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2010-02-01 19:28:43

志木第九の会

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 月には香りがあるような気がする。一日の終わりに、言葉にならない言葉を僕は人知れずそっと洩らす。・・・出来事のあれこれを内側に留めないように。いい雰囲気だったなぁ・・・とか、とんでもなく最低だ・・・などと、町なかで大声で叫んでしまうこともしばしば。通りすがりの人は、あの人きっと頭がおかしいのね・・・と、白い目もこちらに向けてはくれない。それでも、僕は悲しくなんてない。これは僕の個人的な感想であり、反省であり、明日への合の手なのだから。たぶん僕はそこで部屋の空気を一掃するのだろう。うまく吐かせたあとは、空気をいっぱい吸わずにはいられなくなる。そんな時、いつも鼻先にあるのは「月」。僕はそのまま月を見上げながら、鼻の奥をふくらます。甘美。それを味わい尽くそうとする。ただ僕はその香りを、太古の、異空間の、人間を超越した香りであると思っている。そしてその不思議な香りをかいだ自分を、少しだけ褒めてあげる。もっと褒めてもいいのだが、ツケアガルのでやめておく。月はそんな僕を鏡のように明るく映している。


                         月


 2月7日(日)に「志木第九の会 第14回定期演奏会」がある。

 指揮は三澤洋史(みさわ ひろふみ)先生。

 ソプラノは「バッハ・コレギウム・ジャパン」メンバーでおなじみの藤崎美苗(ふじさき みなえ)ちゃん、アルトは「新国立劇場合唱団」メンバーの素敵な佐々木昌子(ささき まさこ)さん、テノールは「犬」から「宇宙人」まで幅広いレパートリーを持つ初谷敬史、バスは我らが初鹿野剛(はつかの たけし)さん。

 オルガンは、普段合唱団の稽古ピアノをしてくださっている矢内直子(やない なおこ)さん。

 「東京ニューシティ管弦楽団」「志木第九の会合唱団」で、バッハ「カンタータ4番 キリストは死の縄目に掛けられた」モーツァルト「レクイエム」(バイヤー版)を演奏する。


 実は・・・いま、楽しい。まず、歌うことが楽しい。「歌うこと」にこれまで何年も苦しんできたが、上手くいく、いかない・・・は別として、やっと本気で楽しいと思えるようになってきた。僕のレガートが、自由の翼を得て、ようやく羽ばたきだした。やっぱり、歌が自由でなければ、本当の僕ではない。それって、僕にとってとても重要なことなのだと思う。そして、たぶんこのことが、その他の事柄に多大な影響を及ぼしている。

 それから、何といっても仲間がいい。三澤先生の音楽に「ファミリー」でこころおきなくどっぷり浸かれる幸せ。みんなひとつになってその方向を向いた時、安心感と充実感と期待感とが僕のなかで花火のようにハチャメチャに入り乱れるのだ。

 そして、偉大なバッハとモーツァルトの至高の音楽。理解が深まれば深まるほど、それは僕に無上の喜びを与えてくれる。しかし、天才は僕に試練を与える。バッハとモーツァルトは、実際とても遠い。歌ってみて初めて気がつく。音そのものの成り立ちがまったく違う。この遠さはいったいどこからくるのだろう・・・。もちろん、別の時代の人だし、生きていた環境がまったくちがう。とりあつかう題材も違ければ、宗教観、作曲技法だって違う。だから、この遠さは当たり前の話だ。でも、僕としては、天才同士の「近さ」――ある種の同質感――がほしいと思うのだ。そこを掴みとることができなければ、僕はひとつのコンサートで並べて歌えるほど器用にできてはいないのである。


 バッハ23歳のバッハは、十字架上におけるキリストの「死」と「復活」の意味について、真剣に向き合っている。カンタータ4番は「復活祭」のためのカンタータであるが、その音楽はまるで苦悩しているかのように感じられるのだ。きっと、キリストの「受難」の苦悩を、バッハ自身が共にしているせいだろう。肉体の死と、永遠の生命の戦い。バッハは、ルターの古いコラールを使い、ドラマをさまざまに描き分ける。そうして、カンタータの意味を変容させていく。いや、カンタータと共に、バッハ自身が変容していくのであろう。さて、バッハの音楽はいったいどこへ向けられていたのか・・・。それは、自らの奥の奥から、一直線に神の光へと向けられていたに違いない。


 モーツァルト一方、最晩年35歳のモーツァルトは、迫りくる自分の「死」と真剣に向かい合っている。「レクイエム」は、死を恐れ、神に魂の救済を懇願しながらも、また同時に死に共感するモーツァルトが存在しているように思えてならない。その音楽は、小川が流れ微風がそよぐように自然だからだ。しかし、その声は誰のものでもない。自らの声、人間である彼自身の声だ。それを「啓蒙」と結び付けるのは安易だが、彼の音楽に親しんでいると、彼こそ本当に人間を愛し、自分を愛した人なのだろうと思えてくる。だからこそ彼は、肉体をもった自分はいつか死ななければならないということをいつも念頭においていたのだと思う。生と死は、手を取り合って同じ道を歩んでいかなければならないのだ。「死は真実で、最良の友・・・」というモーツァルトの有名な手紙があるが、彼ははたして死の先に何を見ていたのだろうか。死はゴールではない。彼の頭のなかで鳴り響いていた音楽の先には、救済の光が見えていたと思う。僕にも同じ光が見える。


 僕は思う。バッハもモーツァルトもあの「月」を見ていた。そしてその時、月の香りを存分に味わっていたのだと。


by.初谷敬史

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2010-01-25 20:44:06

一年

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 「誰かのお役にたとう地蔵・・・また、この日がめぐってきた。僕は正直、おどおどしていた。携帯を常に目の届くところにおいていた。いつ如何なることにも対応できるように・・・。あの日と同じ、夜は予定を何も入れていない。身ひとつで、どこにだって飛んで行くことができる。服装も持ち物も、身軽だ。

 1月25日・・・1年前、母が「くも膜下出血」で倒れた日。夕方、兄からの留守電「お母さんが倒れて、救急車で運ばれたらしい・・・。状況は分からない・・・。」・・・いつも冷静な兄には珍しく、幾分、声がうわずっていた。それもその筈。間違いなく、我が家の一大事だった。

 ・・・あの時の状況が、目の前に鮮明によみがえる。あらゆる映像が目に焼きついているし、気温や匂いまで忘れてはいない。


 僕はきょう、夕方には家に帰った。何もすることがない訳ではなかったが、何もする気になれない。きっと、活字は宙を舞うだけだろうし、テレビなどはただの雑音としか認識されないだろう。部屋は薄暗く、肌寒かった。僕は音叉を取り出し、掌の上でしげしげと眺めた。A音をイメージする。それは震動の感覚で覚えている。少し緊張する。実際の442HzのA音は、僕の中のA音よりも少し高いところで震動する。自分の柔らかなA音を、透明なA音にグイと合わせる。首の付け根のあたりでA音を感じながら、首の角度を少しずらすと、ぴたりとくる。そうやって緊張をともないながらチューニングをする。僕は自分の中にA音が気持ちよく響く準備を整え、音叉のA音がゆっくりと近づくのを待った。

 いまや、僕の頭の中は、すっかりA音一色となった。僕は親指と人差し指で糸を引き抜くように、鼻のあたりからA音をすうと摘みあげる。糸は宙を自在に描きまわり、つぎつぎと甘美なメロディを紡ぎ出していった。そう、僕は歌をうたっていたのだ。・・・歌はなぐさめ。・・・歌は希望。

 僕は、歌をうたうしか方法がなかったのだ。もし、僕がギロチンに掛らなければならないのだとしたら、その瞬間まで、きっと僕は歌をうたい続けるだろう。念仏、念仏、一心に唱える念仏みたいなものだ。


 何はともあれ、救急車で運ばれた時刻は過ぎさった。僕は、思わず電話を掛けた。「もしもし・・・」母が電話にでる。「・・・ああ、敬史!」「あのぉ・・・救急車で運ばれたって聞いたけど・・・くも膜下は大丈夫なんだろうか・・・」「元気、元気、元気グングンだよ!!」母は電話の向こうで「ありがとう」を何べんも繰り返した。電話を切っても「ありがとう」がこころの中に響いていた。

 近所の友だちは、「本当だったら、せっちゃん(母)の一周忌になるところだったよぉ・・・」と、いまの健康を、こころから祝福しているという。本当にありがたい。


 明日は、佐野の「コール・エッコ」。実家に帰って、ささやかなお祝いをしよう・・・。


by.初谷敬史梅

2010-01-19 12:26:49

睡眠

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 とにかく、よく寝た。のこのこ起きだして、カーテンを開けると穏やかな昼下がり。果たして何時間寝たのか・・・数えるのもバカバカしい。


 昨日のマッサージはよく効いた。はじめての人だったので、はじめは手探りのようだったが、途中からぴたりとあわせてくる。いつの間にやら、マッサージ師の手に全身を任せているのが、とても嬉しく思えてきた。効き目は抜群だった。・・・僕は、長い長い睡眠の間に、いろいろな夢をみた。記憶に残っているのは、物語3本。ずっと前に読んだ小説や、昨日みた映画の特殊なシーンが、物語を更に入り組ませ、僕に容赦なく襲いかかってくる。でも、そんな時、僕は意外とへっちゃらなもんだ。割に自分に自信があるみたいだ。・・・まぁ、何とかなるさ!・・・と、お気楽だ。さて、そこにはいろいろな人が登場した。みんな懐かしい所だった。夢、夢、夢・・・。設定などはいい加減で、あんなことやこんなことが、みんなごちゃ混ぜ。でも、あながちウソでもない。僕はその中で、一生懸命生きていた。そう、何を疑うことなく、それぞれの夢をむさぼり食うように生きていた。遠い遠い所で、遠い遠い声が僕を呼ぶ。僕は、いちもくさんに脱出しなければならなかった。留まってはならない。僕は軽やかでなくてはならぬのだ。それぞれの声に耳を傾け、それぞれの美を最大限賛美するような「ドン・ジョヴァンニ」のように僕はなれはしない。僕は、いままで果たしえなかった、そしてこれからも果たしえないところの宇宙の夢を、ひとつ、追いかけていくのだ。一度、身体を解体し、過去の夢を解体しなければならない。そして、いま、無垢として生まれかわるのだ。


 ・・・僕は、そんなふうに目覚めた。布団のなかで、明るい空をぼんやり眺める。腰の具合を慎重に確かめながら便座にすわる。便は快調。それから、いつもより念入りに歯を磨く。電気シェーバーは髭を気持ちよく剃り上げる。僕はたまらず外に飛び出した。甘い香りは、春の兆し。また、一からやっていこう。カポーティは言っていたな・・・愛は、思いやりだ、と。



by.初谷敬史

2010-01-08 02:48:09

サウンドブリッジ

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■1月14日(木)「オーケストラ・アンサンブル金沢」横浜公演 & 「サウンドブリッジ合唱団」創立20周年記念演奏会
横浜みなとみらいホール 開演19:00


サン=サーンス:交響詩「死の舞踏」
佐藤眞:混声合唱のためのカンタータ「土の歌」野良仕事
モーツァルト:レクイエム


指揮:佐藤眞(「土の歌」)、山田和樹(「レクイエム」)
ソプラノ:半田美和子、アルト:向野由美子、テノール:湯川晃、バリトン:安藤常光
合唱:サウンドブリッジ合唱団

 

 僕が「サウンドブリッジ合唱団虹を指導して何年になるか分からないが、こんなにワクワクするのは初めてだ。まず、練習に行くのが楽しい。みんなも僕を待っていてくれているような気がする。いつの頃だったか、練習中、みんなが自主的に立って歌うようになった。僕もその真剣な姿勢に感化されて、持っているもの全てをみんなに捧げる。みんなが一生懸命それに応える。結果、僕ものびのびとしてくる。素晴らしい合唱になる。

 今回は20周年ともあって、企画がすごい。「オーケストラ・アンサンブル金沢」と演奏できるということ。あの「大地讃頌」をつくった佐藤眞先生が、カンタータ「土の歌」を直々に指揮してくださること。「ブザンソン国際指揮者コンクール」で優勝したての、今をときめくキラキラ5山田和樹くんが指揮してくれること。


 書きたいことは山ほどあるが、ここでは、山田くんについて少し書きたいと思う。山田くんは芸大で僕のひとつ下の学年。彼の才能の虜になってしまって、よく伴奏をしてもらっていた。ピアノも絶品。僕は本来、あまり同世代の音楽家には魅力を感じないほうだ。それは、表には表わさないが、もちろん、ライバル意識が強いせいだろうと思う。けれど、山田くんは別格だ。サイモン・ラトルや、小澤征爾さんの魅力に圧倒されてしまうように、これはどうしようもないことだ。言葉でうまく言い表すことはできないが、とにかく素晴らしい。優雅で、ロココで、コケティッシュで、切実で・・・まるで「モーツァルト」。そう、山田くんはモーツァルトなんだと思う。本気でそう思う。彼が指揮しはじめると、時間の流れが変化する。濃密なエネルギーをもち、自在に動き、うねり、駆け巡る。そうかと思えば、突然、特別な質をもった凝縮された瞬間・・・。それらは、自然を超えた超自然の流れ・・・とでも言えるだろう。まるで音が踊っているようで、気がつけば、高く高く飛翔している。古楽演奏が主流になりつつある今、山田くんのモーツァルトは、最高にロマンチックで、しかもそれが新しい。音楽している時こそが、山田くんが息をし、語りかけ、生きている時そのものなのだ。


 さて、僕にはやらなければならないことが山のようにある・・・。指揮台の上で、佐藤先生が本当の佐藤先生に、山田くんが本当の山田くんになってもらえるように・・・。


by.初谷敬史

2010-01-03 18:20:04

新年

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  門松あけましておめでとうございます門松

    とらさん本年もよろしくお願いしますとらさん



孤独な音楽家の夢想-コレジャナイロボ

 コレジャナイロボと、その敵と、みんな仲良く、愉快な仲間。


 楽しくって、飛び跳ねちゃう!だれでもかれでも、みんなでおいで!だれがいちばん跳べるかな?!跳べなきゃそこで見ててもいいよ!ぼくといっしょに見ていよう!みんなでいっしょに見ていよう!そこでついでに歌っちゃおう!声をあわせて歌っちゃおう!楽しいときは歌っちゃおう!悲しいときも歌っちゃおう!さびしくったってへっちゃらさ!歌は恋人、歌は愛。青春の輝き、生命の叫び。声のかぎり歌うのさ。理由なんてありゃしない。「うた」のために歌うんだ!さあ、リズムにのって!体を揺らして!シャレこんだって、ぜんぜんダメさ!微笑みあえばそれでいい。気がつけば、みんな跳び跳ねてるんだからね!


by.初谷敬史男の子日の出

2009-12-28 17:43:01

晩冬・5

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(承前)


 今年最後の投稿です。年末を締めくくる、三つの「第九」の話。


 「第九」・・・本当にすごい作品ですよ!!!・・・みんなが参加できて、みんなが感動できて、みんなで共感しあえる・・・。この「みんなで・・・」っていうのが、素晴らしいのです。それが「第九」の至高の理念なのですから。これは、どこかの秘密結社でも、エリート大学でもありませんから、やる気さえあれば誰でも参加できるんです。これに参加した人は、演奏家でも、聴衆でも、みんな不思議な世界へ誘われてしまうのです。それが、ベートーヴェンの考えた、全人類的な「理想」の世界です。「第九」の歌詞を拝借すれば、力強く、また温かな「歓喜」の翼に抱かれて、僕たちが雛のように憩っている状態。

 そうして、ひとりひとり、一年の苦労を振り返るのです。・・・人生は、イレギュラーの連続です。順調なんていうのは、ウソです。日々変化し続け、そのたびに悩み、努力し、突き進もうと「もがく」のです。僕は、その流れにこそ、魔力が潜んでいると思うのです。「デモーニッシュ」と言ってもいいかもしれません。不完全である存在が、完全な存在へ少しでも近づこうとする超自然的エネルギー。そのエネルギーを流れに結び付け、疾走、または飛翔することこそが、人生だと思うのです。・・・そう、けっしてみんな怠けていたわけではありません。どんな時も、世の中に対し「善意」をもって、みんな頑張っていたのです。それをある程度、満足していいんです。

 努力には、節目が必要です。緩急がなければ、けっして続くものではありません。だから、このお祭り気分に乗せられて、思いっきり盛り上がって、自分を労うのです。そうして、来年に向け「希望」を、自らの胸に膨らますのです。・・・来年こそは、もっと努力をして、素敵な一年にしたい・・・と。それが、内面に向けられ掘り下げられているのと同時に、全世界へ向かって解き放たれてもいるのです。だから「第九」は、年末にぴったりだと思うのです。


 12月21日(月)西本智実指揮、東京交響楽団「第九」、東京文化会館。僕は、「東響コーラス」の発声指導に入りました。マエストロ稽古から入りましたが、質の向上に、少しはお役に立てたのではないかと思っています。僕が「東響コーラス」にいつも感じることは、「渇望」です。アマチュアですが、オーディションを勝ち上がった精鋭です。もっと上手くなりたい、もっと別次元を体験したい・・・と。その願いが強いぶん、貪欲にさまざまなものを吸収していくのだと思います。僕は大きく理想を掲げました。僕のアドヴァイスはすぐに実行されます。そして、たっぷりと幅を膨らませながら、音は純化していくのです。アマチュアとしては、本当に最高レヴェルと言えるでしょう。西本マエストロの指示を軽々とマスターしていく様子をみて、本当に頼もしく、嬉しく思えました。


 この日は、「第九」のはしごで、すぐに「東京芸術劇場」へ向かいました。オスモ・ヴァンスカ指揮、読売日本交響楽団「第九」。合唱指揮:三澤先生「新国立劇場合唱団」のアシスタントです。アシスタントとは名ばかりで、勉強させてもらっているのです。三澤先生は、僕に本当にいろいろなことを教えてくれます。僕は先生の背中を見て、少しずつ育っているわけです。

 さて、ヴァンスカ・・・すごいです!驚愕です!・・・ミシェル・トゥルニエ風に言えば、彼の音楽づくりは「快楽と喜び」です。快楽とは消費・・・つまり破壊です。喜びは創造・・・神々の打ち上げる花火です。マエストロは、徹底的に音楽を分解し、吟味したうえで、新たなエネルギーを一音一音、強烈に吹き込みなおしました。そして、「読響」が本当に素晴らしく、マエストロの意志に付いていこうとするのです。全員がコンサートマスターのように・・・。でも、非常に危険でした。楽器は限界を超え、悲鳴を上げていました。一見、無骨で無謀とも思える危うい演奏。・・・しかし、これこそがベートーヴェンなのかもしれないと思いました。聴衆は、呆気にとられていました。こんな「第九」は聴いたことないからです。もしかしたら、ベートーヴェンが指揮した初演・・・こんな雰囲気だったのかもしれませんね。

 ・・・僕が感激した瞬間がありました。「Über Sternen muss er wohnen. 星々のかなたに必ずや創造主はおられる。」と、変ホ長調で叫ばれる個所があります。合唱とオーケストラ、それに芸術劇場がぴたりと共鳴し、驚くべき倍音の巨大な柱が、ホールにそびえ立ったのです。こんな経験は初めてです。ベートーヴェンはこの響きの柱の彼方に、創造主を感じていたのだ・・・と、僕は直感したのです。


 12月28日(月)深夜2:04から「日本テレビ」にて放送予定。指揮:オスモ・ヴァンスカ、S:林正子、Ms:林美智子、T:中鉢聡、Br:宮本益光、合唱:新国立劇場合唱団、管弦楽:読売日本交響楽団


 12月27日(日)梅田俊明指揮、群馬交響楽団「足利第九」、足利市民会館。「足利市民合唱団」の30回記念の「第九」になりました。梅田マエストロは、昨年も振っていただきました。マエストロ稽古の初日、初めて口にされた言葉、「今年は、上品に仕上がっていますねぇ・・・。」そうです、今回は前回の反省をふまえ、マエストロ用に格調高く、上品に仕上げていたのです。ベートーヴェンの理想を一段高く表現したいと思ったからです。「足唱」もそれに一生懸命応えてくれて、地方ではありえないような水準にまでになったのではないかと思います。マエストロは、更に要求を出します。「指揮を見て歌うな!」「自分の音楽を崩してまで、指揮に従ってはいけない・・・」と。なるほど、マエストロは見抜いていたのです、「足唱」の欠点を・・・。歌は、感覚であり、誇りであり、理想であるのです。それを自分の頭で考え、自分の体を使い、自分で表現するのです。マエストロが、徹底してここまで要求するのには、信頼関係が必要不可欠です。僕はマエストロと演奏を通じて、素晴らしい関係が暗黙のうちに築かれてきたなぁ・・・と嬉しくなりました。よし、僕たちの「第九」を歌おう!!・・・しかし、残念ながら、演奏会当日、僕はいないのです・・・。でも、きっと「足唱」のみんなは大丈夫。これまで、しっかりと積み重ねてきたのだから。・・・信頼しています。


 同じ日、「読響第九」が、「横浜みなとみらいホール」で最終日。この日、三澤先生から任されているのです。僕がマエストロ、ヴァンスカに楽屋に挨拶しにいくと、クラリネットを一生懸命練習していました。楽屋を間違えたかと思いましたが、陽気に応えてくれてくれました。なるほど、楽天家なのです。僕は、短いゲネプロに集中しました。マエストロは、気になるところだけを細かく練習しました。ホールの響きに惑わされずに、繊細なアンサンブルのチェックです。合唱も部分のみ練習。僕は、ホールの響きのバランスに集中しました。みなとみらいホールは、プロの演奏家にとっては響きすぎるのです。良く言えば、柔らかく温かみのある響きで、オケと合唱は一体感があります。その分、輪郭がぼやけ、エネルギーが直接会場まで伝わってきません。合唱もオケの響きに完全に埋もれている感じがしました。・・・そのさじ加減ひとつで、とんでもないことになる・・・と思い、ゲネプロ後、マエストロにもアドヴァイスをもらい、そこのところを慎重に合唱団に伝えました。本番。初日の芸術劇場での危うさはなく、こなれた感じ。オケのメンバーも、配分が体にしみ込んでいる様子。しかし、それでは満足しない・・・と、マエストロの疾走は止まりません。オケもそれにぴたりと応えます。合唱は、丁寧に気を付けて歌っています。言葉が軽やかに立ち、響きが澄んで美しく、鮮やかに際立っています。オケは地響きがするくらい全力でうねっていきます。聴衆はぐいぐいと引き込まれ、興奮してくるのがよく分かります。・・・本当に素晴らしい演奏でした。「ブラボー」と共に、どよめきが起こりました。「こんな演奏、聞いたことがない・・・。」マエストロも大変満足していました。


 さて、来年はどんな素敵な年になるのか、本当に楽しみです。健康で、こころ軽やかでいることができたら、どんなに幸せなことでしょう。・・・今年のブログをしみじみ見返すと、本当にいろいろなことがありました。でも、常に「希望」を持ちつづけ、僕なりに、めげずに頑張ってきたつもりです。みなさんには本当にお世話になり、感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとうございます!!

 また来年、どうぞよろしくお願いします!!みなさんにとって、素敵な一年でありますように、願いを込めて・・・。


by.初谷敬史男の子キラキラ

2009-12-25 00:55:22

晩冬・4

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(承前)


 今日は、とても面白かった話を書きましょう。「プリマドンナ」というよりも、「ディーヴァ」といったほうが・・・彼女にはぴったりでしょう。歌姫=中丸三千繪さんの話です。


 中丸さんとは、ロクダンを通じて、いろいろお付き合いさせていただいています。中丸さんのことを知れば知るほど、本当にびっくりすることばかりです。なぜ「歌姫」と呼ばれているのか・・・。それは、歌がべらぼうに上手いとか、世界のひのき舞台で活躍しているとか・・・きっと、それだけではなくて、中丸さんの「生活そのもの」が「歌姫」なのだと思うのです。

 僕は数年前・・・広島のとあるバーで、深夜、中丸さんと三枝さんにぴったりと挟まれて、というよりも・・・半分、両腕や頭を掴まれた状態で・・・朝までみっちり講義を受けたことがあります。僕ははっきりいって、心身ともにズタズタになってしまいましたが、世界を相手に闘ってきた両先輩が、若い音楽家に対して、深い愛情と期待をもって教えてくれたのでした。何の講義だったかというと、「世界の頂点」についてです。僕はその時、ただただ唖然とするしかありませんでしたが、中丸さんと三枝さんが、どれほどの覚悟と意志をもって音楽の生活をしているのかがよく分かりました。その後、中丸さんとはさまざまなコンサートを重ねる中で勉強させていただいています。


 12月19日(土)中丸三千繪ソロ・リサイタル「Starry X’mas Ⅶ」サントリーホール

 ロクダンが応援に駆け付け、僕は指揮をしました。


 それに伴って、中丸さんが直々に、ロクダンの発声をレッスンしてくださったのです。18時30分から始まって、終わったのが21時30分。驚くべきことに、3時間休憩なしです。ものすごい体力と集中力です。まず黒板を使って図解説明。それから声を出し、最後はひとりひとりの指導です。ロクダンのおじさんたちが、スパルタで羽交い絞め。おじさんたちは、途中で鶏のように首が締まってゴホゴホ咳き込んでしまったり、ヘナヘナになってしまって「もう駄目です・・・ごめんなさい・・・。」と謝ったり、中丸さんの支えを触らせてもらっている時に「もっと体の下を触らせてほしい・・・。」など・・・そんな一場面も。


 中丸さんはレッスンのはじめにこう話し始めました。

 「・・・わたしは、『ルチアーノ・パヴァロッティ・コンクール』や『マリア・カラス・コンクール』を取っても尚、ずっと発声に悩んでいました。・・・パバロッティと共演したとき、痛感したのです。オペラでは、高音域が全体の数パーセントしか出てこないのに対し、ほとんどが中間音です。わたしの発声では、中間音がすべて巨大オーケストラに消されてしまっていたのです。・・・」

 僕たちは、その苦悩のヒストリーをひと言も漏らさぬよう、あるものはメモを取りながら真剣に聞いていました。中丸さんは続けます。

 「・・・わたしは、その問題を解決するために、アメリカへ渡りました。「キング・オブ・ハイC」と呼ばれたパヴァロッティを見出したジョン・サザーランドのもとへ。・・・」


 サザーランドは、ベルカント・オペラで驚異的なテクニックを武器に、一世を風靡した大ソプラノ歌手です。彼女は、高音域から低音域までむらなく美しく、そして力強く、超難関パッセージを軽々と歌いきるテクニックをもっていました。しばしば「彼女の歌は劇的な要素を欠いている」と揶揄されましたが、いま、録音を聴き直してみると、あれだけのテクニックをもったソプラノがはたしてそれ以降にいただろうか・・・と考えた時に、彼女の歌唱の本当の素晴らしさが一段と際立つ筈だ、と僕は思いました。


 中丸さんはアメリカに渡り、サザーランドのもとで徹底的に勉強しました。そこで、さまざまな問題点を克服していったそうです。それが、具体的にどういうものなのか・・・というと、それは言えません。言葉で書いたからといってけっして伝わるものではないし、語弊があると困るし、僕がそれを分かったつもりでいるだけかもしれないからです。

 僕が中丸さんのレッスンで分かったことは、・・・発声について、ますます分からなくなってしまった・・・ということです。指揮者の数だけ指揮法があり、弁護士の数だけ法律の解釈があり、人の数だけ性がある・・・とするならば、そのどれもが正解であり、どれもが不正解なのです。どこにもヒントが隠されていて、どこにも危険な要素が潜んでいます。だから、方法と結果をじっくりと見て、それと自分の美意識とを照らし合わせる。そうして試行錯誤を常に重ねながら、自分のバランスを保っていく。しかし、時には思い切って、言われたとおりに信じてやってみてもいいでしょう。また、大いに反抗して自分流を突き詰めてみてもいいでしょう。そうやっていくうちに、いつのまにか、いい歌になっているかもしれません。


 僕はいま、大きな気分でいるのです。あのサザーランドや、あのパヴァロッティになったつもりで・・・いい夢見心地です。夢が覚めないうちに、少しでも上手くなっているといいのですが・・・。


                                          ・・・つづく・・・


by.初谷敬史

2009-12-22 16:44:45

晩冬・3

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(承前)


 12月の第2週目は、「N響」漬けになりました。

 12月11日(金)12日(土)「NHK交響楽団定期演奏会」ヤナーチェク作曲「グラゴル・ミサ」(シャルル・デュトワ指揮、合唱「東京混声合唱団」)

 今年は何の影響なのか、どのオーケストラのプログラムにも、ヤナーチェクが並んでいます。僕たちは彼の音楽に、どこか親近感を抱かせるようです。それは、前述したように、彼の音楽は不思議な魅力を秘めているからだと思います。晩年の絶頂期に作曲された「グラゴル・ミサ」もとても神秘的な作品です。「グラゴル」とは、ラテン語のミサを古代スラヴ語で布教するために考案された文字「グラゴル文字」のことです。既にすたれてしまったこのテキストを彼が敢えて使用したのは、民族統一への熱い希求からだと言われています。それによって、東洋的な色合いがより濃くなっていますが、一方で、彼の汎神論的なスタンスがよく曲に現れていて、信仰にどっぷりと浸るということがありません。彼のいう「国民のたしかなもの――不滅の存在」を冷静な視点で、ここに具現化しているのです。それ故、常に客観的バランスが取れており、「シンフォニエッタ」と同様、全曲を通して、とても爽やかに響くのだと思います。


 僕が本格的な合唱へ参加したのは、本当に久しぶりです。ちょうど2年前、同じ顔触れでプロコフィエフ作曲:カンタータ「アレクサンダー・ネフスキー」に参加して以来です。この時味わった素晴らしい体験が忘れられず、今回も、思い切って参加しました。思い切ってというのは、これに参加するためには他の多くの稽古を休まなければならないのです。しかし、仕事の半分は「勉強」のつもり・・・。もちろんさまざまな活動を通じて、学習させてもらっています。しかし、今では責任ばかりが大きくなってしまい、勉強の喜びをこころから感じることがめっきり少なくなってしまいました。それが、日本一の集団の只中に混じって、さまざまなことをひとつひとつ体験できるのです。しかも、ある意味で客観性を常に持ちながら・・・。そんな訳で、僕ははじめからこのプロジェクトを楽しんでいたのです。

 僕は客観性をもって十分楽しむことができるように、早めに譜読みを終わらせました。そして、稽古の際、自分の歌に磨きをかけながら、さまざまな事象を目と耳とで確認していました。前に立っていては分からないこと・・・。きっと、演奏させる側と演奏する側のそれぞれが持つ感覚は、多少違うのだろうと思います。中に入ってみると、実際にいたる所でさまざまな問題が起こっていました。それは、ひとつひとつ解決しなければならない問題でした。僕はそれらを十分理解したうえで、自分の歌を楽しみました。チェコ語の発音や、ヤナーチェク独特の音型、ハーモニーに見合う発声を探りました。以前よりも発声のコントロールが自由になった分、周りで響くプロの声と重なり合う喜びに浸っていたのです。そういえば、僕が学生の時分、どうやって歌を勉強していたかというと、合唱の時に、上手な友達の隣で歌うことで勉強していたのです。僕の隣にはいつも、東京バロック・スコラーズ「クリスマス・オラトリオ」でソロをした鈴木准くんがいました。僕は彼の声にぴったり合わせることで、テクニックを盗んでいたのです。そんなことをあれこれ思い返しながら、自分の歌を隅から隅まで確かめ、充足感を味わっていたのです。


 僕はデュトワが好きです。・・・カッコいい。僕は73歳のおじいちゃんに惚れているのです。デュトワは完璧です。さまざまな色彩をもった魔術師です。僕は稽古中、デュトワを穴のあくほど見つめていました。デュトワの指揮は、けっして真似できません。・・・ゆっくり振り上げて、テンポが速く、振りが大きい。この一見矛盾した指揮法こそ、デュトワです。色彩が生まれるのは、ゆっくり振り上げられる腕の軌跡の間です。そこに、デュトワは集中しているのだと思います。

 オーケストラの反応が・・・どうもおかしい・・・。そう、切れがない。音がどんよりと濁っている。デュトワの情熱的な抑揚が伝わらない。・・・デュトワはイライラを募らせ、とうとう、チェロに白羽の矢が立ってしまいました。それでも、デュトワの求めているフレーズに最後までなりませんでした。僕の知っているN響は、こんな筈ではありません。2年の間にN響が変わってしまったのか、それとも僕の耳が変化したのか・・・。僕は、トップを弾くプレーヤーに問題があると思いました。演奏が非常におとなしいのです。後ろのプレーヤーは、トップを差し置いて飛び出すことはできません。悪しき連帯です。これは、放送局のオーケストラ特有の、無言のプレッシャーがあるのかもしれません。けっして失敗が許されない・・・。義務感ばかり先行し、思い切った演奏ができない・・・。デュトワとN響の不一致は、残念ながら解決されぬまま公演となってしまいました。

 収録が入った初日は、言い知れぬ緊張感。舞台上にマイクがずらりと並び、会場のあちこちにテレビカメラがスタンバイしています。僕らは体を動かすことも、楽譜を見ることも許されないような状況です。最高に研ぎ澄まされた感覚。沈黙と楽音しかない空間で、・・・けっして失敗が許されない・・・。僕らは気付かない間に、義務感に支配されていたのです。デュトワは集中していました。体から迸るエネルギーは熱く、濃密な音の渦を引き出そうとしていました。状況にひるむことなく、攻めていたのです。僕らもそれに必死で喰らい付いていきます。「クレド」の途中、劇的な十字架のはりつけが叫ばれたのち、復活を語る部分。ヴァイオリンの抒情的な民謡主題を、デュトワはこれしかないというような緊張感のあるテンポで提示しました。瞬間、ヴァイオリンが躊躇しました。それを聴いて、後から入る低弦は拍を失いました。結果、一拍ずれたまま女声のアカペラを待つしか方法はありませんでした。・・・やってしまったのです。その後、堰を切ったようにポロポロと傷ができました。・・・でも、僕は思うのです。ライブとしては、素晴らしい演奏だったと。翌日、デュトワはテンポを落とし、丁寧に振り分け、安全運転でいきました。傷はなかったけれど、ライブとしてはイマイチ。収録としていい演奏と、ライブとしていい演奏・・・。

 2010年1月15日(金)NHK BS2「N響演奏会」で10:00から放送予定。



 12月13日(日)楽しい楽しい足利市民合唱団「クリスマス・コンサート」

 毎年恒例となった「アピタ」でのミニ・コンサート。団員はサンタやトナカイに扮して、それぞれの想いをのせてクリスマス・ソングを熱唱しました。ここでは何のプレッシャーもありません。存分に楽しむだけ。仲間と声を合わせ歌うことのできる幸せを噛みしめ、その微笑みを、聴きにいらしたみなさんと共有できたら・・・そんな幸せなことはありません。微笑みは、微笑みを生みます。「足唱」は微笑むどころではありません。足唱風の元気印 「大笑い」

 素敵なクリスマスになりますように・・・願いを込めて・・・。


                                          ・・・つづく・・・


by.初谷敬史

2009-12-21 05:51:09

晩冬・2

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(承前)


 12月6日(日)

 この日は2つの演奏会があって、あっちに行ったり、こっちに行ったりと大変でした。ひとつは三澤先生の指揮する「東京バロック・スコラーズ」の特別演奏会「ドイツのクリスマス」です。僕はアシスタントを務めました。東京芸術劇場の大ホールでバッハ「クリスマス・オラトリオ」全曲、「ブランデンブルク協奏曲」2番と5番、「モテット」1番と5番、と盛りだくさん。しかも三澤先生のプレトーク付きで「昼の部」&「夜の部」。ゲネプロを午前中にやったので、丸一日です。・・・いったい誰がこんな無謀なコンサートを計画したのでしょう!!!と顔を見たくなるようなハードな内容。しかし、その企画者:三澤先生が一番元気で、物凄いバイタリティ。どこからそのエネルギーが湧いてくるのか分かりませんが、多分、先生は苦しんでいるのではなく(もちろん、指揮官なので、さまざまな苦労や疲労はあるはずです)、一番楽しんでいるのだと思うのです。

 僕もこの公演を楽しみにしていました。なぜなら素敵な仲間たちだったからです。ソリストに、我らがソプラノ:藤崎美苗(ふじさき みなえ)ちゃん、アルト:新進気鋭の高橋ちはるちゃん、スーパーテノール(福音史家):鈴木准(すずき じゅん)くん、バス:本物の伯爵コンシュタンティン・ヴァルダドルフさん。ちはるちゃんと准くんとは、大学の同級生です。練習中から同窓会みたいな雰囲気で、本当に楽しかった。しかも、ふたりとも、どこに出しても恥ずかしくないくらい素敵なソロ。僕が言うのもどうかと思いますが、それぞれの美学をしっかり守っていて、本当に上手くなったなぁ・・・と、本当に誇らしく思いました。

 ブランデンブルクのソリストは、役者が勢ぞろい。ヴァイオリンは東京交響楽団ソロ・コンサートマスター:大谷康子(おおたに やすこ)さん。フルートは三上明子(みかみ あきこ)さん、チェンバロは広沢麻美(ひろさわ あさみ)さんなど、豪華ゲズト。楽器に精霊が宿っているかのようです。表現力が多彩で、まるで楽器同士で会話をしているよう。

 それと対照的に、爽やかな音を響かせる若いオーケストラ。芸大で後輩だったイケメン・ヴァイオリニスト:近藤薫(こんどう かおる)くんが、初めてコンサートマスターを務めました。三澤先生の夢が叶い、「東京バロック・スコラーズ・アンサンブル」の輝ける第1弾となりました。

 僕は、あらためて合唱団員、ひとりひとりを眺め見ました。そして、バッハを演奏したいと、他の仕事をキャンセルしてまで、ここに集まったソリスト、オーケストラを眺め見ました。・・・バッハは偉大です。(三澤先生も偉大です!)・・・僕は初めて気付いたのです。みんな善意に満ちている・・・と。素晴らしいことです。そういう人でなければ、バッハをこころから演奏できないのです。みんな、それぞれいろいろと大変だろうけれど、いいバッハを演奏しようと、こころをひとつにして一生懸命に頑張っているのです。そういうのって本当に素敵だなぁ・・・音楽ってこうだよなぁ・・・と素直に感激しました。


 午前中のゲネプロを途中で抜けて、僕はサントリーホールに向かいました。もうひとつの演奏会。飯森範親(いいもり のりちか)さんが指揮する「東京交響楽団定期演奏会」です。日本初演となるヤナーチェク作曲:オペラ「ブロウチェク氏の旅行」です。僕は「東響コーラス」の発声指導で入りました。合唱指揮は大井剛史(おおい たけし)さん。

 このオペラ、面白いんです。舞台はプラハ。第一部「月への旅」、第二部「15世紀への旅」。どこにでもいるような一般市民、ブロウチェク氏が、理想を求めて時空を超えたふたつの世界へ脱出します。しかし、そこには理想的な世界などなく、「月」には「美」のみを追求する耽美主義が、「15世紀」には「愛国主義」に満ちた戦争がありました。ここでは生活することができないと、ペガサスに乗って、またプラハに戻ってきてしまいます。もちろん痛烈な社会風刺です。このオペラが完成した1918年は、チェコが独立した年。ようやく民族が民族として、地に足を付けてふるまうことのできる喜びが、作品全体に満ち溢れているような気がします。それを可能にしているのは、ヤナーチェク独特のチェコ語による「会話旋律」でしょう。台本制作にヤナーチェクも含め9人の台本作家が関わったという、こだわりの美しく哲学的な詩に、民族的な、会話をするような旋律線が付けられています。それによって、ヨーロッパのどこにも存在しえない、ここだけの世界が表現されています。

 村上春樹「1Q84」は、ヤナーチェク作曲「シンフォニエッタ」によって現実に「ねじれ」を起こし、容易に異次元の扉を開けています。彼が言うように、もちろん現実はひとつだけです。しかし、ヤナーチェクの音楽には、どこからともなく「自由の微風」をここに呼び込む「歓喜」のファンファーレが含まれているような気がします。西洋文明以前の節度、原野、宇宙のリズム。これは、レヴィ=ストロースのように、構造を分解し、もはや統合の可能性のうせた状態にまで還元してしまうような世界です。無秩序を無秩序としてひとつの大きな全体に溶け合わせてしまうのです。僕らは、現代の疲れたこころの中に、「いま=ここ」が疑いようのない現実でありながら、同時に、ここだけにしかない何かを、ヤナーチェクによって分解し、再発見するのかもしれません。それこそが、「善意」であるのです。


                                          ・・・つづく・・・


by.初谷敬史

2009-12-21 04:56:11

晩冬

テーマ:ブログ

 長い長い「フランス紀行」が、ひとしきり盛り上がっていた頃、僕はけっして遊んでいたわけではありません。最近の僕はどうしているのか、心配なさっている方もいるかもしれませんね。・・・僕は元気です。音楽活動も頑張っています。そのあたりのことを、ここにまとめて書いてみたいと思います。


 実は12月を、僕はとても慎重に迎えたのです。「昨年末の絶不調」を反省して、今年は細心の注意を払いました。病は気からと言うように、気持ちが萎えないようこころ掛けました。12月は比較的に気候も温暖で、気持ちの良い晴天が続いたので、そうしたものが、こころ晴れやかでいる助けに少しでもなったのではないかと思います。

 僕はよく散歩をします。近所の神社に大きな銀杏の木があります。今年の紅葉は見事でした。日に日に変化する様を仰ぎ見ることが、とても楽しみになりました。銀杏には澄み切った青空がよく似合います。葉は、落ちる寸前に燃えるような美しさを湛えます。それは果実と同じです。ものが朽ち果てる前に僅かに見せる、完熟の刹那。それらの美しさに触れ、ほほ笑む。そして、ふうとひとつ息を吐き、肩の力を抜く。僕は慎重に、時の移ろいに身を任せ、その時々を味わい尽くしていたのです。


 12月は「勉強」の月になりました。垢がこびり付いたような僕自身の音楽を、磨き直すチャンス。それには僕自身が軽やかでなくてはなりません。いや、本当は僕自身などというものを通り越さなければならないのです。そうした時にはじめて、芭蕉のいう「かるみ」のようなものが体験できるのだろうと思うのです。無駄な飾りのない本当の僕。

 僕はここで、重大な告白をしなければなりません。なぜするのかというと・・・何となく、いま、しなければならない・・・と思うからです。これは説明が難しく・・・神のお告げのようなもので、「いま」しておいたほうがいいのです。僕は、この「何となく」というのがとても好きで、僕の人生のテーマになっているくらいです。僕が考えるところ、世界はすべて中庸であり、グラデーションです。「絶対」などというものは存在しないのです。存在論においては、認識しうる自己のみが絶対だということになりますが、自己といっても何を自己と呼ぶのかさえ分からないのです。仏教では「真理」、キリスト教では「神」、資本主義においては「価値」・・・しかしながら、ヴィトゲンシュタイン風に言えば、それらは「語りえぬもの」です。彼の言う通り、語りえぬものは沈黙しなければなりません。決めつけは止めです。だから「何となく」です。その話はこのへんにして、告白というのはこうです・・・

 僕の活力は、エロティシズムに突き動かされているにすぎない。

 ・・・とうとう言ってしまいました。言ってしまったからといって、どうということもありません。その事実は変わらないのだし、隠し立てすることもありません。僕は死ぬまでに何度か、胸の中に秘めた重大な告白をしなければならないと考えています。理由はありません。何となくしなければならないのです。そうやって僕を僕として保つことができるのかもしれません。まず初めの告白が、これです。・・・語りえぬ信仰告白なので、説明はできません。ただ、ここでいう「エロティシズム」とは、「性交」を意味して言っているのではありません。むしろ、そんなことはどうでもいいのです。「夢想」そのものです。でもそれは、形です。質感を持った肉体美なのです。肉体の秘密への憧れ。かつて、ダ・ヴィンチやモーツァルトがそうであったように・・・。棟方志功は無邪気にいいます。「あるものを真っ裸にしたものこそ、僕の世界。それこそが願い・・・。」

 ・・・無駄な飾りのないもの、軽快で気高く澄んでいるもの、ひたすらに献身的なもの、そんなものに僕は憧れるのです。そうしたものと一体になった時、僕は僕でなくなり、同時に、僕を再構成するのです。


                                          ・・・つづく・・・


by.初谷敬史

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