発達障害の子供たちの親は、子供の進路について幼少のころから気になり常に頭のどこかに「進路をどうするか」ということを考えてしまうことが多いと思います。今日はその「進路を考える」という道を、「定型の一般的な」線路の上に乗せること、「普通の道」を歩ませること、が難しいタイプの子にどう「その子、個人の成長に見合った」進路を見つけることができるか、また、子供のキャパシティーを超えて大人の要求が多大になることなく、子の発達凸凹で本人自身がまかなえる範囲で無理をさせず、けれど子供自身が満足し「人生を楽しめる」ような道にできるか、ということの一つのアイデアとして、実例を書きたいと思います。

 

この子は早期に発達障害である、と診断されたタイプの子です。

 

まず、「何も上手くやれない」というのがこの子の赤ちゃんから乳児時代の印象だ、と親は言います。母乳を飲むことが上手ではなく、母親が母乳を上手くあげられるように何度も産院で指導されるようなスタートでした。物事を訴えることも下手なようで、常にふえー、ふえーと泣いていて、泣かずにいることがないのです。不満ばかり・不快ばかりで泣いているのか、ただの赤ちゃんの泣きが多いタイプなのかもわからない感じでした。

 

布団に寝かせようとすれば泣き、湯あみをしようとすれば泣き、おむつを替えてさっぱりしてあげようとしても泣く、替えた後も泣いている、散歩させても顔に皺を寄せて泣く、「この子、楽しいことってないのかしら?」と思うほどに不幸を背負って生まれてきたような悲しく泣いてばかりの赤ちゃんでした。

 

当然、生まれてから定期的に受ける健診でも、ずっと泣いていて保健師さんが預かってみても、検診中もずーーーっと泣いているので、心理相談の方にもまわされました。心配な子として要観察となり、2歳になるころまでには発達に凸凹がある子だと診断されたわけです。療育にまわされ、親子で通いました。幼稚園という選択肢がない、ということが父親にはショックなようでしたが、赤ちゃんの頃からの様子で親の自分たちも「どう扱っていいかわからない」状態の子でしたので、専門家のアドバイスにそってみようということになりました。

 

療育園でも最初は泣いて、個人的に先生が話しかけると泣きが激しくなる有様です。あまり自分が何をするのか、ここはどういう場所なのかもわからない様子でパニックしたようです。ですが療育園は発達障害の子達が過ごしやすいように建物の中が構造化されており、トイレも使いやすいようにアレンジされていたり、部屋もすっきりと構造化されていて、指導する先生方も子供の扱いに慣れているようでした。

 

療育園に通うことは親の方が落ち着く時間をもらった、と言います。親2人で悩んでぐるぐるするのではなく、療育園では自分の子供と似たタイプのお子さんを何人も扱ったことのある先生方が、子供の行動はどういうことなのか、どんな風にすれば落ち着くのか、などを知ることができました。見ていても自分たち親とは「何か」が違うので、子供の行動も「何か」違う風になり、それは新しい発見でした。

 

療育園で過ごす間に泣く時間が減っていき、あまり言葉を話しませんが「その場にいる」ということができるようになり、他害などもないので「そろそろ、外の社会にデビューしてみてもいいかも」と言われるようになりました。だからといって、幼稚園は無理そうでした。快活で活発な言動をし、いろいろなことにチャレンジができ笑顔で輝いているような子達の中で過ごすわが子は、容易に想像できました。「他の子と明らかに違う子」として目立つだろう、ということです。それが本人にとって幸せなことなのか、考えても答えは出ませんでした。

 

たまに、近くの大きな公園に小型バスの車で遊びに来る小さい子達を見かけることがありました。バスには保育園の名前と、電話番号が書いてありました。公園で何回か出会ったときに、子供が泣かなかったこと、その園の子達が近くで遊んでいても不安そうに泣いていなかったことから、調べてみることにしました。無認可の保育園で、とても小さい園でした。赤ちゃんもあわせて預かりは20人ぐらいしかいません。

 

でも、いろんな遊びを毎日、日替わりでしているようで、ゆるく遊びながら過ごすのなら大丈夫かも、とアタックしてみました。電話で話し、子供を連れて見学し、本人も泣かずに親についてきて部屋にいることができたので、次の日に2時間だけ預けてみました。親は外で待ちました。色んな大きさの豆をスプーンや箸で器に入れる遊びをしていて、それが良かったのか、大人しく子供たちにまざって黙々と豆ひろいをしました。この子は、それからこの園に週に2回通い、次の月は3回、次の月は4回、と増やしていきました。最終的には土曜日も含め、週6日も通うことがありました。明らかに「嫌がっていない、設定保育は楽しみにしている」様子が見られたからです。

 

保育園は規則正しいワンパターンな生活を繰り返します。いろんな遊びを取り入れて室内遊びや散歩、夏に水遊びをしたりお楽しみもありますが、基本は朝早くから園に来て挨拶をし、設定保育、昼ご飯、お昼寝、午後の遊び、帰宅、というパターンを繰り返します。子供の人数がいる分だけ、「パターン化」されていることが多いので、そのパターンに乗ることで上手く過ごせるようでした。良くも悪くも「生活をすること」が実につき、余裕が出てきたのか、家では興味のなかったテレビを見始めたり、全く読み聞かせも通用しなかったのに絵本を自分で本棚から取り出して読む素振りを見せたり、行動に変化が出てきました。

 

そうこうしているうちに、たまたま発達相談先の主治医との定期面談の待合室で見かけた小学生の子が、制服を着ていました。自分の子供と並んで座りましたが、お互いに存在には気が付いているものの、口をつぐんで、居心地悪そうな感じで時間が過ぎていく・・・という「似たタイプの子だな」と感じました。その子のお母さんと少し話をしたところ、私立の小学校のようでした。公立に進まなかったのは、集団登校が無理だから・・・泣いて動きそうにないから・・・そもそも、何度も相談に行ったときに校舎に入ってくれなかったから・・・どこでもいいから「1年生になってくれたら」と思って色んなところに出かけて、やっと足を入れた所がその学校だったから・・・ということでした。

 

自分の子供も、ある場所に直感で不安を抱いて泣きだすと、テコでも動かず、無理に連れて建物に入ろうとすると絶叫するような子なので理解できました。親がどうこうできるものでもなく、直感で泣き叫ぶのです。保育園のように「いられる場所」だと大人しくずっと過ごせますが、ダメな場所だと泣きわめいて何もできない状態になるので、そのお母さんの言われていることがよくわかる内容でした。親が無力だ、と感じる瞬間を何度も経験してきたからです。同じく、地域の進学予定の小学校には立ち入ることができていませんでした。泣いて門前でしゃがみこんでどうにもならず、を何度も経験していました。

 

無口で、受け身で、大人しいけれど場所をはずすと泣き喚く怪獣になる・・・そんな子が小学校へ行けるのだろうか?色んな不安を抱えて保育園時代を過ごしました。ここからは親の希望で紆余曲折したいろんな小学校とのやり取りを割愛します。結果的に、近所の小学校へは進学できず、保育園の時のように「だまってそこにいることができた」「常に、面接すら無口でもOKしてくれた」私立の小学校へ通うことになりました。

 

小学校へは行き帰り、親が車で送迎していました。小学校3年生から、自分で行くと言ってバスで通いました。放課後、学校に残って学内の習い事をしたいから迎えに来なくていいと親の送迎を断りました。学校でも無口で大人しくしゃべらない子が、少しずつ話すようになり、少ないながらにお友達的な子もいて毎日を無難に過ごしているようでした。学習はついていけないところは同じような子達が集められてテストの後に補習を受けており、何とか理解するまでフォローしてもらって、ゆっくりなタイプで抜けもありますが、可もなく不可もない状態でした。

 

高学年になると、中学受験のために子供たちは受験体制になり、子どももつられて学習レベルが上がるにつれて、家でじっとノートや本を見ていることが増えて行きました。そして「塾へ行きたい」というので、何か所か見学し、少し求められるレベルは高いけれど、とてもシステマティックに子どもにやらせたいこと、求めることがはっきりしている塾を「ここにする」と決めて、通い始めました。

 

塾に入ってからは学習にうちこみ、進路を「公立の中高一貫校」にしぼりました。これは塾の先生のすすめがあったのと、進路希望先のコースや学習方法、内容が「子供の興味・嗜好にぴったり合っている」ということで、本人の興味の範疇から他校はかすむため、そこが最適では、ということでした。

 

親の不安は、この時点でずいぶん払拭されていました。小学校の穏やかな生活の中で、少しずつ子供が「強くなっている」という実感があったからです。少しのことで家でしくしく泣いていたこともあった1年生の頃から、毎年、性質が少しずつ変化していくのがわかりました。弱弱しい軟弱な印象が、落ち着いた大人しい子になり、少し興味あることに頑固な子になり、受け身な子が自分の興味に突き動かされて自主的に何かをする、ということが増えて行ったのです。

 

そのため受験して公立の中高校へすすむと本人が決めた時も、「興味に突き動かされて」頑固な状態なので、やれるかもしれない、と感じました。家で自分で学習するようになったのも、塾に行くようになったのも、それが続いたのも、本人がその時、その時に同級生から聞いたりして、自分と似たような子がどうやってるか、を知る事で考えたようなのです。

 

「〇〇ちゃん、テストで最低点だった。とうとう、家庭教師が来ることになったんだって。」とか

「テストで最高点が〇〇くんだった。最低点が〇〇点。自分は最低より少し上。できなかった。〇点以下の子はみんな補習だって。」

「〇〇ちゃん、塾に行ってるんだって。このままだと、どの中学を受けても落ちるからって言ってた。自分もそう思うから塾に行きたい。」

「〇〇ちゃん、将来は〇〇になるんだって。大学で〇〇の資格取らないといけないって言ってた。だから中学は〇〇に行きたいって。」

「みんな、やりたい仕事が決まってるみたい。自分は〇〇。」

「自分は〇〇の仕事と、〇〇の仕事と、〇〇の仕事は興味ある。いっぱい仕事あるから、選べない。もう少し後で選ぶ。」

 

など、学校のことなど何一つ自分から話さず、同級生の名前もよく覚えておらず、な低学年時代だったのが、高学年になるとよくしゃべるクラスメート達からの耳情報からの話題が急激に増えて、勉強の話や将来の仕事の話がどんどん増えていきました。日常生活が勉強一色になりそうな勢いで、学校でもテストや勉強の話題が多く、本人はそれが話題的にも「理解できる、同級生と普通につながっていられる」自然な流れだったようで、いつのまにか会話できるようになっていたようです。親から見て「楽しそう」だと感じたのは、このころが初めてだそうです。

 

そんな感じで子供は大きく変化していましたので、「興味のないところに進ませてまた受け身に戻ったら困る。そんな進路を進めても後で無気力になられても、親は責任を取れない。」「中学に入ってすぐに高校受験だ、とあくせくしないのは安定志向の子供に向いているかも」と、進路について了解し、小学校の先生との懇談でも問題ないと確認し、その後は受験して合格、入学となりました。小学校生活でパターン化したノートの取り方、勉強の仕方、テスト前の学習、テスト後の補習の必要性などは中学、高校に行ってから大いに役立った、と本人は言います。

 

中高校は良くも悪くも、自分でパターンを持っていないと対応できない環境です。学校が親切に「こんな風にノートを取り、こんな風にテスト前勉強をして、こんな対策をして・・・」と手鳥足取りの指導はしてくれません。学習内容がくっきり・はっきりと「科目」で分かれ、先生も専任性なので個性があります。子供は小学校時代にパターン化した学習の仕方で、どの科目にも同じようにアプローチし、ついていけない科目は「塾で補う」と小学校同様の勉強のパターンを踏襲していきました。高校は学習範囲が広いので手一杯なようでしたが、「学校の勉強にとにかくついていく」ことをだいぶ頑張ったようです。

 

高校で一番困ったのが「覚えにくいこと」が増えたため、1年生で習ったことを、ずっと2年生、3年生になっても「何度も何度も繰り返し読んだり解いたりしないとすぐ忘れる」ことだそうです。毎日の勉強の前後に、1年生から習ったことを、何度もやり直す作業が必須だったそうです。「新しいことを覚えると、古い覚えていたことがこぼれていく感覚」だそうで、どんどん消えていく、その記憶をとどめるための「反復学習」の苦労が一番、疲れるし時間もかかるし、自分はどんくさいな、と思う点だそうです。それでもやらないと「きれいさっぱり忘れていくこともある」そうで、忘れる前に反復学習をしないとまずいのだそうです。

 

この特性ともいえる「反復学習が多大に必要」なため、高校受験の勉強にあくせくせず、また大学受験の勉強のためにあくせくせずに済んだ中間一貫校への進路や、学校の日々の学習の取り組みにだけに集中して、とにかくパターン化してでも過ごせたことで、無理なく激しい受験戦争に振り回されず、この子の成長のカギである「日々の安定」を追求できたことは大きかったです。

 

日々の授業をこなすこと=安定を最優先にした結果、大学は学校の推薦枠を使って進学できました。大学は「テストに持ち込みができるから、今までよりだいぶ楽」だそうです。たくさんの生徒がいるようですが「顔があんまり覚えられない」のだそうで、同じ人としか話さない、それで困らない、とのことです。大学は規模が大きいですが、聞く場所は学習のことは先生、単位のことはどこどこ、って決まってるから不自由はない、とのことでした。

 

振り返って、それぞれの家族の感想を書いておきます。

 

本人は「あんまり子供のころのことは覚えていない」のだそうで、記憶があるのが小学校途中ぐらいからだそうです。よく覚えているのが小学校高学年のことで、それからは少し頭がぼーっとした感じで「中学・高校は人も多いし学習科目も多いし、とにかく情報量が多かったからか、あんまり友達のこととかも覚えてない。学校に通ってたなぁ、というぐらい。」ということで、一番自分が満足しているのが小学校高学年の記憶で、とにかくその頃の自分のパターンを今でも使っている、とのこと。

 

例えば、できることは放っておく、できないこと(特に学習)だけ「できるようになる何か」を使ってやること。塾を使うとか、補習に参加するとか、先生やクラスメートに個人的に教えてもらうとか。LINEが使えなかったらCメールで対応してもらうとか(大学の友達はみんなLINEで自分は使いこなせないツールだから)、大学のシステムとか勉強の仕方がわからなかったらチューター(新入り大学生のための先輩大学生の個人相談者のようなもの)に聞いてどれはどうする、というパターンを聞いてからやること、とかです。小学校生活でだいたい、その辺の「何かを利用してやれるようにする」ノウハウをもらった気がする、とのこと。

 

親2人の感想は、「いろんな場所のいろんな先生、同級生とその環境に育ててもらった。いろんな、親がまかなえない広範囲なことを、療育園や保育園、小学校、塾、中高校でまかなってもらった。」と、ただただ、感謝だそうです。そこに子供がいるだけで、パターンが身についていくのがわかった、その大事なスタートが療育園だった。療育園で学んだ最初の大事なことは、「子供が受け入れられるパターン」があるのだ、ということ。その秘訣を知ったので、そこから逸脱する(=場所・環境を考慮しない)とパニックしてこの世の終わりというぐらいに号泣する子が、泣かずに過ごせる場所を探すことで、その後の進路が自動的に決められていった。子供の直感で「ここはいや=泣く」「ここならいい=無言」という表現があったからこそ、そこを絶対視して動いてきてよかった。とまどうことが多くて困る状態も多かったけど、無事に元気に成長してくれてよかった。

 

以上です。

 

もらったレポートのようなものを見ながら書いたので、いつもより成育歴の羅列のようになってしまっていると思いますが、こうした特殊な経歴こそが「発達凸凹がある子」が進む、定番なのじゃないかな、と思いましたので取り上げてみました。発達障害の子の「定番」というのは、定型の人の歩む進路と「ちょっと違う」ことが多い、という意味です。定型の人の歩む道をすんなり行く子の方が少数です。親族を見ても、何らかの形で、定型の歩む定番の幼稚園→公立小中高→大学→就職活動→社会人、という大きな流れ、普通と呼ばれる道とは違う部分を歩んでいる経歴がある人間がほとんどですので。

 

ちなみに、この子は冬は「一人でやりたいことがある」から帰省しないそうです。お友達と出かけることでもなく、ですが外にあちこち出かける必要はあるみたいです。大学の学部にも関係あるようですが、結局のところ趣味・興味の追究を一人で楽しむようです。このゆるぎないマイペースさは、今後の彼の自立の強みだと思います。

 

 


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