1 | 2 | 3 | 4 | 5 |最初 次ページ >>
2016-07-30 23:39:35

暑い夏はミュージカル『ナディーヌ』

テーマ:ブログ
 創団20周年を迎える今年度の定期演奏会第1弾「ヴォクスマーナ第35回定期演奏会〜未来を担う女性作曲家〜」も無事終えて、いよいよ、僕の暑い夏が始まった。国立と新町での初演以来、12年振りの上演となる三澤洋史先生の純愛ミュージカル『ナディーヌ』。
 初演のキャストが全て様変わりしてしまった中、唯一、僕だけが残ることになってしまった。・・・そう、誰も、あの役を演じることはできないのだ!!おほん!!笑 なぜなら、三澤先生が、僕をイメージしてあの役を創ったからだ。
 大切に保管されてあった倉庫から、12年振りに引っぱり出してきた「ぬいぐるみ」と、すこし歳をとって、テニスで日焼けしたミニチュア・ダックスフントの「ドクター・タンタン」の磨きのかかった勇姿を、是非、ご覧あれ!!

ナディーヌ1

ナディーヌ

ミュージカル『ナディーヌ』(原作・脚本・作曲・演出:三澤洋史)
■8月27日(土)開演17時30分
■8月28日(日)開演14時
聖学院講堂(聖学院中学校・高等学校内)※JR山手線「駒込駅」東口より徒歩5分、東京メトロ南北線「駒込駅」3出口より徒歩7分
料金:一般 5,000円、学生2,000円
●チケット申し込み:ticket.musical.nadine@gmail.com
●ホームページ:http://musicalnadine.web.fc2.com
●Facebook:https://www.facebook.com/musicalnadine/?fref=ts

◆キャスト
パリのさえないサラリーマン「ピエール」:川村章仁
花の精でフェアリーランドの女王「ナディーヌ」:前川依子
IQ500の大天才博士「ドクター・タンタン」:初谷敬史
ナディーヌの養育係「オリー」:大森いちえい
グノーム族の首領「ニングルマーチ」:秋本健

◆演奏
指揮:三澤洋史
ピアノ:三澤志保
エレクトーン:塚瀬万起子
パーカッション:赤迫翔太
合唱:ナディーヌ合唱団
ダンス:ナディーヌ・キッズ

◆スタッフ
振り付け:佐藤ひろみ
合唱指導:初谷敬史、高橋ちはる
練習ピアニスト:三澤志保、水野彰子

by.初谷敬史
AD
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)
2016-07-29 00:15:34

ヴォクスマーナ20周年を迎えて

テーマ:ブログ
 ヴォクスマーナの練習を重ねていると、いろいろなことが研ぎ澄まされてくる。これは、僕の音楽的体験の中で、とても貴重なことである。
 これまで見えなかったことや、敢えて、見ないようにしていたようなことが、目の前から霧が晴れていくように、だんだんと見るものすべてにピントが合ってくるような感覚・・・。これは、音楽的体験でありながら、聴覚的感覚よりも、視覚的感覚に近いものであるように感じる。そして、それは、感覚の解放、更に、身体的な覚醒を生み出す。

 そもそも、自らの声を使って音楽する「声楽」は、とても難しい。なぜなら、ほかの楽器のように、楽器そのものが、人体とは別のところに存在しているのではなく、声を出す仕組みそのものが、自らの身体に内在しているからだ。(当然、ほかの楽器も、それ特有の難しさがあろうが・・・。)したがって、声楽は、あらゆる面において、自己と密接に、そして直接、結びついていると言える。生理現象や概念、感情、意欲、気、反射神経、運動神経、筋力、体力、体調・・・。
 これら生命とも言える自らの内に起こる現象のすべては、自己であるのと同時に、生活であり、日常である。普段、ため息をついたり、会話をしたり、あくびをしたりする自らの声を素材に、声楽家は「楽音」にするのである。一見、これは非常に便利そうである。手軽であるし、器用に、自在に操れると理解している。しかし一方では、だからこそ難しいとも言える。声楽の難しさは、自己と完全に切り離して、楽音である「声」だけが存在できないところにある。

 残念ながら、日常は、まったく整理されることがない。一日生活をしていると、さまざまな外的要素と、それに反応する内的要素が入り交じり、すべてが混沌としてくる。それを、人はそのままにして、夜、寝入る。また朝になれば、新たな混沌とした一日が始まる。それを無限に繰り返すうち、僕たちは精神や肉体の軽やかさを失い、すべての経験が時間によって押しつぶされ、どこかにそのまま押し込められ、やがて地層のように固まっていく。
 ・・・この蓄積を、「培われた個性」と呼ぼう。声は、この「培われた個性」を内在している。これは、表面的には「経験」と言うのだが、本質的には「重み」「汚れ」「雑音」でしかない。では、本来の声は、どのようなものなのだろう・・・。

 それは、「培われなかった個性」であろう。僕はそれを「性格」と呼んでいる。生まれつきの性質。また、あらゆる行動の選択を司る直観的なもの。もう少し言えば、魂の核となるもの・・・。・・・これが、何の力みもなく、軽やかに、明るく、爽やかに現れてくるような声こそが、僕らが目指すべき声であろう。それは、何も化粧されていない。理屈、方法、偽り、疑い、迷い、過信・・・。僕らはそれを、一生かかって見つけようとしている。
 しかし、その人本来の声が見つかったら、それは、何にも勝る楽音となるに違いない。そうであるならば、人の数だけ個性的な音色が存在するということになる。そもそも、人体を見ればひとつとして同じ顔がないように、声の鳴りと響きの組み合わせは無限に存在する。更に、人体的な個性に、間違いなく「性格」が加わる。それは、人体を超えた太古からの魂の響きなのである。

 僕らが見つけようとしているのは、「声」だけではない。本当の「音」を見つけようとしているのだ。
 声楽家は「声」を持っているが、「音」は持っていない。扁平な言い方をすれば、ピアノはド・レ・ミを持っている。フルートもトランペットも、フレットのないヴァイオリンでさえも、ド・レ・ミを持っている。それは、飛んできたテニスボールを、ラケットで打ち返すようなものだ。声楽家は、目隠しをされて、その場で10回廻ってから、フラフラとビーチを彷徨って、スイカを割るようなものだ。目隠しの隙間からスイカが見えていれば、思い切って棒を振り下ろせるだろうが、右も左も分からなければ、思い切って棒を振り下ろすことができないだろう。

 このことは、絶対音感がある、ない・・・ということを言っているのではない。もちろん、そういうこともあるが、僕らはそれを超えた本当の音の「あるべき姿」を見つけようとしているのだ。それを僕らは、自分の声で探している。音は頭の中にあるのでもなく、実際に出た音を、聴く人の想像力で補うものでもない。いま、空気に振動すべき音を、自分の声で掴むのである。それは、自分の無垢の精神と身体で掴み、新たに発見した音でなければならない。こうして、自分のものとなった音だけが、ようやく世界に開くことができるのだ。
 ・・・それは、人類が2000年前も、そして2000年後も、追い求め続ける音なのだろう。

 僕たちは、まったく焦っていない。かっこよく見繕うこともしない。只只、自己を掘り下げ、現実を見定め、「声」と「音」のあり方を追求しているのだ。・・・そんなことができる僕たちは、幸せだ。

by.初谷敬史
AD
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)
2016-07-22 01:47:44

ヴォクスマーナ・インタビュー

テーマ:ブログ
 メンバーのひとり、櫻井元希くんが、ヴォクスマーナの広報担当大臣になりまして、SNSを駆使していろいろと頑張ってくれています。いままで、メンバーの中に、櫻井くんのように知的でユーモアに溢れ、かつマメな人がいなかったので、本当にありがたい限りです。
 彼は声楽家、そして指揮者として、古楽を中心に、さまざまな団体で活躍しており、また、自らも団体を主催してやっています。そんな彼が、現代日本では希有な存在である、現代音楽の声楽アンサンブル「ヴォクスマーナ」の未来を、真剣に考えてくれています。
 そのひとつとして、FacebookやTwitter用に、「今年創団20周年を迎えるヴォクスマーナ、団長へのインタビュー」として、質問形式を考えてくれました。はじめは、動画のアイデアを出してくれたのですが、さすがに恥ずかしいので、文字にすることにしました。
 なかなか筆が進みませんでしたが、あらためて考えてみると、いろいろと面白い発見がありました。相変わらず抽象的な内容ではありますが、読んでいただければ幸いです。
 

●ヴォクスマーナ創団20周年を迎えましたが、この20年を振り返って現在どのような思いですか?

 改めて20年を振り返ってみると、覚えていること、忘れてしまったこと、また、記憶にとどめておきたいと思ったこと、忘れてしまいたいと思ったこと・・・たくさんのことがありました。そして、長い時が過ぎ、多くの人が僕たちの周りを過ぎていきました。その間、僕たちは目の前にあるたくさんの曲をひたすら歌い、そのことによって自分自身を高めてきました。・・・僕の音楽人生は、ヴォクスマーナと共にあると言っても、けっして大げさではありません。
 そうしたヴォクスマーナでの音楽体験を踏まえて、いま、みなさんに胸を張って言えることは、どの音楽家とも違う音楽的感性と技術を、僕たちは持っている・・・ということです。これは、理屈や理念ではありません。体験と感覚です。僕らはそれを、自らの身体を用いた空間的実践において身につけてきたのです。

●創団のいきさつについてお聞かせ下さい。

 僕たちの原点は、パレストリーナです。20年前、東京芸術大学に入学した僕らは、学校内にある談話室という誰もが自由に使えるスペースを利用して、アンサンブルの練習をしはじめたのです。もちろん、音楽経験豊富な西川くんのリーダーシップによってです。合唱経験のほとんどない僕にとっては、すべてが新鮮で、とても勉強になりました。
 ・・・僕らがなぜ、談話室に集まったのかと言えば、ここに来れば、何かを得られると思ったからでしょう。「ヴォクスマーナ」と命名したのは、それぞれの声の追求、そして声による音楽の可能性の追求を目指したからです。こうした創立当初のメンバーの姿勢は、20年経ったいまでも、まったく変わっていないと思います。

●ヴォクスマーナは邦人への新曲委嘱初演を活動の軸としていますが、この活動についての思いをお聞かせ下さい。

 僕たちは、お金儲けをしたくて、ヴォクスマーナの活動をしているのではありません。また、世界的に有名な声楽アンサンブルになりたくて活動しているのではありません。欲がない、野望がない、といったらウソになるかもしれませんが、そうでないからヴォクスマーナがヴォクスマーナでありつづけられる・・・とも思っています。
 それでは、何のため・・・。自分自身を知り、自分自身のルーツを知り、いまを知り、現時点で構築しうる最高の可能性を探るためです。「あす」のことを考えていないのか・・・と言えば、考えていないと思います。「いま」がなければ、「あす」はありません。「ここ」がなければ、「あそこ」はないのです。だから、同世代の邦人であるべきだし、新作である必要があるのです。

●これまでの活動の中で特に印象に残っているものはありますか?

 特に取り立ててありませんが、ヴォクスマーナの活動で、とても素晴らしいと思うことは、メンバーと共に、東京文化会館の小ホールの舞台で歌えることです。あの舞台は、僕らにとって特別な場所です。・・・そう思えるのは、ヴォクスマーナの定期演奏会で、舞台に上がった者しか分からないことでしょう。
 簡単に言えば、とても緊張感のある空間なのです。作曲家やお客さまの期待もあります。これまで、この世に存在しえなかった原初の音が、細胞がポンとはじけるように、ピンと張りつめた、そして無限に開かれた空間に放たれるのです。そして、その音は、驚きと新鮮な感動を以て、これから後、この世に存在しうる音となったのです。
 大抵の者は、その責任感の重圧に耐えることができません。僕らはそれを乗り越えて舞台に立ち、自らの内なる音として、確信をもってひと声を発するのです。

●20周年という1つの区切りを迎え、今後のヴォクスマーナの展望などありましたらお聞かせ下さい。

 僕たちは新しい音楽の創造をしているので、やはりもっとアンサンブルとしての高みを目指していかなければなりません。常に通過点ではありますが、それでも確実に階段を登っていると思います。しかし、それは僕たちの中で完結すべきではなく、常に世界に開かれていなければなりません。そういった意味で、「発信」という作業は不可欠でしょう。「発信」は「共有」です。「共有」は「共感」です。「共感」は、より良い「あす」を生むでしょう。
 20年の節目を迎えて、ヴォクスマーナは「いま」だけでなく、「あす」をリードしていく存在になりたいと思うようになってきました。「あす」は、僕たちの手にかかっているのだ・・・と自らも強く想い、そしてみなさまにも想っていただけるような存在になっていきたいと思います。今後のヴォクスマーナに期待してください。

ありがとうございました!

by.初谷敬史
AD
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)
2016-07-22 00:36:37

ヴォクスマーナ第35回定期演奏会

テーマ:ブログ
■第35回定期演奏会(創団20周年シリーズVol.1 未来を担う女性作曲家)
7月29日(金)開演19:00
東京文化会館小ホール


 渋谷由香(b.1981)/ 「黒い森から」 12声のための(委嘱新作・初演)詩:佐峰存
 山根明季子(b.1982)/ お名前コレクション No,02 (委嘱新作・初演)
 小出稚子(b.1982)/ 春宵感懐(2013委嘱作品・再演)詩:中原中也
 大熊夏織(b.1987)/ 空を泳ぐ(2015委嘱作品・再演)
 伊左治直(b.1968)/ ヨルガオ(アンコールピース13委嘱新作・初演)詩:新美桂子

ホームページ●●● http://vox-humana.wix.com/vox-humana
Facebookページ●●● https://www.facebook.com/voxhumana1996
twitter始めました●●● @voxhumana_info

35回


■ヴォクスマーナ「定期賛助会員」「新作委嘱活動支持会員」募集のご案内
 ヴォクスマーナでは、今年度の創団20周年を記念して3回行われる「定期賛助会員」、第35回定期演奏会の「新作委嘱活動支持会員」を募集いたします。私たちの活動の取り組みをご理解くださり、ご支援くださいますよう、よろしくお願いいたします。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

◆第35回定期演奏会(創団20周年シリーズVol.1 未来を担う女性作曲家)
2016年7月29日(金)開演19:00 東京文化会館小ホール

 渋谷由香(b.1981)/ 委嘱新作・初演
 山根明季子(b.1982)/ 委嘱新作・初演
 小出稚子(b.1982)/ 春宵感懐(2013委嘱作品・再演)
 大熊夏織(b.1987)/ 空を泳ぐ(2015委嘱作品・再演)

◆第36回定期演奏会(創団20周年シリーズVol.2 伊左治直アンコールピース1ダース記念全曲演奏会)
2017年1月12日(木)開演19:00 豊洲文化センターホール

※出演メンバーの避け難い都合により、公演日を、2016年10月12日(水)から変更させていただくことになりました。
 伊左治直(b.1968)/
  Nippon Saudade (208委嘱作品・再演)      
  謎の音楽(2009)詩:三好達治
  なんたるナンセンス!(2010)訳詩:柳瀬尚紀
  あたらしい歌(2010)詩:ガルシア・ロルカ / 訳詩:伊左治直
  グランド電柱(2011)詩:宮澤賢治
  春の楽語集(2011)詩:伊左治直+新美桂子
  一縷の夢路(2012)詩:新美桂子
  或る日の手紙(2013)詩:新美桂子
  カリビアン・ジョーク Caribbean Jokes(2013)詩:池辺晋一郎
  人の声(2014)詩:新美桂子+伊左治直
  人生のモットー(2014)詩:Edna Millay / 訳詩:伊左治直
  谷間に眠る男(2015)詩:Arthur Rimbaud / 訳詩:伊左治直
  雪(2016)詩:新美桂子

◆第37回定期演奏会(創団20周年シリーズVol.3 未来を担う男性作曲家)
2017年3月5日(日)開演14:30 東京文化会館小ホール

 川上 統(b.1979)/ 委嘱新作・初演
 藤井健介(b.1979)/ 委嘱新作・初演
 近江典彦(b.1984)/ Khon-mXahuvona(2014委嘱作品・再演)
 北爪裕道(b.1987)/ Multiplex(2013委嘱作品・再演)

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

定期賛助会(年額 1年3公演分)
・会費:年間 一口\20,000
・特典:各公演のチケット1枚(座席指定)を贈呈、各公演のプログラムにご芳名を掲載、各公演のプログラムを贈呈、各公演のCDの贈呈


新作委嘱活動支持会(各公演)
・会費:第35回 一口\10,000
・特典:公演のチケット1枚(座席指定)を贈呈、公演のプログラムにご芳名を掲載、公演のプログラムを贈呈、新作委嘱作品の楽譜の贈呈、公演のCDの贈呈


●申込方法
(1)Eメールでお申し込みください。
 ヴォクスマーナ事務局 E-mail: voxhumana_info@hotmail.com
(2)申込後、以下の口座にお振込みください。
 振込先:三菱東京UFJ銀行 浅草橋支店 (普)0086923 ヴォクスマーナ代表 初谷敬史

by.初谷敬史
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)
2016-06-21 00:48:04

みずほ合唱団第8回演奏会

テーマ:ブログ
■第8回みずほ合唱団演奏会
6月25日(土)開演14:00
第一生命ホール
(晴海トリトンスクエア内)

Ⅰ. 混声合唱とピアノのための「うつくしいのはげつようびのこども(マザー・グース歌曲集)」訳詞:谷川俊太郎 作曲:林光
Ⅱ. イギリスの風に吹かれて(指導メンバーによるステージ)
 メゾソプラノ:高橋ちはる テノール:初谷敬史 ピアノ:大場智子
Ⅲ. イギリス合唱曲集
モーリー「時は花祭りの5月」、バード「アヴェ・ヴェルム・コルプス」、ダウランド「帰っておいで」「もう泣かないで」、パーセル「知りたもう主よ」(『亡きメアリー女王の葬送音楽』より)、ディーリアス「夏の夜 水の上にて歌える」
Ⅳ. ビートルズ・コレクション(編曲:猪間道明)
「イエスタデイ」「ミッシェル」「イエロー・サブマリン」「ペニー・レイン」「オブ・ラ・ディ、オブ・ラ・ダ」「レット・イット・ビー」

合唱:みずほ合唱団
メゾソプラノ:高橋ちはる
ピアノ:大場智子
指揮:初谷敬史


 演奏会の宣伝が直前になってしまったのが、とても残念であるが、6月25日(土)に、前回の演奏会から2年ぶりとなる「みずほ合唱団」の演奏会が開催される。「イギリス」をテーマに、伝承童謡「マザー・グース」、各時代を代表する作曲家による世俗曲と宗教曲、そして世界にいまだ影響を与え続けている「ビートルズ」をプログラムに並べた。
 プログラムに掲載する「ご挨拶」にも書いたが、僕は、イギリスにとても興味があるし、何か不思議な縁さえも感じる。それは、友人がイギリス音楽を研究しているということと、やはり「ベンジャミン・ブリテン」という作曲家の存在は大きい。しかし、ここだけの話、正直に言ってしまえば、僕が思春期の頃から憧れてやまないテニスの聖地「ウィンブルドン」の存在は、とても大きいと思う。笑 僕がイギリスを旅行した時に、「プロムス」の行われる「ロイヤル・アルバート・ホール」よりも、ロンドンを象徴する「ビッグベン」よりも、まずロンドン郊外の「ウィンブルドン」に向かったことは、正にそのことを象徴しているだろう・・・。笑
 興味こそあるものの、ヨーロッパの中心とは別に独自の世界を築いてきたイギリス音楽は、これまで、僕にとっては遠い存在であった。・・・いつか、どこかで、イギリス音楽をまとめて取りあげたい・・・と思っていたが、なかなかその機会に恵まれなかった。しかし、自らの音楽や人生が充実してきたいま、こうして存分に、合唱団のメンバーと共に新たなチャレンジをさせてもらえることは、本当にありがたいことである。メンバーには、こころから感謝している。

みずほ


 せっかくなので、プログラムに掲載する「ご挨拶」と「第3部プログラムノート」も記しておこうと思う。

◆ご挨拶

イギリスの風に吹かれて

 2011年、イギリスを代表する作曲家、ベンジャミン・ブリテンの研究でイギリスへ渡った友人を、訪ねていったことがあった。・・・ロンドンから北東へ140km。北海に面した小さな漁村「オールドバラ」。ブリテンは、親友でテノール歌手のピーター・ピアーズと共に、この村の丘の上にある「レッド・ハウス」に住まい、そこが終の住処となった。いま、ふたりは、オールドバラの教会の墓地に、並んで眠っている。ブリテンは、オールドバラから海岸沿いに30km行った港町「ローストフト」で生まれた。一流の作曲家であった彼は、華々しいロンドンではなく、生涯、サフォーク州に住み、荒々しい北海から離れることがなかった。
 ・・・村の目抜き通り「ハイ・ロード」には、ピンクや水色のかわいい別荘が立ち並び、短い夏の間には、一時の賑わいを見せる。僕が行ったのは、そのちょうど8月だった。街や浜辺を歩くのは、幼い頃のブリテンのように、白く、手足の長い華奢な子どもや、贅沢の限りを尽くしたペットを連れた親子連れだ。彼らはここで、ゆっくりと流れる時間を楽しんでいるのだ。・・・しかし、この街を印象づけているのは、可愛らしい建物でも、都会からやってきた親子連れでもない。荒々しい海と厳しい風だ。小さな丸石の礫浜に、木製のひなびた漁船がいくつも揚げられている。白雲はどんよりと低く、カモメが忙しなく鳴いている。荒々しい海は黒く、厳しい風はけっして止むことがない。僕は海岸沿いに南に歩いて行くと、色とりどりに旗がなびいている楽しげなヨットクラブがあり、その先にナポレオン軍の侵攻に備えて建てられたという四葉のクローバーの形をした古い要塞「マーテロー塔」があった。・・・僕はそこまで行って、はじめて、ブリテンのこころに流れる風の音を聴いた気がした。
 僕はその音を聴いてから、イギリスにとても惹かれるようになり、2013年には、友人とヒースロー空港でレンタカーを借りて、イングランド中をゆっくり旅してきた。贅沢にも無計画の旅で、僕らはどこに行ってもよかった。しかし、僕らは風に吹かれ、導かれるようにして、その土地土地で霊感を受け、何にも代えがたい感動を得てくることができた。
 本日の演奏会では、イギリスに吹いている風を、少しでも感じていただければ幸いである。


◆第3部プログラム・ノート

◇「時は花祭りの5月」
 ・・・楽しい太鼓や笛の音に、こころ浮き立つのは、村の若者たち。いま、待ちに待った春が、一斉に花開く。明るい緑の丘で、歌い、踊り、そして新たな恋が芽生える。ファ・ラ・ラ・ラと繰り返すのは、イタリアの「バレット」という様式。これは、有節的な2部形式の踊り歌で、特定のリズムパターンの旋律とホモフォニックな構造を持つ素朴な歌だ。
 16世紀から17世紀初頭にかけてのイギリスは、「テューダー朝」の最後の女王、エリザベス1世(1533~1603)の治世のもと、政治や文化において大きな発展を遂げた時代であった。このイギリス・ルネサンスの黄金期を称して「エリザベス朝時代」と言われる。宗教音楽では、女王の「イギリス国教会」設立に向けての舵取りで、国教会のための音楽がたくさん作られた。一方、王侯貴族を中心に、宮廷人の「嗜み」として、音楽を自ら演奏する習慣が広まり、器楽や合唱、歌曲など、さまざまなジャンルの音楽が作られた。
 特に、トマス・モーリー(1557~1603)が、イギリスに紹介したイタリアの世俗声楽曲「マドリガーレ」は、当時、爆発的な人気となる。それをモデルに作られたイギリスの「マドリガル」は、形式的で格調の高い詩を好んだイタリアのそれと違い、作曲家自ら作詞するなど、素朴な英語の詩であったため、言葉のアクセントを活かした明るく、軽い雰囲気のものとなっている。・・・この頃のイギリス人の音楽に対する趣味は、その後のイギリス音楽の特徴「驚くほどの心地よさ」へと繋がっていくように思われる。
◇「アヴェ・ヴェルム・コルプス」
 モーリーの師、ウィリアム・バード(1540頃~1623)は、エリザベス女王の寵愛を受け、イギリス・ルネサンスの頂点を築いた作曲家である。「ブリタニア(イギリス)音楽の父」と呼ばれるほどだ。しかし、本日演奏する「アヴェ・ヴェルム・コルプス」では、楽界の頂点に君臨している華やかなバードではない、彼の裏の姿を見せてくれるだろう。・・・彼は、実は「カトリック」を信仰していたのだ。しかし、当時のイギリスは、宗教改革を経て「イギリス国教会(プロテスタント)」であったため、彼は自分の信仰に偽って、国教会のための音楽を作曲しなければならなかった。晩年に作曲されたこのラテン語によるカトリックの祈り「アヴェ・ヴェルム・コルプス」は、「秘密ミサ」で歌われるために書かれたものであろう。バードは国教忌避者への厳しい弾圧から逃れてロンドンを去り、まるで「隠れキリシタン」のように、自らの信仰をその信念で貫かなければならなかった。この曲では、ルネサンスのカトリック音楽の最大の特徴である豪華絢爛なポリフォニーは極力抑えられ、イエスやマリアに救いを求めるかのごとく、内省的に、しかし信仰の証として、ポリフォニーを限定的に使用しているように感じられる。
◇「帰っておいで」「もう泣かないで」
 リュート奏者であったジョン・ダウランド(1563~1626)は、イギリスに生まれたが、なかなか宮廷リュート奏者として職を得ることができず、国外で活躍することとなる。(それはもしかしたら、彼がカトリック信徒であったことと、関係があるかもしれない。)彼が49歳の時に念願かなって、王室付きリュート奏者となることができた。それは、エリザベス1世が亡くなった後、スコットランド王だったジェームズ6世(1566~1625)が、ジェームズ1世としてイングランド王を兼務し、新たに「ステュアート朝」を築いた彼の寵愛を受けてのことである。・・・彼の音楽の特徴は、哀感豊かな旋律に、リュート的な語法によるポリフォニックな多声部が彩りを添え、叙情的に、時に劇的に、詩と音楽とをみごとに融合させているところにある。このダウランドのリュート付き歌曲は、現代の私たちが聴いても何ら違和感がない。もしかしたら、後のビートルズに繋がる音楽である・・・と言っても、けっして過言ではないように思える。

◇「知りたもう主よ」
 ジェームズ1世が亡くなり、後を継いだ息子のチャールズ1世(1600~1649)の治世になると、王位は神によって定められたものであるという「王権神授説」やイギリス国教会体制が強化されるなかで、王と議会、国教会とピューリタン(清教徒)の対立が激化する。そうした中、鬱積していた社会の歪みが、各地で大きな反乱となり、イギリス全土を巻き込む内戦「ピューリタン革命」へと発展してしまう。結果、チャールズ1世が処刑され、革命軍が勝利する。ここにイギリスは、王のいない「共和制」となる。そして、事実上の軍事独裁となったオリバー・クロムウェル(1599~1658)は、厳格なピューリタリズムによってイギリス全土を統治し、音楽や演劇をはじめとする娯楽も禁じてしまう。教会のオルガンは破壊され、音楽家は追放となった。
 しかし、クロムウェルが亡くなると共和制は長続きせず、6年間で議会が解散となる。そして、クロムウェルによって処刑されたチャールズ1世の息子のチャールズ2世(1630~1685)がフランスから帰還し、ステュアート朝の王位を継ぐ(「王政復古」)。それに合わせて、追放されていた音楽家が、イタリアやフランスから新しい音楽(バロック音楽)を持って帰ってきた。こうした時期に生まれ育ったのが「イギリスのオルフェウス」と称えられるヘンリー・パーセル(1659~1695)である。
 少年時代には王室礼拝堂の少年聖歌隊を務め、成長するとチャールズ2世に見出されてオルガニストに就任。エリート街道をまっすぐに歩んだパーセルは、3世代の王に仕えることとなる。チャールズ2世の弟でカトリックの復活を推し進めたジェームズ2世(1633~1701)。そして、「名誉革命」によって王位に就いたウィリアム3世(1650~1702)とメアリー2世(1662~1694)。・・・本日演奏する曲は、『亡きメアリー女王の葬送音楽』の第6曲目である。
 メアリーは、複雑な生い立ちである。父のジェームズ2世はカトリック信徒で、母はイギリス国教会の信徒。母はその後カトリックに改宗したが、メアリーは国教会として育てられた。それは、カトリックを嫌うイングランド国民の感情を刺激しないためだったと言われている。彼女の葬儀のために、パーセルは国教会の音楽として作曲した。・・・英語で語られる「死への恐れ」を、ルター派のコラールのように、4声の賛美歌のスタイルで切々と歌い上げられている。残念ながら、この葬送音楽は、作曲の翌年、36歳の若さで亡くなってしまったパーセル自身のレクイエムともなってしまった。

◇「夏の夜 水の上にて歌える」
 パーセルの亡き後、不思議なことにイギリスから有名な作曲家が現れなくなってしまう。なんとその間150年。もちろん、バロック期を代表するフリードリヒ・ヘンデル(1685~1759)はロンドンで活躍していたが、その名が表すように彼はドイツ生まれで、音楽はイタリアで学んだ作曲家だった。・・・18世紀から19世紀にかけて、有名作曲家を輩出しなかったのは、いくつか理由があるだろう。そのひとつに、当時、ロンドンはヨーロッパ屈指の文化大都市で、外国人音楽家を、市民が熱狂的に受け入れていた、ということがある。ハイドン、メンデルスゾーン、ワーグナー・・・。彼らは頻繁にロンドンを訪れ、コンサートを行った。イギリス人作曲家は、彼ら、ビッグネームの陰に隠れてしまったのかもしれない。
 純正のイギリス人作曲家(イギリス生まれでイギリス在住)が次に音楽史の表舞台に登場するのは、エドワード・エルガー(1857~1934)を待たなければならない。彼の出現からはじまる19世紀末から20世紀初頭にかけてのイギリス人作曲家の活躍は、「イギリス音楽のルネサンス」と後に言われるほど目覚ましいものだった。ヴォーン・ウィリアムズ(1872~1958)、グスタヴ・ホルスト(1874~1934)、そして、新たな世代を切り開くべく登場するベンジャミン・ブリテン(1913~1976)・・・。
 本日取りあげるフレデリック・ディーリアス(1862~1934)は、エルガーと同世代の作曲家である。ドイツ系の両親のもと、彼はイギリスで生まれた。アメリカやドイツに渡って音楽を学び、音楽院卒業後にはパリへ移ったが、パリでは、フランスの音楽家とほとんど交流しなかったという。それよりも、彼はパリで出会ったドイツ人画家と結婚し、セーヌ川の支流、美しい「ロワン川」の畔(グレ=シュル=ロワン村)で幸せに暮らしたのだった。しかし、彼は若い頃の奔放な遊びのために病気を患い、身体の麻痺に悩まされ、徐々に視力を失っていく。
 1917年、第一次大戦の戦火がフランスにも押し寄せる頃、ロワン川の畔で、「夏の夜 水の上にて歌える」は作曲された。・・・月明かりの下、ロワン川は涼やかな水音をたててゆっくりと流れていく。半音階的に変化していく官能的で空想的な和声進行の中で、彼自身の思い出を綴るように、甘美な旋律が漂っていくようだ。そこは、もうフランスでも、ドイツでもない。彼は、こころの中に響き続けている懐かしい牧歌を聴きながら、イギリスの風に吹かれているのであろう・・・。 

by.初谷敬史
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)
2016-06-17 13:55:32

スコットランド・4

テーマ:ブログ
(承前)

 「唱歌」を作り出す中心となった機関は、僕の母校「東京芸術大学音楽学部」の前身である「東京音楽学校」(1887年)であり、そのまた前身の「音楽取調掛」(1879年)が大きな役割を果たした。・・・この「おんがくとりしらべがかり」、なかなかステキな響きである。同じように、「東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)」(1887年)の前身として「図画取調掛」(1885年)という機関もあった。このふたつの機関は、文部省が設置したもので、明治の初頭において、驚くべき早さで設置された。「音楽取調掛」は明治12年の設立である。いろいろなものを一気に整備しなければならなかった政府であるが、これは異例の早さといえるだろう。
 まず、音楽に関して調査が行われたのは、西洋音楽である。「音楽取調掛」の掛長、そして「東京音楽学校」の初代校長となる伊澤修二(1851~1917年)たちが、アメリカへ留学し、西洋音楽を学んだのが始まりである。
 伊澤が興味をもって学んだのは、音楽そのものよりも、音声生理学や発音などの身体的な働きについてだったという。彼は、歌が苦手だったそうだ。なぜなら、西洋の音階「ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ」が、感覚的に分からなかったからだ。・・・これは、たぶん、当時の日本人が皆、そう感じたに違いない。日本の音階は「ド・レ・ミ・ソ・ラ」であるので、「ファ」と「シ」は、未知の響きであった。

 帰国後に書かれた報告書によると、音楽について、「健康」と「道徳」のふたつの意義が挙げられている。「健康」については、「生命の基本である呼吸を鍛え、健全な肉体を作る」ということ。「道徳」については、「長音階」と「短音階」のことが述べられている。「長音階」は「勇壮活発」であるので、長音階で教育された者は、「有徳健全なる身体を長養する」という。そして「短音階」は「柔弱憂鬱」であるので、「無力多病なる気骨」なのだそうだ。・・・だから、先進的な国家は、長調で国民を教育しなければならない、と。そして、「唱歌」をみんなで正しく歌うことによって、邪悪な思想を追い払い、健全なこころと身体を育て、ひとつの方向を目指し、共同体の中で秩序正しく振る舞い、戦場においても、勝利のために最善の行動をとることができる・・・、と。
 このようにして、まず、西洋音楽を日本に輸入した。それと同時に、古来よりの伝統的な日本音楽がなくならないように、調査の上、整理し、必要に応じて改良し、保存した。これは、最終目標に、西洋と日本の音楽の良いところを折衷して、日本固有の新たな国民音楽「国楽(こくがく)」を創り出す・・・ということを掲げていたからである。

 1879年(明治15年)に「音楽取調掛」によって、学校教育用に編纂された『小学唱歌集』の大部分は、外国の曲のメロディに、新たに日本語の歌詞がつけられた。
第13番「見わたせば」(ジャン・ジャック・ルソー「結んで開いて」)
第17番「蝶々(てふてふ)」(ドイツ民謡)
第18番「うつくしき」(スコットランド民謡「スコットランドの釣鐘草」)
第20番「蛍」(スコットランド民謡「蛍の光」)
第53番「あふけば尊し」(アメリカの歌)
第56番「才女」(スコットランド民謡「アニー・ローリー」)
第78番「菊」(アイルランド民謡「庭の千草」)
第73番「誠は人の道」(モーツァルト『魔笛』よりパパゲーノのアリア)
第89番「花鳥」(ウェルナー「野ばら」)

 この中には、伊澤修二が作曲した第44番「皇御国(すめらみくに)」など、僕たちが思い浮かべる「唱歌」からは、ほど遠い内容のものもある。・・・「皇御国の もののふは、いかなる事をか つとむべき、ただ身にもてる まごころを、君と親とに つくすまで・・・」。
 「文部省唱歌」と聞いて、いま、僕たちが思い浮かべるのは「故郷」「春の小川」「朧月夜」などであろう・・・。
 日露戦争(1904~1905年)の勝利に湧き立つ1910年(明治43年)、文部省が初めて編纂した尋常小学校用の教科書『尋常小学読本唱歌』には、第22番「出征兵士」、第23番「同胞ここに五千万」といった、おどろおどろしいタイトルの曲が含まれている。これは、当時使われていた国語の読本『尋常小学読本』の中から選ばれた27首を、日本人の作曲家が曲をつけたものである。第22番「出征兵士」のすぐ前の第21番「われは海の子」の7番の歌詞には「いで大船を乗り出して 我は拾わん海の富 いで軍艦に乗り組みて 我は護らん海の国」と曲を結んでいる。
 更に、『尋常小学読本唱歌』を受け継いで編纂された『尋常小学唱歌』(1911~1914年)には、第一学年用の第1番「日の丸の旗」、第二学年用の第15番「天皇陛下」など、また、1932年(昭和7年)の『新訂尋常小学読本唱歌』には、第六学年用の第8番に「日本海海戦」などが含まれている。(・・・太平洋戦争勃発の前夜に、遥か昔「日露戦争」の栄光を語っていることに注目したい。)
 ・・・ここに、敢えてだいぶ偏って、曲目を挙げてみたが、これらを見ると、日本が、まっすぐ戦争へと突き進んでいく中で、政府がどのように国民を教化させていったのか、よく分かるだろう。もちろん、美しい山河や移り行く季節などを歌った曲もたくさんあったが、当時、それぞれの教科の内容を一致させるべく「教科統合」ということが行われ、「教育勅語」をよりどころに国民道徳の実践を目的とした「修身」や「国語読本」、「国史」などの教科書と共通の内容が「唱歌」に使用され、総合的に学び、習得する方法がとられた。

 そう、「唱歌」は、学校教育において、「芸術」として扱われていなかったのである。
 いろいろ調べて分かったことは、戦前には、いまのような芸術科目としての「音楽」の授業はなく、「唱歌」という名の教科があった。この授業は、現在行われているような楽器の演奏や、鑑賞、楽典は含まれていない。・・・では、何を勉強していたのかと言うと、みんなで声を合わせて、ひたすら「唱歌」を歌っていたのである。
 ・・・それは、何の目的で歌っていたのかと言うと、歌の形式を借りて、「新しい日本人」として必要なさまざまなことを、覚え込ませたのである。日本の歴史、山河の美しさ、天皇の正当性、帝国としての優位性、日本人としてあるべき姿・・・。つまり、「唱歌」が、日本人を、新たな日本人として、健全、且つ明晰に、頭脳と身体、そして精神とを、立派に、皆等しく、形成させていく・・・という重要な役割を担っていたのである。
 これは、キリスト教において、聖書の言葉を簡単なメロディに乗せ、「聖歌」として各地に普及させていったことや、「賛美歌」を歌うことで、会衆が感動のうちに、共同体の一員であることを強く実感するのとよく似ている。

 ・・・すこし否定的な事柄のみを書いてしまったが、「戦争のための国民教化」という側面を除けば、「唱歌」による学校教育は、僕たち日本人にとって、とても有意義なことであったように思う。なぜなら、他の学科では感じ得ない、さまざまな感覚を磨くことができるからだ。それまで培ってきた日本人の美意識に、西洋の美意識の感覚が加わることによって、学校教育を受けたすべての新たな日本人が、素晴らしい感性をもって、豊かな音楽を体験することができたのである。この体験は、音楽だけに留まることなく、さまざまな分野において、存分に活かされていると思うのである。

 ♪春が来た 春が来た どこに来た~
 ・・・いま「唱歌」を聴いて、「日本人のこころのふるさと」と感じるのには、実はこのような経緯があったのである。このことは、フリーメイソンの活動の恩恵なのか・・・、それとも、明治をつくった若者たちの希望溢れる夢のおこぼれなのか・・・、僕らにとっては、よく分からないことであるが、僕が音楽によって人生を救われ、いま、その音楽を生業としていられるのは、先人たちが、さまざまなことを考え、苦労し、培ってきたお陰なのだ・・・と、改めて実感する。
 そう言えば、僕が歌をうたうきっかけとなった曲がある。それは「春が来た」(高野辰之作詞、岡野貞一作曲)である。僕が小学3年生の時、担任の先生に薦められて、「足利少年少女合唱団」の入団試験を受けた。その課題曲が「春が来た」だった。いまでもよく覚えているが、放課後に音楽室で、先生は熱心にこの歌を教えてくれた。先生の指導のお陰で、試験では、自信をもって、思いっ切り歌うことができた。・・・たぶん、試験を受けた児童の中で、僕が一番上手だったはずだ。笑 ・・・明るく、伸びやかで、張りのある声、しかも音楽的なフレージングで、情感が適度に乗った塩梅が絶妙だった。笑 僕は試験で、あまりにもよく歌えたので、意気揚々と教室を出てきたのだった。・・・「春が来た」は、『尋常小学読本唱歌』に掲載されていた「唱歌」のひとつである。

 僕の音楽の原点は「唱歌」にあり、そのルーツの多くは、スコットランドにある。・・・こんなふうに考えると、とても感慨深い。スコットランドの曲を、日本人の僕が、「こころのふるさと」だと思えるなんて、とても素晴らしいことではないか・・・と。


※奥中康人『国家と音楽』と渡辺裕『歌う国民』を参考にさせていただきました。

by.初谷敬史
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)
2016-06-17 13:52:48

スコットランド・3

テーマ:ブログ
(承前)

 日本に「蛍の光」が伝えられたのは、もしかしたら、「蛍の光」の故郷、スコットランドからではなく、アメリカで育った「蛍の光」ではないかと思う。しかし、一般のアメリカ人同様、この曲がフリーメイソンの曲だとは、日本人は誰も気付いていなかったかもしれない。もし、会員の誰かを通して、意図的に輸入されたとしても、フリーメイソンの「友愛」色は、「唱歌」として日本語の歌詞を新たに付けたことにより、一掃されてしまった。
 「唱歌」として新たな歌詞が付けられた「蛍の光」を、じっくりと味わっていただきたい。

「蛍の光」(明治15年『小学唱歌集』初編の第20番「蛍」)
日本語作詞:稲垣千穎(音楽取調掛)
原曲:スコットランド民謡(詞は、ロバート・バーンズの「Auld Lang Syne」)

1. 蛍の光 窓の雪
書(ふみ)読む月日 重ねつつ
何時(いつ)しか年も すぎ(過ぎ / 杉)の戸を
開けてぞ 今朝は 別れ行く
(蛍の光や雪に反射して、窓から差し込む月の光を使って、書物を読む日々を重ねていると、いつの間にか年月が過ぎていき、今朝は杉でできた戸扉を開けてクラスメイトと別れていく)

2. 止まるも行くも 限りとて
互(かたみ)に思ふ 千万(ちよろづ)の
心の端を 一言(ひとこと)に
幸(さき)くと許(ばか)り 歌ふなり
(ふるさとに残る者も、ふるさとから出るものも、今日限りでお別れということで、互いに思う何千、何万というこころの端々を、たったひと言「無事で」とばかりに歌うのである)

3. 筑紫(つくし)の極み 陸(みち)の奥
海山(いみやま)遠く 隔つとも
その真心(まごころ)は 隔て無く
ひとつに尽くせ 国の為
(九州の果てであろうと、東北の奥であろうと、海や山が遠く隔てたとしても、まごころだけは場所に関係なく、ひたすらに力を尽くそう、お国のために)

4. 千島(ちしま)の奥も 沖繩も
八洲(やしま)の内(うち)の 護りなり
至らん国に 勲(いさを)しく
努めよ我が夫(せ) 恙(つつが)無く
(千島列島の奥も、沖縄も、日本の支配下にある。日本の支配が届かない国には、勇敢に「仕事」をしてください、男性のみなさん、どうぞご無事で)

 1番の歌詞「蛍の光、窓の雪」は、中国の故事「蛍雪(けいせつ)の功」(貧乏のために蛍の光で勉強し、また夜、窓の外に積もった雪に反射する月の光で勉強していた)であることが分かるが、明らかに、3番と4番の歌詞が、「ひとつに尽くせ 国の為」とナショナリズムが強調されている。
 これは、「明治新政府の軍国主義による国民強化」と一義的に解釈される訳であるが、当時、なぜ、「蛍の光」のメロディに、このような歌詞を付けたのか・・・、時代背景を知る必要があるし、明治という新しい時代を迎えた日本人が、当時どのように考え、そしてどのように行動したていったのかを知らなければ、本当の意味で、理解したことにならないだろう・・・。

 「泰平の眠りを覚ます上喜撰 たつた四杯で夜も眠れず」(「上喜撰」とは、宇治の高級茶で、黒船の「蒸気船」とかけている)
 幕末の1853年、ペリー提督率いるアメリカ海軍東インド艦隊の4隻の黒船が、浦賀沖に現れた。このたった4隻の黒船が、その後の日本をがらりと変えてしまうことになる。
 ・・・日本の歴史上、転換点はいくつかあった。新たな文明を携えて、大陸から弥生人が渡来し、王朝を築いていった時代。中国の支配から逃れ、独立国「日本」として歩みだした平安時代。「日米修好通商条約」という不平等条約から出発し、列強に追いつくために国民が一丸となった明治。敗戦で軍国主義から解放され、経済を成長させていった戦後。・・・しかし、幕末から明治にかけて、これほど急激に、日本が変化した時はないだろう。もし、タイムマシーンに乗れたとしたら、この時代をこの目で見てみたい・・・。
 黒船の来航は、いろいろな意味で日本を活気付かせた。政治を担うものばかりでなく、下級武士や庶民にいたるまで、「日本」ということに関心を持ち、さまざまなことを聞き、見て、考え、そして意見を交わした。人びとは、長い眠りから覚めたかのように、いろいろな感覚が覚醒されたのである。

 徳川幕府は、アメリカ側の「開国」の要求を、はねのけることができず、右往左往するだけで、決断することができなかった。なぜなら、何と、あの大国「清」が、「アヘン戦争」でイギリスに負けてしまったからだ。日本も、このままいけば、欧米の植民地になってしまうかもしれない・・・。それは、江戸の人びとが、黒船という最先端の近代装備を備えた大きな黒船を見れば、一目瞭然のことだった。・・・幕府は、200年以上続いてきた「鎖国」を解く「開国論」へと傾いていくこととなる。そこで幕府は、広く意見を求めることにした。これまで意見を聞くことなどなかった外様大名や一般庶民にいたるまで・・・。しかし、幕府の意図とは反対の方向へと世論が傾いてしまう。外国を払いのけようという熱狂的な「攘夷論」が湧き立ち、幕府はその意見をどうすることもできなくなってしまった。
 結局、幕府は、半ば強引に、アメリカとの間に「日米和親条約」(1854年)を結び、開国した。そして、アメリカの強い圧力に負け、「日米修好通商条約」(1858年)という不平等条約を結ぶこととなってしまう。しかし、この条約を結ぶことは、時の天皇であった孝明天皇は反対しており、勅許のないまま、幕府の判断で、条約を結んでしまったのである。それがもとで、全国で幕府への不信が高まり、「尊王攘夷論」が更に加熱していくこととなる。そこで幕府は、朝廷と幕府の関係の修復をはかり「公武合体」で難局を乗り切ろうとするが、上手くいかず「大政奉還」(1867年)。これで江戸幕府の長い歴史は幕を閉じ、「王政復古」(1868年)、「戊辰戦争」(1868~1869年)を経て、明治新政府が樹立されることとなる。

 そこで面白いと思うのは、反幕府軍はもともと、天皇を尊び、外国を払いのけようという「尊王攘夷」だったはずだが、倒幕を果たし、天皇を中心とした新政府を作ったとたん、外国を払いのけるどころか、外国に倣い、すべてのことを西洋化していくこととなる。それは、一体なぜなのだろうか・・・。それは、新政府を作った人たちが、アメリカやヨーロッパ諸国をその目で見て、近代化された圧倒的な西洋文明を体験してきたからであろう。
 岩倉具視を筆頭に、新政府を担う人びとや留学生など総勢107名で構成された「岩倉使節団」(1871~1873年、明治4年~6年)。・・・アメリカやヨーロッパ諸国を巡った彼らは、本当に驚いてしまったのだと思う。彼らは、そこで世界の現実を目の当たりにして、長い間、鎖国をしていた江戸時代、日本固有の文化は花開いたが、いわゆる西洋の近代化から完全に取り残されてしまった・・・と実感したはずだ。まるで、竜宮城で長居した浦島太郎のように・・・。古来よりの和装(チョンマゲに和服姿)に誇りを持っていた岩倉は、正装をし、天皇の国書を持って、条約改正を意気込んで渡米した訳だが、その出で立ちをアメリカ人が見て、「未開の国からの使者」という印象を持たれてしまったのだそうだ。岩倉は、これでは対等に交渉ができない・・・と判断し、その場で断髪したのだという。

 その「岩倉使節団」に先立つこと8年前。まだ幕末の動乱期であった1863年、実は、「長州五傑(ちょうしゅうごけつ)」と呼ばれる5人の長州藩士が、ロンドンに留学していた。井上馨(聞多)、沿道勤助、山尾庸三、伊藤博文(俊輔)、井上勝(野村弥吉)。ロンドンから帰国した彼らは、明治新政府において、それぞれ、外交・造幣・工学・内閣・鉄道といった分野において、新しい日本をリードしていった。
 ・・・彼らをロンドンに送ったのは、誰か・・・。それは、トーマス・グラバー(1838~1911年)であるという。長崎の「グラバー邸」の主人だ。・・・そうだとすると、明治という新しい日本を作ったのは、もしかしたらグラバー、いや、グラバーを仲介とする大きな組織の存在が、浮かび上がってくる。
 調べてみると、彼は、スコットランドの出身である。商人として、日本にやってきて、「グラバー商会」を設立する。はじめは、生糸やお茶の輸出をしていたというが、幕末の混乱に乗じて、最新の武器や弾薬を販売した。特に、犬猿の仲であった薩摩藩と長州藩の改善を修復し、幕府を倒す軍事同盟「薩長同盟」を結ばせた坂本龍馬(1836~1867年)と取引をして、倒幕側に大量に武器を売った。軍事力という側面から考えると、倒幕にとって、これは決定的なことであった。
 ・・・グラバーは、フリーメイソンであった。そして、坂本龍馬は日本で初めてのフリーメイソンである。アメリカの独立や、日本の明治維新に、どれだけフリーメイソンが関係しているのか分からないが、少なくとも、重要な人物が深く関わっている・・・ということに間違いはない。

 話しを戻すが、近代的なアメリカやヨーロッパ諸国を肌で体験してきた「岩倉使節団」や「長州五傑」といった人たちが、どれだけ日本に危機感を持ったのかは、想像の範囲を超える。彼らが、日本という国を、根底から変革しなければならない・・・と強く思ったのは、植民地化されてしまった「清」の二の舞を踏んではいけない・・・ということだっただろう。
 しかし、これほど急ピッチに、すべての分野において、改革が実行できたのは、危機感や恐れの気持ちからだけではなかったのではないか・・・と、僕は思う。彼らは、西洋文明を手本に、世界に誇る新しい日本を、自らの手で作り直す・・・といった途方もなく大きな夢にワクワクし、果敢に挑戦していく自信と勇気を、希望を旗印に、自らの内に奮い立たせていたのではないか、と。
 そこで彼らは、西洋に劣ることのない強く、そして豊かな日本を作るために、天皇に政権を集中させ、西洋風の軍隊を整備した。しかし、それだけでは形ばかりである。本当の国の強さは、国民ひとりひとりの強さであり、本当の国の豊かさは、国民ひとりひとりの豊かさであろう。それには、頭脳や身体、精神のあらゆる面で、健全で、かつ明晰であるように、政府が国民ひとりひとりを教化していかなければならなかったのである。

 ところで、江戸時代までの日本人は、どれだけ自分が「日本人」であることを自覚していただろうか・・・。例えば、栃木県生まれの僕が、「あなたの国はどこですか?」と聞かれたなら、当然のごとく「下野国です」と答えただろう。日本という統一国家はあったものの、所属していたのは「藩」という自治組織であった。・・・だから、世界に誇る新たな日本人を作るために、新政府は、国民に、「日本人」であることを、強く自覚させる必要があった。それには、日本という国の成り立ちや、天皇の正当性などを整理し、国民に共通のルーツやアイデンティティを持たせなければならなかったのである。
 ・・・そこで、大事なのは学校教育である。さまざまな授業が展開されたが、「蛍の光」などが教材となった「唱歌」という時間は、とても重要な位置づけであったという。

・・・つづく・・・

by.初谷敬史
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)
2016-06-17 13:50:20

スコットランド・2

テーマ:ブログ
(承前)

 稽古中、三枝さんが、「スコットランドの音楽は、ペンタトニック(五音音階)だ」と解説してくれた。・・・なるほど、僕らが演奏する「アニー・ローリー」、「故郷の空(ライ麦の畑で)」、「スコットランドの釣鐘草」、「ロッホ・ローモンド」、「蛍の光」のメロディを、ハ長調に移調してみると、その全てが、「ド・レ・ミ・ソ・ラ」で作られていることが分かった。
 ・・・これらの曲は、僕たち日本人にとって、とても馴染みのある曲で、もしかしたら、「蛍の光」などは、日本の曲・・・だと思っている人が多くいるのではないかと思う。それもそのはずである。これらスコットランドのメロディは、明治初期において、「唱歌」(「文部省唱歌」など)のメロディとして、多く取り入れられたのだ。
 西洋の音階を知らない日本で、なぜ取り入れることができたのかは、三枝さんの説明で、謎が解けたわけである。それまでの日本の音階が「五音音階」だったからである。
 しかし、「唱歌」としてメロディを取り入れたが、歌詞はスコットランド語を日本語に訳したのではなく、「蛍の光」や「ライ麦の畑で」などは、まったく違う日本語の詞が付けられた。「ライ麦の畑で」は、タイトルまで「故郷の空」と変えられてしまった。単純に、当時、「ライ麦」と聞いて、ライ麦がどういうものなのか想像できる日本人はいなかった・・・という理由もあるかもしれない。しかし、そうした理由だけで、歌詞が新たに付けられたのではないのだ。
 これらのことを、いろいろと調べてみると、面白いことがたくさん分かったので、少しここに紹介したいと思う。

 まず、「唱歌」として取り入れられた「蛍の光」について。
 三枝さんの説明によると、「蛍の光」の原曲は、スコットランドの「フリーメイソン」で歌われていた曲だったそうだ。メロディそのものは、古くから伝わるスコットランドの民謡であるが、それに詞を付けたのは、スコットランドの国民的詩人で、生涯を通じて、スコットランドの民謡をたくさん集め、美しい歌詞をつけたロバート・バーンズ(1759~1796年)である。彼は、フリーメイソンの会員だったと言われている。
 バーンズ作詞「Auld Lang Syne(蛍の光)」の歌詞の内容は、「古い友との再会を喜び、共に遊んだふるさとの野山を思い出す。そして、お互いに手を差し伸べ、友情の杯を交わす・・・」というものだ。これは、フリーメイソンの5つの基本理念「自由」、「平等」、「友愛」、「寛容」、「人道」のうち、「友愛」にあたるだろう。
 彼らは、この歌を一緒にうたい、「仲間」であることを確かめあった。このように、フリーメイソンのための曲は、世界中にたくさん残されている。例えば、ウィーンのロッジに属していたモーツァルトも、フリーメイソンのための曲をたくさん作った。2014年11月にロクダンが出演した「モーツァルトハウス・ウィーン inジャパン2014~三枝成彰が解き明かすモーツァルトとフリーメイソンの謎」で歌った「儀式の開式音楽 K.483」や「フリーメイソンの歌 K.623a」などは、正にそのものである。これらは、キリスト教におけるグレゴリオ聖歌や賛美歌と同じような効果をもたらした。つまり、誰もが歌えるような簡単なメロディに歌詞をのせることで、歌詞の内容を自然と覚えることができる。そして、みんなで同じメロディをうたい、同じ歌詞を唱えることで、一体感がうまれ、ひとつの共同体の一員であることに誇りを持つことができるのだ。それは、現在の「国家」や「県歌」、「校歌」なども、同じことが言えるだろう。

 ところで、フリーメイソンは、どこが発祥か・・・というと、エルサレムの「ソロモン神殿」や古代エジプトの「ピラミッド」を作った「石工職人」は別として、近代の意味でのフリーメイソンは、イギリス、特にスコットランドなのだそうだ。16世紀には、スコットランドに、活動拠点となる「ロッジ」が存在していたという。それがイングランドにも普及し、最初の「グランドロッジ」は、1717年にイングランドに設立された。そこでは、きっと、会員が集まると、「蛍の光」が歌われていたのだろう。
 時を経て、フリーメイソンの「蛍の光」は、新大陸アメリカへと渡った。これは、フリーメイソンとカトリックとの対立によるものだと言われている。歴史的な事件としては、1738年、ローマ教皇クレメンス12世が、フリーメイソンの破門を宣言したのをきっかけに、フリーメイソンはイギリスでの活動の場を失われ、宗教から自由になるために、新天地ニューイングランドへ渡ったのだという。
 フリーメイソンは、モーツァルト『魔笛』にもあるように、エジプトを起源とする「オシリス」や「イシス」の神々を「至高の存在」として崇拝しているものの、宗教団体ではなく、かえって、ピラミッドに目が描かれた「プロビデンスの目」をシンボルとしているように、神や王からの支配から逃れ、人間本来の「理性の自立」を謳った「啓蒙思想」を実践する団体であった。この理念は、後の「フランス革命」へと繋がっていく。
 当時、アメリカへ渡ったのは、フリーメイソンだけでなく、1620年に、「メイフラワー号」に乗っていた「ピューリタン」も有名である。イギリスでは、何百年にも渡って、カトリックとイギリス国教会(プロテスタント)、また、イギリス国教会とピューリタン(カルヴァン派プロテスタント)とが、激しく争っていた。
 1776年、アメリカはイギリス本国との「独立戦争」に勝利し、「独立宣言」をする。フリーメイソンであった初代大統領ジョージ・ワシントンをはじめとして、その後、アメリカはフリーメイソン大国となっていく。・・・いまでも、ごく一般的に、「蛍の光」(「Auld Lang Syne 古きよき日々」)が、大晦日に歌われるそうである。・・・ほとんどのアメリカ人は、なぜ大晦日に「蛍の光」を歌うのか分かっていないというし、詩の内容を理解して歌っている人はいないのだという。(詩を理解しないという点では、日本人が「箱根八里」の意味が分からないのと似ている。笑)

・・・つづく・・・

by.初谷敬史
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)
2016-05-31 00:47:17

スコットランド・1

テーマ:ブログ
■「第26回 インターナショナル・オルガン・フェスティバル・イン・ジャパン2016」
東京公演:6月17日(金)開演19:00
東京カテドラル「関口教会」聖マリア大聖堂


パイプ・オルガン:サイモン・ニミンスキー
バグパイプ:山根篤
合唱:六本木男声合唱団 ZIG-ZAG(指揮:初谷敬史)


***

 この度、六本木男声合唱団 ZIG-ZAGが出演するコンサートは、「第26回 インターナショナル・オルガン・フェスティバル・イン・ジャパン2016」の東京公演である。この音楽祭は、オルガン音楽を通して、国際文化交流と国際親善を図るために開催されているもので、世界各国からオルガニストを招聘しているそうだ。
 今年は、「スコットランド」を紹介する機会として、スコットランドからサイモン・ニミンスキーさんを招聘し、本邦初演のスコットランドのオルガン音楽を演奏する。また、東京公演では、「日本スコットランド協会」理事で、日本のバクパイプ演奏を牽引している山根篤さんのバグパイプ演奏と、六本木男声合唱団 ZIG-ZAGが、スコットランドの曲を合唱する。

 僕はこれまで、あまり「スコットランド」に触れる機会がなく、この音楽祭に出演することが決まった時も、具体的なイメージがまったく湧いてこなかった。・・・スコットランドと聞いて、イメージできたものは、NHK連続テレビ小説「マッサン」の「ウィスキー」、永遠に途切れない持続音と華やかなメロディの「バグパイプ」と、男性がはいている格子柄のスカート「キルト」、未確認怪獣「ネッシー」の「ネス湖」、ゴルフの聖地で緑の美しい「セント・アンドリューズ」、そして少し前に話題になった、「スコットランド独立住民投票」ぐらいなものだった。

 以前、友人とイギリス旅行した時に、スコットランドには行けなかったのだが、ロンドンの街を歩いていると、どこからともなく多くの倍音を含んだバグパイプの不思議な音が聞こえてきたり、「ストーンヘンジ」に行くのに、ソールーズベリ駅から赤の二階建てバスに乗った時、後からヴァイキングのような大男が乗ってきて、後部座席の中央にどかりと腰を下ろし、見れば、彼がスコットランドの正式な民族衣装を着ていたりして、イングランドにいながら、少しスコットランド的なものに触れたことはあった。そう言えば、「グラインドボーン音楽祭」行きのバスでも、大きなピクニック用のバスケットを手に、「キルト」を来たスコットランド人が乗ってきたことがあった。
 ・・・その時々に感じた彼らの独特の雰囲気は、どこか威厳に満ちた緊張感があり、それが寡黙で、しかし大らかで、その中に、何か超越的なものを含んでいるように思えた。僕は友人に、「あの人、スカートの下に、パンツをはいてないんだよ!笑」と小声で冗談を言って、物珍しそうにチラチラ見てしまったりしたのだが、大男は微動だにせず、悠々と行き先だけを見ているのだった。

 彼らの中に秘める超越的なものは、いったいどこからくるのだろう・・・。僕は、きっと「誇り」なのだろうと思う。民俗や歴史、文化・・・。ロンドン市民から見れば、田舎者であろう彼らは、けっして臆しているように見えない。それどころか、彼らは、ロンドン市民が忘れてしまった何かを、自分たちは大切に守り、いままでも、そしてこれからも永遠に、こころの中に秘めていくのだ・・・と言わんばかり、落ち着き払っているのだ。
 僕はそこのところを、今回の交流で探っていきたいと思っている。

スコットランド

・・・つづく・・・

初谷敬史
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)
2016-05-30 01:13:28

第31回足唱コンサート・3

テーマ:ブログ
(承前)

 プログラム・ノートを書いたので、コンサートを前に、ここにも載せておきたいと思う。

***

 世界にはたくさんの「うた」がある。土地にまつわる民話や、道徳的、また宗教的な教訓を歌ったもの。人びとの願いや祈りが込められたもの。ナショナリズムや民族の意気を鼓舞するもの・・・。それらは、それぞれの民族の言葉と古来より伝わる節回しに、故郷への想いや追憶、現世では満たされぬ希望を乗せ、大切に歌い継がれてきたものである。やがて、国境を越え、世界へと広まっていった。不思議に感じるのは、まるで、それらが、私たちにも「自らの故郷のうた」であるかのように懐かしく感じられてしまうことである・・・。
 今回のコンサートでは、世界に伝わるさまざまな「うた」を出発点として、三人の作曲家の代表作を並べた。彼らの創作は、それぞれがまったく異なったところからスタートしており、それをここに並べ、比較することによって、私たちはその中から、私たち自身の「うた」を発見する契機になれば・・・と考えている。

 北海道旭川に生まれた間宮芳生(まみや みちお)(1929年~)は、東京音楽学校(いまの東京芸術大学音楽学部)を卒業後、日本民謡の研究をはじめる。・・・私たちの祖先が、古来より口ずさみ、伝えてきた「うた」だ。八百万の神に感謝する「祝詞」をもとにした「神楽」や、農作業の辛さを和らげたり、集団で作業をしたりするときに歌われる「労作唄」、背中に背負った自分自身の過去を追憶する「子守唄」や「わらべうた」など・・・。人びとの生活の中で歌われていた「うた」には、僕たち自身の内奥に眠る民俗的な調べや、人びとの願いや想いが込められた呪術的なエネルギーが響く。間宮は、そうした「うた」に次第に夢中になっていった。
 その中で、彼の興味をひいたのは、さまざまな形の「かけ声」や「ハヤシコトバ」の面白さだった。「日本民謡やハヤシコトバを研究しているうちに、論文にならずに『合唱のためのコンポジション』になった」と彼は述べているが、「ハヤシコトバ」の中に、言葉と音楽の結合の、あらゆるパターンの原型を発見し、それを整理・分類していく中で、それらが、彼の新たな音楽創造の源泉となり、素材となっていったのだった。彼は、自由な発想で唱えられてきたハヤシコトバに、自らの創作の無限の可能性を見出した。そして、そのほとんどが彼自身の造語で構成された「合唱のためのコンポジション」シリーズを、17作生み出し、それが彼の代表作となった。
◆『合唱のためのコンポジションⅠ』(1958年)
 1958年、東京混声合唱団の委嘱により作曲。同年、岩城宏之の指揮で初演。曲は四つの楽章からなるが、今日は、労作唄(田の草取り唄など)を基軸とし、濁音や太鼓の響きを模した音を多用した第二楽章、子守唄とわらべうたを用い、ナ行とラ行を多用した第三楽章、神楽の音楽を組み合わせた第四楽章を演奏する。 

 19世紀終わりから20世紀初頭のフランスにおいて、自らの信じる道を歩んでいった作曲家、ガブリエル・フォーレ(1845~1924)。彼の音楽は、サン=サーンスの古典主義とも、より進歩的なドビュッシーとも違う、独自の地位を獲得した。彼の根底に流れる音楽や音楽経験は、他の作曲家とは大きく異なる。彼は、9歳の時、パリの「ニーデルメイエール古典宗教音楽学校」に入学し、グレゴリオ聖歌やルネッサンスのカトリック音楽を徹底的に学んだ。その後、パリのマドレーヌ寺院でオルガニストを務め、また同時に、華やかなサロンでも活躍した。・・・彼が音楽に求めたのは、人を威圧したり、技巧に溺れたりすることではなく、彼の得意とした小品において、ごく自然に流れる音の流れに、彼の理念と言える洗練さや崇高さを織り込むことだった。
 彼は、他の作曲家たちとは、別次元で音楽を捉えていた。彼が妻に宛てた手紙に「存在しないものへの願望は、おそらく音楽の領域に属するものなのだろう」という言葉がある。彼は、きっと現実の世界に何かを求めていたのではない。音楽を媒介にして、絶対的な「神」や、誇り高い「いにしえ」、雅な「虚構」といった非現実の中に、身を置こうとしていたに違いない。
◆「ラシーヌ讃歌」作品11(1864年)
 ・・・とても静かな夜、人びとが救いを求めて教会へと集ってくる。そして、おのおのが聖書のことばを唱え、祈る。そうして、そっと、迷いや悩みを打ち明ける。しかし、神は沈黙したまま・・・。人びとが、こころの奥底から強く神に呼びかけると、厳格な神は、人びとを大きな愛で包みこんでくれる。その瞬間、迷いや悩みが断ち切られ、人びとは感謝の気持ちを、讃歌で神に返そうとする――フランス文学至高の劇作家ジャン・ラシーヌの晩年の傑作に感銘を受けた18歳のフォーレは、「ニーデルメイエール古典宗教音楽学校」の卒業作品として、この曲を作曲した。若いフォーレの神へ対する誠実な眼差しと信頼感が、まっすぐに私たちに伝わってくるように感じられる。
◆『レクイエム』作品48より「アニュス・デイ(神の子羊)」(1877年)
 羊たちが牧場を歩いていくように、冒頭は牧歌的にはじまるが、突然、嵐が来るように、イエスの受難が暗示される。古来より、人びとの罪を償うために、神に「生け贄」を捧げる風習があるが、イエスは、私たちのために、十字架上で死んでくれたのである。イエスの犠牲と大きな愛によって、人びとは罪から救い出され、永遠の光に包まれた「安息(レクイエム)」の天上へと導かれるのである。
 30歳代前半のフォーレが『レクイエム』を作曲した時期が、両親の相次ぐ死の前後と重なっているが、彼自身は「特定の人物や事柄をいとしたものではない」と語っている。しかし、両親の死を体験したことをきっかけに、彼は彼自身の宗教観や人生観を改めて考え直し、それをこのレクイエムに込めたのだろうと思う。フォーレの『レクイエム』は、ほかの作曲家のそれとは全く違う。大きな相違は、慣例的に作曲されるはずの「怒りの日」が入っていないことである。彼は「死」に対して「恐ろしさ」ではなく、「永遠の至福の喜びに満ちた開放感」「永遠の安らぎに対する信頼感」を感じていたのである。
◆「パヴァーヌ」作品50(1887年合唱版)
 40歳代になったフォーレは、当時華やかだったパリの上流階級のサロンに出入りしており、フェミニストとしてずいぶん名を馳せていたようだ。彼はこの曲を、パトロンであるグレフェール伯爵夫人のために作曲し、献呈した。はじめ、オーケストラ用に作曲されたが、夫人の提案で、歌詞(作詞:ロベール・ド・モンテスキュー)を付けて合唱版に仕立てた。そして、フォーレ自身の希望で、バレエ付きで上演した。
 「パヴァーヌ」とは、16世紀に流行したスペインの行列舞踏で、「孔雀の舞」を起源に持つ。フォーレはこの作品に対して「とりたててこだわりのない作品」と語っているが、メランコリックでありながら軽やかで、高級サロンのように上品で洗練されているが、どこか遠いところを志向しているような独特な雰囲気は、彼の追い求めていた「存在しないものへの願望」を最もよく表現しているように感じられる。
 歌詞は、宮廷での仮装舞踏会で起こるさまざまな場面を、(サロンを風刺するように)演劇的にいきいきと描き出している。・・・魅力的で挑発的な男や女たちが、嫉妬や狂気が渦めく中、夜な夜な入り乱れては恋に溺れている。しかし、やがてそれらに見切りをつけ、永遠の別れを告げる。

 東京生まれの小林秀雄(1931年~)は、間宮の東京音楽学校の3つ下の後輩である。1966年、彼が35歳の時、「美しい日本語と香り高い歌を」をモットーに掲げ、国語学者の金田一春彦、詩人の野上彰、薩摩忠、深尾須磨子、作曲家の中田喜直、磯部俶、声楽家の四家文子、内田るり子、五十嵐喜芳らと共に、日本歌曲振興会「波の会」を創立し、新たな日本芸術歌曲の創作と普及に努めることになる。「日本芸術歌曲」というものを定義する事は難しいが、この活動は、滝廉太郎や山田耕筰といった「日本歌曲」の正統派の流れを汲んだものといってもいいだろう。
 会を成立した当時、世の中の日本語の乱れを憂えた小林たちは、他の言語に類を見ない日本語の特有の味わい深さを大切にしたいと考えた。そこで、彼らが実践したのは、「歌曲のための詩作のあり方を追求すること」、「作曲及び演奏上の言葉のアクセントやフレーズの扱いを大切にして、言葉と音の一致を試み、その美的表現を目指すこと」、そして、「誰にでも愛唱されるような日本歌曲の創作し、普及すること」であった。彼は、「歌詞や内容のすべてが聴衆に完全に伝わる、明るい音楽の創造」を目指したのだ。
 この組曲は、それぞれが別個に作曲されたものを小林自身が混声合唱に直し、1894年に編纂されたものである。
◆「飛騨高原の早春」(1971年独唱版、1977年女声合唱版)
 岐阜生まれの詩人である岩間純(1901~1992)は、故郷をこよなく愛した詩人だ。残雪美しい飛騨高原は、いまや、遅れた春が真っ盛り。詩人が、「五月」を「早春(はる)」と呼んでいるところが面白い。山が一斉に春に変わる様子は、シューマン『詩人の恋』の第一曲目「美しい五月に」を、どことなく思わせるものがある。ピアノの速いパッセージは、雪解け水が集まって速く流れる小川の描写である。格調高い詩と楽曲は、人びとに、喜び溢れる春の到来を高らかに告げる。
◆「あなたと わたしと はなたちと」(1976年)
 フォークソング調のこの作品は、ある若いカップルの結婚を祝ってつくられた「門出のうた」である。希望、信頼、そして輝ける世界を信じて、未来に向かって歩んでゆく生命力に溢れている。「おばけなんてないさ」など遊び唄の作曲家として知られる峯陽(みね よう)(1932年~)と小林のコンビが、何とも爽やかだ。(今回のコンサートは、この晴れやかで元気な曲をテーマに、みなさんと一緒に「旅」をするように、さまざまな音楽の世界へ誘っていきたい・・・)
◆「瞳」(1969年独唱版、1980年女声合唱版)
 東京出身の詩人で、慶応義塾大学仏文科卒業した薩摩忠(1931~2000)は、「波の会」の創立メンバーである。小林とのコンビでは「まっかな秋」が有名だが、その他にも美しく味わい深い歌曲をたくさん残した。アルペジオの淡々とした伴奏は、穏やかさとある種の緊張感とを、同時に表しているようだ。・・・恋人同士が波打ち際で見つめあっている。澄んだ大きな瞳に、大きな海原が映っている。そして、ふたりの狂おしい愛の激情と愛にひたる無上の放心とが、瞳の奥でひとつに重なり、やがて結ばれる。
◆「落葉松」(1972年独唱版、1976年女声合唱版)
 「波の会」を共に創立した詩人の野上彰(1909~1967)は、師の川端康成の軽井沢の山荘に足しげく通ったというが、この詩は、1947年の軽井沢において書かれたものであるという。・・・詩人を魅了しつづける軽井沢の落葉松林は、実は人工林だそうだ。明治初頭に、大事業家の雨宮敬次郎という人物が、浅間山の裾野に、自分の墓を残しておきたい・・・と、江戸時代の大噴火で、高い樹のほとんどなかった軽井沢の原野を購入し、膨大な数の落葉松を植えたのだった。針葉樹林の中で唯一、葉を落とす落葉松(からまつ)は、良質の木材であり、この土地の風土に最適で成長が早かったのだという。大正時代には、軽井沢は「健康保養地」として特権階級のための洋風別荘地となり、美しい落葉松林がそのまま残されることとなった。
 この作品は、1973年の「第9回 波の会コンサート(野上彰追悼)」のために、主宰者のアルト歌手である四家文子に依頼され、小林は、野上の遺稿の中からこの詩を見出し、深く激しい感動のうちに一気に書き上げたのだという。・・・秋の寂しい落葉松林は、こころの故郷。あるがままの私のすべてを包み込み、慰め、そしてまた、そっと日常へと戻してくれるかのようだ。

by.初谷敬史
いいね!した人  |  コメント(1)  |  リブログ(0)
1 | 2 | 3 | 4 | 5 |最初 次ページ >>

AD

Ameba人気のブログ

Amebaトピックス

      ランキング

      • 総合
      • 新登場
      • 急上昇
      • トレンド

      ブログをはじめる

      たくさんの芸能人・有名人が
      書いているAmebaブログを
      無料で簡単にはじめることができます。

      公式トップブロガーへ応募

      多くの方にご紹介したいブログを
      執筆する方を「公式トップブロガー」
      として認定しております。

      芸能人・有名人ブログを開設

      Amebaブログでは、芸能人・有名人ブログを
      ご希望される著名人の方/事務所様を
      随時募集しております。