スコットランド・4 | 孤独な音楽家の夢想

スコットランド・4

(承前)

 「唱歌」を作り出す中心となった機関は、僕の母校「東京芸術大学音楽学部」の前身である「東京音楽学校」(1887年)であり、そのまた前身の「音楽取調掛」(1879年)が大きな役割を果たした。・・・この「おんがくとりしらべがかり」、なかなかステキな響きである。同じように、「東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)」(1887年)の前身として「図画取調掛」(1885年)という機関もあった。このふたつの機関は、文部省が設置したもので、明治の初頭において、驚くべき早さで設置された。「音楽取調掛」は明治12年の設立である。いろいろなものを一気に整備しなければならなかった政府であるが、これは異例の早さといえるだろう。
 まず、音楽に関して調査が行われたのは、西洋音楽である。「音楽取調掛」の掛長、そして「東京音楽学校」の初代校長となる伊澤修二(1851~1917年)たちが、アメリカへ留学し、西洋音楽を学んだのが始まりである。
 伊澤が興味をもって学んだのは、音楽そのものよりも、音声生理学や発音などの身体的な働きについてだったという。彼は、歌が苦手だったそうだ。なぜなら、西洋の音階「ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ」が、感覚的に分からなかったからだ。・・・これは、たぶん、当時の日本人が皆、そう感じたに違いない。日本の音階は「ド・レ・ミ・ソ・ラ」であるので、「ファ」と「シ」は、未知の響きであった。

 帰国後に書かれた報告書によると、音楽について、「健康」と「道徳」のふたつの意義が挙げられている。「健康」については、「生命の基本である呼吸を鍛え、健全な肉体を作る」ということ。「道徳」については、「長音階」と「短音階」のことが述べられている。「長音階」は「勇壮活発」であるので、長音階で教育された者は、「有徳健全なる身体を長養する」という。そして「短音階」は「柔弱憂鬱」であるので、「無力多病なる気骨」なのだそうだ。・・・だから、先進的な国家は、長調で国民を教育しなければならない、と。そして、「唱歌」をみんなで正しく歌うことによって、邪悪な思想を追い払い、健全なこころと身体を育て、ひとつの方向を目指し、共同体の中で秩序正しく振る舞い、戦場においても、勝利のために最善の行動をとることができる・・・、と。
 このようにして、まず、西洋音楽を日本に輸入した。それと同時に、古来よりの伝統的な日本音楽がなくならないように、調査の上、整理し、必要に応じて改良し、保存した。これは、最終目標に、西洋と日本の音楽の良いところを折衷して、日本固有の新たな国民音楽「国楽(こくがく)」を創り出す・・・ということを掲げていたからである。

 1879年(明治15年)に「音楽取調掛」によって、学校教育用に編纂された『小学唱歌集』の大部分は、外国の曲のメロディに、新たに日本語の歌詞がつけられた。
第13番「見わたせば」(ジャン・ジャック・ルソー「結んで開いて」)
第17番「蝶々(てふてふ)」(ドイツ民謡)
第18番「うつくしき」(スコットランド民謡「スコットランドの釣鐘草」)
第20番「蛍」(スコットランド民謡「蛍の光」)
第53番「あふけば尊し」(アメリカの歌)
第56番「才女」(スコットランド民謡「アニー・ローリー」)
第78番「菊」(アイルランド民謡「庭の千草」)
第73番「誠は人の道」(モーツァルト『魔笛』よりパパゲーノのアリア)
第89番「花鳥」(ウェルナー「野ばら」)

 この中には、伊澤修二が作曲した第44番「皇御国(すめらみくに)」など、僕たちが思い浮かべる「唱歌」からは、ほど遠い内容のものもある。・・・「皇御国の もののふは、いかなる事をか つとむべき、ただ身にもてる まごころを、君と親とに つくすまで・・・」。
 「文部省唱歌」と聞いて、いま、僕たちが思い浮かべるのは「故郷」「春の小川」「朧月夜」などであろう・・・。
 日露戦争(1904~1905年)の勝利に湧き立つ1910年(明治43年)、文部省が初めて編纂した尋常小学校用の教科書『尋常小学読本唱歌』には、第22番「出征兵士」、第23番「同胞ここに五千万」といった、おどろおどろしいタイトルの曲が含まれている。これは、当時使われていた国語の読本『尋常小学読本』の中から選ばれた27首を、日本人の作曲家が曲をつけたものである。第22番「出征兵士」のすぐ前の第21番「われは海の子」の7番の歌詞には「いで大船を乗り出して 我は拾わん海の富 いで軍艦に乗り組みて 我は護らん海の国」と曲を結んでいる。
 更に、『尋常小学読本唱歌』を受け継いで編纂された『尋常小学唱歌』(1911~1914年)には、第一学年用の第1番「日の丸の旗」、第二学年用の第15番「天皇陛下」など、また、1932年(昭和7年)の『新訂尋常小学読本唱歌』には、第六学年用の第8番に「日本海海戦」などが含まれている。(・・・太平洋戦争勃発の前夜に、遥か昔「日露戦争」の栄光を語っていることに注目したい。)
 ・・・ここに、敢えてだいぶ偏って、曲目を挙げてみたが、これらを見ると、日本が、まっすぐ戦争へと突き進んでいく中で、政府がどのように国民を教化させていったのか、よく分かるだろう。もちろん、美しい山河や移り行く季節などを歌った曲もたくさんあったが、当時、それぞれの教科の内容を一致させるべく「教科統合」ということが行われ、「教育勅語」をよりどころに国民道徳の実践を目的とした「修身」や「国語読本」、「国史」などの教科書と共通の内容が「唱歌」に使用され、総合的に学び、習得する方法がとられた。

 そう、「唱歌」は、学校教育において、「芸術」として扱われていなかったのである。
 いろいろ調べて分かったことは、戦前には、いまのような芸術科目としての「音楽」の授業はなく、「唱歌」という名の教科があった。この授業は、現在行われているような楽器の演奏や、鑑賞、楽典は含まれていない。・・・では、何を勉強していたのかと言うと、みんなで声を合わせて、ひたすら「唱歌」を歌っていたのである。
 ・・・それは、何の目的で歌っていたのかと言うと、歌の形式を借りて、「新しい日本人」として必要なさまざまなことを、覚え込ませたのである。日本の歴史、山河の美しさ、天皇の正当性、帝国としての優位性、日本人としてあるべき姿・・・。つまり、「唱歌」が、日本人を、新たな日本人として、健全、且つ明晰に、頭脳と身体、そして精神とを、立派に、皆等しく、形成させていく・・・という重要な役割を担っていたのである。
 これは、キリスト教において、聖書の言葉を簡単なメロディに乗せ、「聖歌」として各地に普及させていったことや、「賛美歌」を歌うことで、会衆が感動のうちに、共同体の一員であることを強く実感するのとよく似ている。

 ・・・すこし否定的な事柄のみを書いてしまったが、「戦争のための国民教化」という側面を除けば、「唱歌」による学校教育は、僕たち日本人にとって、とても有意義なことであったように思う。なぜなら、他の学科では感じ得ない、さまざまな感覚を磨くことができるからだ。それまで培ってきた日本人の美意識に、西洋の美意識の感覚が加わることによって、学校教育を受けたすべての新たな日本人が、素晴らしい感性をもって、豊かな音楽を体験することができたのである。この体験は、音楽だけに留まることなく、さまざまな分野において、存分に活かされていると思うのである。

 ♪春が来た 春が来た どこに来た~
 ・・・いま「唱歌」を聴いて、「日本人のこころのふるさと」と感じるのには、実はこのような経緯があったのである。このことは、フリーメイソンの活動の恩恵なのか・・・、それとも、明治をつくった若者たちの希望溢れる夢のおこぼれなのか・・・、僕らにとっては、よく分からないことであるが、僕が音楽によって人生を救われ、いま、その音楽を生業としていられるのは、先人たちが、さまざまなことを考え、苦労し、培ってきたお陰なのだ・・・と、改めて実感する。
 そう言えば、僕が歌をうたうきっかけとなった曲がある。それは「春が来た」(高野辰之作詞、岡野貞一作曲)である。僕が小学3年生の時、担任の先生に薦められて、「足利少年少女合唱団」の入団試験を受けた。その課題曲が「春が来た」だった。いまでもよく覚えているが、放課後に音楽室で、先生は熱心にこの歌を教えてくれた。先生の指導のお陰で、試験では、自信をもって、思いっ切り歌うことができた。・・・たぶん、試験を受けた児童の中で、僕が一番上手だったはずだ。笑 ・・・明るく、伸びやかで、張りのある声、しかも音楽的なフレージングで、情感が適度に乗った塩梅が絶妙だった。笑 僕は試験で、あまりにもよく歌えたので、意気揚々と教室を出てきたのだった。・・・「春が来た」は、『尋常小学読本唱歌』に掲載されていた「唱歌」のひとつである。

 僕の音楽の原点は「唱歌」にあり、そのルーツの多くは、スコットランドにある。・・・こんなふうに考えると、とても感慨深い。スコットランドの曲を、日本人の僕が、「こころのふるさと」だと思えるなんて、とても素晴らしいことではないか・・・と。


※奥中康人『国家と音楽』と渡辺裕『歌う国民』を参考にさせていただきました。

by.初谷敬史