久しぶりに、成人の発達障害についてUPしようと思います。この記事は数か月前に書いて、下書き記事になっていました。


発達障害の成人の人間、とくにアスペルガーや自閉症スペクトラムの人は、会社に勤めたり社会人生活をする中で他者、上司や同僚、後輩や取引先の相手と上手くいかず、人間関係がこじれてしまうことが多々あるのが一般的な状況だと思います。


その中で、「一般的」ではない、定型の人と共に働けている人もいる、という部分に視点をあてて、「そうした人たちはなぜ定型集団の組織でやっていけるのだろう」と考え、発見していくことも、今後成人して仕事をはじめる子たちや、今現在、会社勤めで苦しんでいる人に何らかのプラスとなるヒントになるのではないか、と思って書いています。


ただし、これは私たち親族が経験した「狭い範囲の経験の数」からの考えであり、必ずしもそれがプラスになるヒントであるとは限りません。状況や地域によっては全く通用しないのかもしれません。ですがとりあえず、参考の一つとして取り上げるのはいいのではないかと思います。


一族は田舎だけではなく、日本全国の都市部に住まう人間も多いです。仕事柄転勤が多い家族もいますし、自分の望む仕事とポジションがあれば地域を問わずポンポンと出て行ってしまった結果であったり、またそこで次世代を育てているうちに家族が増えていった結果でもあります。


そうした中で、心理職の専門家として仕事をしている人間もいますし、会社や教育機関という組織で仕事をしている人もいます。一度そうした仕事場に入って、ずっと何年も何十年も働き続けていられるというのは、やはりそれなりに理由があるのだと感じることがあります。


一つの具体的な例としては、発達障害の人を担当する心理専門家として、学業的にも経験的にも、自分を知り尽くしたうえで仕事をしている人がいるケースです。


どういうことかというと、大学および院で発達障害について専門的に学んだあと、専門職につき、クライアントとの面談の際には自分の障害特性をある程度公開した上で、目で見て時間がわかるタイマーなどを面接室に持ち込むことをクライアントに了解してもらい、時間を正確に図りながら話す、という風に仕事場でも自分の特性が仕事にマイナスに影響しないような工夫をしています。


また、自分の手に余るようなクライアントの場合はすみやかに、スーパーバイザーに主担当を担ってもらい、自分は同席して副担当となるようにします。


また、こうした職場には多くの同じ傾向の職員がいますので、職場環境が特性のある人向けとなっており、またクライアントが発達障害を持つ人またはその家族ということもあり、利用される施設内のあらゆる部分が特性持ちの人向けになっているため、長時間、長期間務めても快適であると言えます。これは少し特殊なケースです。


一般の会社に勤めている親族はどうかというと、入社前に「仕事の内容が確実に選べること」が特性がある人間には一番であると言います。いわゆる、商社や大きな企業に入社して「どの部署になるかわからない」という会社であると、それは特性に合う・合わないを博打のように賭け事のように考えてしまうということなので、そうした「入社してから自分の担当部署がわかる」ような就職先の選択をあまりやりません。


まず、入社前に自分の従事する仕事がどのような内容なのか、がわかっている案件にしか応募しません。それは基本中の基本であり、自分の会社内での人生を自分で安定させるための絶対必要な選択方法だと考えています。


そして、会社勤めをしている親族が共通して必ず必要だと言うことは、


「自分は見解が幼い、精神が幼いということを絶対に忘れないで仕事をすること」


だそうです。これは、ある程度成人するまでの過程で、親とのやり取りの中で


・自分の認知の仕方がゆがんでいること


・思い込みが激しいこと


・興味の幅が狭く、結果として経験の幅も狭いこと


・一般的な人よりも集団社会での経験値が低いこと(不登校経験者が多いことも理由の一つです)


は、自分のデメリットとして理解しています。理解しても、それについて「問題である」と本人が自覚していなければ、これはどこへ行っても、何をしても他人との間で摩擦を起こす原因となります。ですが「自分のデメリットは、そのまま集団社会で垂れ流しにすると自分と他人との間にたくさんの問題を引き起こす」と自覚しはじめると、特性上はあまりやらない用心というものを意識してやり、自分をコントロールすることを学び始めます。


未成年時期の失敗と、それをネタに積み上げてきた親や先生、専門家との「振り返りやデメリットをそのままにしない工夫を考える」という行為を続けてきた発達障害の人間は、社会に出る前にある程度の準備ができています。


どんな準備かというと、自分の歪んだ思い込みやかたくなさは、他人に通用しないことが多いと呪文のように日々意識して、他人との意見交換をしたり、仕事に取り組むということです。


この意識をするということが、発達障害の人間にはとてつもなく難しいのですが、自分が具体的に「どう歪んでいて思い込みが激しいのか」を幼少期、児童期、青年期に学んできていると、ある程度衝撃的な自分の特性はインパクトがありますので、成人期には意識せざるを得ない状態になっているのが、私たちの傾向のように思います。


例えば、どんな風に意識せざるを得ないようになったのか?という一番ポピュラーな例ですが、


「時間通りに動けない、遅刻をしたり、結果的に約束を守ることができないことが多い」という自分側の行動の欠点がありつつも


「こうだと思った予定は変えられたくないので、どんなに事情があるとか緊急だと説明してくれてもその相手に激高したり、思ったタイミングで相手が動いたり話したりしてくれないと怒ったり泣いたり荒れる」


という、こだわりや相手への要求が強い傾向を見せる未成年がいたとします。毎回、そうしたことがないように予定をきちんと立てて、事前に知らせて話し合うのが家族でのルールになっている一族の家庭は多いですが、毎回毎回、きちんとできる保障はもちろんなく、緊急で変更しないといけない時もあります。誰かが熱を出したり、先方の事情で約束の日時が変更になるなど、コントロールできない事情が発生するからです。


そうした時に荒れ狂う子供たちの現状は、その時は大変かもしれませんが、「よい自己理解のネタとなる」と考える一族の大人もとても多いのが実情です。どうネタとするかとういと、


親に対して、怒りでもって、予定が変わったことや時間通りにできないことを攻めてきた時、怒り狂った時などを契機にして、以下のような手紙にして渡すことも多いです。


「あなたは毎朝、遅刻して学校へ行く。何時に来るかわからない状態で先生を待たせている。お母さんは毎回、あなたの都合によって朝の付き添いの時間が7時になったり、9時になったり、時には昼時間になったりしている。お母さんの仕事の時間は、あなたの都合で遅れることは度たびある。先生に明日は行く、と約束しながら、翌朝には行けない、と連絡することもある。あなたは予定を急に変更することは多いですし、約束を破る行為は度たびあるということです。


あなたはとてもたくさん、自分で予定を変更し、時間に遅れ、相手に合わせてもらっている。けれど誰もあなたに怒ったり責めたりしていない。それはあなたの理由や理屈に納得しているのではなく、ただただ、あなたへの善意や好意、見守りたい気持ちからそうしているだけです。


それに対して、数少ない、本当に数か月に1度あるかないかという、緊急の避けられない事態で予定がキャンセルされることなど、親ではコントロールできないことに対して、あなたは声を荒げ、怒りまくり、罵倒する。


自分は何度も繰り返しできていないことは棚に上げて、人に完璧を要求し、わずか1回の他人との時間調整や予定の変更、キャンセルに文句ばかり言うのは、自分が何をしているのかしっかりと知らないからこそできる、幼い子供のような行為だ。心が狭く、余裕がなく、自分の都合主義でいる。


自分ができることを人に要求するのなら、みな納得するだろう。でも自分が最もできていないことを、強く他人には求め、自分が頻繁にできてないことを、たった数か月に一回、その人ができなければひどく責めるのは、回数だけを比べてもわかるように、あなたの主義主張は、とても極端に隔たっていて理不尽である。


そのような極端さ、自分は特別何をしても気にせず、相手の言動は1回でも気に入らなければ罵倒し責める、ということが今後何年も続ければ、いずれ相手はあなたの傲慢さ、怠慢、理不尽さに大らかになることに限界がきて、あなたが最後には手ひどく逆襲されることにもなりかねない。


実際に、社会に出た時に、遅刻し予定の変更の度に癇癪を起こし相手を責めたなら、仕事からはずされるだろう。まずは自分が相手に要求するレベルのことができなければ、誰も認めてはくれないのが大人の社会だからだ。


他人に怒りをぶつけたり、責めたりという感情的な言動を怒りに任せて素直に出すというのは、大人の社会では『幼い、小さい子の癇癪のようだ』とみなされて軽蔑されるか、自己制御できない精神の幼い人という風に評価されることが多い。それは自分が自分の価値を落とす行為であると考えられている。


社会で仕事をしていく上で、自分のこだわり、他人への要求の高さ、自分への甘さに気が付かないで素直に感じたまま、感情のままに言動をすることは、子どものふるまいでしかなく、自分の能力を発揮する以前の大きな問題となる。


だから、きちんと、自分の幼い部分は認めて、大人になる練習をしていかないといけない。みんなある程度はそうして幼い部分を自分で育てるように努力している」



というようなことを、数年ごとに、未成年期には解説していきます(*なるべく親子の信頼関係が強くなった頃合いなどでやります。または専門家とのやり取りで学びます)。それで年数がたてば、

「あなたの言うことは理不尽だ」

「自分ができないことを他人に強く要求したり、できない人を責めるものではない」

という、その内容が、自分のできない部分を赤裸々に知り、相手の許容について知らされるという繰り替えしでなんとなく、から、そうなんだな、という自覚へと変化していきます。


私の夫などは、結婚前後にこうしたことを学び、自覚し、言動が変化しましたので、やはり教えられないと自分だけでは気づいて理解していけない部分なのかなと思います。



定型の集団社会、とくに会社などの組織では、こうした「自分の欠点を理解した上で、他人と過ごす」ということが、


・気配り(好き勝手に怒の感情をまき散らさない)や

・謙虚さ(自分はできないけど他人には高度に要求する図々しさがない)

・協調性(自分のこだわりや認知のゆがみ中心に相手に合わせてもらおうとだけ考えるようなわがままは言わない)


という評価につながっていくのだろうと思います。


以上、会社や組織で仕事をするにあたっての「入りの、自分の立ち位置を確かにするために必要な視点」についてだけ書きました。入社してそこでサバイバルしていくノウハウは、他のブログ記事にもいくつか書いたと思いますが、自分の弱みに合わせていろいろ考えないといけないことも事実です。


ですが精神的な幼さをもって、大人の、お金を稼ぐというシビアな「組織」という世界で、仕事をそっちのけにして自分の気持ちだけを全面に出していくということは許してもらえないのだ、ということを伝えるために、ぜひとも未成年期にじっくりと、取り組み子どもたちに教えてあげることが、社会に出た時の「壁を低くする」衝撃を少なくする、家庭で可能な実践的な療育だと感じています。


「組織」で仕事を長く続けていけている一部の親族の例をもとに書きました。





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