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2016-08-31 01:28:21

『ナディーヌ』の13年・4

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(承前)

 

 「ナディーヌ公演」を大成功のうちに終え、いま、思うことは、僕の音楽人生には、三澤ミュージカルが、なくてはならないものだったということ。たぶん、僕が一番「輝ける場所」なのではないかと思う。

 それにしても、三澤先生は、僕のことをよく見ている。良いところも、悪いところもすべて・・・。僕の「できる」、「できない」もすべて・・・。それもそのはずである。僕が芸大の1年生の時から、僕のことをずっと見ているのだ。先生には、何も隠すことはできない。

 

 「くにたち芸小ホール」で、三澤先生の新作ミュージカル『ナディーヌ』のワークショップが始まった2003年。芸大を卒業して、まだ駆け出しの声楽家。26歳になったばかりの僕は、「ワークショップ」という言葉の意味すら、よく分からなかった・・・。

 先生からワークショップの合唱指導を頼まれたが、実際にどうやったらいいのか分からなかった。普通の合唱の練習だと割り切って、発声練習をして、新譜の譜読みをし始めたが、そうする以外に、僕は何もしようがなかった。三澤先生の作品自体もはじめてであったし、新作をどのように作っていったらいいのか、ミュージカルはどのように稽古を進めていったらいいのか、ダンスや台詞と歌とをどのようにミックスさせてくのか、舞台にあげるのに稽古でどの辺りを強化しておかなければならないのか、どのような手順を踏めば合唱団員がスムーズに覚えていけるのか・・・僕は、手探りでやっていたが、上手くいっていたとは到底思えない。

 しかし、ラッキーだったのは、新作だったせいもあり、三澤先生が頻繁に稽古場に通ってくれたことだ。そのお陰で、先生が合唱団を指導する様子を見せてもらうことができた。僕は現場で、そういうことを、ひとつひとつ勉強させてもらったのだ。

 

 このミュージカルでは、合唱指導だけでなく、キャストとして役も与えられた。先生の家で飼っていた胴長・短足・茶色のミニチュア・ダックスフントをモデルとして、それに、僕のイメージを重ねあわせて創り出されたIQ500の超マジウルトラ大天才の博士「ドクター・タンタン」役。・・・「これは、初谷くんをイメージして創ったもので、初谷くん以外にはできない!」と先生に頼まれた。この役は、僕という人間をよく知った人でなければ生み出せないような、奇想天外なキャラクターだ。ありがたいことに、僕はそのままを演じれば「ドクター・タンタン」になるのだが、僕以外の人では、なかなかこのキャラクターを演じるのに苦労するだろうと思う。そう考えると、やはり「ドクター・タンタン」は、僕のキャラクターなのである。

 

 『ナディーヌ』の初演を終え、三澤ミュージカルは、1年おきに、先生の住んでいる「国立」と、先生の故郷である「新町」で上演された。先生のミュージカル三部作の第二作目である『愛はてしなく』。そして、第一作目である『おにころ』。

 僕は、それらを『ナディーヌ』と同様に、「くにたち芸小ホール」のワークショップの合唱指導をしつつ、キャストとして出演した。『愛はてしなく』では、

イエス・キリスト役を、『おにころ』では伝平役を。また、これら三部作の他に、新町で、ミュージカル『NOAH ノアの方舟』の宇宙人役を演じ、昨年は、「群馬音楽センター」での『おにころ』の合唱指導を務めた。もちろん、公演では、伝平役も演じた。

 ・・・こうしたひとつひとつの経験を成功させることによって、僕は「できない」から「できる」人間へと、確実に変わっていったのだった。

 

 僕は今回の『ナディーヌ』の合唱練習に、はじめから大きな自信を持って臨むことができた。12年前ではあるが、初演を経験していることは、指導者にとって大きなことだったし、当時、まったく何もないところから、曲がりなりにも舞台をひとつひとつ作り上げたのだ。そして、三澤ミュージカルの、数々の舞台経験が、大きな力となっている。

 僕は、合唱練習で、ひとつひとつを丁寧に、そして自分で納得のいくように稽古していった。稽古でやったことが、そのまま舞台でできるとは限らないが、なるべく、みんなが舞台で自然と演じられるように、身体に染み付かせるべく、繰り返し練習を重ねた。

 三澤先生と僕、また振付の佐藤ひろみさんと僕のコンビも、かなりいい具合だった。そして、今回、いろいろなことが、とてもスムーズだったように思う。

 

 それに加えて、ここで改めて強調したいのは、合唱団員のチームワークの良さであろう。

 僕は、今回、この『ナディーヌ』に集まった人は、特別な人である・・・と思う。・・・「かよわい妖精」、「かけがえのない愛」といったものに、本人が意識しなくとも、魂のレベルで不思議と共感し、集まってきた人たちなのだろう・・・、と。みんな、こころが清らかで、協力的で、温かい。やる気もあって、でも、変な気負いや勇み足などがない。常に冷静に、そして確実にものごとをこなしていく・・・。そういう合唱団の雰囲気が、舞台いっぱい、会場いっぱいに溢れていたと思う。

 そういった意味で、本番の舞台では、僕は安心して、合唱指導者という役割から離れ、キャストとして、自分の役に徹することができた。

 ・・・けれど、本番前に三澤先生と佐藤ひろみさんが行った合唱最終練習には、どうしても携わりたかった。それが、合唱指導者としての僕の役目であるし、僕としても、納得のいく合唱の仕上がりであってほしかったし、・・・それと、・・・何と言うか、やはり、最初から最後まで、みんなと一緒にいたかったのである。不思議なことに、みんなと一緒にいた方が、僕の本来の調子が出てくる。

 

 僕は、きっと、キャストとしてだけ『ナディーヌ』に参加したら、多くのプレッシャーを感じて、自分自身を保つことができず、舞台で本領を発揮することができなかったと思う。そうではなくて、僕がはじめから合唱団と共にあって、いろいろなことを経て、みんなで一緒に作ってきた・・・ということをベースに、僕が舞台で、メンバーに囲まれながらキャストを演じる・・・。この形が、三澤ミュージカルでは、僕は一番しっくりくるのだ。そうすることで、僕の良いところがすべて、三澤ミュージカルで活かされるような気がする・・・。

 逆に言えば、僕が合唱指導をし、舞台でユニークなキャラクターを演じることが、三澤ミュージカルを輝かせているのかもしれない。笑 

 

 ともあれ、そんな僕が、片意地を張ったり、引け目を感じたり、遠慮したりすることなしに、僕のやりたい放題をやらせてくれて、舞台で目一杯輝ける場所を作ってくれている三澤先生、そして、僕と長い時間を一緒に過ごしてくれた合唱団員に、改めて感謝したい。

 

 ・・・今年の暑い夏は、終わった。『ナディーヌ』の大成功と、そして、みんなと喜びを分かち合って・・・。

 

 

 

by.初谷敬史

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2016-08-31 01:19:52

『ナディーヌ』の13年・3

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(承前)

 

 僕が『ナディーヌ』のワークショップに携わりはじめた26歳と言えば、ちょうどその「できる」から「できない」への移行期であったように思う。

 その頃、まだ、父親は生きていたし、花川戸から引っ越しをして、根岸に住みはじめて2年くらい経った頃だろうか・・・。僕は芸大を卒業して、すでに音楽で生計を立てていた。学生時代からの活動や、さまざまな仕事がそのまま継続されていた。オペラに出演したり、コンサートでソリストや合唱として出演したり、スタジオでレコーディングしたり、いろいろな活動をしていたが、この頃は、もうどちらかと言うと、声楽家として研鑽を積んでいたのではなく、合唱指導の仕事に、重点を置きはじめようとしていた時期だった。・・・そうなったのには、いろいろな理由がある。

 

 声楽の師匠である高丈二先生の影響。僕を合唱指揮の道に導いてくれた三澤洋史先生の影響。そして、自分の歌が思うように伸びてこなかったこと・・・など。

 

 僕は何度か芸大の大学院の試験を受けた。けれど、不合格だった。いま考えれば、これは当然の結果である。当時の僕の声には、誰も将来性を感じなかっただろうし、歌に勉強の跡も見られず、絶対に受かってやろうという気迫や、これからもっと貪欲に勉強していこうという意欲さえ感じられなかったに違いない。

 ・・・そもそも、受験の動機が不純だった。いま、白状すれば、僕はただ、「芸大大学院修士課程卒業」のプロフィールが欲しかっただけなのである。もう、大学の外での音楽活動が成り立っていたので、あろうことか、仕事の傍らで、大学院の授業を軽く受けよう・・・くらいにしか思っていなかった。しかし、いろいろなところで仕事をするのに、大学院の肩書きが欲しかったのだ。「虎の威を借る狐」のように・・・。それには、訳があった。

 

 当時の僕のウリと言えば、「芸大現役合格」「芸大卒」「若い」「人当たりがいい」「センスよく器用にこなす」「仕事に対してまじめ」。・・・しかし、音楽の現場で、僕は満足のいく仕事ができていたかというと、それは自分でも不本意なほど、ひどいものだった。おまけに、どこで覚えたのか、ごまかすのが上手く、器用に、まじめに取り組んでいるように見せかけていた。いかなる時も、自分自身を偽ることはできないが、当時、そうしたあるがままの自分を直視できていたとは、当然思えない・・・。

 僕は、その頃の自分に、自信が持てなかったのだ。だから、「ひとつ上」の肩書きが欲しかったのである。・・・いま考えると、とても浅はかな考えではあるが、自分の発する声や音楽に責任がとれず、自信が持てない声楽家は、そうするしか、人びとの尊敬を勝ち取ることはできない・・・と考えていたのである。

 

 けれど、案の定、大学院には合格することはできず、僕は気持ちのやり場がなかった・・・。そんな宙ぶらりんな気持ちで、声楽家を続けているのは、正直、とても苦しかった。歌への情熱がないわけではない。しかし、現実には身体が反応せず、技術が伴ってこない。・・・憧れのオペラ歌手からは、どんどん遠のいていき、ブームになりつつあった古楽をやるわけではなし、現代音楽をやれるわけでもなし、僕の歌は、次第に萎縮していってしまった・・・。

 

 そんな僕の気持ちが楽になったのは、ある夏休み、「高クラス」の合宿で、那須に行った時のことだった。お酒を飲んで真っ赤になった高先生が、自分の半生を、僕に静かに語ってくれた――「・・・僕は、好きな歌しか歌ってない。けれど、自分で日々研究を続け、機会を設けてそれを発表している。・・・」

 ・・・驚いたことに、先生は、歌を、仕事にしていなかったのである。僕にとって、この言葉は、青天の霹靂であった。僕の歌と、先生の歌は、まったく次元が違ったのである。僕の歌は、好きではない歌を、ムリに、大した研究もなく、形ばかりを整えようと、ごく表面的に、効果だけを狙って、その場限りで歌っていただけだ。

 肩書きではない、人と張り合うような歌ではない、対価に見合うような歌ではない、こうでなければならないというような狭い歌ではない、これみよがしな大げさな歌でもない。ごく個人的な、そして細部にいたるまで愛着を持ち、ものごとの真に迫る、それでいて、人生や宇宙の根源を追求するような歌。・・・僕の聴いた高先生の歌は、まさにそのようであった。

 僕が先生の歌に感動したのは、歌への熱い情熱や、完璧なまでの技術の高さだけではない。僕が本当に驚いたのは、先生の声帯の若々しさだった。還暦を迎える声帯とは考えられないほど、つややかな張りと空間を包み込むような柔軟性がある。先生は、歌を仕事にしないことで、自分の声を疲弊させることなく、自分の音楽を大切に守り、熟成させてきたのだ。

 ・・・僕はこれを機に、しばらく「声楽家」というものから少し距離を置くことにした。

 

 僕はそれから、「できない」自分をそのまま受け入れ、誰の力も借りず、自分で研究を続けていくことにした。・・・その「写し鏡」となったのが、僕の指導する「合唱団」だった。

 新作ミュージカル『ナディーヌ』のワークショップがスタートする頃、その年の初めに、「足利市民合唱団」の指導者に就任していたが、まだ、「コール・エッコ」や「六本木男声合唱団」には携わっていない時期だった。その後、いろいろなところで、合唱の指導をするようになったが、案の定、そこで、自分の「できない」「空っぽ」が、露骨に現れるようになった。

 

 ・・・発声指導ひとつを取っても、自分で「支え」というものが分からないのだから、団員に「支え」を教えることはできない。自分で「ド」の音が分からないのだから、団員に「ド」の音を教えることはできない・・・。多くの合唱団がそうであるように、指導者の「できない」は、団員の「できない」に出る。逆に、団員の「できる」は、指導者の「できる」に繋がっていく・・・。

 ・・・僕もそんなふうに、合唱団を自分の「写し鏡」として、成長していくこととなる。発声、歌唱指導、音楽構造、音楽史、解釈、指揮、統率力、演出、空間性、仕上げ方・・・、団員と共に学んでいくことで、ひとつひとつ、自分の知識や技術を身につけていった。

 いや、これは「掴む」という言い方のほうが、僕はしっくりくる。この「掴む」は、掴んだら二度と離さない・・・という種のものである。

 

 僕はこの13年の間、合唱団とのさまざまな経験を通して、発声に関して、そして音楽に関して、「ある重要な発見」をいくつもした。これは、真理のようなものだ。・・・いま、僕が音楽する上で、迷いなく、土台がまったく揺らがなくなったのは、この発見があったからなのである。このいくつかの発見を軸に、僕は確実に力を付け、自信を持っていった。

 これを舞台で確固たるものにし、もっと究めていくには、更なる精進と、多くの成功の経験が必要だろうと思う。・・・僕の次のステップ、40代は、そのためにあるのだ。

 

・・・つづく・・・

 

by.初谷敬史

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2016-08-31 01:17:48

『ナディーヌ』の13年・2

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(承前)

 

 先日、39歳の誕生日を迎えた。(文字にすると、なかなか深い趣がある・・・笑)

 ・・・この日は、「ナディーヌ」の劇場入りの日で、舞台稽古の初日だった。嬉しいことに、練習後、舞台にみんな集まって、サプライズでお祝いをしてくれた。三澤先生のミュージカルは、いつもこの時期にあるので、これまで何回お祝いをしてもらっただろうか・・・。だから余計に、初演から12年経った39歳での『ナディーヌ』というものを意識してしまうのかもしれない・・・。

 

 39歳・・・。人生の折り返し地点がどこにあるのか分からないが、あと10年、20年・・・と考えた時に、確実に自分の死へ向かっている・・・と実感する年齢になってきた。しかし、そう考えるならば、これから訪れる40代は、とても充実し、楽しいものになるのだろう・・・と、僕はウキウキしてしまう。

 ・・・12年前の父の死を経験して、死は僕にとって、とても近しい存在になった。死は、生命としてごく自然のことで、時がくれば誰にでも平等に訪れる。自分の終わりの日が決まっているのか、決まっていないのか分からないが、自分の「誕生日」があるのと同様に、どこかで必ず終わりの日を迎える。

 そのように限られた人生であるなら、では、どのように生きていくべきか・・・。

 

 ・・・僕は、あまり人に迷惑をかけずに、自分の気持ちに正直に向き合い、何か大きなものに守られながら、ごく僅かな人と仲睦まじく、楽しく穏やかに暮らせればいいと思う。・・・ただ、自分自身を満足させたい・・・という気持ちは大きい。自分の目指すべき方向で、自分の納得のいく境地まで、自分を高めていきたいと思っている。

 僕の満足は、「分かる」「分からない」で決まるのではなくて、「できる」「できない」で決まるような気がする。しかも、それは幾つか種類があって、自信を持って「できる」、自信がなくて「できない」。自信を持って「できない」、自信がなくて「できる」・・・。この中で、自信を持って「できる」でなければ、僕は到底、自分に満足することはできないだろう。

 

 僕はもともと、「できる」タイプの人間だ。しかし、いつの頃からか「できない」タイプに変わった。いや、自分でそんな風に、設定し直したのかもしれない。・・・このことは、僕の人生において大きな転換点だった。僕の人生は、そこから始まったと言ってもいい。(人は、決定的に打ちのめされ、自分で心底、それに気が付かない限り、そう変われるものではない・・・。)

 

 「できる」と思い込んでいた自分が、ある時、本当は「できない」と自覚したその挫折感・・・。その打撃は、かなり衝撃的なものだった。(僕の挫折にはバーバーの「弦楽のためのアダージョ」がよく似合う。僕の人生には、この楽曲が通奏低音のように静かに、また低く厚くうごめくように、そして何か無限のものを希求するかのように、坦々と流れているかのようだ・・・。)

 僕はその時、自分は自己以外が「空っぽ」であると、痛感した。そして、いろいろなことに対して、もっと真面目に取り組んでくればよかったと後悔した。僕は不真面目だったのだ。・・・僕はそれまで、自分のできうる範囲で、表面的に取り繕ってきたにしかすぎなかった。自分自身を直視しようとせず、根拠のない「できる」という思い込みだけで、自分を偽ってきた。結果、すべてが上滑りをしてしまって、何も自分の身になっていなかったように思う。

 だから、「できない」僕は、苦労をして、自らの手で目の前にあるものを、ひとつひとつ掴んでいく必要があった。

 

・・・つづく・・・

 

by.初谷敬史

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2016-08-31 01:15:22

『ナディーヌ』の13年・1

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 「くにたち芸小ホール」で、三澤先生の新作ミュージカル『ナディーヌ』のワークショップが始まった2003年。13年前の僕は、どんなふうだったのだろうか・・・。・・・芸大を卒業して、まだ駆け出しの声楽家。26歳、独身、獅子座・・・。(←『ナディーヌ』の台詞風!笑)

 

 まだその頃、このブログを始めていなかったので、僕が日々、どんな風に考え、どんな風に活動していたのか、その記憶の断片は、頭の中に散り散りになって残っているにすぎない・・・。そう考えると、このブログは、僕にとって、とても貴重なものだと改めて感じる。

 ・・・それぞれの記事を読み返すと、その頃の記憶が、鮮明に蘇ってくるようだ。日記のようにサラサラとは書けないが、その代わり、すこし苦労して書いているので、その分の重みが文章に加わっていることになろう。そこが、僕が生きていく上で、大切にしてきた部分であると思うので、やや大げさに言えば、ブログの記事と記事を繋ぎあわせれば、僕という人間が出来上がる・・・と言ってもいいかもしれない。

 だからこそ、このブログは、自分に正直に、まっすぐに書き進めなければならないのだ。

 

 僕が普段、話している言葉や、僕の奏でる音楽は一瞬にして消えてしまうが、文字はこうして、ここに残る。

 残ることがいい・・・とは、決して言えないが、僕の書くブログは、「生」に対する僕の懸命な「あがき」なのだろうと思う。それは、世界にとっては些細な「ヨゴレ」「シミ」にしか過ぎないだろうけれど、僕にとっては、自分の墓標に刻まれた文字に等しい・・・。風雨にさらされて輪郭の角が落ち、やがて文字が薄れ、読めなくなったとしても、誰かがここで懸命に生きていた・・・という、生の余韻が残ればいいのだ・・・。

 なぜ、僕がブログを書いているのか・・・。それは、当然「書く」、「書き切る」と自分で決めたから書いているのだが、どうやらそれだけでなく、自分の内側から、世界に対して、何か突き上げてくるものがあるのだと思う。・・・何度もやめようと思いつつ、結局、月末になると、必死で書いてしまう。今月も、この記事を書き始めるまで、ずいぶん時間が掛かってしまったが、また書きはじめた。

 

 何を書こうか・・・、事前にあれこれ考えたりもするが、書きはじめてみるまでは、実のところ自分でもよく分からない。はじめの一文を書いてみても、そこからどこに向かうのか、そしてどんな結末が待っているのか、分からない。ただ思うままに、キーボードを叩いている。

 しかし、技術的に、頭で考えることと、キーボードで文章にするのと、だいぶ時間差があるので、書いている途中で、いちいち考え直さなければならないのも事実だ。そこが、歯がゆいところではあるのだが、だからこそ、文章というのは価値があるのだと思う。書き手の、その時のあらゆるものが総動員されて書かれるからである。

 僕の場合、ブログを書くのに、滅多に切り貼りをしない。冒頭から一文一文を順々に書いていく。あみだくじやケヤキの枝を辿っていくように・・・。もし僕が作曲家だったら、やはり冒頭の一音から、不可逆的に書き進めていくだろう。・・・それが、僕のやり方であるし、僕の人生観なのかもしれない・・・。

 

 僕はさまざまなことに対して、微妙な変化を楽しんで生きている。いや、微妙な変化を感じ取れる人間であると思う。空気感と言ってもいい。それを感じ取るのは、ある種、直観的な作用である。

 それは文章を書いていてもそうだ。冒頭から、気ままに書いていくわけだが、僕の周りにどんな風が吹いていてもいい。しかし、良い風と、悪い風がある。悪い風に乗ると、とんでもない方向に行ってしまい、ドツボにはまる。僕は、良い風が吹いてくるのをじっと待っている。・・・風の流れを選択するのは、自分自身だ。

 ・・・幾多の分かれ道。僕はそこの中心に立ち、何かをひらめき、それを信じて選び、決断し、そして進んでいく。それでも、そこには葛藤はある。迷路に迷い込んでしまうこともある。しかし、そう決断し、自分で進めていったものには、必ず感動がある。・・・終着点に立ち、改めて後ろを振り返ってみると、自分の歩んできた道がくっきりと浮かび上がり、数々の分かれ道が光り輝いて見える。だから、書き終えたときの充実感は、計り知れないものがあるし、それまでの混沌としていた気持ちや、自分のぼやけた輪郭が、すっきりと整頓され、あたかも、次へと進む扉が、目の前で開かれるかのように感じられるのだ。

 

 ここまで書いて、分かったことは、僕の生への「あがき」は、この世に「種」を残そうとしているのではないということ。僕はここで、自分の「花」を咲かせようとしているのだ。

 

・・・つづく・・・

 

by.初谷敬史

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2016-07-30 23:39:35

暑い夏はミュージカル『ナディーヌ』

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 創団20周年を迎える今年度の定期演奏会第1弾「ヴォクスマーナ第35回定期演奏会〜未来を担う女性作曲家〜」も無事終えて、いよいよ、僕の暑い夏が始まった。国立と新町での初演以来、12年振りの上演となる三澤洋史先生の純愛ミュージカル『ナディーヌ』。
 初演のキャストが全て様変わりしてしまった中、唯一、僕だけが残ることになってしまった。・・・そう、誰も、あの役を演じることはできないのだ!!おほん!!笑 なぜなら、三澤先生が、僕をイメージしてあの役を創ったからだ。
 大切に保管されてあった倉庫から、12年振りに引っぱり出してきた「ぬいぐるみ」と、すこし歳をとって、テニスで日焼けしたミニチュア・ダックスフントの「ドクター・タンタン」の磨きのかかった勇姿を、是非、ご覧あれ!!

ナディーヌ1

ナディーヌ

ミュージカル『ナディーヌ』(原作・脚本・作曲・演出:三澤洋史)
■8月27日(土)開演17時30分
■8月28日(日)開演14時
聖学院講堂(聖学院中学校・高等学校内)※JR山手線「駒込駅」東口より徒歩5分、東京メトロ南北線「駒込駅」3出口より徒歩7分
料金:一般 5,000円、学生2,000円
●チケット申し込み:ticket.musical.nadine@gmail.com
●ホームページ:http://musicalnadine.web.fc2.com
●Facebook:https://www.facebook.com/musicalnadine/?fref=ts

◆キャスト
パリのさえないサラリーマン「ピエール」:川村章仁
花の精でフェアリーランドの女王「ナディーヌ」:前川依子
IQ500の大天才博士「ドクター・タンタン」:初谷敬史
ナディーヌの養育係「オリー」:大森いちえい
グノーム族の首領「ニングルマーチ」:秋本健

◆演奏
指揮:三澤洋史
ピアノ:三澤志保
エレクトーン:塚瀬万起子
パーカッション:赤迫翔太
合唱:ナディーヌ合唱団
ダンス:ナディーヌ・キッズ

◆スタッフ
振り付け:佐藤ひろみ
合唱指導:初谷敬史、高橋ちはる
練習ピアニスト:三澤志保、水野彰子

by.初谷敬史
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2016-07-29 00:15:34

ヴォクスマーナ20周年を迎えて

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 ヴォクスマーナの練習を重ねていると、いろいろなことが研ぎ澄まされてくる。これは、僕の音楽的体験の中で、とても貴重なことである。
 これまで見えなかったことや、敢えて、見ないようにしていたようなことが、目の前から霧が晴れていくように、だんだんと見るものすべてにピントが合ってくるような感覚・・・。これは、音楽的体験でありながら、聴覚的感覚よりも、視覚的感覚に近いものであるように感じる。そして、それは、感覚の解放、更に、身体的な覚醒を生み出す。

 そもそも、自らの声を使って音楽する「声楽」は、とても難しい。なぜなら、ほかの楽器のように、楽器そのものが、人体とは別のところに存在しているのではなく、声を出す仕組みそのものが、自らの身体に内在しているからだ。(当然、ほかの楽器も、それ特有の難しさがあろうが・・・。)したがって、声楽は、あらゆる面において、自己と密接に、そして直接、結びついていると言える。生理現象や概念、感情、意欲、気、反射神経、運動神経、筋力、体力、体調・・・。
 これら生命とも言える自らの内に起こる現象のすべては、自己であるのと同時に、生活であり、日常である。普段、ため息をついたり、会話をしたり、あくびをしたりする自らの声を素材に、声楽家は「楽音」にするのである。一見、これは非常に便利そうである。手軽であるし、器用に、自在に操れると理解している。しかし一方では、だからこそ難しいとも言える。声楽の難しさは、自己と完全に切り離して、楽音である「声」だけが存在できないところにある。

 残念ながら、日常は、まったく整理されることがない。一日生活をしていると、さまざまな外的要素と、それに反応する内的要素が入り交じり、すべてが混沌としてくる。それを、人はそのままにして、夜、寝入る。また朝になれば、新たな混沌とした一日が始まる。それを無限に繰り返すうち、僕たちは精神や肉体の軽やかさを失い、すべての経験が時間によって押しつぶされ、どこかにそのまま押し込められ、やがて地層のように固まっていく。
 ・・・この蓄積を、「培われた個性」と呼ぼう。声は、この「培われた個性」を内在している。これは、表面的には「経験」と言うのだが、本質的には「重み」「汚れ」「雑音」でしかない。では、本来の声は、どのようなものなのだろう・・・。

 それは、「培われなかった個性」であろう。僕はそれを「性格」と呼んでいる。生まれつきの性質。また、あらゆる行動の選択を司る直観的なもの。もう少し言えば、魂の核となるもの・・・。・・・これが、何の力みもなく、軽やかに、明るく、爽やかに現れてくるような声こそが、僕らが目指すべき声であろう。それは、何も化粧されていない。理屈、方法、偽り、疑い、迷い、過信・・・。僕らはそれを、一生かかって見つけようとしている。
 しかし、その人本来の声が見つかったら、それは、何にも勝る楽音となるに違いない。そうであるならば、人の数だけ個性的な音色が存在するということになる。そもそも、人体を見ればひとつとして同じ顔がないように、声の鳴りと響きの組み合わせは無限に存在する。更に、人体的な個性に、間違いなく「性格」が加わる。それは、人体を超えた太古からの魂の響きなのである。

 僕らが見つけようとしているのは、「声」だけではない。本当の「音」を見つけようとしているのだ。
 声楽家は「声」を持っているが、「音」は持っていない。扁平な言い方をすれば、ピアノはド・レ・ミを持っている。フルートもトランペットも、フレットのないヴァイオリンでさえも、ド・レ・ミを持っている。それは、飛んできたテニスボールを、ラケットで打ち返すようなものだ。声楽家は、目隠しをされて、その場で10回廻ってから、フラフラとビーチを彷徨って、スイカを割るようなものだ。目隠しの隙間からスイカが見えていれば、思い切って棒を振り下ろせるだろうが、右も左も分からなければ、思い切って棒を振り下ろすことができないだろう。

 このことは、絶対音感がある、ない・・・ということを言っているのではない。もちろん、そういうこともあるが、僕らはそれを超えた本当の音の「あるべき姿」を見つけようとしているのだ。それを僕らは、自分の声で探している。音は頭の中にあるのでもなく、実際に出た音を、聴く人の想像力で補うものでもない。いま、空気に振動すべき音を、自分の声で掴むのである。それは、自分の無垢の精神と身体で掴み、新たに発見した音でなければならない。こうして、自分のものとなった音だけが、ようやく世界に開くことができるのだ。
 ・・・それは、人類が2000年前も、そして2000年後も、追い求め続ける音なのだろう。

 僕たちは、まったく焦っていない。かっこよく見繕うこともしない。只只、自己を掘り下げ、現実を見定め、「声」と「音」のあり方を追求しているのだ。・・・そんなことができる僕たちは、幸せだ。

by.初谷敬史
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2016-07-22 01:47:44

ヴォクスマーナ・インタビュー

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 メンバーのひとり、櫻井元希くんが、ヴォクスマーナの広報担当大臣になりまして、SNSを駆使していろいろと頑張ってくれています。いままで、メンバーの中に、櫻井くんのように知的でユーモアに溢れ、かつマメな人がいなかったので、本当にありがたい限りです。
 彼は声楽家、そして指揮者として、古楽を中心に、さまざまな団体で活躍しており、また、自らも団体を主催してやっています。そんな彼が、現代日本では希有な存在である、現代音楽の声楽アンサンブル「ヴォクスマーナ」の未来を、真剣に考えてくれています。
 そのひとつとして、FacebookやTwitter用に、「今年創団20周年を迎えるヴォクスマーナ、団長へのインタビュー」として、質問形式を考えてくれました。はじめは、動画のアイデアを出してくれたのですが、さすがに恥ずかしいので、文字にすることにしました。
 なかなか筆が進みませんでしたが、あらためて考えてみると、いろいろと面白い発見がありました。相変わらず抽象的な内容ではありますが、読んでいただければ幸いです。
 

●ヴォクスマーナ創団20周年を迎えましたが、この20年を振り返って現在どのような思いですか?

 改めて20年を振り返ってみると、覚えていること、忘れてしまったこと、また、記憶にとどめておきたいと思ったこと、忘れてしまいたいと思ったこと・・・たくさんのことがありました。そして、長い時が過ぎ、多くの人が僕たちの周りを過ぎていきました。その間、僕たちは目の前にあるたくさんの曲をひたすら歌い、そのことによって自分自身を高めてきました。・・・僕の音楽人生は、ヴォクスマーナと共にあると言っても、けっして大げさではありません。
 そうしたヴォクスマーナでの音楽体験を踏まえて、いま、みなさんに胸を張って言えることは、どの音楽家とも違う音楽的感性と技術を、僕たちは持っている・・・ということです。これは、理屈や理念ではありません。体験と感覚です。僕らはそれを、自らの身体を用いた空間的実践において身につけてきたのです。

●創団のいきさつについてお聞かせ下さい。

 僕たちの原点は、パレストリーナです。20年前、東京芸術大学に入学した僕らは、学校内にある談話室という誰もが自由に使えるスペースを利用して、アンサンブルの練習をしはじめたのです。もちろん、音楽経験豊富な西川くんのリーダーシップによってです。合唱経験のほとんどない僕にとっては、すべてが新鮮で、とても勉強になりました。
 ・・・僕らがなぜ、談話室に集まったのかと言えば、ここに来れば、何かを得られると思ったからでしょう。「ヴォクスマーナ」と命名したのは、それぞれの声の追求、そして声による音楽の可能性の追求を目指したからです。こうした創立当初のメンバーの姿勢は、20年経ったいまでも、まったく変わっていないと思います。

●ヴォクスマーナは邦人への新曲委嘱初演を活動の軸としていますが、この活動についての思いをお聞かせ下さい。

 僕たちは、お金儲けをしたくて、ヴォクスマーナの活動をしているのではありません。また、世界的に有名な声楽アンサンブルになりたくて活動しているのではありません。欲がない、野望がない、といったらウソになるかもしれませんが、そうでないからヴォクスマーナがヴォクスマーナでありつづけられる・・・とも思っています。
 それでは、何のため・・・。自分自身を知り、自分自身のルーツを知り、いまを知り、現時点で構築しうる最高の可能性を探るためです。「あす」のことを考えていないのか・・・と言えば、考えていないと思います。「いま」がなければ、「あす」はありません。「ここ」がなければ、「あそこ」はないのです。だから、同世代の邦人であるべきだし、新作である必要があるのです。

●これまでの活動の中で特に印象に残っているものはありますか?

 特に取り立ててありませんが、ヴォクスマーナの活動で、とても素晴らしいと思うことは、メンバーと共に、東京文化会館の小ホールの舞台で歌えることです。あの舞台は、僕らにとって特別な場所です。・・・そう思えるのは、ヴォクスマーナの定期演奏会で、舞台に上がった者しか分からないことでしょう。
 簡単に言えば、とても緊張感のある空間なのです。作曲家やお客さまの期待もあります。これまで、この世に存在しえなかった原初の音が、細胞がポンとはじけるように、ピンと張りつめた、そして無限に開かれた空間に放たれるのです。そして、その音は、驚きと新鮮な感動を以て、これから後、この世に存在しうる音となったのです。
 大抵の者は、その責任感の重圧に耐えることができません。僕らはそれを乗り越えて舞台に立ち、自らの内なる音として、確信をもってひと声を発するのです。

●20周年という1つの区切りを迎え、今後のヴォクスマーナの展望などありましたらお聞かせ下さい。

 僕たちは新しい音楽の創造をしているので、やはりもっとアンサンブルとしての高みを目指していかなければなりません。常に通過点ではありますが、それでも確実に階段を登っていると思います。しかし、それは僕たちの中で完結すべきではなく、常に世界に開かれていなければなりません。そういった意味で、「発信」という作業は不可欠でしょう。「発信」は「共有」です。「共有」は「共感」です。「共感」は、より良い「あす」を生むでしょう。
 20年の節目を迎えて、ヴォクスマーナは「いま」だけでなく、「あす」をリードしていく存在になりたいと思うようになってきました。「あす」は、僕たちの手にかかっているのだ・・・と自らも強く想い、そしてみなさまにも想っていただけるような存在になっていきたいと思います。今後のヴォクスマーナに期待してください。

ありがとうございました!

by.初谷敬史
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2016-07-22 00:36:37

ヴォクスマーナ第35回定期演奏会

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■第35回定期演奏会(創団20周年シリーズVol.1 未来を担う女性作曲家)
7月29日(金)開演19:00
東京文化会館小ホール


 渋谷由香(b.1981)/ 「黒い森から」 12声のための(委嘱新作・初演)詩:佐峰存
 山根明季子(b.1982)/ お名前コレクション No,02 (委嘱新作・初演)
 小出稚子(b.1982)/ 春宵感懐(2013委嘱作品・再演)詩:中原中也
 大熊夏織(b.1987)/ 空を泳ぐ(2015委嘱作品・再演)
 伊左治直(b.1968)/ ヨルガオ(アンコールピース13委嘱新作・初演)詩:新美桂子

ホームページ●●● http://vox-humana.wix.com/vox-humana
Facebookページ●●● https://www.facebook.com/voxhumana1996
twitter始めました●●● @voxhumana_info

35回


■ヴォクスマーナ「定期賛助会員」「新作委嘱活動支持会員」募集のご案内
 ヴォクスマーナでは、今年度の創団20周年を記念して3回行われる「定期賛助会員」、第35回定期演奏会の「新作委嘱活動支持会員」を募集いたします。私たちの活動の取り組みをご理解くださり、ご支援くださいますよう、よろしくお願いいたします。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

◆第35回定期演奏会(創団20周年シリーズVol.1 未来を担う女性作曲家)
2016年7月29日(金)開演19:00 東京文化会館小ホール

 渋谷由香(b.1981)/ 委嘱新作・初演
 山根明季子(b.1982)/ 委嘱新作・初演
 小出稚子(b.1982)/ 春宵感懐(2013委嘱作品・再演)
 大熊夏織(b.1987)/ 空を泳ぐ(2015委嘱作品・再演)

◆第36回定期演奏会(創団20周年シリーズVol.2 伊左治直アンコールピース1ダース記念全曲演奏会)
2017年1月12日(木)開演19:00 豊洲文化センターホール

※出演メンバーの避け難い都合により、公演日を、2016年10月12日(水)から変更させていただくことになりました。
 伊左治直(b.1968)/
  Nippon Saudade (208委嘱作品・再演)      
  謎の音楽(2009)詩:三好達治
  なんたるナンセンス!(2010)訳詩:柳瀬尚紀
  あたらしい歌(2010)詩:ガルシア・ロルカ / 訳詩:伊左治直
  グランド電柱(2011)詩:宮澤賢治
  春の楽語集(2011)詩:伊左治直+新美桂子
  一縷の夢路(2012)詩:新美桂子
  或る日の手紙(2013)詩:新美桂子
  カリビアン・ジョーク Caribbean Jokes(2013)詩:池辺晋一郎
  人の声(2014)詩:新美桂子+伊左治直
  人生のモットー(2014)詩:Edna Millay / 訳詩:伊左治直
  谷間に眠る男(2015)詩:Arthur Rimbaud / 訳詩:伊左治直
  雪(2016)詩:新美桂子

◆第37回定期演奏会(創団20周年シリーズVol.3 未来を担う男性作曲家)
2017年3月5日(日)開演14:30 東京文化会館小ホール

 川上 統(b.1979)/ 委嘱新作・初演
 藤井健介(b.1979)/ 委嘱新作・初演
 近江典彦(b.1984)/ Khon-mXahuvona(2014委嘱作品・再演)
 北爪裕道(b.1987)/ Multiplex(2013委嘱作品・再演)

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

定期賛助会(年額 1年3公演分)
・会費:年間 一口\20,000
・特典:各公演のチケット1枚(座席指定)を贈呈、各公演のプログラムにご芳名を掲載、各公演のプログラムを贈呈、各公演のCDの贈呈


新作委嘱活動支持会(各公演)
・会費:第35回 一口\10,000
・特典:公演のチケット1枚(座席指定)を贈呈、公演のプログラムにご芳名を掲載、公演のプログラムを贈呈、新作委嘱作品の楽譜の贈呈、公演のCDの贈呈


●申込方法
(1)Eメールでお申し込みください。
 ヴォクスマーナ事務局 E-mail: voxhumana_info@hotmail.com
(2)申込後、以下の口座にお振込みください。
 振込先:三菱東京UFJ銀行 浅草橋支店 (普)0086923 ヴォクスマーナ代表 初谷敬史

by.初谷敬史
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2016-06-21 00:48:04

みずほ合唱団第8回演奏会

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■第8回みずほ合唱団演奏会
6月25日(土)開演14:00
第一生命ホール
(晴海トリトンスクエア内)

Ⅰ. 混声合唱とピアノのための「うつくしいのはげつようびのこども(マザー・グース歌曲集)」訳詞:谷川俊太郎 作曲:林光
Ⅱ. イギリスの風に吹かれて(指導メンバーによるステージ)
 メゾソプラノ:高橋ちはる テノール:初谷敬史 ピアノ:大場智子
Ⅲ. イギリス合唱曲集
モーリー「時は花祭りの5月」、バード「アヴェ・ヴェルム・コルプス」、ダウランド「帰っておいで」「もう泣かないで」、パーセル「知りたもう主よ」(『亡きメアリー女王の葬送音楽』より)、ディーリアス「夏の夜 水の上にて歌える」
Ⅳ. ビートルズ・コレクション(編曲:猪間道明)
「イエスタデイ」「ミッシェル」「イエロー・サブマリン」「ペニー・レイン」「オブ・ラ・ディ、オブ・ラ・ダ」「レット・イット・ビー」

合唱:みずほ合唱団
メゾソプラノ:高橋ちはる
ピアノ:大場智子
指揮:初谷敬史


 演奏会の宣伝が直前になってしまったのが、とても残念であるが、6月25日(土)に、前回の演奏会から2年ぶりとなる「みずほ合唱団」の演奏会が開催される。「イギリス」をテーマに、伝承童謡「マザー・グース」、各時代を代表する作曲家による世俗曲と宗教曲、そして世界にいまだ影響を与え続けている「ビートルズ」をプログラムに並べた。
 プログラムに掲載する「ご挨拶」にも書いたが、僕は、イギリスにとても興味があるし、何か不思議な縁さえも感じる。それは、友人がイギリス音楽を研究しているということと、やはり「ベンジャミン・ブリテン」という作曲家の存在は大きい。しかし、ここだけの話、正直に言ってしまえば、僕が思春期の頃から憧れてやまないテニスの聖地「ウィンブルドン」の存在は、とても大きいと思う。笑 僕がイギリスを旅行した時に、「プロムス」の行われる「ロイヤル・アルバート・ホール」よりも、ロンドンを象徴する「ビッグベン」よりも、まずロンドン郊外の「ウィンブルドン」に向かったことは、正にそのことを象徴しているだろう・・・。笑
 興味こそあるものの、ヨーロッパの中心とは別に独自の世界を築いてきたイギリス音楽は、これまで、僕にとっては遠い存在であった。・・・いつか、どこかで、イギリス音楽をまとめて取りあげたい・・・と思っていたが、なかなかその機会に恵まれなかった。しかし、自らの音楽や人生が充実してきたいま、こうして存分に、合唱団のメンバーと共に新たなチャレンジをさせてもらえることは、本当にありがたいことである。メンバーには、こころから感謝している。

みずほ


 せっかくなので、プログラムに掲載する「ご挨拶」と「第3部プログラムノート」も記しておこうと思う。

◆ご挨拶

イギリスの風に吹かれて

 2011年、イギリスを代表する作曲家、ベンジャミン・ブリテンの研究でイギリスへ渡った友人を、訪ねていったことがあった。・・・ロンドンから北東へ140km。北海に面した小さな漁村「オールドバラ」。ブリテンは、親友でテノール歌手のピーター・ピアーズと共に、この村の丘の上にある「レッド・ハウス」に住まい、そこが終の住処となった。いま、ふたりは、オールドバラの教会の墓地に、並んで眠っている。ブリテンは、オールドバラから海岸沿いに30km行った港町「ローストフト」で生まれた。一流の作曲家であった彼は、華々しいロンドンではなく、生涯、サフォーク州に住み、荒々しい北海から離れることがなかった。
 ・・・村の目抜き通り「ハイ・ロード」には、ピンクや水色のかわいい別荘が立ち並び、短い夏の間には、一時の賑わいを見せる。僕が行ったのは、そのちょうど8月だった。街や浜辺を歩くのは、幼い頃のブリテンのように、白く、手足の長い華奢な子どもや、贅沢の限りを尽くしたペットを連れた親子連れだ。彼らはここで、ゆっくりと流れる時間を楽しんでいるのだ。・・・しかし、この街を印象づけているのは、可愛らしい建物でも、都会からやってきた親子連れでもない。荒々しい海と厳しい風だ。小さな丸石の礫浜に、木製のひなびた漁船がいくつも揚げられている。白雲はどんよりと低く、カモメが忙しなく鳴いている。荒々しい海は黒く、厳しい風はけっして止むことがない。僕は海岸沿いに南に歩いて行くと、色とりどりに旗がなびいている楽しげなヨットクラブがあり、その先にナポレオン軍の侵攻に備えて建てられたという四葉のクローバーの形をした古い要塞「マーテロー塔」があった。・・・僕はそこまで行って、はじめて、ブリテンのこころに流れる風の音を聴いた気がした。
 僕はその音を聴いてから、イギリスにとても惹かれるようになり、2013年には、友人とヒースロー空港でレンタカーを借りて、イングランド中をゆっくり旅してきた。贅沢にも無計画の旅で、僕らはどこに行ってもよかった。しかし、僕らは風に吹かれ、導かれるようにして、その土地土地で霊感を受け、何にも代えがたい感動を得てくることができた。
 本日の演奏会では、イギリスに吹いている風を、少しでも感じていただければ幸いである。


◆第3部プログラム・ノート

◇「時は花祭りの5月」
 ・・・楽しい太鼓や笛の音に、こころ浮き立つのは、村の若者たち。いま、待ちに待った春が、一斉に花開く。明るい緑の丘で、歌い、踊り、そして新たな恋が芽生える。ファ・ラ・ラ・ラと繰り返すのは、イタリアの「バレット」という様式。これは、有節的な2部形式の踊り歌で、特定のリズムパターンの旋律とホモフォニックな構造を持つ素朴な歌だ。
 16世紀から17世紀初頭にかけてのイギリスは、「テューダー朝」の最後の女王、エリザベス1世(1533~1603)の治世のもと、政治や文化において大きな発展を遂げた時代であった。このイギリス・ルネサンスの黄金期を称して「エリザベス朝時代」と言われる。宗教音楽では、女王の「イギリス国教会」設立に向けての舵取りで、国教会のための音楽がたくさん作られた。一方、王侯貴族を中心に、宮廷人の「嗜み」として、音楽を自ら演奏する習慣が広まり、器楽や合唱、歌曲など、さまざまなジャンルの音楽が作られた。
 特に、トマス・モーリー(1557~1603)が、イギリスに紹介したイタリアの世俗声楽曲「マドリガーレ」は、当時、爆発的な人気となる。それをモデルに作られたイギリスの「マドリガル」は、形式的で格調の高い詩を好んだイタリアのそれと違い、作曲家自ら作詞するなど、素朴な英語の詩であったため、言葉のアクセントを活かした明るく、軽い雰囲気のものとなっている。・・・この頃のイギリス人の音楽に対する趣味は、その後のイギリス音楽の特徴「驚くほどの心地よさ」へと繋がっていくように思われる。
◇「アヴェ・ヴェルム・コルプス」
 モーリーの師、ウィリアム・バード(1540頃~1623)は、エリザベス女王の寵愛を受け、イギリス・ルネサンスの頂点を築いた作曲家である。「ブリタニア(イギリス)音楽の父」と呼ばれるほどだ。しかし、本日演奏する「アヴェ・ヴェルム・コルプス」では、楽界の頂点に君臨している華やかなバードではない、彼の裏の姿を見せてくれるだろう。・・・彼は、実は「カトリック」を信仰していたのだ。しかし、当時のイギリスは、宗教改革を経て「イギリス国教会(プロテスタント)」であったため、彼は自分の信仰に偽って、国教会のための音楽を作曲しなければならなかった。晩年に作曲されたこのラテン語によるカトリックの祈り「アヴェ・ヴェルム・コルプス」は、「秘密ミサ」で歌われるために書かれたものであろう。バードは国教忌避者への厳しい弾圧から逃れてロンドンを去り、まるで「隠れキリシタン」のように、自らの信仰をその信念で貫かなければならなかった。この曲では、ルネサンスのカトリック音楽の最大の特徴である豪華絢爛なポリフォニーは極力抑えられ、イエスやマリアに救いを求めるかのごとく、内省的に、しかし信仰の証として、ポリフォニーを限定的に使用しているように感じられる。
◇「帰っておいで」「もう泣かないで」
 リュート奏者であったジョン・ダウランド(1563~1626)は、イギリスに生まれたが、なかなか宮廷リュート奏者として職を得ることができず、国外で活躍することとなる。(それはもしかしたら、彼がカトリック信徒であったことと、関係があるかもしれない。)彼が49歳の時に念願かなって、王室付きリュート奏者となることができた。それは、エリザベス1世が亡くなった後、スコットランド王だったジェームズ6世(1566~1625)が、ジェームズ1世としてイングランド王を兼務し、新たに「ステュアート朝」を築いた彼の寵愛を受けてのことである。・・・彼の音楽の特徴は、哀感豊かな旋律に、リュート的な語法によるポリフォニックな多声部が彩りを添え、叙情的に、時に劇的に、詩と音楽とをみごとに融合させているところにある。このダウランドのリュート付き歌曲は、現代の私たちが聴いても何ら違和感がない。もしかしたら、後のビートルズに繋がる音楽である・・・と言っても、けっして過言ではないように思える。

◇「知りたもう主よ」
 ジェームズ1世が亡くなり、後を継いだ息子のチャールズ1世(1600~1649)の治世になると、王位は神によって定められたものであるという「王権神授説」やイギリス国教会体制が強化されるなかで、王と議会、国教会とピューリタン(清教徒)の対立が激化する。そうした中、鬱積していた社会の歪みが、各地で大きな反乱となり、イギリス全土を巻き込む内戦「ピューリタン革命」へと発展してしまう。結果、チャールズ1世が処刑され、革命軍が勝利する。ここにイギリスは、王のいない「共和制」となる。そして、事実上の軍事独裁となったオリバー・クロムウェル(1599~1658)は、厳格なピューリタリズムによってイギリス全土を統治し、音楽や演劇をはじめとする娯楽も禁じてしまう。教会のオルガンは破壊され、音楽家は追放となった。
 しかし、クロムウェルが亡くなると共和制は長続きせず、6年間で議会が解散となる。そして、クロムウェルによって処刑されたチャールズ1世の息子のチャールズ2世(1630~1685)がフランスから帰還し、ステュアート朝の王位を継ぐ(「王政復古」)。それに合わせて、追放されていた音楽家が、イタリアやフランスから新しい音楽(バロック音楽)を持って帰ってきた。こうした時期に生まれ育ったのが「イギリスのオルフェウス」と称えられるヘンリー・パーセル(1659~1695)である。
 少年時代には王室礼拝堂の少年聖歌隊を務め、成長するとチャールズ2世に見出されてオルガニストに就任。エリート街道をまっすぐに歩んだパーセルは、3世代の王に仕えることとなる。チャールズ2世の弟でカトリックの復活を推し進めたジェームズ2世(1633~1701)。そして、「名誉革命」によって王位に就いたウィリアム3世(1650~1702)とメアリー2世(1662~1694)。・・・本日演奏する曲は、『亡きメアリー女王の葬送音楽』の第6曲目である。
 メアリーは、複雑な生い立ちである。父のジェームズ2世はカトリック信徒で、母はイギリス国教会の信徒。母はその後カトリックに改宗したが、メアリーは国教会として育てられた。それは、カトリックを嫌うイングランド国民の感情を刺激しないためだったと言われている。彼女の葬儀のために、パーセルは国教会の音楽として作曲した。・・・英語で語られる「死への恐れ」を、ルター派のコラールのように、4声の賛美歌のスタイルで切々と歌い上げられている。残念ながら、この葬送音楽は、作曲の翌年、36歳の若さで亡くなってしまったパーセル自身のレクイエムともなってしまった。

◇「夏の夜 水の上にて歌える」
 パーセルの亡き後、不思議なことにイギリスから有名な作曲家が現れなくなってしまう。なんとその間150年。もちろん、バロック期を代表するフリードリヒ・ヘンデル(1685~1759)はロンドンで活躍していたが、その名が表すように彼はドイツ生まれで、音楽はイタリアで学んだ作曲家だった。・・・18世紀から19世紀にかけて、有名作曲家を輩出しなかったのは、いくつか理由があるだろう。そのひとつに、当時、ロンドンはヨーロッパ屈指の文化大都市で、外国人音楽家を、市民が熱狂的に受け入れていた、ということがある。ハイドン、メンデルスゾーン、ワーグナー・・・。彼らは頻繁にロンドンを訪れ、コンサートを行った。イギリス人作曲家は、彼ら、ビッグネームの陰に隠れてしまったのかもしれない。
 純正のイギリス人作曲家(イギリス生まれでイギリス在住)が次に音楽史の表舞台に登場するのは、エドワード・エルガー(1857~1934)を待たなければならない。彼の出現からはじまる19世紀末から20世紀初頭にかけてのイギリス人作曲家の活躍は、「イギリス音楽のルネサンス」と後に言われるほど目覚ましいものだった。ヴォーン・ウィリアムズ(1872~1958)、グスタヴ・ホルスト(1874~1934)、そして、新たな世代を切り開くべく登場するベンジャミン・ブリテン(1913~1976)・・・。
 本日取りあげるフレデリック・ディーリアス(1862~1934)は、エルガーと同世代の作曲家である。ドイツ系の両親のもと、彼はイギリスで生まれた。アメリカやドイツに渡って音楽を学び、音楽院卒業後にはパリへ移ったが、パリでは、フランスの音楽家とほとんど交流しなかったという。それよりも、彼はパリで出会ったドイツ人画家と結婚し、セーヌ川の支流、美しい「ロワン川」の畔(グレ=シュル=ロワン村)で幸せに暮らしたのだった。しかし、彼は若い頃の奔放な遊びのために病気を患い、身体の麻痺に悩まされ、徐々に視力を失っていく。
 1917年、第一次大戦の戦火がフランスにも押し寄せる頃、ロワン川の畔で、「夏の夜 水の上にて歌える」は作曲された。・・・月明かりの下、ロワン川は涼やかな水音をたててゆっくりと流れていく。半音階的に変化していく官能的で空想的な和声進行の中で、彼自身の思い出を綴るように、甘美な旋律が漂っていくようだ。そこは、もうフランスでも、ドイツでもない。彼は、こころの中に響き続けている懐かしい牧歌を聴きながら、イギリスの風に吹かれているのであろう・・・。 

by.初谷敬史
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2016-06-17 13:55:32

スコットランド・4

テーマ:ブログ
(承前)

 「唱歌」を作り出す中心となった機関は、僕の母校「東京芸術大学音楽学部」の前身である「東京音楽学校」(1887年)であり、そのまた前身の「音楽取調掛」(1879年)が大きな役割を果たした。・・・この「おんがくとりしらべがかり」、なかなかステキな響きである。同じように、「東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)」(1887年)の前身として「図画取調掛」(1885年)という機関もあった。このふたつの機関は、文部省が設置したもので、明治の初頭において、驚くべき早さで設置された。「音楽取調掛」は明治12年の設立である。いろいろなものを一気に整備しなければならなかった政府であるが、これは異例の早さといえるだろう。
 まず、音楽に関して調査が行われたのは、西洋音楽である。「音楽取調掛」の掛長、そして「東京音楽学校」の初代校長となる伊澤修二(1851~1917年)たちが、アメリカへ留学し、西洋音楽を学んだのが始まりである。
 伊澤が興味をもって学んだのは、音楽そのものよりも、音声生理学や発音などの身体的な働きについてだったという。彼は、歌が苦手だったそうだ。なぜなら、西洋の音階「ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ」が、感覚的に分からなかったからだ。・・・これは、たぶん、当時の日本人が皆、そう感じたに違いない。日本の音階は「ド・レ・ミ・ソ・ラ」であるので、「ファ」と「シ」は、未知の響きであった。

 帰国後に書かれた報告書によると、音楽について、「健康」と「道徳」のふたつの意義が挙げられている。「健康」については、「生命の基本である呼吸を鍛え、健全な肉体を作る」ということ。「道徳」については、「長音階」と「短音階」のことが述べられている。「長音階」は「勇壮活発」であるので、長音階で教育された者は、「有徳健全なる身体を長養する」という。そして「短音階」は「柔弱憂鬱」であるので、「無力多病なる気骨」なのだそうだ。・・・だから、先進的な国家は、長調で国民を教育しなければならない、と。そして、「唱歌」をみんなで正しく歌うことによって、邪悪な思想を追い払い、健全なこころと身体を育て、ひとつの方向を目指し、共同体の中で秩序正しく振る舞い、戦場においても、勝利のために最善の行動をとることができる・・・、と。
 このようにして、まず、西洋音楽を日本に輸入した。それと同時に、古来よりの伝統的な日本音楽がなくならないように、調査の上、整理し、必要に応じて改良し、保存した。これは、最終目標に、西洋と日本の音楽の良いところを折衷して、日本固有の新たな国民音楽「国楽(こくがく)」を創り出す・・・ということを掲げていたからである。

 1879年(明治15年)に「音楽取調掛」によって、学校教育用に編纂された『小学唱歌集』の大部分は、外国の曲のメロディに、新たに日本語の歌詞がつけられた。
第13番「見わたせば」(ジャン・ジャック・ルソー「結んで開いて」)
第17番「蝶々(てふてふ)」(ドイツ民謡)
第18番「うつくしき」(スコットランド民謡「スコットランドの釣鐘草」)
第20番「蛍」(スコットランド民謡「蛍の光」)
第53番「あふけば尊し」(アメリカの歌)
第56番「才女」(スコットランド民謡「アニー・ローリー」)
第78番「菊」(アイルランド民謡「庭の千草」)
第73番「誠は人の道」(モーツァルト『魔笛』よりパパゲーノのアリア)
第89番「花鳥」(ウェルナー「野ばら」)

 この中には、伊澤修二が作曲した第44番「皇御国(すめらみくに)」など、僕たちが思い浮かべる「唱歌」からは、ほど遠い内容のものもある。・・・「皇御国の もののふは、いかなる事をか つとむべき、ただ身にもてる まごころを、君と親とに つくすまで・・・」。
 「文部省唱歌」と聞いて、いま、僕たちが思い浮かべるのは「故郷」「春の小川」「朧月夜」などであろう・・・。
 日露戦争(1904~1905年)の勝利に湧き立つ1910年(明治43年)、文部省が初めて編纂した尋常小学校用の教科書『尋常小学読本唱歌』には、第22番「出征兵士」、第23番「同胞ここに五千万」といった、おどろおどろしいタイトルの曲が含まれている。これは、当時使われていた国語の読本『尋常小学読本』の中から選ばれた27首を、日本人の作曲家が曲をつけたものである。第22番「出征兵士」のすぐ前の第21番「われは海の子」の7番の歌詞には「いで大船を乗り出して 我は拾わん海の富 いで軍艦に乗り組みて 我は護らん海の国」と曲を結んでいる。
 更に、『尋常小学読本唱歌』を受け継いで編纂された『尋常小学唱歌』(1911~1914年)には、第一学年用の第1番「日の丸の旗」、第二学年用の第15番「天皇陛下」など、また、1932年(昭和7年)の『新訂尋常小学読本唱歌』には、第六学年用の第8番に「日本海海戦」などが含まれている。(・・・太平洋戦争勃発の前夜に、遥か昔「日露戦争」の栄光を語っていることに注目したい。)
 ・・・ここに、敢えてだいぶ偏って、曲目を挙げてみたが、これらを見ると、日本が、まっすぐ戦争へと突き進んでいく中で、政府がどのように国民を教化させていったのか、よく分かるだろう。もちろん、美しい山河や移り行く季節などを歌った曲もたくさんあったが、当時、それぞれの教科の内容を一致させるべく「教科統合」ということが行われ、「教育勅語」をよりどころに国民道徳の実践を目的とした「修身」や「国語読本」、「国史」などの教科書と共通の内容が「唱歌」に使用され、総合的に学び、習得する方法がとられた。

 そう、「唱歌」は、学校教育において、「芸術」として扱われていなかったのである。
 いろいろ調べて分かったことは、戦前には、いまのような芸術科目としての「音楽」の授業はなく、「唱歌」という名の教科があった。この授業は、現在行われているような楽器の演奏や、鑑賞、楽典は含まれていない。・・・では、何を勉強していたのかと言うと、みんなで声を合わせて、ひたすら「唱歌」を歌っていたのである。
 ・・・それは、何の目的で歌っていたのかと言うと、歌の形式を借りて、「新しい日本人」として必要なさまざまなことを、覚え込ませたのである。日本の歴史、山河の美しさ、天皇の正当性、帝国としての優位性、日本人としてあるべき姿・・・。つまり、「唱歌」が、日本人を、新たな日本人として、健全、且つ明晰に、頭脳と身体、そして精神とを、立派に、皆等しく、形成させていく・・・という重要な役割を担っていたのである。
 これは、キリスト教において、聖書の言葉を簡単なメロディに乗せ、「聖歌」として各地に普及させていったことや、「賛美歌」を歌うことで、会衆が感動のうちに、共同体の一員であることを強く実感するのとよく似ている。

 ・・・すこし否定的な事柄のみを書いてしまったが、「戦争のための国民教化」という側面を除けば、「唱歌」による学校教育は、僕たち日本人にとって、とても有意義なことであったように思う。なぜなら、他の学科では感じ得ない、さまざまな感覚を磨くことができるからだ。それまで培ってきた日本人の美意識に、西洋の美意識の感覚が加わることによって、学校教育を受けたすべての新たな日本人が、素晴らしい感性をもって、豊かな音楽を体験することができたのである。この体験は、音楽だけに留まることなく、さまざまな分野において、存分に活かされていると思うのである。

 ♪春が来た 春が来た どこに来た~
 ・・・いま「唱歌」を聴いて、「日本人のこころのふるさと」と感じるのには、実はこのような経緯があったのである。このことは、フリーメイソンの活動の恩恵なのか・・・、それとも、明治をつくった若者たちの希望溢れる夢のおこぼれなのか・・・、僕らにとっては、よく分からないことであるが、僕が音楽によって人生を救われ、いま、その音楽を生業としていられるのは、先人たちが、さまざまなことを考え、苦労し、培ってきたお陰なのだ・・・と、改めて実感する。
 そう言えば、僕が歌をうたうきっかけとなった曲がある。それは「春が来た」(高野辰之作詞、岡野貞一作曲)である。僕が小学3年生の時、担任の先生に薦められて、「足利少年少女合唱団」の入団試験を受けた。その課題曲が「春が来た」だった。いまでもよく覚えているが、放課後に音楽室で、先生は熱心にこの歌を教えてくれた。先生の指導のお陰で、試験では、自信をもって、思いっ切り歌うことができた。・・・たぶん、試験を受けた児童の中で、僕が一番上手だったはずだ。笑 ・・・明るく、伸びやかで、張りのある声、しかも音楽的なフレージングで、情感が適度に乗った塩梅が絶妙だった。笑 僕は試験で、あまりにもよく歌えたので、意気揚々と教室を出てきたのだった。・・・「春が来た」は、『尋常小学読本唱歌』に掲載されていた「唱歌」のひとつである。

 僕の音楽の原点は「唱歌」にあり、そのルーツの多くは、スコットランドにある。・・・こんなふうに考えると、とても感慨深い。スコットランドの曲を、日本人の僕が、「こころのふるさと」だと思えるなんて、とても素晴らしいことではないか・・・と。


※奥中康人『国家と音楽』と渡辺裕『歌う国民』を参考にさせていただきました。

by.初谷敬史
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