人間の屑
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25日目

AVが見たくなってレンタルビデオ店に出かけてみた。
AVなんてパソコンで自動的に落ちてくるから借りに行く必要はないと言う人もおられるかと思うが、昨今のAVを見れば見るほどやはりお気に入りの女優というものができてしまうものだ。
私のお気に入りの女優がどれだけ街のレンタル店に並んでいるかを現地調査してみたかったというのもある。別にそんな調査なんてする必要なんてないわけであるが、その女優に対する思い入れが強くなればなるほど私はいてもたってもいられなくなってきた。
最近街の中心部に新しくできたレンタル店に行ってみた。昨今の韓流ブームの煽りを受けて韓国ドラマ及び映画モノのコーナーがまず目に入ってきた。
私はそんなもの全く興味ないので、AVコーナー目指して、ジャングルのようなビデオ棚の中を奥へ奥へと進んでいった。AVコーナーは必ず店の最深部にあることを私は経験的に知っていたからだ。
そこはカーテンに区切られひっそりと秘部を隠すかのように慎ましく佇んでいた。同時に私はその狭さに迫害されたようなものを感じて残念に思った。
韓流ブームコーナーはばかでかいというのに、AVコーナーはそれの3分の1ほどの広さしかなかった。
カーテンで区切られた狭い一角でしばらく茫然とAVのジャケットや裏ジャケを一人で眺めていると私は落ち着いてきた。
しかしながら私のお気に入りの朝河蘭ちゃんのコーナーが探しても探してもいっこうに見つからないので、どこにぶつける当てもない怒りが、ロウパワーが突如噴出し、心の中に渦巻いていった。
帰り道猛スピードでチャリンコをこぎながら海沿いの道にさしかかったその刹那、私は「蘭ちゃああああああああーーーーーーーーん!!」と思わず大声で叫んでいた。
そうだ蘭ちゃんは海なのだ。

24日目

基本的に私はチームプレイというものを信用しない。チームプレイが嫌いなわけではないのだが、チームプレイでうまくいったためしがないからだ。
何かを一緒にやろうと言われた時は、内側の不信感からオブジェクトに対していつも何か躊躇している自分がいる。
それでいて誘われた時はやっぱり嬉しい。自分にとって対人関係とはそんな微妙な感情と、人間が好きすぎるとも言い切れるし、嫌いであるとも言い切れるような不可解な胸の詰まりだ。
自然とか不自然とか考えてしまうことも、きっとそんな迷いも大きな自然の中の一部だ。
気にすることも気にしないことも両方自然なことだ。それを自然なのか自然でないのか分けているのは人間だけだ。
気詰まり。気詰まりになることが嫌になるから分けることで線引きをして平静を保つのだ。
私はトライする。イメージの共有を信じて再びトライする。
あそこにタッチダウンだ。

忘れっちまった悲しみに

アマガエルが一斉に鳴くと
見る間に地面が湿っていく
ヒグラシが一斉に鳴くと
太陽が山へ落ちていく
夕焼けのあぜ道を
自転車をこぎながらペテン師のテーマを唄う
学習塾の帰り道
忘れないだろう
化粧した視界ゼロの娘が街へ飛び出していった時のことを
忘れないだろう
額に異様なくらい大きな瘤があった老人のことを
忘れないだろう
ポケットに黄金飴を大量に詰め込んだろくでなしの兄ちゃんのことを
忘れないだろう
顔面がひび割れた音痴なストリートミュージシャンのことを
忘れないだろう
縁日で出会った老人の顔をした赤ん坊のことを
忘れないだろう
想像の中だけで美しい本当は顔のない姉貴のことを
忘れないだろう
白昼堂々ベランダの下着を切り裂いていった泥棒のことを
そして
殺せと命令される前に
それらの友人を殺していった残忍な蒼黒い獣の鳴き声も
決して忘れないだろう

23日目

とにかく学ぶ時は色んなものを見て学ぶ。色んなものを見て学ぶことはいいことだと言われて育ってきた。
私は今自分が見ようとする前に見えてきてしまうものが過剰であると感じる。見た後に考察する暇もなく次から次へとものがやってくる。そうなってくると自分がものを見てきたこの眼によって今度は自分がその眼で見られる側に立つことになるのだ。
今まで見る側に立っていたものが突然見られる側に立つことはそれは不安と戸惑いを隠しきれない。
自分の眼によってじわじわと精神が隅に追い詰められる。それがきっとslumpだ。
しかしslumpであることはきっと幸福なことだ。スケーターが次々とrampを華麗に越えていくようにslumpもやがて越えていくものだからだ。
自称オールドスクールの私は手を使ってそのrampをボンレスで越えていきたい。
こけてばかりのスケートが時々美しくrampを越えた時、私はその瞬間頭の中にマイルスデイビスのアイーダが流れる。

22日目

例えばミュージシャンの新譜が発売されたり映画の新作が発表されたりした時は宣伝というやつをなんらかの媒体で行うわけであるが、そこでよく耳にする言葉(ニュアンス)がある。
「見た人が感じたものがこの作品です。」
「何を感じるかは受け手の自由です。そんな作品です。」
私はそりゃぁ当たり前だと思うのと同時に少し疑問に感じる。
作品というものは創る側からすればそもそも創作というものの発端となるべき感情というものは、誰かに何かをうまく伝えたいという強い思いが発端の根幹であると思う。
それは意識的であれ無意識的であれ、芸術作品というものは表現したいから生まれたわけだ。表現したくないという表現だってあると思う。
文章だって音楽だってうまく、美しく、自分が満足できるように伝えたいから、真剣に言葉を選び、真剣に音を探り、熱く時にクールに想像の翼をばっさばっさと脳味噌フル回転で選び取って切り取っていくのだ。
そうやって出来上がった自分が最高と思える創作物に対して、受け手の自由だとか言うのは、ちょいと投げ槍すぎなんじゃないかと思う。或いは聖人気取りみたいにも思える。
建築物や食器のような即物的なモノを作る人々と違って所謂芸術作品と呼ばれるようなモノを生み出す類の人間は相当エゴイスティックだと思うし、そうあるべきだと思う。
それなのに受け手の自由なんて言っちゃうのはなんだかそこに大人の世界のshow biz的なものを感じずにはいられない。
要するに芸術に謙遜や建前はいらないわけで、そこに私は自身の自己矛盾によっていつも吐き気と眩暈に苦しむことになる。

21日目

全然シリアスでもないし、只の昔話だし、思い出話なのだが、友達がいない人間のヨタ話だと思って読む人は読んで欲しい。それも読もうとする人がいるならの話であるが・・・・。
こんな文章の始まり方でよいのだろうかと書く前に散々悩むわけであるが、バンジージャンプで尻込みしていると突然インストラクターの外人に背中を押されて谷底へ突き落とされるかのように、そういう気分で私は他人宛の文章というふものを書き始めるわけでありまするが、そこらへん文を書くモノとして少々不安ではあります。
昔、足が短くて小太りのギターリストが私の身近にいたわけですが、彼は少々コミカルなルックスでありながら、ルックスだけでは飽き足らぬかのやうにマシンガンのやうに冗談ばかり言って周りを笑わせているやうな人で、その日は新品のジーンズを履いて溜まり場にきたわけであります。
基本的に彼は寂しがりやなので、そのジーンズに関して誰かがそれに気付いて何か気の利いたことでも言ってあげられればよかったわけですが、他の人間ときたら私も含めて野面の阿呆ばかりなので、誰も何もその新品ジーンズに気付かずに時間は過ぎていきました。
痺れを切らした彼は
「このまえこのジーンズ買いに行ったんだよ。」
と自分から喋り始めました。
我々は阿呆なことの上に気を遣ったり、悪く言えばおべっかを使うといふことなんか知らない謂わばコンクリートジャングルの類人猿でして、まったく興味のない様子でその話の切り出しを上の空でタバコぷかぷかしながら聞いておりました。
「そしたらさぁ、ブーツカット買ったんだけどさぁ、丈詰めてもらったら、この通り普通のストレートになっちゃったよ!ほら!俺足短いからさ!」
その場は一気に大笑い。
さっきまでの一同の無表情は吹っ飛び、皆の目線がそのジーンズに注がれ笑い転げました。
・・・・・・・と、いふことをジョンスペンサーブルースエクスプロージョンという長ったらしい名前のやかましいアメ公バンドのこんぱくとでぃすくを聴いていたら思い出したわけであります。
私は一瞬思い出し笑いしたわけでありましたが、しばらくして彼が言ったセリフが嘘であることがわかりました。
なぜなら丈を詰める時には当然試着室で詰めるところまでピンで留めて鏡でしかとその姿を確認するわけですから、丈を詰めた後に
「あーれー?おかしいなー?ただのストレートじゃーん?」
なんてばかではないわけですから、詰めた後に気付くなんてそんなことになるはずがないわけです。
彼はどうしてもやっぱりジーンズについて何か一言欲しかったのでしょう。短足だって小太りだって一言の愛、気付きの愛、小さな愛が欲しかったのでしょう。
あの時私たちは皆寂しかった。
寂しいといふことに気付かないくらいに、寂しく寄り集まって孤独と夕闇をなんとかやり過ごしていた。
それはくっきりとした光の場がある者達の、ハレルヤの裏側の一つの真実でもあるような気がするのだ。

20日目

自分は今とても欲しいものがある。
それは何かというと「地球儀」だ。
だから自分は今とても後悔している。
なぜ子供の頃ファミコンなんか欲しがってしまったんだろう。
ファミコンなんて今はタダ同然のようにゴロゴロと転がっているし、誰もが知っているし、誰でもやれるし、誰でもやったことじゃないか。
なぜ自分は「欲しいものある?」と聞かれたら、「地球儀!」と即答できるようなかっこいい子供ではなかったんだろう。
自分は今ここから真っ直ぐ西に行ったら、海を越えて山を越えて、とにかくレーザービームのように直線的に西方に向かったら、自分は浄土に辿りつく事ができるのであろうか。
おかげで知ることができない。
かっこわるい少年時代のおかげで知ることができない。
地球儀がないおかげで浄土がどこにあるのか知らない。
私は知りたい。
地球儀でもって知りたい。
この足でもって、目でもって、皮膚の毛穴の細胞の一つ一つでもって知りたい。

話は変わるが天体望遠鏡も欲しい。
切に欲しいと望めば、手に入ったっておかしくない年頃であることに気付き、また愕然と後悔の海へ。
ずぶり ずぶり ずぶり

地下室のメロディー

バディーホリーは死んじゃったけど
シドヴィシャスは死んじゃったけど
エディコクランは死んじゃったけど
ブライアンジョーンズは死んじゃったけど
カートコバーンは死んじゃったけど
ジミヘンドリクスは死んじゃったけど
ポールコゾフは死んじゃったけど
ジャニスジョップリンは死んじゃったけど
ジムモリソンは死んじゃったけど
マークボランは死んじゃったけど
キースムーンは死んじゃったけど
ヴィヴプリンスは死んじゃったけど
ダニーハサウェイは死んじゃったけど
キースレルフは死んじゃったけど
ボンスコットは死んじゃったけど
フィルライノットは死んじゃったけど
ジョンボーナムは死んじゃったけど
ジャコパストリアスは死んじゃったけど
ボブマーレーは死んじゃったけど
ピータートッシュは死んじゃったけど
スティーヴィーレイボーンは死んじゃったけど
ジョニーサンダースは死んじゃったけど
ジョンコルトレーンは死んじゃったけど
エルヴィスプレスリーは死んじゃったけど
ジェリーガルシアは死んじゃったけど
フレディーマーキュリーは死んじゃったけど
ジョンレノンは死んじゃったけど
エディヘイゼルは死んじゃったけど
マーヴィンゲイは死んじゃったけど
フランクザッパは死んじゃったけど
コージーパウエルは死んじゃったけど
ジョーイラモーンは死んじゃったけど
ジョージハリスンは死んじゃったけど
好きなあいつは死んじゃったけど
今日も地下室のメロディーが
あの小さな通風孔を抜けて
夜のとばりを突き破る
それは小さな稲光
飛び交うスティック
手裏剣ピック
弾け飛ぶストリングス
人工的な七色の光を
エレキギターの光沢が反射して
革靴のエナメルが反射して
また違う光になって俺の目に飛び込んでくる
ウーハーの胎動が都会のコンクリートを揺らす
今日もジャミング
明日もジャミング
ライクアローリンストーンの俺たちは
またいつかライブハウスで出会う

19日目

例えば「人間は皆弱い」という言葉をよく耳にする。
このフレーズを耳にすると居酒屋で誰かがくそったれな人生観を得意気に語る声が聞こえてくる。
人間が皆弱いとするならば、人間の強いとか弱いという意識を決定付けているのは一体なんなのか。
私はそれは強がりなんだと思う。正確に言えば他人に強がりと悟られることのない強がりなのだと思う。
「暴かれることのない強がり」がその人を他人から「強い」と意識させているのではないかとおもうわけだ。
強がりというのは要するに我慢だ。何をされても動じない。絶体絶命のピンチだって眉一つ動かさない。恐怖に耐える我慢だ。
「我慢は体に毒だよ」というフレーズをよく耳にする。
我慢や強がりの反対はきっと「甘え」だ。
「いつまでも甘えてるんじゃない」というフレーズをよく耳にする。
「我慢しろ、もっと強くなれ。」と言われたり、「我慢は体に毒だからたまには甘えていいんだよ。」と言われたりして、人間は馬のようにムチで打たれ、時には甘い人参を食べながら生きていく。
人参をあげるモノも、ムチで打つモノも、同じようにムチで打たれ、人参を貰って生きていく。
絶対に暴かれることのない強がりとは、鞭もいらぬ飴もいらぬと全てを捨てて、柵の向こう側に流星のようにかけていく馬のことだ。
しかしながら私は、群れの中の最後尾をのろのろと歩くように走るデブ馬になりたい。
柵の向こうにかけていく筋骨逞しい馬を、私は列の最後尾から今はじぃっとそいつを見つめていたい。
群れから聞こえてくる「もっとはやく走れよ、頑張れよ。」なんて心無い応援なんか聞こえないくらいに、今はあいつだけを見つめていたい。

18日目

最近手淫をした後のぼーっとした脳髄で思うことは、女性の自慰はどこを区切りにして終わるのかということだ。
男の自慰には射精という一つの大きな区切りがあり、皆その一点に向かって一丸となってエネルギーを放出し、果てる。
それはごく当たり前のことであり、物事の終わりには区切りが必須であるわけで、どう考えても自然なことだ。
しかし、女性の場合どうだろう。彼女達は何かを放出して終わるということではなく、なにも放出しないわけではないが、放出するモノは全て行為の過程において放出されるものであり、終点の放出物ではない。
しかしどうやらイクという感覚はあるようだ。
しかしそれが男性のイクという感覚と一致するかどうかは疑わしい。言葉は同じであるが、少し異質のものであると考えたほうがよさそうだ。
もし男性が子供を産んだ場合、男性はその衝撃に耐え切れず、気絶もしくは絶命してしまうということを聞いたことがある。
女性がそれだけの強力無比な衝撃に耐え切れるというということは、女性がイクという感覚は男性のイクという感覚を遥かに凌駕超越していると予想できる。

「女性は素晴らしい。」

結局そう結論付けて私は眠りに落ちる。
しかし男の手淫というやつは、結局はそんな虚妄にたいして射精しているわけである。
真実がつまらないということは、私は当たっていると思う。しかし、私はいつも真実を知りたがる。
真実がどうしても私の手に届かない遠い所にある事実を知ると、今度は真実を想像によって補おうとする。
よって、限りなく真実に近い想像をすることが恋なのであり、それを、人は恋に恋していると言うのであろう。
やはり想像の起爆剤はリビドーであるべきだし、想像というのはエロスであると私はそう思う。
タナトスの想像・・・・・・認めたくないものだ。
しかしそれとこれとが表裏一体になっていることも私は充分理解している。
しかし全ての事象においてそんなふうに表裏一体を認めたら、それはのっぺりとした平面的で静的なつまらない世界だろう。
結局そんな世界にはエロスもタナトスもないのだろう。
なぜなら私は生という一つの揺るぎない地表に立ってこの文章を書いているからだ。
しかしそんなこと宣言するほどのことでもない。
いや、問題はそんなことではない。問題は女性のオナニーである。
女性のオナニーの区切りが今の私の問題だ。