都心に住まう親族達が、書いておいたほうがいいという内容を今回は記事にしたいと思います。それは、


「発達障害の子どもには、親以外の人が、その子の成長のためにも、現実的な面でも必要である」ということです。


それは自閉していて一人が好きだから他人が必要ない、とか、将来は結婚して伴侶がいたほうが良い、という次元の話ではなく、成長する過程で


「親では無理な部分がある」ので


「他人が必要だ」


という意味です。これは私も感じていることです。私は自分の子どもの一人に手こずり、うまく関わりを持てずにいた時に夫と祖父に頼り任せた、という話を以前書きました。それ以外でも、自分の能力でじたばたするよりも、ここは「餅は餅屋に任せたほうが良い」と思う場合には、遠慮なく他人の力を借りました。


親一人、または二人で、子どもが成人するまでの数多くの課題を片付けるというのはまず無理です。特に発達障害の子どもたちは十人十色の中でも、奇天烈な子もいますし、親である自分とは全く違う考え方、言動の傾向がある子だって産まれるからです。


「他人」というのは、親以外ならだれでも可です。子どもが受け入れる人、というのがこの世のどこかには必ず数人います。その人と出会えるように、親は出会いを設定することは子どもの世界の窓口を広くする良いことだと思っています。


もっともまじかにいる他人とは、自分の親(祖父母)であったり叔父、叔母であることでしょう。または自分の数少ない、心を許せる友人であることもあります。または、心理士であったり、親の会や支援級で出会った同じ傾向を持つ子の同志であったりします。


都心に住まう親族の場合は、それは習い事先のお師匠さんや先生であることが多いようです。集団での習い事を嫌い、どちらかというと個人指導の習い事(お茶、お華、剣道、などの武道系や家庭教師、個人指導の塾の先生など)などの相性の良い指導者に出会えているように思います。


どう他人が必要になるのか、どう人が発達障害の子どもたちの救いになるのか、というのはそれぞれです。ほんの些細な一コマだったりもします。最近の出来事では・・・


ある親族の子が、習い事先で頑張っても頑張っても勝てず、お教室では泣くのを我慢して出てきた瞬間に号泣しました。迎えに行った親がどうしたのかを聞いても、イーっ!!っと癇癪を起こしたかのように泣き叫ぶだけで、その時にできることと言えば、帰り道、背中をさすってやりながら泣く子を見守るだけでした。


ところが、この子はまっすぐに家に帰らず、祖父の家に寄ってから帰りたいと言うので、親は祖父に電話をし、立ち寄っていいかを聞いて連れていくことにしました。ただ、祖父宅でもこの調子で癇癪を炸裂して泣き叫ぶのであれば、関係ない人間をこの子の感情の荒波に巻き込むだけなので、行かせるかどうかの判断を迷いました。


ですが、子どもが「祖父」を指定して寄りたいと言ったので、お稽古の事に関係するのだろうと想像できたため、行くことにしました。祖父は子どもの習い事が非常に上手な人で、子どもが乳児期に手ほどきを受けた最初の師匠なのです。子どもには「目的があるのだ」と感じました。


そしてこの道すがらずっと泣き叫び、悔しく悲しい気持ちを炸裂させてコントロールすらできない状態の子が、祖父宅につくや否や「おじいちゃん!負けた!~~~ってやったのに、相手が~~~ってしてきて負けた!」と怒涛のように、負けた時の状況を詳細にものすごい勢いで説明をしたのです。


祖父は、それを


「うん、うん」


「そうか、~とされたんだな」


と一通り怒涛の激しい説明を聞き、


「ちょっとこちらでやってみなさい。こう、相手はやったんだな?」とおじいさんは実演をはじめました。その実演を「そうだよ、それで自分はこうして、相手はこうして.・・・」と説明しつつ、「これは相手がこう、攻めようと思っての行動で、それにお前は気が付かずこうやった。でもここで、もしお前が~としたなら、この結果は全部ひっくり返ってお前のものになった。」


そういうやり取りの中で、この子の様子はどんどん、落ち着いて朗らかになっていきます。自分がまずかったところを説明し、相手がうまかったところを聞き、どうしたら負けずにいられたのかの実演を見せてもらい、納得し


「そうか、そうすれば勝てたんだ」と言った瞬間に、負けたことへのくやしさ、コントロールできなかった心の嵐を含むすべての事に決着がついたようでした。


「お前は、勝てる勝負に負けたから、くやしかったんだな?」


とおじいさんは核心を突く一言を言いました。それで、親族の子ははっきりと自分の気持ちを自覚し、「そう。そうなの。」と、晴れやかに「自分でお稽古してみるから、後で見てほしい」と言い、その場で練習をはじめました。


この子にとっては、


親のなぐさめは全く必要なく


親が事情を聴いて解釈をしてくれることを求めているわけでもなく


お稽古先の先生に支援をお願いしてもらうことが大事なのでもなく


お稽古で、障害特性を考慮してお友達との試合を組んでもらうことでもなく


必要だったのは、


勝負で負けた理由、負けを勝ちにどうやったらできたのか、


ただ納得のいく勝負の咀嚼をすること、それだけでした。


餅は餅屋、とこの子は考え、最も自分が「聞ける相手」であり「勝負を即座に理解し、実技を実際に教えてくれる人」を最短で求めたのです。


こういうことは実は往々にしてあります。ただ、発達障害の子はこの子のように自分から目的を言い、求めることができない子たちも多く、それゆえに大人がその子の本当に望む支援をしてやることができていない場合があります。


親が話を聞いても慰めても、混乱している状況をわかりやすく解釈してやり、もめた場所での人間関係や支援の調整をして整えてやっても、子どもの心の中で望んでいる「納得したい点」がすっきりとしないと、いつまでももんもんとしたままですし、自信もなくしますし、「欲しているものが手に入らない、不足感、不安感」から一日中癇癪を炸裂したまま、ということにもなります。


ですので、「子どもが本当に望んでいること」や「この子が何を辛いと思って癇癪を起しているのか」は、表だけの見た目ではわからないことも多々あります。子どもが悩んだり癇癪を起したり精神的なダウンの原因となっている学習や、習い事や、人間関係や、学校でのあれこれがあれば、親ができること半分、そしてできないことも半分はもちろんあるはずなので、その場合は子どもが信頼できる「他人」と子ども自身が出会えるようにしていくことが解決につながることが結構あるということです。


中学生になった都心の子などは、発達相談センターの人に自分一人で相談をしたいと言って親は待合室で待つこともありますし、小学生でも民間の療育先でいろんなこまごまとした学習の指導をしていただいていたり、親には反抗する子が家庭教師の先生には学習の相談をし、指導を受けていたり、習い事先で理屈抜きに感情的に波長が合うグループや先生・お師匠とぽつぽつと話す、など・・・


いろんな出会いで、親以外の「他人」が、数々の疑問や謎を解く手助けをする人として存在していることはあるようです。それは定型の人の言うような親友や心のつながりの相手とはまた違い、自分の謎ときをしてくれる現実的な、実際面での指導者というか、そういう存在です。



私も親族の子たちに求められるシーンでは、心の支えになるよりも、こうした現実的な困惑や疑問に答えてくれる先を行く師匠のような存在を熱望されていると感じることがあります。それは学習を教えているときもそうですし、将来の話をしているときも「教科書のこの説明じゃわからない。他にどういうやり方がある?」「子どものときどうだった」「それで~で困ったときどうした?」と、ノウハウを聞かれることが最も多いのです。


今までの「こどもの観察をし、定型とのずれや困っている内容の説明や解釈」に重点を置いて書いていた記事とは違い、発達障害の子どもの望む、与えてほしい答えの形の一つに焦点を絞って一例として書いてみました。


参考になれば幸いです。


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