
午後から、東京郊外の美容室でアルバイトをし、
普段いれさせてはもらえない技術に目を輝かせるも、
そのアルバイト先のオーナーから、
スカウトされそうになった時に言われた言葉、

『 ヘア・スタイルは、腐るんだよ!

   だから、お金儲けにこだわりなさい!』

・・・その言葉に愕然となり、
二度とその美容室でアルバイトはしなくなりました。

アシスタント時代の美容師の修行は、思ったよりも厳しく、
何度もサロンを脱走しましたね・・・・。(「-「)。
結局、その厳しいサロンを、一度退社。。

カットの技術で有名な、某サロンへの入社をするも、
10ヵ月後に、退社したサロンに戻りたくて、
逃げた自分が嫌で・・・先輩の「 的場さん 」に連絡。
ありがたいことに、

「 そろそろ・・・いいんじゃねぇか。。 」

・・・との、お言葉をいただき、
お弁当の買出しからのスタートという条件付で、
最初の修行を始めたサロンへ「 出戻り 」。

以前の後輩君たちからの、執拗なイジメにあうも、
サロン内の技術試験を飛び級で合格して、彼らを追い抜き、
昔の、先輩・後輩の関係へと。。
そのときに、自分の後輩への、愛の無さを痛感。。
人を人と観ていなかった結果、そのようなことを招いたのだと、
いまでも、教訓としています。。


ある時、本当に美容師を辞めようと、なぜか?
大塚にある有名ボクシング・ジム(角海老ジム)の門を叩き、
数日サロンには無断欠勤のまま、
ボクシング・ジムに通い朝から晩まで見学させてもらいました。
そのボクシング・ジムの会長が、3日目に声をかけてくださり、
特別にトレーナーをつけてのトレーニングメニューを
組んでくれることになるのですが、
あまりの厳しさに愕然・・・。
次の日からサロンに戻り、
美容師としての修行をあらたな気持ちで始めました。
今思えば、その名物会長さんの、
愛の深さだったのだと感謝しています。  

その後、
セットを体得するために、
新宿歌舞伎町のお水商売専門の美容室での修行。
斬新な、カットテクニックを学ぶ為に、
某先生の下での修行。
パーマテク、ブローテクを身につけるために、
気が狂うほど忙しいサロンでの修行。

そして、スタイリストへ・・・

縁あって、ビュートリアムと、同グループである、
「AKs」への入社チャレンジを受講。
3日間の、ただ働きを提案させていただき、
その仕事ぶりを見ていただき、そのままに入社。

シャンプーからという、一からの修行となりましたが、
あらためて学ぶことの方が多く、
一年後に、スタイリストへ。

そして、その一年後に、
カリスマブームという流れにも乗り、
ファッション誌などでページをいただけることになり、
それを機に、青山界隈の有名店店長、マネージャーを歴任。

あまりの忙しさのあまり、
『顎関節症』
『突発性難聴』などの、病に悩まされ、仕事開始前に、
明治神宮内を2時間散歩して、気持ちを整えないと、
人の髪の毛を触れなくなるという深刻な事態にまで追い込まれました。

そんな時に、ある不登校の小学生の女の子に出逢い、
その女の子が、
髪を切った次の日から学校に通い始めたのを目の当たりにして、

『 ボクは・・・、ただ髪を切っているだけではないんだ・・・ 』

・・・そう思えるようになり、今まで価値観が破壊され、
新しい価値観と出逢うことになります。



ある時、後輩のH君と、当時、原宿にあったインド料理を食べながら、
ミーティングをしていたら、お店のオーナーが、

『 日本にあるインド料理の店は、ほとんど私のです! 』

・・・そういいながら、
ボク達のテーブルの横に腰掛けて、、
それから、約1時間半、、

『 LOVE! LOVE! 』

・・・と、すべては、愛なんだよ!!!
そんな風に、ひとりごとのように、話してくれていました。
おかまいなしに、、
ボク達は、ミーティングしていましたけど(笑)
いま、思い返すと、、そのオーナーさんから、
『 LOVE! 』が、すべて・・・と、
教えていただいた気がしています。


それから数年して、
エクスペリエンスマーケティングの始祖である、
藤村正宏先生との運命的な出逢いにおいて、
仕事への価値観は、より強固で、決定的なものとなりました。

2002年、結婚。
2006年、芝崎プロポーションクリニックの芝崎先生と出逢い、
霊的能力が開花。
のちに、国内で有する4人の中の一人となる、
『ブレストヒーリングマスター』の称号をいだだく。  
2007年、台湾の美容室『中村龍馬造型店』の、
オーナー『ザーママ』に出逢い、台北市内の『 龍山寺 』にて、
唐突に、

『 美容師を辞めて、台湾で、霊能力を生かした占い師になりなさい!』

・・・と言われるも、丁重にお断りさせていただき、
その後、『 ザーママ 』に後見人となっていただくカタチで、
台北・斗南・台中・花蓮など、
台湾全土に対して、日本の美容技術の講習を行う。                     


2007年、台湾建国の父と云われている「 孫文 」が亡命の際に、
師事として仰いだ先生の御子息にあたる、I先生に出逢い、
陰陽道にも通じる「方違へ」の急務を告げられ
14日後に実行、90日間の「方違へ」を完了とする。
国政に深く関わるI先生との御縁は、その後、10年経て、
ボク自身の、政治への関わり方の原点となり道筋となる。


2008年、美容室専門のコンサルタント会社、
日本アイデアルを立ち上げ、代表に就任。

2009年、日本活性化協会公認・マジシャンとなり、
マジックショーを活用しながら、
『 ありがとう! 』という言葉を伝える、
ボランティア活動を開始。 

2010年、台湾で、お世話になった 
『 ザーママ 』の訃報に触れ、彼女の意思であった、

『 霊的能力を生かして、人々に貢献する 』

・・・という言葉の責任を感じ、
自分にしかできないカタチで、
世の中に貢献することを模索しはじめる。


お笑いセラピスト・尾崎里美先生に出逢い、
深いチューニングに導かれる中で、
『 ヒーラー 』としての活動を決意。

2011年4月22日より、神戸・三宮にて、
石川夕起子氏の御協力により、
サロン・ソルフィールにて、
ヒーリング活動開始。。
毎月の開催により、
60名強のヒーリング終了。


2011年11月、東京・目黒にある、
著名なヒーラー、
ヒーリングサロンオーナー・長谷川暢子氏とのコラボ開催


2011年11月、東京マラソン2年連続の落選に意地になり、
年内、どうにか参戦できる、
初マラソンに挑戦(川崎チャレンジ・マラソン・6時間3分30秒)、
あまりの筋肉痛に涙・・・・。
そして、次の日、敢えて仕事を入れていたことを後悔(笑)
その後10日間程度、ボロ雑巾状態。。。(「0「)。。


2012年2月に福島県主催の企画である、
復興支援モニターツアーへの参加。
福島県の人の言葉・・・・

「 私たちは・・・

  いまも、ここで暮らしているんです・・・ 」

・・・その言葉に、心を打たれる。。


2012年2月20、神戸にて、尾崎里美先生&島袋氏との、
何気ない雑談より、尊き「 思い出し 」を天とともにいただく。
これより、霊的感覚の扉が完全なるカタチとして開くこととなる。 


同年2月26日、東京マラソン参加。  
  6時間19分という記録に・・・くやし涙



2012年3月8~11日に、
アメリカ・サンディエゴにおいて、
ヨガの先生である『 YUKO 』氏と、
東日本大震災復興支援チャリティー、
『 YOGA FOR JAPAN WITH HEALING 』
・・・を開催。
収益金全額・2500$の寄付金を、福島へ届ける。



2012年3月より、
個人専用・スピリチュアルサポートをスタート。



2012年5月より、
夢の、お告げに従うカタチで、
神戸より拠点を奈良県奈良市に移して、
『 リセット・ヒーリング 』を開始。 



2012年6月16日より、
美容活動の拠点を、21年間の先輩でもある、
石田先輩が運営する、
「ヘアーサロン・アイズ」に移す。
同店舗・コンサルタント就任。



2012年9月27~10月4日まで、
アメリカ・サンディエゴにおいて、
ヨガの先生である『 YUKO 』氏と、
第2回目となる、
東日本大震災復興支援チャリティー、
『 YOGA FOR JAPAN WITH HEALING 』
・・・を開催。
偶然にも、前回と同額となった、
収益金全額・2500$の寄付金を、福島にある、
子供支援の為に、除染作業をしているNPO法人へ届ける。


2012年11月。
古事記における日本列島形成の最初の島である、
「 淡路島 」にて、美容師活動開始。

ユダヤの遺跡の持ち主である、M・おじさんと、友人となり、
さまざまなコトを伝授いただく。

同月。
東京での霊的能力を活用した、
「 スピな、お茶会♪ 」を開催開始。
授ける、授かるという間柄ではなく、
教える、教わるという間柄でもなく、
一緒に、フラットな同じ位置で、
気づきを学ぶ・・・カタチヘの、チャレンジ開始。。



2013年3月、
アメリカ・サンディエゴにおいて、
ヨガの先生である『 YUKO 』氏と、
第3回目となる、
東日本大震災復興支援チャリティー、
『 YOGA FOR JAPAN WITH HEALING 』
・・・を開催。
偶然にも、前回、前々回と同額となった、
収益金全額・2500$の寄付金となる。



同時期に、夢の中で「くじら」から、

「ダウンロードしなさい!」

・・・との感覚が届き、
サンディエゴの日程で奇跡的に1日空白となった日に、
メキシコ国境近くの海まで「くじら」に逢いにでかける。
帰国後、「くじら」を食することで、ダウンロード完了。
その直後に、「水からのダウンロード」の感覚が届き、
30年ぶりに水泳競技再開。


2013年、春、
夢の、お告げのままに、
山梨県・勝沼「休息」という地名の場所にて、
「スピな、お茶会♪」の開催スタート。
同年、秋、葡萄の実の収穫期に、山梨での活動終了。


2013年、秋、
東京都中央区秋季体育大会・水泳の部に出場。
同時期、
美容師のメニューと、スピの感覚をあわせた、
「スピリチュアルカット」を、夢での、お告げにより開始。


2014年、春、
東京都中央区春季体育大会・水泳の部に出場。

同時期、
某上場企業・美容専門学校にて、
「運営管理」の講師依頼を受託。
年間22日間の講義をさせていただく。


2014年12月、
インターネット上限定での、
スピリチュアルサポート塾再開。
ショートプログラムにて、開催中。


2015年3月、
東京マラソン、2回目の参加。
目標タイムの5時間台に、ギリギリセーフ(笑)
これにて、しばらく、、マラソンは、休止。


2014年、春、
東京都中央区春季体育大会・水泳の部に出場。
25メートル自由形、成人の部 7位。


2014年、秋、
全国から4名の、会社経営者の方々の御協力により、
会社経営陣様に対しての、「 スピリチュアル 」の運用試験スタート。



2015年4月、
会社を、「 合同会社日本アイデアル 」
・・・として起業、代表社員に就任。
本格的に、法人様に向けての、
スピリチュアルを活用した、コンサルティングをスタート。



2015年11月、
某企業様の御協力により、
「 会社スタッフ様 」への、「 スピリチュアル 」の運用スタート。



2016年1月、
東京マックス美容専門学校にて、2年生・「 運営管理 」の担当スタート。


2016年2月、
生まれて初めての手術をする。
(白内障手術)



2016年4月、
たかの友梨美容専門学校にて、2年生・「 運営管理 」の担当スタート。
東京マックス美容専門学校にて、新年生・「 運営管理 」の担当スタート。



2016年春より、
新潟の某企業様にて、社員研修の一環として、
『 女子力UP 』の開催をスタート。
月一回の、日帰りの研修を継続中。



2016年5月、
『 駆け抜けなさい!・心身を鍛えておきなさい! 』
・・・との、お告げを夢にていただき、
日々の、トレーニングを、増量。
一人、トライアスロン(30キロ、自転車→ 1.5キロ、水泳
10キロ、マラソン)や、
サロンから帰宅時に、RUNにて帰ることをスタート。



2016年秋。
都知事・小池百合子氏主宰の、「 希望の塾 」に入塾。
政治家や、政策担当者を目指すのではなく、
いまの、日本の選挙投票率をUpさせるために、
また、未来を担う次世代の為に、
大人の責務とは?を、日々、悩み、考えながらに、
約3000名の塾生の皆さんと、切磋琢磨。
2017年3月4日に卒塾以降、政治の世界と距離を置く。



2017年新春。
「 和をもって尊しとなす・・・」
「 たよる、すがるのないままに・・・・」
・・・を、さら広めよ!との、お告げを夢にていただき、
真摯に向き合うコトを決意。



2017年1月より、本格的な、スピリチュアル活動・再スタート。
主催者を数名募り、定期的に、セミナーを開催とする。



2017年3月。
神戸・尾崎里美先生と再会し、新たな「ひらめきの声」が届く。


同月1日より、スピリチュアルの感覚が、
「 記述しなさい!!」と伝えきて、そのままに霊的記述をブログに掲載。



2017年6月より、
淡路島での、スピリチュアル活動、美容師活動の再開予定。





・・・現在に至る。



身長:176.5cm  
体重:84kg
趣味:サーフィン・空手・読書・ジョギング・マジック
歴史上の尊敬する人物:坂本龍馬
好きな言葉:「おもしろきことも無き世をおもしろく」
「決断よりも行動」  
「遊ばざるもの働くべからず」

塾・道場・勉強会
エクスマ9期(東京1期)
エヴァンジェリスト1期
スーパーエバンジュリスト1期
ブレストヒーリングマスター(スピリチュアル)
メキキの会・BLD卒業(退会)
総流空手道(黒帯)
日本活性化協会公認マジシャン(休部中)
小池百合子氏主宰・希望の塾・第一期生。
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