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2016-05-30 01:13:28

第31回足唱コンサート・3

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(承前)

 プログラム・ノートを書いたので、コンサートを前に、ここにも載せておきたいと思う。

***

 世界にはたくさんの「うた」がある。土地にまつわる民話や、道徳的、また宗教的な教訓を歌ったもの。人びとの願いや祈りが込められたもの。ナショナリズムや民族の意気を鼓舞するもの・・・。それらは、それぞれの民族の言葉と古来より伝わる節回しに、故郷への想いや追憶、現世では満たされぬ希望を乗せ、大切に歌い継がれてきたものである。やがて、国境を越え、世界へと広まっていった。不思議に感じるのは、まるで、それらが、私たちにも「自らの故郷のうた」であるかのように懐かしく感じられてしまうことである・・・。
 今回のコンサートでは、世界に伝わるさまざまな「うた」を出発点として、三人の作曲家の代表作を並べた。彼らの創作は、それぞれがまったく異なったところからスタートしており、それをここに並べ、比較することによって、私たちはその中から、私たち自身の「うた」を発見する契機になれば・・・と考えている。

 北海道旭川に生まれた間宮芳生(まみや みちお)(1929年~)は、東京音楽学校(いまの東京芸術大学音楽学部)を卒業後、日本民謡の研究をはじめる。・・・私たちの祖先が、古来より口ずさみ、伝えてきた「うた」だ。八百万の神に感謝する「祝詞」をもとにした「神楽」や、農作業の辛さを和らげたり、集団で作業をしたりするときに歌われる「労作唄」、背中に背負った自分自身の過去を追憶する「子守唄」や「わらべうた」など・・・。人びとの生活の中で歌われていた「うた」には、僕たち自身の内奥に眠る民俗的な調べや、人びとの願いや想いが込められた呪術的なエネルギーが響く。間宮は、そうした「うた」に次第に夢中になっていった。
 その中で、彼の興味をひいたのは、さまざまな形の「かけ声」や「ハヤシコトバ」の面白さだった。「日本民謡やハヤシコトバを研究しているうちに、論文にならずに『合唱のためのコンポジション』になった」と彼は述べているが、「ハヤシコトバ」の中に、言葉と音楽の結合の、あらゆるパターンの原型を発見し、それを整理・分類していく中で、それらが、彼の新たな音楽創造の源泉となり、素材となっていったのだった。彼は、自由な発想で唱えられてきたハヤシコトバに、自らの創作の無限の可能性を見出した。そして、そのほとんどが彼自身の造語で構成された「合唱のためのコンポジション」シリーズを、17作生み出し、それが彼の代表作となった。
◆『合唱のためのコンポジションⅠ』(1958年)
 1958年、東京混声合唱団の委嘱により作曲。同年、岩城宏之の指揮で初演。曲は四つの楽章からなるが、今日は、労作唄(田の草取り唄など)を基軸とし、濁音や太鼓の響きを模した音を多用した第二楽章、子守唄とわらべうたを用い、ナ行とラ行を多用した第三楽章、神楽の音楽を組み合わせた第四楽章を演奏する。 

 19世紀終わりから20世紀初頭のフランスにおいて、自らの信じる道を歩んでいった作曲家、ガブリエル・フォーレ(1845~1924)。彼の音楽は、サン=サーンスの古典主義とも、より進歩的なドビュッシーとも違う、独自の地位を獲得した。彼の根底に流れる音楽や音楽経験は、他の作曲家とは大きく異なる。彼は、9歳の時、パリの「ニーデルメイエール古典宗教音楽学校」に入学し、グレゴリオ聖歌やルネッサンスのカトリック音楽を徹底的に学んだ。その後、パリのマドレーヌ寺院でオルガニストを務め、また同時に、華やかなサロンでも活躍した。・・・彼が音楽に求めたのは、人を威圧したり、技巧に溺れたりすることではなく、彼の得意とした小品において、ごく自然に流れる音の流れに、彼の理念と言える洗練さや崇高さを織り込むことだった。
 彼は、他の作曲家たちとは、別次元で音楽を捉えていた。彼が妻に宛てた手紙に「存在しないものへの願望は、おそらく音楽の領域に属するものなのだろう」という言葉がある。彼は、きっと現実の世界に何かを求めていたのではない。音楽を媒介にして、絶対的な「神」や、誇り高い「いにしえ」、雅な「虚構」といった非現実の中に、身を置こうとしていたに違いない。
◆「ラシーヌ讃歌」作品11(1864年)
 ・・・とても静かな夜、人びとが救いを求めて教会へと集ってくる。そして、おのおのが聖書のことばを唱え、祈る。そうして、そっと、迷いや悩みを打ち明ける。しかし、神は沈黙したまま・・・。人びとが、こころの奥底から強く神に呼びかけると、厳格な神は、人びとを大きな愛で包みこんでくれる。その瞬間、迷いや悩みが断ち切られ、人びとは感謝の気持ちを、讃歌で神に返そうとする――フランス文学至高の劇作家ジャン・ラシーヌの晩年の傑作に感銘を受けた18歳のフォーレは、「ニーデルメイエール古典宗教音楽学校」の卒業作品として、この曲を作曲した。若いフォーレの神へ対する誠実な眼差しと信頼感が、まっすぐに私たちに伝わってくるように感じられる。
◆『レクイエム』作品48より「アニュス・デイ(神の子羊)」(1877年)
 羊たちが牧場を歩いていくように、冒頭は牧歌的にはじまるが、突然、嵐が来るように、イエスの受難が暗示される。古来より、人びとの罪を償うために、神に「生け贄」を捧げる風習があるが、イエスは、私たちのために、十字架上で死んでくれたのである。イエスの犠牲と大きな愛によって、人びとは罪から救い出され、永遠の光に包まれた「安息(レクイエム)」の天上へと導かれるのである。
 30歳代前半のフォーレが『レクイエム』を作曲した時期が、両親の相次ぐ死の前後と重なっているが、彼自身は「特定の人物や事柄をいとしたものではない」と語っている。しかし、両親の死を体験したことをきっかけに、彼は彼自身の宗教観や人生観を改めて考え直し、それをこのレクイエムに込めたのだろうと思う。フォーレの『レクイエム』は、ほかの作曲家のそれとは全く違う。大きな相違は、慣例的に作曲されるはずの「怒りの日」が入っていないことである。彼は「死」に対して「恐ろしさ」ではなく、「永遠の至福の喜びに満ちた開放感」「永遠の安らぎに対する信頼感」を感じていたのである。
◆「パヴァーヌ」作品50(1887年合唱版)
 40歳代になったフォーレは、当時華やかだったパリの上流階級のサロンに出入りしており、フェミニストとしてずいぶん名を馳せていたようだ。彼はこの曲を、パトロンであるグレフェール伯爵夫人のために作曲し、献呈した。はじめ、オーケストラ用に作曲されたが、夫人の提案で、歌詞(作詞:ロベール・ド・モンテスキュー)を付けて合唱版に仕立てた。そして、フォーレ自身の希望で、バレエ付きで上演した。
 「パヴァーヌ」とは、16世紀に流行したスペインの行列舞踏で、「孔雀の舞」を起源に持つ。フォーレはこの作品に対して「とりたててこだわりのない作品」と語っているが、メランコリックでありながら軽やかで、高級サロンのように上品で洗練されているが、どこか遠いところを志向しているような独特な雰囲気は、彼の追い求めていた「存在しないものへの願望」を最もよく表現しているように感じられる。
 歌詞は、宮廷での仮装舞踏会で起こるさまざまな場面を、(サロンを風刺するように)演劇的にいきいきと描き出している。・・・魅力的で挑発的な男や女たちが、嫉妬や狂気が渦めく中、夜な夜な入り乱れては恋に溺れている。しかし、やがてそれらに見切りをつけ、永遠の別れを告げる。

 東京生まれの小林秀雄(1931年~)は、間宮の東京音楽学校の3つ下の後輩である。1966年、彼が35歳の時、「美しい日本語と香り高い歌を」をモットーに掲げ、国語学者の金田一春彦、詩人の野上彰、薩摩忠、深尾須磨子、作曲家の中田喜直、磯部俶、声楽家の四家文子、内田るり子、五十嵐喜芳らと共に、日本歌曲振興会「波の会」を創立し、新たな日本芸術歌曲の創作と普及に努めることになる。「日本芸術歌曲」というものを定義する事は難しいが、この活動は、滝廉太郎や山田耕筰といった「日本歌曲」の正統派の流れを汲んだものといってもいいだろう。
 会を成立した当時、世の中の日本語の乱れを憂えた小林たちは、他の言語に類を見ない日本語の特有の味わい深さを大切にしたいと考えた。そこで、彼らが実践したのは、「歌曲のための詩作のあり方を追求すること」、「作曲及び演奏上の言葉のアクセントやフレーズの扱いを大切にして、言葉と音の一致を試み、その美的表現を目指すこと」、そして、「誰にでも愛唱されるような日本歌曲の創作し、普及すること」であった。彼は、「歌詞や内容のすべてが聴衆に完全に伝わる、明るい音楽の創造」を目指したのだ。
 この組曲は、それぞれが別個に作曲されたものを小林自身が混声合唱に直し、1894年に編纂されたものである。
◆「飛騨高原の早春」(1971年独唱版、1977年女声合唱版)
 岐阜生まれの詩人である岩間純(1901~1992)は、故郷をこよなく愛した詩人だ。残雪美しい飛騨高原は、いまや、遅れた春が真っ盛り。詩人が、「五月」を「早春(はる)」と呼んでいるところが面白い。山が一斉に春に変わる様子は、シューマン『詩人の恋』の第一曲目「美しい五月に」を、どことなく思わせるものがある。ピアノの速いパッセージは、雪解け水が集まって速く流れる小川の描写である。格調高い詩と楽曲は、人びとに、喜び溢れる春の到来を高らかに告げる。
◆「あなたと わたしと はなたちと」(1976年)
 フォークソング調のこの作品は、ある若いカップルの結婚を祝ってつくられた「門出のうた」である。希望、信頼、そして輝ける世界を信じて、未来に向かって歩んでゆく生命力に溢れている。「おばけなんてないさ」など遊び唄の作曲家として知られる峯陽(みね よう)(1932年~)と小林のコンビが、何とも爽やかだ。(今回のコンサートは、この晴れやかで元気な曲をテーマに、みなさんと一緒に「旅」をするように、さまざまな音楽の世界へ誘っていきたい・・・)
◆「瞳」(1969年独唱版、1980年女声合唱版)
 東京出身の詩人で、慶応義塾大学仏文科卒業した薩摩忠(1931~2000)は、「波の会」の創立メンバーである。小林とのコンビでは「まっかな秋」が有名だが、その他にも美しく味わい深い歌曲をたくさん残した。アルペジオの淡々とした伴奏は、穏やかさとある種の緊張感とを、同時に表しているようだ。・・・恋人同士が波打ち際で見つめあっている。澄んだ大きな瞳に、大きな海原が映っている。そして、ふたりの狂おしい愛の激情と愛にひたる無上の放心とが、瞳の奥でひとつに重なり、やがて結ばれる。
◆「落葉松」(1972年独唱版、1976年女声合唱版)
 「波の会」を共に創立した詩人の野上彰(1909~1967)は、師の川端康成の軽井沢の山荘に足しげく通ったというが、この詩は、1947年の軽井沢において書かれたものであるという。・・・詩人を魅了しつづける軽井沢の落葉松林は、実は人工林だそうだ。明治初頭に、大事業家の雨宮敬次郎という人物が、浅間山の裾野に、自分の墓を残しておきたい・・・と、江戸時代の大噴火で、高い樹のほとんどなかった軽井沢の原野を購入し、膨大な数の落葉松を植えたのだった。針葉樹林の中で唯一、葉を落とす落葉松(からまつ)は、良質の木材であり、この土地の風土に最適で成長が早かったのだという。大正時代には、軽井沢は「健康保養地」として特権階級のための洋風別荘地となり、美しい落葉松林がそのまま残されることとなった。
 この作品は、1973年の「第9回 波の会コンサート(野上彰追悼)」のために、主宰者のアルト歌手である四家文子に依頼され、小林は、野上の遺稿の中からこの詩を見出し、深く激しい感動のうちに一気に書き上げたのだという。・・・秋の寂しい落葉松林は、こころの故郷。あるがままの私のすべてを包み込み、慰め、そしてまた、そっと日常へと戻してくれるかのようだ。

by.初谷敬史
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2016-05-30 00:55:49

第31回足唱コンサート・2

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(承前)

 僕が今回、更に足唱を発展させるべく企画したのは、「足唱のファミリー・コンサート」である。・・・これは、僕がここ数年、強く意識していることである。

 僕は、人との「距離」を大事にしている。普段の練習においては、「僕とメンバー」の距離、そして、コンサートでは、「舞台と聴衆」の距離。その距離が、なるべく近いものでありたい・・・と思っているのだ。それは、特に、足利が僕の地元である・・・ということと深く結びついていると思う。だから、堅苦しく、冷たく、威張っていて、聴衆を突き放した演奏会ではなく、親しみのある、明るく楽しい演奏会でありたい。・・・それは、客席から見ていて、歌っているメンバーのひとりひとりが見える・・・ということだろうと思うのだ。
 合唱団員が、「その他大勢」「一緒くた」に見えるコンサートというのは、自然と、演奏者と聴衆との距離が離れてしまうのではないかと思う。・・・それは、音だけが、空間に独立しているのではない、と思うからだ。ホールという空間に放たれた音の変化というものは、徹頭徹尾、演奏者の意識や技術、そして気持ちによるエネルギーの変化なのである。
 合唱は、多くの人の「正」のエネルギーが有機的に、また絶妙に結びついて初めて、大きな力を生みだすことができる。その「正」のエネルギーは、ひとりひとりの身体から発せられるものだ。筋肉や目ぢから、オーラや願い、想いや意気込み・・・。こうしたものが、合唱団員ひとりひとりの懸命な姿に現れ、それを会場を満たす振動する空気が、聴衆に伝えてくれる。だから、CDの演奏と生演奏というのは、似て非なるものなのだ。

 僕の構想する「足唱のファミリー・コンサート」。
1. 指導者に頼らず、自分たちの手で、仲間と共に、一から作り上げていくステージ。・・・それには、おのおのが責任をもって参加し、個人と個人が音楽とこころで、密接に結びつかなければならない。
2. 「正解」は、はじめから決まっているのではなく、手探りで見出していく。だから、予想だにしなかった結末であってもいい。成功しても、失敗しても、それは努力の結果なのだから、すべてが賞賛に値する。けれど、そうして失敗を重ねることで、人は成長していくものだ。失敗することは、けっして恥ずかしいことではない。
3. 挑戦しないよりは、挑戦したほうがいい。そのチャンスがないのではない、ここにあるのだから・・・。

 今回、思い切って、「演出ステージ」をコンサートのはじめに持ってきた。まだ聴衆との距離感も空気も掴めず、緊張する手探りの序盤であるが、臆することなく、練習の成果を存分に発揮して欲しいと思う。
 メンバーへの課題は、以下のようである。
1. 与えられた曲目ごとに、少人数のグループに分かれ、寸劇を交えてひとつのステージを作ること。
2. 音楽練習や演技の練習など、みんなで協力しあい、自主的に進めること。メンバーの自主性を尊重し、指導者である僕は相談には乗るが、基本的には関わらない。
3. 全体の流れと、曲に対するイメージがチグハグにならないように、一応、台本を作って配布するが、それをそのまま演じてもいいし、まったく別のことをやってもいい。

 ・・・これまで、足唱は、このようなことをやったことがなかった。演出付きのステージで、演技や台詞、踊りなどは経験してきたが、それを少人数のグループに分かれて、誰にも教わらず、自分たちで考え、練習し、仕上げる・・・こんなことが、果たしてできるのだろうか・・・。(まるで、京都へ修学旅行に行くのに、生徒たちに班を作らせて、自由行動を計画させる担任の先生の気持ちだ。笑)

 ところで、僕が足唱で「演出ステージ」を始めたのは、2006年だった。
2006年「第21回メイ・コンサート」の喜歌劇『メリー・ウィドウ』ハイライト
2007年「第22回メイ・コンサート」の「バーンスタイン~ワンダフル・タウン ニューヨーク!!」(ミュージカル『ワンダフル・タウン』と『ウエスト・サイド・ストーリー』ハイライト)
2008年「第23回ジョイント・コンサート」の歌劇『カルメン』ハイライト
2009年「第24回メイ・コンサート」の『カルミナ・ブラーナ』
2010年「第25回メイ・コンサート」(足利市民合唱団創立30周年記念)のブラームス『愛の歌』とウィンナーワルツ
2011年「第26回メイ・コンサート」(震災の影響で延期)の組曲『蔵王』
2012年「第27回足唱コンサート」の「ロジャース&ハマースタイン 魅惑の宵」(ミュージカル『回転木馬』、『サウンド・オブ・ミュージック』、『南太平洋』、『オクラホマ』ハイライト)
2013年「第28回足唱コンサート」の『動物の謝肉祭』と「林光~ソング」
2014年「第29回足唱コンサート」の「ロシア民謡~ステンカ・ラージン物語」
2015年「第30回足唱コンサート」の喜歌劇『こうもり』第二幕

 ・・・このように毎回、楽しい演出ステージを重ねてきて、ずいぶん思い切ったことをやってきたなぁ・・・と、いま、しみじみ思う。思い切り過ぎて、いろいろなハプニングがあり、それがまた楽しい思い出となっている。笑 それぞれのステージでは、メンバーひとりひとりのエネルギーが発散され、それが、他のコンサートではけっして味わえないような、足唱ならではの「元気」と「笑顔」となって、会場にいっぱいに溢れていた・・・。

 演出ステージを重ねて10年。足唱は、新たな段階へと足を踏み出した。
 ・・・それは、兎にも角にも、メンバーとの信頼関係があってのこと。コンサートを前に、一緒に前に進んでくれるメンバーに、こころから感謝したい。

・・・つづく・・・

by.初谷敬史
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2016-05-30 00:44:50

第31回足唱コンサート・1

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 今月は、演奏会のための原稿書きや楽譜制作などに追われて、なかなかブログに手を付けることができなかった。ブログ「夢の形」もまだ途中であるが、その前に、6月に開催されるコンサートをいくつか紹介したい。

 はじめに、足利市民合唱団「足唱コンサート」。
 毎年、趣向を凝らして、みなさんに楽しんでいただけるようにお届けしている・・・というよりも、自ら楽しんでいるだけ・・・という噂もある足唱コンサートであるが(笑)、今年はまた、ひと味違ったものになる予感がする・・・。

■第31回「足唱コンサート」市民プラザ音楽祭2016
6月12日(日)開演14:00
足利市民プラザ・文化ホール


◆「世界を巡る歌の旅」ローレライ、フィンランディア、草競馬、グリーンスリーブス、オー・ソレ・ミオ、夢路より、トロイカ、リパブリック讃歌
◆間宮芳生「合唱のためのコンポジションⅠ」より第2楽章、第3楽章、第4楽章
◆フォーレ「ラシーヌ讃歌」「アニュス・デイ」「パヴァーヌ」
◆小林秀雄「飛騨高原の早春」「あなたと わたしと 花たちと」「瞳」「落葉松」


合唱:足利市民合唱団
ピアノ:田部井美和子
指揮:初谷敬史


***

 昨年の足唱コンサートは、たくさんのソリストや足利市民交響楽団をお呼びして、演出付きで喜歌劇『こうもり』第二幕を上演し、第30回となる記念コンサートを飾るにふさわしく、豪華な舞台となった。この華やかさを象徴させるアイテムとして、僕は奮発し、オルロフスキー役とアデーレ役に背負わせる大羽根を、特別にオーダーした。・・・このコンサートのすべては、オルロフスキーを「宝塚トップスター」と読み替えるアイデアからスタートしたのだった。この僕の思い切った新演出や台本は冴え渡り、粒ぞろいの個性派ソリストと、僕の慣れない指揮によく合わせてくれたオーケストラ、そして足唱の奮闘のお陰で、記憶に残る大舞台となった。

 けれど、このように大きく開催した翌年のコンサートというのは、正直、とてもやりにくいものだ。昨年の方が、華やかで良かった・・・など感想を持たれてしまう可能性がある。当然、今回のコンサートでは、予算や規模を縮小せざるをえないのが実情である。・・・実際に、選曲にあたって、ソリストやオーケストラを頼む予算がないことや、追加される強化練習の負担を軽減したいこと、新曲の難易度を考慮、そして、新曲とこれまでに取りあげたレパートリーとを織り交ぜた選曲にしてほしい・・・など、団員からのいろいろな要望があった。
 もちろん、コンサートの構想というものは、夢物語で終わってはならないので、しっかり現状を踏まえた上で、いろいろな意味で、合唱団がこなせるものでなければならない。けれど、そうだからと言って、安易に安っぽい選曲になってしまっても、コンサートや合唱団の質が落ちるだけである。ひいては、足利を代表する市民合唱団だけに、足利の文化レベルをも落としてしまう可能性がある。・・・だから、毎回の選曲には、細心の注意を払っているつもりだ。

 足唱は、忙しい合唱団だ。年末には、恒例となった群馬交響楽団の「第九演奏会」に出演している傍ら、6月に、合唱団の定期演奏会として「足唱コンサート」を開催している。本来であれば、定期演奏会に向けて1年間かけるべきものを、実質5ヶ月間で、準備しなければならない。僕の感覚では、譜読みが完全に終わらない前に、コンサートが来てしまう・・・。
 ・・・だから、毎回とはいかないまでも、ソリストやオーケストラの力を借りて、合唱団の負担を減らしたいし、音楽的に不十分なところを、さまざまな演出を付け、舞台として総合的に作り上げることで、音楽と内容を一体感のあるものにし、また、そうして動きや台詞を伴うことで、かえって音楽的にも充実し、メンバーの気持ちが、物語に入っていきやすくなるのではないか・・・と考え、演出付きのステージを毎回、挑戦している。

 実際、メンバーにとって、歌うことの他に、演技をしたり台詞を言ったりするのは大変だろうけれど、そうしたことを、どこか楽しんでしまうような面白い足唱がある。こうした明るい雰囲気が、他のコンサートにはない、足唱独自の楽しい「足唱コンサート」となっているのであろうと思う。

・・・つづく・・・

by.初谷敬史
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2016-04-29 11:02:21

夢の形・6

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(承前)

 学区の公立中学に進むと、部活動のために、新しい自転車を買ってもらった。そして、高校でもそれを乗った。
 中学では、軟式テニス部に入って夢中になった。本気で、将来、テニスでやっていきたい・・・と思ったほどだ。依然、パイロットの夢も持っていたが、どうしたらパイロットになれるのか、自分では分からなかった。
 それから、特に理由もなく、兄と同じように、市内の公立高校に進学した。しかし、ほとんど勉強に身が入らず、自分の行き先を失いかけていた。テニスという道はすでに諦めていたし、パイロットという夢は、もうほとんど影を失くしているに等しかった。・・・そんな時、学校の音楽の先生が、僕に音楽の道を勧めてくれた。・・・音楽はもう一度、僕の人生と、僕のこころに、火を灯してくれたのだ。

 先生方のレッスンのお陰で、芸大に合格することができた。僕はすぐにでも東京で一人暮らしをしたかったが、それは叶わなかった。1年の間は、栃木の実家から上野まで、電車で通うことになったのだ。いま振り返れば、僕の性格や当時の僕の状況を考えると、それが結果的に良かったのだと思う。「大都会」、「音大」、「共学」、「人間関係」、「一人暮らし」・・・それまでと環境が変わり過ぎてしまって、きっと自分自身を保つことができなかっただろう。僕は実家から一年間通うことで、徐々に東京での生活に慣れていったのだ。・・・ちょうど20年前の話だ。
 実家から最寄りの駅に向かうのに、自転車で行ける距離ではあったが、原付の免許を取って、原付で通うことになった。初めての原付は、姉の「お下がり」だった。・・・僕は、お下がりが嫌いではない。どちらかというと、ありがたい・・・と思っているくらいだ。
 ・・・僕はこれまで、いろいろな意味で、兄と姉の恩恵を受けている。僕が初めて行うことのほとんどは、すでに兄と姉が経験しており、それを端から見ていた僕も、「経験済み」という感覚を持っていたからだ。幼稚園の園歌や小学校の校歌は、入学する前からマスターしていたし、どんな先生がいて、どんな学校生活なのかもイメージできた。国語の教科書に乗っている物語は、もう隅から隅まで知っていたし、どう朗読すれば、上手く聞こえるのかさえも、ちゃんと分かっていた。だから、お下がりの物は、兄と姉の苦労した経験が染み付いており、僕はそれを、兄や姉がやっていたように、僕なりに器用に扱えば済んだのである。

 もう少し、そのことについて話せば、僕の人生におけるあらゆる「選択」は、兄や姉が通った道であるかどうか・・・ということと、いつも見比べて選択しているように思う。兄や姉の通った道は、ある意味、安全で安心である。分からないことは、兄や姉に聞けばいいし、どのようにやれば成功し、また失敗するのかが容易に想像することができる。僕の行った幼稚園や小学校は、兄や姉の行っていたところだったし、イヤイヤ参加していた地域の少年野球は、兄がやっていた。唯一、市内の少年少女合唱団は、兄や姉がやっていなかった。
 中学校は、やはり兄や姉と同じ中学で、僕は「あの初谷の弟」という扱いを受けた。それはある意味、ラッキーだった。この中学校は、僕の行っていた小さな小学校と隣りのマンモス小学校とが合わさる形であったので、すこし他の友だちができるまで難しいところがある。しかし、僕は先輩や先生から特別な扱いをされたので、居心地がよかったように思う。それは、兄や姉が、「良い生徒」だったからだ。
 でもその一方で、僕はそのことに反発した部分もある。それが部活動の選択である。兄や姉がバレーボール部に入っていたので、顧問の先生は、当然僕も入部すると思っていたらしい。僕も家で、兄や姉とトスなどの練習を一緒にしていたので、バレーは好きだったし、得意だった。でも、だからと言って、バレーボール部に入部するのは、すこしイヤな気がした。僕は自分の意志で、部活を選択したかったのだ。野球やサッカーには絶対入りたくないし、陸上や水泳はもってのほかだ。僕はネット競技が好きなので、卓球かバトミントンか軟式テニスか・・・。僕はすこし「お坊ちゃま風」で、「爽やかな雰囲気」の漂うテニスが、自分にはぴったりだ・・・と思い、テニス部に入部した。笑

 小学の時の「少年少女合唱団」も、中学の時の「テニス部」も、兄と姉の恩恵を受けずに、自分で開拓したものである。僕はその分野で、「末っ子」というものから脱し、世界に対して唯一無二の存在であるということを自覚したかったし、そこで培ったことを、自分自身の中心に据えたい・・・と思いたかったのかもしれない。
 ・・・それが、現在の僕に、直接繋がっていることは、言うまでもない。

 原付の話から離れてしまったが、姉の「お下がり」の原付を乗るにあたって、よく覚えていることがある。それは、原付の免許を取りに行く前に、父とふたりで、家の庭で原付を乗る練習をしたことだ。
 ・・・よく晴れた日曜の朝で、光が眩しかった。父がもう使われなくなっていた姉の原付を、軒下から引っ張りだしてきて、手入れをしてくれたのだろう。汚れた手ぬぐいを首にかけた父が、嬉しそうに僕の部屋に顔をのぞかせて、「ちょっと乗ってみるか!」と声をかけた。僕はすぐに部屋を飛び出して、外に出た。さすがにサンダルはよくないので、靴を丁寧にはいた。
 原付のエンジンはもうかかっており、父がアクセルを回すと、大きな音と共に勢いよく後輪が回り、真っ白い煙がマフラーから出た。思っていたよりもずっと騒々しくて、人に対して威圧感があった。暴れ馬のように見えた。僕がすこし尻込みしていると、はじめは父が見本を見せてくれて、庭を軽く一周した。スイスイと慣れた感じで、簡単そうに原付を操っているように見えた。
 それから、僕は恐る恐る原付に股がって、試しにアクセルをグイッと回した。・・・その瞬間、大きなエンジン音と共に、後輪が砂利の上で勢いよく空回りをし、前輪が軽々と持ち上がってしまった。僕は急いでハンドルを強く握ったが、後輪は勢いを増すばかりで、車体は右に大きくカーブし、バランスを失った。横にいた父は、すばやくハンドルを握り、僕にケガがないように、車体をうまくコントロールしてくれた。・・・僕は何が起こったのか、すぐに理解できなかったが、地面には、深い輪だちが大きな弧を描いてくっきりと残っており、まるで僕の失敗を助長させているかのようだった。

 僕は正直、驚いてしまい、恐ろしさと後悔とが入り交じっていた。そして、父に対して、申し訳なく思った。・・・うまくやるつもりだったのだ。僕は「できる子」である。少なくとも、父の前では、そうありたい・・・と思っていたのに、この失敗は、自分が許せなかった・・・。僕のイメージでは、「アクセルは、勢いよく回すもの」だったのだ。それは、近所に暴走族の類いがたくさんいたので、彼らがエンジンをふかすのをよく知っていたからである。
 その時、父はこの失敗について、すこしも顔色も変えなかったし、僕にたいして何も言わなかった。横倒しになってしまった原付をもとに戻してくれて、もう一度やってみるように促しただけだった。
 僕は、今度はとても気をつけながら、アクセルを1cmずつ回した。すると、アクセルの始動の遊びから、エンジンがゆっくり反応していくのが分かった。そして、そのパワーが、徐々に後輪に伝わっていき、車体と僕の重さをゆっくりと軽くさせながら、一緒に前へと移動させていった。それから、うまく身体の力を抜くと、ハンドルをほとんど切らずに、カーブすることができた。
 ・・・しばらくすると、僕は得意げになって、父の顔を見た。父は満足そうな表情を浮かべ、そして嬉しそうに微笑んでいた。
 こうして、実家と東京を往復する大学生活が始まった。

・・・つづく・・・

by.初谷敬史
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2016-04-29 10:54:24

夢の形・5

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 飛行機と言えば、小学生の頃、テレビドラマ「スチュワーデス物語」がずいぶん流行った。スチュワーデスの訓練生(堀ちえみ)の「教官!・・・ドジでのろまなカメ・・・」の台詞や、教官(風間杜夫)の元婚約者(片平なぎさ)の義手の手袋を口で咥えて外すシーンの「ひろし!」という低音の台詞も、よくマネしたものだ。・・・祖母のオモチャのお陰で、僕はこのドラマを、自分にとても近しいものとして捉えていたと思う。
 エンディングで、麻倉未稀が歌う主題歌「ホワット・ア・フィーリング」が流れる中、ひとりのパイロットが、整列して歩くスチュワーデスたちと、熱い大気に揺らぐジャンボジェットを従えて、誘導路を勇壮に歩いて行く制服姿は、とてもカッコよく思えてならなかった。・・・いつか、僕もジャンボに乗って、大空を駆け巡り、世界を飛び回ってみたい・・・。
 将来の夢は、「パイロット」と決めた。

 飛行機への憧れは、空への憧れ。異次元、異空間への憧れでもあっただろう。僕は兄弟の中で一番下なので、いつかは、この家を出るのだろう・・・と幼い頃から思いながら育ってきた。はじめの動機は、すこし消極的な意味であったかもしれないが、小さな身体と小さなこころの僕は、積極的な意味をもって、そのことに唯一の希望を抱いていたのだ。それを実現するのには、実際、どんなことでもよかったのかもしれないが、飛行機の存在は、幼い僕のこころを自由に解き放つのに十分だったし、大空に多くの夢を見た。

 僕を幼少期特有の不自由から救ってくれたのは、初めて買ってもらった自転車だった。小学校の3~4年生くらいだったろう・・・。
 何という種類だかは分からないが、当時の小学生男子がみんな乗っていたカッコいい自転車があった。(いまは、まったく見なくなってしまった・・・。)ハンドルとサドルの間のトップフレームに5段階くらいのレバーのギヤが付いていて、ライトなどもスポーティで、まるでスポーツカーのような佇まいの自転車だった。中には、スピードメーターやウィンカーなどが付いていたものもあったと思う。それに、トラックをライトで飾るように、附属で色とりどりのライトを買ってきて付ける子もいた。
 ありがたいことに、みんなからそう遅れずに、僕はこれを買ってもらうことができた。(もちろん、小学校に上がる前には、近所の空き地での、父の「ハマ(補助輪)なし練習」を受けた記憶がある。父が後ろで支えている・・・と言いながら、いつの間にか手を離している・・・という特訓だ。)

 僕はカッコいい自分の自転車を手に入れて、自転車に乗って、どこへでも遊びに出かけた。・・・友だちの家に、放課後の学校に、近所の子供館に、集合場所の神社に、クワガタのとれる近所のお宅に、いかにも不気味な荒れ果てた古墳に、デコボコ道とドブとが入り組んだ路地に、地蜘蛛の巣がきれいに並ぶ軒下の日だまりに、白ヘビの伝説が残る一本杉に、刻々と様変わりする空き地に、一向に進まない工事現場に、廃材が残されたままの工場跡に、昨日つくった秘密基地に、カエルやトカゲを追って自然溢れる土手に、赤松の自生する岩場に、トンボやバッタが飛び交う草花の美しい湿地に、アメンボやゲンゴロウが懸命に生きる沼に、川を越えてどこか遠くに・・・。
 当時は、区画整理もされていないところが多かったので、子どもが遊ぶには、面白い場所がたくさんあった。僕らはよく、そういうところを探検し、すぐにアイデアを思いついて遊び場にした。僕は、いつも泥まみれになって、草花の種を洋服にいっぱい付けて、暗くなる前まで目一杯、遊んだ。

 ・・・しかし、僕は友だちと遊ぶのも楽しかったが、どちらかと言うと、ひとりで自転車に乗っている方が楽しかった。なぜなら、ひとりで自転車に乗っている時は、本当に何からも解放されて自由の存在でいられたからである。
 そんな時、僕は自転車に乗っているのではなかった。ジャンボジェットに乗って、大空を自由に羽ばたいていたのだ。・・・両手をハンドルから離し、横にまっすぐに広げ、背筋を伸ばす。そうして、風を全身で受けて、自分自身を解き放つ。こうしていると、大空を飛んでいるようで、とても気持ちがよく、僕は現実の何もかもを忘れてしまうかのようだった。
 僕はよく、大きな声でつぶやいた。そのつぶやきはいつまでも止まらなかった。口べたの僕は、おしゃべりで、なめらかで、ちゃんと筋が通っていた。そうしていると、僕はこんなにも、いろいろなことを感じ、考え、自分の意見を持っていて、世の中に訴えたいさまざまな不満や愚痴、そしてそれを解決するアイデアを豊富に持っている素晴らしい存在である・・・ということに気が付く。ひとところに留まっている僕は、重力から解放されることなく考えがドツボにはまり、けっきょく悪い方にしか考えられなくなる傾向にあるが、自由の自転車に乗って、軽々と大空を羽ばたいている時は、自然と考えが前向きに進んだ。

 そして、この自転車に乗っている時だった。僕が自由な発想で、作詞作曲をしたのは・・・。
 自転車に乗っていると、歌詞は、自動筆記のように自然と言葉が現れては連なり、メロディも、モーツァルトが天上の音楽をあたかも写譜しているかのように頭の中に現れてきた。残念ながら、当時、それを記憶することと、楽譜に書き起こすことができなかったので、それは生まれては消えていくだけの陽炎のような音楽であった。しかし、そのいくつかは、紙の切れ端に記してあるものが残っている。自転車に乗りながら思いついたメロディを、家に帰って紙に殴り書きしたのだ。それは、楽譜に書く方法を知らなかったので、ド・レ・ミという階名の文字を、縦が高低、横が間隔というふうに、適切な位置に配置して書いた。そこから、メロディの輪郭を垣間見ることができる。当時は、それに即興的に伴奏を付けてピアノで弾き、歌詞を付けて歌っていた。
 ・・・これが、僕の一番の遊びだった。ピアノを習っていなかったからこそ、僕は自由な感性と発想で、でたらめの音楽を創作できた。しかし、その中にはよくできたものもあった。そのひとつを、いまでも覚えている。飛行機をテーマにした歌曲で、当時、みんなに聴いてもらって褒められた。これが、なかなかよく出来ていて、ドレミも和声も拍子も、何も分からなかった少年が、よく理路整然とこのような曲がつくれたものだと、自分でも感心する出来栄えだ。

 自転車という自分だけの飛行機に乗った少年は、こころの自由を得て、自分の内側を感じて対話を繰り返し、それをゆっくりと自分流に成長させていき、その感性を言葉や音という形にするやり方を学んでいったのだ。それは、何からも自由で、空中に解き放たれており、僕の中だけで完結し、やがてそれが成就されるのを未来に持ち越すような種のものだった。
 これが、僕の芸術の出発点なのかもしれない・・・。

・・・つづく・・・

by.初谷敬史
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2016-04-29 10:48:13

夢の形・4

テーマ:ブログ
(承前)

 よく父が、車の中が一番いい・・・というようなことを言っていたが、僕も同感だ。季節や天候などに左右されることなく、自分だけの空間を、安全に、そして快適に過ごせるからである。
 北風の厳しい冬の日でも上着要らずであるし、冷たい雨やみぞれの日でも傘をさす必要もない。のんきに鼻歌など歌いながら、スイスイと寒空の下をドライブするのだ。やがて冬がゆっくり去ってゆき、黄色とピンクのコントラストが美しいうららかな春の早朝になると、朝日に輝いたハンドルを握りながら、何かいい予感がしてウキウキしたりする。これから次第に暑くなっていくと、どこからともなく急に黒雲が湧き立って、激しい夕立ちがくるだろう。フロントガラスに叩き付ける豪雨の向こうで、龍のように稲妻が豪快に天を駆け巡ったりすると、安全運転を第一にこころがけながらも、どこかワクワクしてしまうところがある。・・・これはきっと、幼い頃の記憶が、そう思わせているのだ。父はこんな時、いつも、車の中にいれば安全なんだよ・・・と、やさしく諭してくれた。
 車の中が、快適で安全だと思うのは、父譲りなのである。

 自分に子どもがいないからなのかどうか分からないが、僕はまだ、どこか子どものような気持ちでいるところがある。(もう38歳のオジサンなのに・・・笑)しかし、自分の買った夢の車の運転席に座っていると、大人になった・・・という誇らしげな実感もあり、また一方で、子どもの頃の車の中の楽しい思い出などがいまの自分に重なって、大人と子どもの狭間であるかのような不思議な気持ちになってくる。
 いま、夢の車を手に入れた・・・という、ひとつの大きな通過点に僕は立ち、自らアクセルを踏み、自らハンドルを切る運転席にどっしりと座りながら、自分の半生を振り返っている。つまり、高速道路を走るように、恐ろしいスピードで自分の背後へと遠のいていってしまう過去を、前方をしっかりと見定めながら、おぼろげな記憶を頼りに、過去の自分を追憶するのである。

 僕がそもそも「乗り物」というものに興味をもったのは、祖母の影響である。成田空港が1978年(僕の生まれた翌年)に開港した当時(何年か経ってからのことだとは思うが・・・)、祖母がお土産に、飛行機のオモチャを買ってきてくれた。僕はそれが、よっぽど嬉しかったのだろう・・・。(末っ子である僕の持ち物のほとんどは、「お下がり」であった。オモチャも例外ではない。)僕は祖母から、ピカピカのお土産をもらうと、嬉しくて、すぐに押し入れにしまった。(たぶん、僕が誰かから買ってもらったオモチャは、人生を通じて、これひとつだけだろう・・・。)
 ・・・小さな子ども用に胴体をまるまると太らせたブリキの旅客機は、ゼンマイ仕掛けで車輪が回り、ずいぶんと速いスピードで走った。機体の配色は、かつての全日空の「モヒカン塗装」と呼ばれた水色と白のラインで、垂直尾翼には、全日空の社章であるダヴィンチの「ヘリコプター」が描かれた赤いマークだった。そのスタイルから、「ミニジャンボ」として親しまれた「ボーイング737-200型」のオモチャだったのではないかと思う。

 祖母が、たまに我が家へ遊びにくると、僕は押し入れから大切にしまってあったオモチャを出してきて、祖母にこれ見よがしに見せるのが楽しみだった。そんな時、祖母はきまって「あら、あら・・・この子はイヤだねぇ・・・。まだ大事にとってあったんだねぇ・・・」などと言って、ずいぶん喜んでくれた。こんな些細なことで喜んでくれる祖母を見るのが、僕は好きだった。小学生の高学年くらいまでは、祖母が来ると見せていたと思うが、さすがに思春期になると恥ずかしくなって見せなくなってしまった。
 いつの間にか、ゼンマイの車輪は動かなくなり、塗装の禿げたところから錆びていってしまった・・・。あんなに喜んでくれた祖母も、いまは、もういない・・・。しかし、かつて、僕の部屋だった押し入れには、いまだに、その飛行機がそのままの姿で眠っている・・・。
 ・・・僕の数少ない、宝物のひとつだ。

・・・つづく・・・

by.初谷敬史
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2016-04-08 01:07:42

夢の形・3

テーマ:ブログ
(承前)

 それにしても、僕がなぜ、あの「夢の車」を嗜好するのか・・・。
 それは、もしかしたら父に由来しているかもしれない・・・と、最近思うようになってきた。
 父は、本当に車が好きな人であった。では、車の何が好きなのか・・・。車を改造するわけでもないし、レースをするわけでもない。ただ車に乗って、鼻歌を歌いながら、ゆっくりとドライブするのが好きなのだ。お金に余裕でもあれば、高級車にでも乗ってみたかっただろうが、それは叶わなかった。しかし、僕はどんな車であれ、父の運転する車に乗っていると、車の中の何とも言えない安心感と居心地の良さを感じ、移り往く景色に想いをのせて、気持ちが自然と前向きになった。
 そんな父が乗っていた車で、僕が一番印象に残っている車がある。それは、「カブトムシ」の愛称で親しまれたフォルクスワーゲン「ビートル」だ。それを乗っていた頃は僕がまだ小学生だったので、父がちょうど40歳代だっただろう。幼ごころに、納車された夜のことをおぼろげに覚えていて、その日から、我が家が何かものすごく変化したように思えた。

 実際、僕ら3人兄弟が育っていく過程において、我が家に「ビートル」があったことが、子どもたちの精神に大きく左右したと思う。そのことが、現在の僕らの人格に、直接繋がっていると思う。
 「自分」=「ユニークな高級車」・・・というふうに勝手に思い込み、自分がビートルに追いつくように背伸びをして、精神を成長させていったのだ。だから、僕が「夢の車」を買うまでの間、催眠術でもかけて、「君は誰か?」と聞かれれば、「僕はビートルです」と、応えたかもしれない。こんなふうに、幼い僕らにとって、「ビートル」は特別な存在だった。
 中古ではあったが、白のビートルは、何処か品格があった。そして、あのどこにもない愛らしい形、ボッボッボッという快いリズムのエンジン音に、こころ踊った。特に強調すべきは、家の近所では、誰も乗っていない・・・という点だった。ドイツ車そのものが、当時、田舎ではあまり走っていなかった。

 僕ら家族には、ビートルを楽しむユニークな方法があった。(初谷家をよく知らない人にとっては、何と馬鹿げたことを・・・と思うかもしれないが、我が家独特のユーモアで、他愛もない日常を楽しんでいた・・・というひとつのエピソードである。それでも恥ずかしい話でもあるので、ここには要点だけ書く事にする。)
 それは、家族でビートルに乗って、山間や避暑地にドライブに出かけたりする時に、どこぞの「お坊ちゃま」や「お嬢ちゃま」になって、別荘を建てる場所を、みんなで探す・・・という遊びである。もちろん、建てる計画はどこにもない。しかし、みんなでこれから別荘に向かっている・・・という設定でドライブするのだ。そうすると、ただのドライブが、風変わりな味わいになってくる。
 ・・・というくだらない内容であるが、僕らは、こんなふうにして、明日への希望を夢みていたのだ。でも、この希望こそが、僕らが頑張って生きていく原動力にもなったし、決して卑屈になることなく、精神を高く保っていられた大きな要素であると思っている。

 たしか、この車はよく故障をして、修理工場に部品がなく、修理が大変だったように記憶している。そう考えると、修理費用も馬鹿にならなかっただろうし、我が家の現実生活にはそぐわなかったかもしれない。しかし、なぜ、父が、あの車を思い切って買ったのかと言えば、若い頃にどこか街で見かけて、いつか乗ることができれば・・・という憧れの車だった、と聞いた覚えがある。・・・どこかで聞いたような話しだ。・・・まるで、僕の場合と同じだ。笑
 僕はやはり、父を超えることができない、と思う反面、どこかで父を超えていきたい、と思っている。僕は、「ビートル」を乗りたいとは思わない。僕らしい何か別の車・・・。しかし、僕が「ドイツ車」を選び、また「白」を選んだのは、父に由来するものがあるのかもしれない・・・と、最近、強く思うのだ。

by.初谷敬史
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2016-03-29 01:27:01

夢の形・2

テーマ:ブログ
(承前)

 納車を待ちわびたルンルンの日々は、三枝さんのオペラ「Jr.バタフライ」に全てを費やした。このオペラを大成功させれば、そのご褒美として「夢の車」が自分の手に入る・・・、と自らに信じ込ませていたのだ。・・・いま、白状すれば、大好きなテニスを控えてまでも、全力投球したい訳は、実はそこにもあった。
 楽しみだったのは、実際に「夢の車」に乗り出した時に、自分が果たしてどんなこころ持ちになり、それによってどんな生活がやってくるのか・・・ということだった。きっと、自分の心境にも変化があるだろうし、人が僕を見る目も変化するだろう。乗りごこちや安心感はどうなのだろうか・・・。自分の技量で運転できるマシーンなのか・・・。街中や高速の走りは、スムーズで楽なのだろうか・・・。休憩時に、リラックスできる空間だろうか・・・。荷物は実際にどのくらい積めるのだろうか・・・。仕事やテニスに行くのに、どんな気持ちなのだろう・・・。
 ・・・心配なこともあったが、そのほとんどは、ワクワクするような悩みでもあった。人には言わなかったが、納車の日を、文字通り、子どもみたいに指折り数えていた。

 「夢の車」を乗り出して、2ヶ月間。僕の中で、いろいろなことが変化していっているように思える。
 目に見える大きなことは、2月21日(日)の「セサミ・オープン・シングルス大会」で初優勝したことだ。4年前の2012年1月、僕自身の何かを変えようと、高校生以来、ずっと封印してきた僕の「青春の夢」「情熱の源泉」である「テニス」を再開してから、最高の目標としてきた大会である。

 近所のスクール「セサミ・テニススクール」に入会したときは、初心者も同然だった。練習を経て初めて試合に臨んだのが、入会してから1年経った2013年2月「セサミ中級シングルス大会」だった。当時、試合直前の気持ちをひと言で現した言葉「公開処刑」の通り、プレッシャーに押しつぶされそうになりながら、ボロボロに負けて、予選落ち。同じ大会で初優勝を果たしたのが、その1年後、2014年5月である。その時の感想は、「終わってみれば、どこか、勝って当然・・・というような余裕」であった。それから、スクールとしては、最上レベルとなる「オープン大会」に挑戦し続けては、厚い壁にいつも跳ね返されていた。

 忙しかったせいもあり、試合当日、あまり本調子ではなかった。しかし、サービスが絶好調で、それで全体的に調子に乗っていけた感じがある。
 ・・・「サービス」について、自分なりに少し思う所があるので、ここに書いてみようと思う。
 テニスでは、サービス以外のショットは、必ず「相手の打ったボールの返球」という形でボールを打つ。・・・相手の打ったボールが、ネットを越える弾道の高さやコートに落ちる位置、スピードや重さ、さまざまな回転による跳ね方や滑り方などが、ひとつとして同じことがないので、毎回の「予測」と「判断」、そして「対応力」が、勝負の鍵をにぎる。テニスにとって、最も重要なのは、もしかしたら、相手のプレースタイルとの「相性」かもしれない。
 それに対して、サービスは、自ら打つショットであるので、レシーブに立つ相手とは、(本来は)全く関係がなく打てる。唯一、戦わなければならない相手は、トスアップの際の「風」や「太陽」である。しかし、「セサミ」は、インドアなので、それらと関係なく、安定したトスが上げられる。後は、精神的なもので、自らの気持ちや情熱を高めていけばいい。

 しかし、サービスはそんなに簡単なショットではない。サービスの最も難しいところは、先ほど「(本来は)」と記したところである。サービスが崩れる時というのは、どこに、どんなボールを打っても、相手に余裕で返されてしまいそう・・・と思ってしまう時なのである。
 ・・・こういう場合、サービスを打つ側は、気持ちに余裕のないまま、十分に間合いがなく焦って打ってしまったり、もっといい球を・・・と力んでしまったりして、のびのびとしたフォームが崩れてしまったり、相手を翻弄させようと、コースや球種に変化を持たすべく、いろいろやってみては、かえって、どれも不安定になってしまったりしたりするものだ。
 いつも、自分で「最悪だ」と思ってしまうのは、サービスが思ったように入らないので、コートに入れにいってしまって、ラケットが十分振り切れずに、ネットしてしまうことだ。
 ・・・そんなことは全くない、というプレーヤーがいるかもしれないが、もし、目の前に、フェデラーやジョコビッチが立っていたら、きっと、誰もがそのように感じることだろう。

 この日、僕は「トス」が冴えていたのだと思う。(「トス」というのは、サービスを頭の上から相手コートに打ち下ろすために、ボールを空中に投げることである。)
 ・・・トスに関して、実は、とても悩んだ時期があった。試合出場に際して、サービスを入れなければならない・・・というプレッシャーから、サービスが全く入らなくなってしまったのだ。
 もちろん、ゲームは、サーバーが、サービスを相手コートに入れることからスタートする。(野球のピッチャーが、キャッチャーめがけて投球しなければ、バッターはスウィングすることができないのと同じである。)そして、そのサービスはと言うと、「トス」から始まるのである。したがって、テニスのゲームにおいて、はじめの動作となるのが「トス」ということになる。
 ・・・ボールを地面に数回突いてから、左手の腹に乗せ、親指で軽く挟む。右手で持ったラケットと、ボールを持った左手を、胸の前で一度合わせ、身体の重心を、左足から右足に移しながら、両手を一度下げる。今度は、重心を右足から左足に移しながら、ラケットを持った右手は、手を下げた勢いを使いながら、頭の後ろへ振りかぶり、左手も下げた反動を利用して、ボールを上に放り投げる。左足に重心が完全に乗ったところで、右足を左足に近づけ、一般に「トロフィーポーズ」と呼ばれる姿勢で静止する。

 当時、僕は、ボールを離す時に、どうしてもボールに指が引っ掛かってしまい、クルクルと、ボールに異様な回転が掛かってしまっていた。それだけならまだしも、指に引っ掛かりすぎて、ボールが真上に上がらず、あちこちに散らばってしまっていたのだ。安定したトスが上がらなければ、安定したサービスが打てるはずがない。
 僕は、ひたすら自分で練習するしかない・・・と、家の中でボールを上げる練習をしたり、家の前の小道で、フォームの確認をしたり、外でコートを借りて、「ひとりで2時間、サーブを打ち続ける」というストイックな練習を繰り返した。そして、どこでもトスの練習ができるように、バッグには、いつもボールを入れて、持ち歩いていたこともあった。・・・スクールに行くと、あまりに悩み過ぎて、動作がぎこちなくなっていたのだろう。見兼ねたコーチに、「初谷さん、トスは、儀式じゃないよ」と、冗談まじりに注意された。
 いろいろと自分なりに工夫をこらして回数を重ね、練習では、ある程度スムーズにできるようになってきた。しかし、緊張する試合では、それは、別の話しとなる。
 僕はそこで、最近、ラグビーの五郎丸選手の「拝みポーズ」や、大相撲で仕切りの最後に琴奨菊関が行う「琴バウアー」などで流行り言葉になっている「ルーティン」を身につけようと、トスをする前の「ボール突き」を5回にしようと、ある時に決めることにした。・・・5回突く間合いで、勝敗の雑念や作戦、またフォーム修正など、さまざまに頭の中を廻っている思考をやめ、目の前のボールに集中し、いま、まさにサービスする・・・という強い気持ちを一気に高める。・・・これが最近、なかなかいい効果をもたらしていた。
 しかし、レッスンで、あまり調子が上がらなかった時、コーチが首をひねりながら、「その5回ボールを突くのに、初谷さんの芸術性を感じないんだよねぇ・・・」と、真面目に言われた。・・・確かにその時、形ばかりのルーティンになっていて、戦意がなく、適当な雰囲気になっていた・・・と反省した。「心・技・体」それぞれが万全に整ってこそ、サービスの一球入魂となるのである。

 今回の試合では、車のお陰かどうかは分からないが、気持ちの余裕と、内に秘める自信・・・のようなものが終始あったように思う。サービスが絶好調であったことと、チャンスがあれば前に積極的に出て、得意のボレーでしとめる・・・という僕本来の戦術が、ピタリとはまっていた。僕がこういうプレーができる時というのは、気持ちが、前面に現れていた・・・という証拠なのだ。バックハンドのスライス・ショットと、フォアハンドのストレートへのダウン・ザ・ラインも冴えていたので、それが攻撃の軸になった。
 結果、前々回の優勝者に7-6(タイブレーク7-4)、準優勝者に6-3、前回の準集勝者に7-5と、歴代の強者との大接戦を制した。こんなに早く、この大会で優勝できるとは思ってなかったので、すこし拍子抜けしてしまった。
 ・・・夜遅く、静まりかえったセンターコートで、汗をかいたふたりだけが立っているという状況や、試合の最後、ウィニング・ショットが、きれいに決まっていく様をスローモーションのように見届けている瞬間は、何にも代えがたい深い喜びはあるものの、試合に勝ってみると、やはり「勝てて当然」・・・というような感想しか残らなかった。

 すっかり、テニスの話になってしまった(書いていてとても楽しい・・・笑)が、僕が「優勝」という目標を達成して思うことは、あるものを手に入れたいと、あれやこれや悩んだり、夢みたりしている時が、一番楽しいのではないか・・・、と。あるものを手に入れる時には、既にその域に達しているので、さほど本人は驚きもしないのだろう。また、その逆も言えよう。その域に何とか達せられるように、日々、努力をすることでしか、その力が備わることはない。
 新しい車と、目標にしていた優勝を手に入れたいま、車やテニスに対しての考え方や捉え方が、すこし変化してきたように思う。音楽をはじめ、そのほかのことについても同様であるが・・・。また次なるステップに上がり、新たな目標に向けて、力をつける準備に入ったのではないか・・・と思っている。

・・・つづく・・・

by.初谷敬史
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2016-03-29 01:25:09

夢の形・1

テーマ:ブログ
 桜の咲き始めた春のビッグニュースとして、みなさんに報告したいことは、新しく車を買ったこと。
 ・・・1月2日、いつものように無計画に、隣町の太田にある大光院「呑竜様(どんりゅうさま)」に、家族で久々に詣で、境内の賑わいを楽しんだ後、標高239メートルの「金山」を、はじめてハイキングした。この日は、ぽかぽかの小春日で、温かく眩しい光をたくさん浴びて汗をかきながら、金山城趾や本丸の新田神社を散策した。物見櫓からは、渡良瀬川の流れる足利や広々とした太田の街並みを眼下に、男体山、赤城山、榛名山、そして遠く秩父連山を気持ちよく見渡した。古より人びとが絶えることなく暮らし、大切にしてきたこの土地に生まれ、温かな家庭の中で健康に、そしてこころ逞しく育つことができたことに、改めて感謝した。・・・その帰り道、突然、思い立った。
 東京に戻って1月6日、さっそく近所のディーラーに出かけ、即決、購入。

 こんなに思い切ったことができたのは、かねてより欲しい車があったからである。勘違いしないでほしいのは、衝動買いをしたわけではない。・・・決断するか、それとも、しないか。
 この車に出会ったのは、いつの時だったか・・・、少なくとも5年くらいは前の話になるだろう。あまりにも恋い焦がれる気持ちが強かったので、この期間が10年にも20年にも感じられる・・・。ヴォクスマーナの練習のために、地下鉄で築地に行った時だった。練習会場の前に、何気なく駐車してあったのがこの車だ。・・・この車を見た瞬間、恋人たちが出会う映画のワンシーンのように、僕の眼はこの車だけに焦点が向けられ、周りのものは意識の輪郭が完全にぼやけてしまった。あまりのかっこよさに、周りの人にも聞こえるくらい大きな音をたてて唾を呑んだ。そして、車の周りを何度も通り過ぎてみた。それでも、不審者には思われたくなかったので、車内を覗き込みたい気持ちを必死で抑え、クールな顔で通りすがりを装うのが大変だった。・・・完全に一目惚れだった。
 ・・・それから、この車を街で見かける度に、眼がハートになった。僕は夢みていたのだ。いつか、こんな夢の車に乗って、首都高をぐるぐる巡って仕事に行ったり、かんかん照りの夏の暑い盛りにテニスへ行ったり、ぽかぽか陽気の日に誰かを隣に乗せて、どこか遠くへ遊びに出かけたりできたら・・・、と。

 購入には、ちょうどいい時期だったように思う。姉の車が、もう1月一杯で車検になるところだった。姉が丁寧に乗っていたとは言え、10年以上乗った上に、最後の1年半は、老骨に鞭を打って、百キロ超えの往復をこなしてくれていた。高速に乗ると、エンジンが唸ってもスピードが出ず、さすがに車の限界を感じていたところだった。・・・このまま車検に出して、また2年乗るのか、それとも、新しく車を購入するのか。
 新しく車を購入するにしても、基本的に車に関心のない僕にとって、選択肢は限られていた。ひとつは高価な「夢の車」、そして面倒のない手頃な「姉の車の新型」、もしくは、実際に車を乗るきっかけとなったひとつの想い「テニスに行ければいい・・・というだけの、おんぼろの軽自動車」。年末年始にかけて、僕は、乗り心地や使い勝手のよかった姉の車で、せめて新型を・・・と、気持ちが動いていた。

 新年になって、僕の気持ちに変化が起きたのは、自分の年齢を考えた時だった。いま、僕は38歳。(最近、なぜか、父の亡くなった60歳から逆算する癖がついてしまっている。亡くなった父もそうだったに違いないが・・・。)もし、これから10年乗るとしたら・・・、果たしてどの車がいいか。中古車や新古車、新車を含めて、選択肢は無限にある訳だが、これからの人生を、より輝かしいものにするために、もしかしたら、思い切って「夢の車」に乗った方がいいのではないか・・・。
 何度も買おうと思っては、その度に、大きなこころの穴をぽっかりあけるようにして諦めた車・・・。けれど、いま、自分の決断次第では、すぐそこまでやってきている・・・。僕は頭の中で、僕がその車に乗って、晴れ晴れと人生を謳歌しているイメージを繰り返した。そんな時、きっと、周りから見たら、何をそんなにニタニタして・・・と、笑われただろう。いいイメージをしている時は、幸福の時だ。何もかもが楽しく思え、気持ちが前向きになる。
 僕は最近、何事においても自分の殻を破り、自分に自信を持って、一歩前に踏み出したいと思っていたのだ。「夢の車」の購入は、その契機になるのではないか・・・と。

 新年に感じた幸先の良さに後押しされ、勢い勇んでディーラーに出かけると、僕の欲しい車種を長年乗っているという親しみのある販売員の紳士が、いろいろと説明してくれた。そこで耳にした「男の浪漫」、「男の夢を形にした車」という名文句で、僕のこころは完全にいちころであった。笑
 ポルシェやフェラーリでは、僕は正直、何も感じないが、この「夢の車」には、僕の男ごころをくすぐる何かがある。それは、スポーツカーならではのスポーティでパワフルな中に、気取らないシンプルさや気品、また洗練された優美さを兼ね備えているところだろう。・・・まるで、自分自身を見ているようである。笑

・・・つづく・・・

by.初谷敬史
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2016-03-14 22:33:29

シダックス・アカデミー渋谷混声合唱団

テーマ:ブログ
 4月から、新たなプロジェクトがスタートします。

 全国にカラオケ店として名を馳せているシダックスが、2013年より、カルチャースクールを始めました。世界に文化を発信し続ける都市=渋谷。そのど真ん中に立つ「渋谷シダックス・カルチャービレッジ」で、教育・芸能・武道・アートなど、さまざまなジャンルの講座が開講されています。
 「すべての世代、すべての人の向上心に応える講座」をモットーに、早朝から深夜まで、受講者のさまざまな生活時間に合わせて、多種多様な講座が開講されており、それぞれが自由に選択することができるというものです。そして、その学びの輪を、渋谷を中心に、全国へと広げていきたいと考えているそうです。

 4月より、「SHIDAXダンス&ミュージックアカデミー」として、作曲家の三枝成彰さんが講座――「~世界的作曲家 三枝成彰氏指導で楽しく歌いましょう~シダックス・アカデミー渋谷混声合唱団」を持ちます。いわゆる「多忙な文化人」を絵に描いたような存在である三枝さんを間近に感じ、そのユーモアに溢れた指導を直接受けられることは、とても貴重なことだと思います。
 僕は三枝さんのアシスタントとして、講師を担当します。「君にぴったりだ!」と言って、講師を依頼してくれました。自分でも、この講座ならば、僕の能力が存分に発揮できる・・・と思い、今からワクワクしています。きっと毎回が楽しい講座になると思います。

 はじめて歌われる方も、また、経験の豊富な方も、新たな体験を味わってみませんか?!ここに集まる仲間たちと共に、人生をより一層、輝かせてみませんか?!
 もしかして、こんなふうに思ってらっしゃる方はいませんか?
 「年齢制限はないのですか?」
 「すこし遠いので、遠慮してしまいます・・・」
 「まったく歌の経験がないので不安だし、尻込みしちゃいます・・・」
 「ひとりで参加するのは、すこし恐い気もします・・・」
 「私、実はロクダンに入りたいのだけど、女性なんです!」
 みなさん、大丈夫です。どなたでも、参加してください!何せ、僕がいますから!笑 きっと楽しくて、毎週、渋谷に通ってしまいますよ!
 是非、ホームページをご覧になってみてくださいね。

★シダックスアカデミー講座ホームページ
http://w.cultureworks.net/culture/%E8%AC%9B%E5%BA%A7%E3%82%92%E6%8E%A2%E3%81%99?genreID=1&page=1

■SHIDAXダンス&ミュージックアカデミー
~世界的作曲家 三枝成彰氏指導で楽しく歌いましょう~
「シダックス・アカデミー渋谷混声合唱団」


 シダックス・アカデミーアドバイザーの作曲家、三枝成彰氏による、“大人の部活”「渋谷混声合唱団」が渋谷でスタート!歌う楽しさはもちろん、合唱を通じて様々な仲間と交流し、新たな輝きを得ませんか。合唱をやったことがなくても大丈夫。楽しく練習して向上の喜びを持って音楽を学び、人生を深めましょう。

◇日時
〈未経験者クラス〉【前期】毎週 土曜日 13:00~15:00(初回4月16日、3ヶ月、全10回)
〈経験者クラス〉【前期】毎週 土曜日 15:30~17:30(初回4月16日、3ヶ月、全10回)


◇会場
渋谷シダックス・カルチャービレッジ(渋谷駅ハチ公口より徒歩約8分)

◇講師
三枝成彰(作曲家)※三枝成彰氏の指導は、基本的に月1回となります。
初谷敬史(指揮者)
岩井美貴(ピアニスト)

シダックス

◆お問い合わせ:シダックス・カルチャーワークス TEL 03-3770-1425
◆お申し込み:店頭及びホームページで承っています。http://w.cultureworks.net/culture/

by.初谷敬史
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