18日目 | 人間の屑

18日目

最近手淫をした後のぼーっとした脳髄で思うことは、女性の自慰はどこを区切りにして終わるのかということだ。
男の自慰には射精という一つの大きな区切りがあり、皆その一点に向かって一丸となってエネルギーを放出し、果てる。
それはごく当たり前のことであり、物事の終わりには区切りが必須であるわけで、どう考えても自然なことだ。
しかし、女性の場合どうだろう。彼女達は何かを放出して終わるということではなく、なにも放出しないわけではないが、放出するモノは全て行為の過程において放出されるものであり、終点の放出物ではない。
しかしどうやらイクという感覚はあるようだ。
しかしそれが男性のイクという感覚と一致するかどうかは疑わしい。言葉は同じであるが、少し異質のものであると考えたほうがよさそうだ。
もし男性が子供を産んだ場合、男性はその衝撃に耐え切れず、気絶もしくは絶命してしまうということを聞いたことがある。
女性がそれだけの強力無比な衝撃に耐え切れるというということは、女性がイクという感覚は男性のイクという感覚を遥かに凌駕超越していると予想できる。

「女性は素晴らしい。」

結局そう結論付けて私は眠りに落ちる。
しかし男の手淫というやつは、結局はそんな虚妄にたいして射精しているわけである。
真実がつまらないということは、私は当たっていると思う。しかし、私はいつも真実を知りたがる。
真実がどうしても私の手に届かない遠い所にある事実を知ると、今度は真実を想像によって補おうとする。
よって、限りなく真実に近い想像をすることが恋なのであり、それを、人は恋に恋していると言うのであろう。
やはり想像の起爆剤はリビドーであるべきだし、想像というのはエロスであると私はそう思う。
タナトスの想像・・・・・・認めたくないものだ。
しかしそれとこれとが表裏一体になっていることも私は充分理解している。
しかし全ての事象においてそんなふうに表裏一体を認めたら、それはのっぺりとした平面的で静的なつまらない世界だろう。
結局そんな世界にはエロスもタナトスもないのだろう。
なぜなら私は生という一つの揺るぎない地表に立ってこの文章を書いているからだ。
しかしそんなこと宣言するほどのことでもない。
いや、問題はそんなことではない。問題は女性のオナニーである。
女性のオナニーの区切りが今の私の問題だ。