今日は、保護者や学校の先生がなかなか理解できない「発達障害の子の思考・認識」の一つについて書いてみようと思います。

 

発達障害の子供は、定型の子供と同様にいろんな感覚や認知が発達します。ただその発達の過程には、「発達障害の子供が理解できる」学習や説明、教えが必要になります。

 

つまり、大人と発達障害の子供の認識に「ズレ」があると、どんなに頑張って大人が教えても、どんなに発達障害の子供が頑張って真面目に聞いたとしても、「認識がずれている」ので実は理解できないまま、ということが起こってきます。

 

そうすると認知の部分が成長が遅れたり伸びないので、社会性がつかない状態のままだったり、対人関係のために必要な常識やマナーが備わらずトンチンカンなことを繰り返したり、まじめで二次障害になるぐらい悩んでいるのに、現実世界ではズレまくってやっていけない、ということになる場合だってあります。

 

ここで言いたいのは、発達障害の子供の成長を促していくのに一番良い、効果のある方法は、「発達障害の子供の考えかた、受け取り方、認知の仕方を大人が知って、その独特の特徴を上手く利用して教えていく」方法です。

 

極端に言うと、

 

・定型の大人が自分の生きてきた知識や経験だけで、発達障害の子供に語ると、それは通じません。

 

・定型の大人が、社会で生きているノウハウを、発達障害の子供に「ストレートに説明する」だけでは、その子供の「特徴に合わせた」説明でない場合は、知らぬ外国語を聞くのと同じ効果しかありません(つまり理解できない)。

 

ということが、たびたび起こりうるのが発達障害の子供の育児に見られる現象です。なぜ、お医者さんが早期療育を推進するかというと、家庭で親だけでは補えない部分を療育の場で補うか、教育者となる親が、「発達障害の子供の取り扱い」に慣れるようにするためだと思います。

 

ただ、療育に通っていればいいのではなく、おそらく勉強会や説明会の案内や、自閉や発達障害についての情報やパンフレットも提供されるでしょう。それらがなぜ必要なのか、と言えば「子供が理解できるような育児を、子供に身近な大人ができるように」と期待してのことだと思います。

 

ここまでが今日の記事の説明となりますが、お題にした

 

「相手の気持ちを考えなさい」と言われると「自分の気持ち」に戻る発達障害の子。

 

という一つの具体例を出して、この説明をより具体的に肉付けしていこうと思います。定型の親が定型の子供をしつける場合、それは「同じ考え方、思考、感じ方が土台にある」ことを意味します。大人の感じ方は、子供のころからそれほど変わらず、嬉しい、悲しい、辛いという経験が自分の子供にも同じ用に通じるわけです。

 

ですので、親は子の気持ちを自分の経験から予測して慰めることもできますし、悪いことをした際には良心を刺激して反省さえることもできます。人をいじめたり、嫌なことをしたときでも「相手が嫌がっている」=「自分も同じような経験がある」、と言う風に置き換えられるのは、似たような思考、感じ方を相手も持っている、と自然と信じていることが土台となっています。

 

そして、発達障害の子供の場合です。

 

たまに、自分の発達障害の子供から、「ええ??」っと思う言葉を聞いたことがありませんか。

 

・ 「一人が好きだから、逆に遊ぼうと誘われるとうざい。嫌。」(他人と交わらずいつも孤立しているのを心配して、友達をどう作っていくかを教えようとしたとき)

 

・ 「別に自分は嫌だと思わないし、平気。」(他人に嫌なことをしたのを叱ったとき)

 

・ 「なんでそんなことでいちいち怒るの?どうでもいいじゃん。」(子供の言動を叱ったとき)

 

・ 「なんでそんなに感情的なの?また買えばいいじゃない。」(大事な思い出の品物を壊された、または壊したときなど)

 

これは一例ですが、よくある、「あるある」だと思っています。定型の大人が思いもよらない考え方、思考回路、感じ方で、発達障害の子どもは世界を見たり感じたりしています。

 

 

では、この一つ一つに、親族の大人たちはどう説明していくでしょうか。

 

それは、「その子にしかない特徴を上手く使って説明をしていく。子供の利点、利益になる話をする」のが基本です。親が話したい、教えたい内容を延々と話しても、子供が「自分とは関係ない、自分にはメリットがないな」と感じれば、馬に念仏状態になります。

 

例えば、最近、幼稚園児の親族の子と母親の間で交わされた話を抜粋してみます。

 

・ 「一人が好きだから、逆に遊ぼうと誘われるとうざい。嫌。」

 

と言って、延々と砂場で一人で型抜きをする子、お友達が側にいるのを「じゃま」と嫌がる、お山にトンネルを作ろう!とさそってくれる子を「やりたくない」と無視する。大人の目には「協調性がない、人を寄せ付けない子」とでも見えます。

 

親は、それがダメとは言いません。一人で好きなことをするのは自由な遊び時間の権利です。ですので一人で遊ぶことを否定しません。ですが、親が教えていきたいのは

 

「他人を邪魔と考える思考」

 

「他人を邪険にする閉じたふるまい」

 

この2点を、社会で受け入れられる言動にしていくこと、です。この児童に足らないのは「視野」であり、「ここはどこか」というそもそもの基本です。一人遊びを好きにしていいのですが、「小集団である幼稚園で」一人遊びをしている、ということを忘れてはいけません。そこを、親は思い出させてあげます。

 

「〇〇くん、家でお砂遊びをしているわけじゃないよ。ここは幼稚園の砂場だよ。幼稚園の砂場は幼稚園の先生のもので、子供全員に貸してくれているんだよ。あなたが「邪魔だ」と思うように、他の子も「邪魔だ」と言い始めたら、全員が邪魔だ、邪魔だ、と言いあって誰も遊べなくなる。先生が砂場を誰にも貸してくれなくなるよ。

 

幼稚園のお砂場で好きな遊びをしたいなら、他の子と同じように「貸してもらってる」と思って使いましょう。使わせてもらってありがとう、と思いましょう。たくさんの子が遊ぶから、ぶつかったり使いにくいこともあります。それが気になるときは、人が少なくなる時を待って遊びましょう。人が多いときでも遊びたい気持ちが強いなら、そこにいるみんなが動きにくいけど頑張ってぶつからないようにしながら遊んでいるので、あなたもぶつからないように工夫しながら、遊んでみましょう。それもいやなら、ここは幼稚園のお砂場なので、あなたの自由に遊べないから幼稚園でお砂場遊びはしません。家で、一人で好きなようにお砂場遊びをしましょう。」

 

という風に説明していました。「幼稚園の砂場、幼稚園児みんなの砂場」「みんなが同じことを守る、同じことを我慢する」「貸してもらう」というキーワードは、この子に理解できる言葉なのです。その理解できるキーワードをメインに説明していけば、ありがとう、を理解することもできますし、「みんな=自分だけじゃない」と被害妄想も出ません。つまり、「貸してもらうには守らないといけない条件がある」という積み重ねのしつけが、幼稚園では生きてきます。

 

逆に、家庭で「公園」や「テレビ」を使う時は「みんなのもの」だから、自分が使うには条件がある、その条件とはルールである、という内容を学べていないと、幼稚園の砂場でもワンマン遊びになり、貸してもらっている、とかそもそも幼稚園の砂場だ、みんなのもの、つまり自分だけのものじゃない、何かルールがあるんだ、という概念にたどり着きません。大人が家庭で家族という少人数の集団社会の中で教えていくといいのは、こうした「規律やルール、人が共通して守る条件のようなもの」です。それが幼稚園という大集団になった時に生きてきます。

 

この家庭での親子1対1であっても、親しき中にも礼儀あり、自分の好き勝手が社会(家族全員、家庭全体)では通用しない、を小さいころから丁寧に指導していると、幼稚園で「うるさい環境で自閉が強く出て、意識が閉じてしまう」場面でも、「いつものルールよ」の一言で、規則や規律、決まったことが安心につながりやすい発達障害の子供は平常心を取り戻し、適切な言動ができることも増えます。

 

それが、「邪魔」とか「無視」をする部分にも影響を与えます。

 

「幼稚園は、一緒に遊べるように子供が集まっているのよ。お砂場でも一緒に遊ぼうとさそわれるのは、皆で遊ぶために集まっている幼稚園のお砂場だからよ。でも幼稚園は、1人で遊びたいときは、ちゃんと相手に説明すれば一人で遊んでいいことになっているのよ。だから、今日は一人で遊びたい時は、あそぼ、と子供たちに誘われたら『今日はやめとく』とか、『今日はやりたいことがあるからごめんね』って断ればいいんだよ」

 

(注:「お友達にさそわれたら」ではなく「子供にさそわれたら」と説明したのは、この子の中では「お友達=自分が好きな子」なので、お友達、という言葉を使うと一般的な説明が通らないためです)

 

と伝えておけば、壊れたレコードのように、いつもいつも「今日はやめとく」「今日はやりたいことがあるからごめん」と、相手の子の方を見たりはしませんが、とりあえず、「一人にしておいてくれる・放っておいてくれる魔法の言葉」を言うようになります。

 

これと根っこが同じ考え方で、平然と悪びれず発達障害の子が言いがちな

 

「別に自分や嫌だと思わないし、平気。」

 

という場面でも、同じ理屈が使えます。この発達障害の子供と共にいて、嫌な思いをした、という相手がいたのなら、それが兄弟であれ、学校の同級生であれ、そこは「集団社会の場所」であることを思い出させてあげないといけません。つまり、自分の部屋ではなく、他の家族と一緒にいるリビングという「共有の場所(小集団の場所)」であったり、学校という大集団の場所である、ということです。

 

その場所では、必ず規則やルールがあるものです。家だと、例えば自分が飲んだコップは自分でキッチンに持って行くとか、お盆の上にのせておくなど、家庭ルールがあるでしょう。兄弟だと、兄弟の関係を良好に保つために親が基本ルールを決めていることも多いのではと思います。例えば「お互いの所有物には名前を書いてあり、それを使いたい時は所有者の兄弟に許可を得てから借りる」などです。勝手に使わせないための基本ルールがちゃんと家庭で説明されていれば、ルールを前提に「してはいけないこと」を改めて思い出させるだけでいいので、

 

「勝手にお兄ちゃんのおもちゃをつかって壊して!あなただって、自分のものを勝手に使われたらいやでしょう!それで壊されたら、腹が立つでしょう!人が嫌がることをしないの!」

 

という「相手の気持ち論」で説明されても、物に執着がない子だと「別に?どうでもいいし。壊れたら僕のせいじゃないから、弁償するのは当然だし、弁償してくれたら新しいのがゲットできるから僕なら壊されたら嬉しいけど?」

 

と、とんでもない持論でかわされてしまいます。

発達障害の子供の思考や感じ方は、定型の親の考えるより斜め上を行きますので、「気持ち論」で諭すのは空振りが多いですし、通じないことが多くなります。

 

それを「お兄ちゃんの物を使いたいときは許可を取るルールよね。ルールを破ったのだから悪いのはあなた。まず謝って、次回からはきちんと許可を取るとお兄ちゃんに宣言しなさい。それか謝れないけど、二度と貸してもらわない、と宣言しましょう。その約束を破ったらどうするかは、お兄ちゃんと決めなさい。それと弁償するために自分のお小遣いをいくら出すのかも考えなさい。」

 

と、ルールを破り、自分勝手に好きなことをすると、それはデメリットになる・・・という結果になるので、「貸して」と言って許可さえとればメリットになりデメリットにはならない、というその1点で、規則性を守ろうという風に行動が変わっていきます。(ただこの過程もあっさりできる子と、感情が邪魔をして適切な言動ができるようになるまで年数がかかる子がいます)

 

こうした、家庭内のルールが育ち、学校の「集団ルール」にまで応用できるようになってくれば、そのルールを基本に置いて説明をすることができるようになり、

 

「なんでそんなことでいちいち怒るの?どうでもいいじゃん。」

 

「なんでそんなに感情的なの?また買えばいいじゃない。」

 

というような言動はどんどん減っていきます。集団では共通のルールがある、それを破ると損をするのは自分であり、謝らないといけなくなるのもルールを破った方の自分になる、という思考が出来上がっていきます。

 

「気持ち論」は、特に乳幼児期や児童期の発達障害の子には「大人が気分で感情的にわあわあ言っているだけ」と言う風に、うるさい雑音のように聞こえる場合も多いので、大人が大人げないとか、冷静な子供の自分が上に見えて、わあわあ言う大人が下に見え、ますます自分が正しいように思いこむこともありますから、気もち論を一生懸命、言い聞かせることは逆効果なのでやめたほうがいい、と感じています。

 

興味深いことに、逆に発達障害の子が「気持ちをわかってくれない!」と感情論でわあわあいうことは常にあります。泣いて騒いで癇癪を起こしているその子の姿こそが、発達障害の子供が、感情論で説明してくる大人の姿、として見ているのだと考えてみるとちょうどいいかもしれません。

 

どちらにしろ、発達障害の子供に「相手の気持ちを理解させる」つもりでいたところ、「自分は気にしない」「自分は嬉しいけど」と、その子独特の感性と感じ方、考え方でとらえてしまうだけで、つまり題名にした「自分の気持ちに戻る」、その発達障害の子供の感じ方や考え方に戻すだけで、定型の人間の感じていることや考えていることからどんどん遠ざけてしまうだけなので、その説明の方法は通じないことが多い、と思います。

 

なかなか説明が難しいのですが、発達障害の子の不思議が一つでも解読できる手立てになればと思い、書いてみました。

 

 

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