ブログ記事を書いていると、親族一同がよほど平和主義で、穏やかで、いつも何でも子どもの様子を観察してのちのち、それをネタに説明をしているような印象を与えているようですが、当たり前ですが365日そのように穏やかな対応をしているわけではありません。


今日は厳しい点にも言及してみたいと思います。


厳しい、と言っても、大声で威嚇するように叱るとか、殴るとか、大人の威厳をふりかざして子どもを罵倒するとか、そうしたことはしないです。それは「大人を武器とした」最も弱いものを従わせるのに簡単である意味卑怯な手ですので、やっていて気持ちのいいものでもないですし、親である自分の質が子どもからいずれ疑われ軽蔑されるだろう言動ですので、わざわざ自分を落とすような行為はしたくありません。


ではなにをもって「厳しい」と言うのか、ですが、言われたくないようなことを、率直に言われる、という点でしょうか。子どもには、言われたくないことというのが結構あります。それが


自分の弱さ


自分の隠したい劣等感


自分がごまかしている点


などであれば、なおさら、大人には指摘されたくないですし、また人に知られたくないことでもあります。


親族達は、いつもそうした部分を暴くわけではありません。ですが、1年に1回か2回は、直接的にこの点をついて指導することはあります。


例えば、気長に忘れ物をしないように親子で取り組んでいるとき、遊びたい気持ちに夢中で鞄に教科書や持ち物をつめこむのをおざなりにし、いつもいつも、なにか忘れ物をするときです。


1年生から練習し、2年生でも続け、3年生でも取り組みます。ですがその子の成長と、凸凹面の伸びを鑑みて、


「実力がついてきた」


「1年、2年、3年のころと違い、ノウハウも身に着けた」


「できないことが、工夫してできるまでに成長した」


「けれど、遊びたい欲望を優先して、しなければいけないこと=忘れ物を少なくする、をないがしろにし始めている」


という状況になり、3年かけて成長した部分を、4年生で「手を抜かないように」「忘れ物をして、家で困って泣きわめかないように」継続して取り組んでいる状況です。


その最中に、何度も、ないがしろにしたときに限って、宿題を持ち帰るのを忘れ、忘れたことでいろんな心の葛藤・・・おそらく、自分への「しまった、やっちゃった感」や「手を抜いている自分に気づいたけど気づきたくない」気持ち、「明日の宿題ができなくて困る!」という現実の問題などで、どかんと受け皿が満杯になり、わーぎゃーと泣き叫び転げまわることがあります。



ここまでの経過を見て、4年生になると、親から先に書いた「厳しい指摘をする」という指導が新たに加わることがあるということです。


十分に準備と経験を重ね、実際に自分でできるようになった、できるようになったけど、やらない、やらないのは自分の欲望に忠実に優先させたいから、でも結果的に困ったことになるとそれは受け付けられなくて泣いて騒いで大騒ぎする、でも自分の弱さは知っているけど受け止めきれない・・・・


そういう色んな葛藤に、親が終止符を打つ役割をすることがあります。


何を言うかというと、上に書いたような


自分への「しまった、やっちゃった感」や「手を抜いている自分に気づいたけど気づきたくない」気持ち、「明日の宿題ができなくて困る!」という現実の問題などで、どかんと受け皿が満杯になり、わーぎゃーと泣き叫び転げまわる


という、ある意味、とても無様な、自分がしていることの現実を直視するようにそのまま言うのです。言われたくないのは


「やれるようになったけど、めんどうでやりたくないし、遊びたい気持ちにやすやすと負けること」


「泣いて騒いで、どうにかなるわけではないけど、困ったことになると我慢できなくて、相変わらずやっちゃうこと」


「自分がすべきことができるとわかっているけど、自分の弱さにすぐ負ける、そんな自分の姿を知りたくないし認めたくない」


「できれば泣いて騒いで、大人に大目に見てもらって、なんとかしてもらえたらと期待していること」


「まだ自分でも、好きなことをして困ったときには、泣いて騒いで甘えてなんとかしてもらいたい気持ちがあること」


などでしょうか。


とくに、甘えて何とか無難に大人にやってもらいたいという気持ちは、楽をしたい、工夫するとできるけどその一工夫がめんどくさい、だからいつもやらずにさっさと鞄に適当に詰め込んで遊ぶんだ、という正直な気持ちをズバリと当てられたくないのが、年頃の4年生です。


自分は4年生、もうすぐ上級生、でも心は甘えたい低学年並み。でも同級生はそれなりにきちんとできているし、やらないといけないのもわかってる・・・でも・・・やっぱり遊ぶときは適当にしてみても・・・でも、ああ、やっちゃった、困った!宿題が!


というのを、1回、2回、3回・・・と続け、それが「悪いパターン」だけれど「それで何とかなるならそのまま欲望を優先したい」という望みで定着しはじめた時に・・・


悪いパターン=誤学習、つまり、発達障害の子が一番陥りやすい、自分の崩れやすい自己制御できないパターンを身に着ける、という最も避けたい状態になったときに、がつん、と現実を直視して、それは「自分を落としていく悪いパターンへの誘惑」だと気づかせることをします。


子どもですから、完璧にはできず、失敗してもいいのです。


ですが、その失敗を繰り返す中で


失敗を享受して、その先にある欲望を優先したい気持ちを満たし、やらないといけないことはおろそかにして、生活または自分のコントロールを失うという本末転倒なことがされた場合は、それが定着しないように、「忘れ物」を連発するのが特性の凹み部分からではないと判断し、「悪いパターンへの誘惑」の場合だと考えて、心の取り組みを一からやり直ししはじめます。


心が弱いのは、人間のサガだと思います。ですが発達障害の子は、私も含め、それをあえて享受するような部分もあります。工夫したり支援されたりしてできるようになっても、もとの「やらなくてもかばってもらえた」「小さいころの泣きわめいてごまかしていた自分」が、そもそも原始的に好きなので、その正体に立ち返ろうとするような幼い部分も事実あるのです。


そこに、定型の思春期の子や大人が持つ「恥ずかしさ」とか「カッコ悪い自分、幼い自分は軽蔑されて評価が落ちるから嫌だ」というような気持ちがあまり働きません。


幼児性が強いのが、発達障害の障害特性を持つ人間の根元の部分に確かにあるように思います。ただ、定型の世界を学んでいくと、「人の評価」というのがどの部分でされるのか、つまりは自分の言動、行為からだ、と「知識として知る」ので、社会の中で仕事をしたり、人付き合いをする中ではそれなりに頑張って幼児性を見せないように取り組み始めるのです。


それは、幼稚園の年長の子が、みんなの中でおもらしをすると恥ずかしい、という感覚に似ています。周囲を意識せず自分の世界だけで生きていると堂々とおもらしをする幼児性とともに生きていきますが、いったん、親や周囲の指導者、支援者から「第三者の目、評価、社会的システム」を知識として知らされると、それなりにプライドも刺激されて幼児性を抜け出し、成長していくようにはなります。


話を戻して、この子はその途中にいますし、また自己制御という生きて行く上で大事な技能も親と学んでいる最中です。我慢ができないから欲望のままに生きる、というのは動物であれば当たり前にすることですが、私たちは社会で生きる人間なので、それではやっていけない、ということを知って行くわけです。


この子の努力は、一進一退ですが、中学までに落ち着くことでしょう。6年間かけての取り組みで、自分と向き合う、自分の弱点や隠したい面を直視していくことが、たくましい青年に育てていきます。



親も子もえらいなぁ、頑張るなぁ、と思いながら親族の一人として、ただただ、見守っています。






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