■第11回「東京マラソン2017・開会式」
2月26日(日)開会式 9:00~
東京都庁前特設ステージ
曲目:国歌「君が代」、ランナー応援ソング
出演:六本木男声合唱団 ZIG-ZAG(指揮:初谷敬史、ピアノ:岩井美貴)
★テレビ放映:日本テレビ系全国ネット

■「ヴォクスマーナ第37回定期演奏会」(創団20周年シリーズVol.3 未来を担う男性作曲家)
3月5日(日)開演14:30
東京文化会館・小ホール
●川上統(b.1979):怪獣 (委嘱新作・初演)
●藤井健介(b.1979):「Sèlèh II」 ヴォーカルアンサンブルのための(委嘱新作・初演)
●近江典彦(b.1984):「Khon-mXahuvona」 pour vocal ensemble (2014委嘱作品・再演)
●北爪裕道(b.1987):「Multiplex」 for 12 voices (2013委嘱作品・再演)
◇お問い合わせ e-mail:voxhumana_info@hotmail.com

■「“わ”で奏でる東日本応援コンサート2017 in 東京」主催:セイコーホールディングス株式会社
3月11日(土)開演18:30
Bunkamuraオーチャードホール
出演:前田憲男とウィンドブレイカーズ、東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団弦楽アンサンブル、西村 協、ナオミ・グレース、大島花子、渡辺真知子、サーカス、EPO、山口マリー、くるみee、六本木男声合唱団 ZIG-ZAG
◇チケット取り扱い:Bunkamuraチケットセンター(10:00~17:30)03-3477-9999
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2017-02-20 01:30:44

ヴォクスマーナ第37回定期演奏会

テーマ:ブログ

第37回定期演奏会 (創団20周年シリーズVol.3 未来を担う男性作曲家)

3月5日(日)開演14:30

東京文化会館小ホール

 

川上 統(b.1979):怪獣 (委嘱新作・初演)

藤井健介(b.1979):「Sèlèh II」 ヴォーカルアンサンブルのための(委嘱新作・初演)

近江典彦(b.1984):「Khon-mXahuvona」 pour vocal ensemble (2014委嘱作品・再演)

北爪裕道(b.1987):「Multiplex」 for 12 voices (2013委嘱作品・再演)

 

sop. 稲村麻衣子、神谷美貴子、花嶋千香代、日野祐希

alt. 入澤希誉、高橋陽子

ten. 金沢青児、清見卓、櫻井元希、初谷敬史

bas. 小野慶介、松井永太郎

指揮:西川竜太

 

ホームページ●●● http://vox-humana.wix.com/vox-humana

Facebook●●● https://www.facebook.com/voxhumana1996

twitter●●● @voxhumana_info

 

◇問い合わせ:ヴォクスマーナ事務局 E-mail:voxhumana_info@hotmail.com

◇チケット取扱:東京文化会館チケットサービス 03-5685-0650 http://www.t-bunka.jp/

 全席自由 前売:3000円 当日:3500円 学生:1500円(大学生)1000円(高校生以下)

 

 

■ヴォクスマーナ「新作委嘱活動支持会員」募集のご案内

 ヴォクスマーナでは、第37回定期演奏会の「新作委嘱活動支持会員」を募集いたします。私たちの活動の取り組みをご理解くださり、ご支援くださいますよう、よろしくお願いいたします。

 

新作委嘱活動支持会(第37回定期)

・会費:一口 / ¥10,000

・特典:公演のチケット1枚(座席指定)を贈呈、公演のプログラムにご芳名を掲載、公演のプログラムを贈呈、新作委嘱作品の楽譜の贈呈、公演のCDの贈呈

 

●申込方法

(1)Eメールでお申し込みください。

 ヴォクスマーナ事務局 E-mail: voxhumana_info@hotmail.com

(2)申込後、以下の口座にお振込みください。

 振込先:三菱東京UFJ銀行 浅草橋支店 (普)0086923 ヴォクスマーナ代表 初谷敬史

 

by.初谷敬史

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2017-01-23 14:33:10

新春に・4

テーマ:ブログ

(承前)

 

 1月26日(木)から1月29日(日)まで、僕ら「六本木男声合唱団ZIG-ZAG」の有志で、マーシャル諸島「クェゼリン島」へ、太平洋戦争における戦没者の慰霊「献歌」に行ってくる。

 「マーシャル諸島」は、中部太平洋の独立国家で、水爆実験が行われた「ビキニ環礁」を有する島国である。世界最大の環礁である「クェゼリン島」は、そのビキニ環礁のすぐ南東にある島だ。なお、現在、クェゼリン島には、一般の人は立ち入りを許されていない。なぜなら、太平洋におけるアメリカ軍の最重要基地となっているためである。

 なぜ、僕たちに特別に入国許可が下りたのか・・・。そして、島にある戦没者の慰霊碑の前で、「マーシャル諸島・ギルバート諸島戦没者現地慰霊祭」として、マーシャル方面遺族会と、アメリカ軍の高官と共に、慰霊祭を執り行うことができるのか・・・。それは、ロクダンのメンバーに、朝香誠彦(あさか ともひこ)殿下がいらっしゃるからである。

 

 誠彦殿下は、日本の「アール・デコ」建築として有名な東京都港区白金台にある「東京都庭園美術館」(旧朝香宮邸)に、朝香宮家の第一王子として住んでおられた方だ。

 朝香宮家の初代当主は、朝香宮鳩彦王(あさかのみや やすひこおう 明治20年〜昭和56年)で、誠彦殿下の祖父にあたる。

 鳩彦王は、久邇宮朝彦王(くにのみや あさひこおう)の第八王子で、明治39年に「朝香宮家」を設立した。そして、明治天皇の第八皇女である允子内親王(のぶこないしんのう)と結婚され、それから、フランスに留学した。そして、「パリ万国博覧会」で、アール・デコ様式に触れたのだという。帰国後、白金台の御用地に朝香宮邸をつくったのだそうだ。当時、皇族男子は軍人にならなければならないしきたりがあったそうで、陸軍大将を務めたという。戦後、GHQの命令により、昭和22年、皇籍を離脱した。

 

 鳩彦王の第二王子である音羽正彦王(おとわ ただひこおう 大正3年〜昭和19年)は、昭和11年、願いにより臣籍降下し、音羽侯爵家を設立する。学習院卒業後、海軍兵学校へ通い、空母「赤城」、戦艦「山城」、戦艦「陸奥」の各部隊長等を歴任する。そして、「第6根拠地隊」の海軍大尉として自ら出向き、マーシャル諸島「クェゼリン島」で指揮をした。昭和21年2月6日、アメリカ軍が攻めてくる中、最後の突撃を陣頭にたって敢行し、戦死された。部隊は、正彦王と共に、玉砕した。・・・誠彦殿下のおじさまにあたる方である。

 

 誠彦殿下が、是非この機会に、クェゼリン島で戦死されたおじさまを弔いたい・・・とおっしゃり、この慰霊「献歌」ツアーが計画された。

 僕らは、殿下のお供をし、マーシャル諸島方面・ギルバート諸島方面で亡くなられた方々を慰霊してくる。

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2017-01-23 14:30:56

新春に・3

テーマ:ブログ

(承前)

 

 穏やかな元旦に、家族でお墓参りをした。

 お墓参りは、とても気持ちがいい。先祖のお墓に行くと、お盆の時のような雰囲気――ゆらゆらと穏やかで、うっすらと暑く、ベールのあちらで何とも涼しげ――で、いつも僕たちを快く迎えてくれる。そのほほ笑みは、肉親ならではの温かさである。僕はほっこりとこころが弛み、安心して現実へと戻っていく。

 

 あまりにも陽気がよかったし、気分も晴れやかだったので、母の希望で、祖母方の実家のお墓にいってみた。僕はそこに行くのは、はじめてだった。

 僕は子どもの頃から「初谷」の姓を名乗っているし、産まれてこの方、初谷にゆかりのある土地に住んでいるので、どうしても父方の初谷のイメージが強いのであるが、僕の半分は、正真正銘、母方にある。・・・昨年、30数年振りに、母の祖父方の実家がある新潟へ行ってきたこともあり、そのことを強く思うようになった。

 僕のルーツは、どこにあるのか・・・。僕の2分の1、4分の1、8分の1・・・と可能性を探っていくと、想像だにできない方々の生と魂と想いを、我が身に引き受けていることに気付かされる。

 

 そのお墓は、墓地になっている斜面の一番上にあった。急な坂道を一気に登っていったので、僕らはぜーぜーと息を切らした。お墓の前に立った時、先祖代々の墓石の横にたつ、ひと際、立派な墓石が何であるか・・・、僕はすぐに理解した。・・・おそらく、遺骨はここにはないであろう。・・・それは、戦争で亡くなった方のものである。

 僕は墓石を隈なく丹念に調べ、刻まれた文字を確かめた。「昭和19年1月16日 北緯23度3分 東経133度12分」と、亡くなった日付と、亡くなった地点が読み取れた。・・・満州から南方へ転進する途中、おそらく、兵士を乗せた輸送船が、アメリカ軍の攻撃にさらされてしまったのだろう。年代を考えれば、その近海で、大規模な海戦があったとも考えにくい。ともすれば、潜水艦の魚雷によって沈められたのかもしれない・・・。

 手元に明確な資料は何もないが、この文字を頼りに、僕なりに調べてみようと思った。

 

 当時の戦況を考えると、日本軍は相当に追いつめられていた。満州に駐屯していた陸軍の師団が、海軍の管轄であった太平洋の島々に、大量に移動しなければならなくなるほど・・・。

 昭和16年12月「真珠湾攻撃」以降、破竹の勢いで太平洋地域の島々を占領していった日本軍のターニングポイントとなったのは、昭和17年6月「ミッドウェー海戦」と、同年8月からの「ガダルカナル島の戦い」であった。海上でのこの敗戦は、海軍が誇る6隻の空母のうち、主力空母を一気に4隻も失い、搭載機も、優秀なパイロットも同時に失ってしまう大損害だった。海軍は、実質、ここで太平洋での制海権、制空権とも、ほとんど失ってしまったと言ってもいい。

 陸上での快進撃も、ガダルカナルで、完全に終止符を打たれる。この時、「玉砕」の名は、まだ日本軍で使用されていなかったそうだが、ガダルカナルに送られた部隊は、実質、全滅に近いものであった。しかも、食糧の輸送作戦すら上手くいかず、そのほとんどは「餓死」であった。ガダルカナルの日本軍撤退は、昭和18年2月だった。

 このふたつの戦いを経て、太平洋で主導権を握ったアメリカは、日本を降伏させるための最後の前線基地とすべく、そのターゲットをマリアナ諸島(グアム島・サイパン島・テニアン島)においた。ここを拠点にすれば、大型爆撃機B29によって、日本のほぼ全域を爆撃することができたからである。逆に、日本軍は、日本の本土防衛のため、そして戦争を継続していくために、昭和18年9月、「絶対国防圏」を御前会議で決定した。マリアナ諸島を、絶対に守らなければならない布石として位置付けていたのである。

 チェスター・ニミッツ提督率いるアメリカ海軍は、マリアナ諸島攻略のために、ガダルカナルから中部太平洋を反時計回りで、日本軍守備隊の守る島々を、ひとつずつ攻略していながら北上していった。(一方、マッカーサー大将率いる陸軍は、ガダルカナルから時計回りで、ニューギニア、ミンダナオ、フィリピンという経路を辿った。)

 海軍はまず、世界最大の環礁で、世界最大の艦隊泊地をつくることのできるマーシャル諸島の要「クェゼリン島」を目指した。その足掛かりとして、ギルバート諸島「マキン島」と「タワラ島」から攻撃をはじめた。日本軍守備隊が必死に抵抗するも、昭和18年11月23日に玉砕。そして、同年12月5日に「マーシャル諸島沖空戦」となり、クェゼリン島の日本軍が玉砕したのは、昭和19年2月6日だった。・・・クェゼリン島を含むマーシャル諸島は、当時、日本の「委任統治領」であった。日本の領土が、アメリカ軍によって占領されたのは、この時がはじめてだった。

 その後、「トラック島」、「サイパン島」、「テニアン島」、「グアム島」、「ペリリュー島」・・・と攻略され、次々に日本軍は玉砕していくこととなる。

 

 墓石に刻まれた日付は、昭和19年1月16日。・・・昭和19年1月30日からはじまる「クェゼリン島の戦い」の前夜、「絶対国防圏」の構想にしたがって、満州に駐屯していた陸軍の師団を、秘密裏に南方へと転進させていた時期とちょうど重なるだろう。

 では、この若者は、どの師団に属していた可能性があるのか・・・。栃木県で編成された師団は、主に「第14師団」と「第51師団」がある。

 「第51師団」は、昭和16年に満州へ派遣されるも、その後、昭和17年にニューギニア戦線に転用され、ラバウルに進出している。その後、「ダンピールの悲劇」と言われる「ビスマルク海海戦」や「ラエ・ワラモアの戦い」に破れ「サラワケット越え」と言われる撤退の悲劇を経験した。昭和19年当時、師団は壊滅状態であっただろう。

 では、「第14師団」はどうか・・。この師団は、昭和初期から満州に出征しており、昭和18年、「絶対国防圏」の構想により、満州からパラオに、随時、転用された。・・・満州から南方へ、転進途中に輸送船が撃沈させられたとすれば、まさに、亡くなった日付と符合する。

 

 パラオ・・・。僕の行ったパラオである。・・・そう、僕のパラオは、まだ終わっていない・・・。天皇陛下が一昨年4月、僕らの行った激戦地「ペリリュー島」へ慰霊に訪問され、僕は本当にありがたい気持ちで一杯だった。僕は「パラオ慰霊の旅」の続きを書こう・・・と、何度も思ったが、なかなか手につかなかった。完全に「ガダルカナル」の二の舞を踏んでいる。・・・しかし、この若者の墓石が、また僕を、パラオへと結ばせてくれた。ありがたいことである。何年掛かってもいいので、最後まで書きたい・・・と思っている。

 

 第14師団は、主力をパラオ本島「バベルダオブ島」に、「宇都宮歩兵第2連隊」(「宇都宮歩兵第15連隊第3大隊」を含む)を「ペリリュー島」に、「宇都宮歩兵第59連隊第1大隊」を「アンガウル島」にそれぞれ配備した。

 ・・・アンガウル島は、ペリリュー島のすぐ先にある島である。アンガウル島にも慰霊に行く・・・という話が、ロクダンで持ち上がっていたが、僕たちの訪問の直前、台風が上陸し、大きな被害がでてしまったということで、僕たち慰霊団は、残念ながら行くことが許されなかった。しかし、僕は事前に、栃木県の部隊がこの島で死闘を繰り広げ、圧倒的なアメリカの戦力の前に、全滅した・・・ということを調べていたので、真っ青な海の向こうに見えるアンガウル島に向け、僕はひとり、ペリリュー島の浜辺から、祈りを捧げた・・・。

 ペリリュー島とアンガウル島の戦闘を振り返ってみる。

 昭和19年9月15日、アメリカ軍がペリリュー島に上陸作戦を開始。ペリリュー島守備隊の「水戸歩兵第2連隊第2大隊」と「高崎歩兵第15連隊第3大隊」等が応戦。9月16日、アメリカ軍がペリリュー島の飛行場を制圧。

 9月17日、アメリカ軍がアンガウル島に上陸作戦を開始。「宇都宮歩兵第59連隊第1大隊」等が応戦。9月19日、アメリカ軍がアンガウル島の中心部を制圧。

 9月22日、「宇都宮歩兵第15連隊第2大隊」がペリリュー島へ敵前上陸を敢行し、守備隊に合流。

 10月19日、アンガウル島守備隊、全滅。11月24日、ペリリュー島守備隊、全滅。昭和20年、バベルダオブ島の主力部隊は、終戦を迎える。

 ・・・しかし、墓石の主は、この戦闘に加わることなく、それどころか、パラオに渡ることもできず、海の藻くずと消えてしまったのだった。

 

「北緯23度3分 東経133度12分」・・・ここは、どこか・・・。

 北緯23度は、ちょうど台湾を通る(赤道に平行する東西の)線である。東経133度は、ちょうど愛媛県を通る(北極と南極を結ぶ南北の)線。それぞれの線を東と南に伸ばし、交差する点が、亡くなった地点ということになる。・・・それは、沖縄諸島の東部に広がる「大東島」の東の海域。(昭和19年1月16日に、その近辺で沈んだ輸送船を調べれば、もう少しはっきりしたことが分かるかもしれない・・・。インターネットで調べると、「戦時微用商船被害一覧」というページがあり、昭和19年1月16日、陸軍、「丁抹丸」(5869トン)、白洋汽船、雷撃、沖大東島南東沖とある。この記録が正しければ、これに乗っていた可能性が高い。)

 ・・・僕は、そこまで調べたところで、胸に熱く込み上げてくるものを感じ、自然と涙が溢れ、こぼれ落ちた。「無念・・・。」・・・そのひと言が、突然、どこからか聞こえてきたのだ。・・・その声の重みと、深さと、静けさと、苦しみと、言いようのない悲しみに、僕の魂は素直に反応し、そして打震えたのだった。僕は涙が止まらなかった。

 ・・・彼は、自らの生を、命を、全うしたかったのだ。戦いに行ったのに、戦わずして、海に沈んだ。仲間もろとも・・・。完全に、無駄死にだった。彼は、ふるさと「足利」に、家族を残してきたのだ。もしかしたら、将来を誓い合った大切な人も残してきたかもしれない・・・。彼は、ふるさとにもう一度、帰りたかったのだ。しかし、想いだけを残して、彼は海の藻くずとなった・・・。

 誰も、彼の最期を知らないし、骨さえも、ふるさとに戻ってくることができない。誰も、彼が亡くなった海で、弔うこともできない・・・。「無念・・・。」もう、彼を知る人物は、この世からいなくなってしまった。もう彼は、誰からも思い出されることがない・・・。

 何のために、彼は戦争に行き、何のために亡くなったのだろうか・・・。彼には、幸せに暮らす権利があった。美味しいものを食べ、酒を呑み、笑い、泣き、言いたいことをいい、キスをし、汗をかいて働き、新聞を読み、休みに出かけ、風呂に入り、夢を見て、子どもをつくる・・・。そんな他愛もない日常を、家族とともに、友人とともに、そして、大切な人とともに・・・。

 彼は、僕に、こんなふうに語っているように思えた――家族が、幸せに暮らしていることが、僕の幸せだ・・・、と。

 

 僕は、この若者の分まで、精一杯、日常を生き抜かなければならない・・・。そして、できることならば、いつの日か、彼を弔ってあげたい・・・。

 

・・・つづく・・・

 

by.初谷敬史

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2017-01-23 14:28:18

新春に・2

テーマ:ブログ

(承前)

 

 40歳を迎える今年、大きな変化が訪れるだろう。それは、僕自身も、そして僕の周りも・・・。

 ・・・それは、まるで、サナギが蝶々に変容するように、ダイナミックな変化であろう。いま僕たちは、長年僕らを形作り、その中で成長させてくれた殻を、ゆっくり剥ごうとしている。やがて、そこから抜け出て、立派な羽根が広がるだろう。そして、羽根を大きく、ゆっくり羽ばたかせながら、大空へ自由に飛びたつ時がくるのだ。

 それには、すこし思い切りがいるが、後から考えれば、何ということはないのだ。そうやって、人はみんな、それぞれの道を謳歌していく。何の躊躇もなく、流れに身を任せる。・・・それが、一生懸命に自分の生を全うした先祖たちの望んだことなのである。

 

 僕たちは、一時たりとも、ここに留まってはいけない。座禅をするなら、けっして思考してはいけない。それよりも、一本道をひたすら歩いて、あれこれ考える方がよっぽどいいだろう。幸福の回想は、自らを豊かにするが、不幸の回想は、自らを貶めるだけである。一歩でも前へ。

 ・・・僕は走る。自ら走る。ひたすら高速道路を・・・。行く先々に、僕の幸福が待っているのだから。僕を豊かにし、そして存分に活かしてくれるのは、行く先にしかない。

 だから、なるべく身を軽くしなければならないだろう。蝶々は、自らが重ければ、あんなにも華麗で大きな羽根を持っていたとしても、けっして宙を自由に舞うことはできないだろう。・・・新たな行き先のために、モノを捨てよう。長年溜まり続けたモノを捨てよう。もうそれらは、未来の僕らにとって、必要ではない。新たな明日を、自らの手で築いていくのだから・・・。

 もう、こころの準備はできている。自信をもって、自らの一歩を踏み出すだけだ。

 

・・・つづく・・・

 

by.初谷敬史

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2017-01-23 14:26:32

新春に・1

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 我が家の食卓に飾られた小さな花たち・・・。母が僕らのために庭で手折った蠟梅、水仙、菜の花、野菊だった。

 とても嬉しそうな笑みを浮かべ、母は「ほら、春だよ!」と言いながら、僕らに香りを嗅ぐようにせっせと勧める・・・。僕はお腹がすいていたので、食卓に並べられたたくさんのご馳走に手をつけようとしていたが、母の愛情を無にしてはならないので、箸よりも先に、小さな花瓶を手に取った。

 ・・・黄色い花たちを鼻にゆっくり近づけると、とても幸せな香りがした。甘く、優しく、暖かく、清々しく、懐かしい香り・・・。一瞬にして、僕は幸福という夢に包みこまれたように思えた。・・・それは、幼年からいまに、まっすぐに繋がる記憶。そして、いまを基軸に、これからやってくる未来へ、まっすぐに繋がる希望・・・。

 ・・・お日様はうららかで、そよ風が頬をかすめる。小川はさらさらと、小鳥がさえずっている。時は過ぎ、人は往く・・・。・・・春は狭間。黄昏ではなく、曙だ。確実に、正午へ、そして、夏へと向かっているのである。僕らはこの「黄色」が出発点なのだ。明るさ、希望、そして快活さ・・・。母は言う――「一番先に黄色が咲く。夏に近づくと青くなる」、と。大地と生きる母の言葉は、説得力がある。

 僕らはいま、新たな希望を抱き、キラキラ輝く大海原や入道雲が涌き上がる大空を目指して、一歩ずつ歩みを進めていく。快活な夏が、僕らを待っている・・・。

 

・・・つづく・・・

 

by.初谷敬史

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2016-12-29 11:08:39

ヴォクスマーナ第36回定期演奏会

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■ヴォクスマーナ第36回定期演奏会(創団20周年シリーズ vol.2 伊左治直アンコールピース1ダース記念全曲演奏会)
2017年1月12日(木)開演19:00
豊洲文化センターホール

 

伊左治直(b.1968):
 Nippon Saudade ニッポン・サウダージ(2008委嘱作品・再演)
 謎の音楽(2009)詩:三好達治
 なんたるナンセンス!(2010)訳詩:柳瀬尚紀(作者不詳)
 あたらしい歌(2010)詩:ガルシア・ロルカ / 訳詩:伊左治直
 グランド電柱(2011)詩:宮澤賢治
 春の楽語集(2011)詩:伊左治直+新美桂子
 一縷の夢路(2012)詩:新美桂子
 或る日の手紙(2013)詩:新美桂子
 カリビアン・ジョーク(2013)詩:池辺晋一郎
 人の声(2014)詩:新美桂子+伊左治直
 人生のモットー(2014)詩:エドナ・ミレイ / 訳詩:伊左治直
 谷間に眠る男(2015)詩:アルチュール・ランボー / 訳詩:伊左治直
 雪(2016)詩:新美桂子
 ヨルガオ(2016) 詩:新美桂子
 アンコールピース14委嘱新作・初演

 

sop. 稲村麻衣子、神谷美貴子、花嶋千香代、日野祐希

alt. 入澤希誉、高橋陽子、矢ヶ部直子

ten. 金沢青児、清見卓、櫻井元希、初谷敬史

bas. 小野慶介、松井永太郎、矢吹誠

指揮:西川竜太


●ヴォクスマーナ・ホームページ http://vox-humana.wix.com/vox-humana
●ヴォクスマーナ・Facebookページ https://www.facebook.com/voxhumana1996
◇問い合わせ:ヴォクスマーナ事務局 E-mail:voxhumana_info@hotmail.com
◇チケット取扱:東京文化会館チケットサービス 03-5685-0650 http://www.t-bunka.jp/
 全席自由 前売:3000円 当日:3500円 学生:1500円(大学生)1000円(高校生以下)

 

 

 

by.初谷敬史

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2016-12-29 03:06:19

一年を振り返って

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 今年のビッグニュースは、何と言っても、「夢の車」を買ったことだろう。

 正月に突然思い立って、即、購入。そして、オペラ「Jr.バタフライ」の富山・東京公演を無事に終えて、晴れて納車となった。

 夢にまで見た車を、実際に運転してみると、何ともぎこちなかった・・・。それもそのはず。それまでの車と、ドアの重さや乗り降り、アクセルやブレーキなど、すべての勝手が違っていた。しかし、それも次第に慣れていくと、乗車していて、いろいろな意味で、こんなにも心地よい感覚はない・・・と思えるようになった。

 ・・・こんな日が来ることを、ずっと僕は、夢みていたのだ。

 

 僕は一日の大半を、車の中で過ごす。・・・ということは、一年の大半が、車と共にあるということ。テニスに行くのも、仕事に行くのも、遊びに行くのも、家に帰るのも、そして空き時間もすべて・・・。そう、僕は1年間で、何と40,000キロも乗ってしまったのだ。

 僕はこの車を購入する前に、心配だったことがある。それまで乗っていた「リビングのソファー感覚」が特徴で、女性に人気の姉の車にくらべると、僕の欲しい夢の車「スポーツカー」は、スピードは出るだろうけれど、毎日乗る車としては、どれだけ居心地がいいのだろう・・・、と。

 しかし、実際に乗り出してみると、僕が心配するような居心地の悪さはなかった。それよりも、格段に乗り心地がよかったのだ。まず、長距離を運転していて、まったく疲れない。そして、意外に車内がゆったりしていて、足も伸ばせ、荷物も積めるし、リクライニングも充分だ。シートの座り心地や室温管理、オーディオ類やドライビングのためのさまざまな機器など、感覚的にとても気持ちがいいものだった。

 この車は、まるで、僕の動くもうひとつの部屋なのである。しかも、ずいぶん上質の・・・。

 

 乗りはじめた頃のぎこちなさや違和感はすっかりなくなり、いまや、僕の身体や生活、そして人生の一部とさえなっている。もし、僕が催眠術をかけられ、君は誰だ・・・と尋ねられれば、僕は間違いなくこの「夢の車」の名を言うだろう・・・。

 

 今年は、この車のお陰かどうか分からないが、僕自身がずいぶん飛躍したように思える。

 

 まず、趣味のテニスについて振り返ると、今年2月に、目標としていた大会で初優勝をした。これは、僕のプレーにおける最高の形で勝ったものだった。・・・まず得意のサーブで崩し、早いテンポですぐに展開して、フィニッシュはネットプレーでとどめ。このプレー・スタイルは、上手くいけば最強であり、もっとも相手が嫌がるものであろう。・・・でも僕は、このプレーにまったく満足できていなかった。

 僕は実は、この優勝を境に、自分の得意のプレー・スタイルを封印したのだ。・・・それは、苦手なプレーを克服するためであった。僕は、ネットプレーではなく、本当はストローク戦で、ポイントを重ねてみたいのだ。・・・しかし、それを習得し、自分のスタイルとして試合でプレーするようになるまでには、かなりの時間と根気と、執念が必要である。人は、得意を伸ばすことは容易であるが、苦手を克服し、更に得意とするところまで持っていくのは、至難の業であろう。でも僕は、自分の満足のために、この闘いに敢えて臨んだのである。

 

 しかし、僕はこの挑戦のために、試合でまったく勝てなくなってしまった。勝てる試合も、簡単に落とした。あまりにできなくて、恥ずかしい思いもたくさんした。・・・でも、この自分への挑戦を、試合でやり続けることは、「できない僕」にとって、とても意味があることだ・・・と信じている。正直、辛い。メンタルはズタズタだ。あまり負け続けるのも、負け癖がついて良くないとも思う。

 けれど、僕は見据えているのだ。いまよりも一段も二段も上のテニスをしている僕の輝ける姿を・・・。「夢」は、なるべく見るほうがいいだろう。そして、それが叶うように努力するほうが、尚いいだろう。そうして、「夢」は、自分では気が付かないうちに、いつの間にか叶っていたりするものなのだ。

 

 まだまだ道半ばではあるが、今年、すこしずつ、できないことが、確実にできるようになってきた実感がある。来年も、自分の感覚を頼りに、しっかり「夢」に向かって練習していこうと思う。

 

 音楽に関して振り返ると、僕は音楽を、より好きになったように思う。そう思うようになったのは、たぶん「できる」と「わかる」が増えたからなのだろう。僕は、ようやく自分の音楽に対して、手応えを感じはじめている。「歌」に関しても、「指揮」に関しても・・・。

 そう思うようになるまで、どれくらい年月がかかっただろうか・・・。しかし、その回り道のすべてが、無駄になっていない。回り道があったから、その都度、克服してきたことが自分のものとなり、それが自分の音楽の土台となって、いま、揺るぎないもの・・・と思えるようになっているのだろう。最近では、こうした実感が、「確信」とも思えてくるようにさえなってきた。

 

 いま、ここに書いてしまうのは、自分としては少しはばかられる思いなのだが、今年2月から再スタートした「ロクダンZZ」や、4月からスタートした「シダックス」でお世話になっている三枝さんに、先日、言われたことがある――「僕は、君のことを、弟子だと思っている」。弟子・・・。僕は声楽家であり、指揮者である。三枝さんは作曲家であり、経営者である。・・・弟子とは、専門の分野だけの先生と生徒の関係を言うのではない。人生そのものの師弟である。・・・三枝さんの言葉は、これまでの僕の過程を踏まえた上で、僕の今後に期待をこめて言ってくれたものだった。

 僕は、三枝さんの背中を見て、本当にいろいろなことを教わっている。音楽観については、尚更である。もともとの音楽的な相性ということもあるし、それぞれが置かれている立場ということもあるが、僕がいま、はっきり思うことは、もちろん足元にも及ばないが、三枝さんの音楽観を、一番理解しているのは、僕だと思うし、一番引き継いでいるのも、僕だ・・・と思っている。

 2006年の広島「川のうたコンサート」の晩、「君は、何もわかってない」と、一晩中、とあるバーでお叱りを受けた。・・・それから10年、先日の広島「ディナーショー」を終えた晩、「君のつくる音楽は、素晴らしいと思う。今後、君のような合唱指揮者が増えることを願っている」・・・。これは、敢えてここに書く必要はなかったけれど、僕の本来持っていた音楽性の蕾みは、三枝さんによって成長して膨らみ、そして、いま、三枝さんのもとに開花した・・・と、この言葉を聞いて、改めて思った。

 

 いま、僕の身体の奥底から、音楽をする欲求が満ちてきている。それは、「愛」と同じである。枯渇したこころは、愛を提供することはできない。愛を享受することでしか、自らのこころを満たすことはできない。しかし、こころに自然に涌き上がってくる愛が満ち、やがて溢れ出るようになると、ようやく人に愛を施すことができる。

 ・・・僕の音楽が自らの内に満ちてくるまで、長い年月がかかった。しかし、自らの内に音楽が満ちてきたいま、ようやく人に音楽を伝えることができるようになってきたと思う。40歳を迎える来年、ますます音楽することが楽しみになってくるのではないか・・・と、いまからワクワクしている。

 

 テニスにしても、音楽にしても、いいイメージを大切に、これまで培ってきたことを土台にして、自信をもって取り組んでいこうと思う。

 

 今年一年、本当に多くの方にお世話になりました。感謝してもしきれません。また来年、一歩一歩、一打一打、一音一音、着実に積み重ねていけるように頑張っていきますので、どうぞよろしくお願いします。

 

by.初谷敬史

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2016-12-07 00:09:50

レクチャーコンサート「無垢と犠牲」に寄せて・3

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(承前)

 

 ピアノ合わせにおいて、自分の歌や声を改めて聴いてみると、子供からはかなり遠い存在になってしまった・・・と気付き、嘆かざるをえない。どうやっても子供には戻れないし、ずいぶんいろいろと余計な物が付いてしまったものである。

 いま、子供たちを見ると、まだ何も分かってないのに・・・、とか、大人になってから物を言いなさい・・・とか、つい子供扱いしてしまう。しかし、僕の幼少期を思い起こせば、思考について言えば、かなり幼い時期において、それは既に、いまと変わらないレベルにあったと思う。大人が考えている以上に、子供はいろいろなことが分かっているのである。それは、何にも捕われない眼で世の中を見ているせいである。それ故に、時々、大人がドキッとすることを平気で言ったりする。

 「子供」とは、いったいどういう存在なのだろうか・・・。

 

 僕は比較的、幼い頃の記憶がはっきりと残っているほうだ。

 ・・・少年だった僕は、仏の子として育ち、そして仏と共に生きていた・・・という実感がある。田舎で育ったことや、家に仏壇があったこと、寺の附属幼稚園に通っていたことなどが大きく影響したと思う。一方、家の裏にある神社は、町内の祭があったり、境内で友だちと遊んだりしたが、特別に信仰の対象にはならなかったし、キリスト教の神などは、触れる機会がなく、僕からは遠い存在だった。

 この幼少期の僕は、精神的に何からも自由で、ぬくぬくとして幸せであったように思う。子供特有の孤独感は常にあったが、自分に対して、唯一の無償の愛を施してくれる親に守られていることと同じように、大いなる仏に守られていたと思うからだ。絶対的な安心感・・・。

 いま思えば、親鸞の「ひとえに親鸞一人がためなりけり(阿弥陀の誓いは、自分ひとりの為にたてられた)」という境地を体現していたように思う。阿弥陀仏は、見捨てられた人たちを見て、「私がすべての人を助けよう・・・」と立ち上がり、誓いをたてた・・・。そのようなことを、当時の僕は知る由もなかったが、仏は僕のために存在し、僕は仏のために存在していた。これは、自分さえ救われればいい・・・というものではなくて、みんなの幸福、みんなの平安ということを願っていたのだ。みんなが幸せでなければ、僕の幸せはなかった。

 この仏と僕との間の絶対的な関係は、仏からの働きかけだけでは成り立たなかっただろう。そこには、子供ごころに、仏の働きかけに応える僕の信じる一念があったと言えよう。

 子供が天真爛漫でいられるのは、こうした絶対的な安心感があるからである。

 

 しかし、安心感の裏側には、いつも恐怖心があった。夜中にトイレに行くのが恐い・・・という子供の感受性は正しいだろう。ありきたりの知的な思考は、感受性を鈍感にさせる。見えないもの、聞こえないものは、存在しないものだと思い込んでしまうのだ。・・・子供はいつでも、あちらの世界と通じている。

 シューベルトの歌曲「魔王」で、必死に父にしがみついている子供には、魔王の姿が見えているのだ。今回、僕が歌うマーラーの歌曲「この世の暮らし」(『子供の不思議な角笛』より)の子供も、「母さん、お腹すいたよ!」とパンを欲しながら、もしかしたら、自分を死へと引きずり込もうとする悪魔的な存在が見えていたのかもしれない・・・。

 子供は、そうした眼に見えない善と悪の不思議な存在の狭間で生きているのである。

 

 子供のイサクは、無垢なこころと、大いなるものから引き継がれた魂で、神と父を信じることができた。そして、大人であるアブラハムも、神を信じることができた。

 ではなぜ、アブラハムが神を信じることができたのか・・・。

 それは、神の存在を、全身で感じることができたからではないかと思う。神の存在は絶対的である。そして、その存在は、「愛」そのものなのだ。僕も以前、ある神社の祭において、全身で神の存在を感じたことがある。その時、「神は、清々しくあられ、本当にありがたい存在だ・・・」と感じ、魂が震えた。その震えによって自然と涙が溢れ、止まらなかった・・・。ましてや全知全能の神ヤハウェである。それは人間の知性を超え、疑いを超え、愛する我が子を生け贄に捧げるほど、「信」に値するものなのであろう。

 

 今回のコンサートで、「子供」という容易に推し量ることのできない超越した存在、そして、カンティクルにおいて、絶対の存在である神を前に、アブラハムが経験した葛藤の片鱗が、にじみ出る歌になれば・・・と思っている。

 

by.初谷敬史

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2016-12-07 00:07:43

レクチャーコンサート「無垢と犠牲」に寄せて・2

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(承前)

 

 僕がオールドバラに滞在中、向井くんは、「レッドハウス」に僕を連れていってくれた。ガイドによる見学ツアーがあった。

 「レッドハウス」――ブリテンとピアーズの大きな屋敷は、その名の通り赤煉瓦づくりで、彼らが暮らしたそのままが残されてあった。ブリテンが作曲していたピアノ。テノール歌手のピアーズが練習していた書斎。大きなリビングには、ロンドンから音楽仲間が集い、新作のいきいきした音と笑いとが溢れていたし、陽気のいい日は庭園に出て、テニスやクリケットに汗した・・・。彼らはもういなくなってしまったが、このレッドハウスには、まるで、今まさに、散歩を終えたブリテンが扉をあけて、気さくにこちらの部屋に入ってきそうなほど、彼らの生きた気配が、そのままに残されてあった。

 

 レッドハウスにて、僕が気になったのは、ブリテンが大切な人たちに見守られながら息を引き取ったベッド・・・、そして、庭に置かれた少年たちのブロンズ像だった。細身の少年像のひとつは、ブリテンお気に入りのリビングの外に置かれてあり、腰に手をあてた凛々しいポーズで、意味ありげな顔をして、こちらを向いていた。

 『ベニスに死す』の美少年「タジオ」に代表される彼にとっての「少年」とは、きっと、憧れに近い存在・・・だったのではないかと思う。少年特有の青みがかったまぶしい光を放つ神々しさ。豊かな生命を解き放つ直前の蕾みのような静けさ。魂の古い記憶を残したまま、けっして知性に染まることのない無垢そのものである振る舞い。僕たちを取り囲む大いなるものと通じあった狭間の不思議さ。・・・それは、ブリテン自身が通り過ぎ、老いとともに失ってしまったものだった。それはもう、誰も、二度と取り戻すことはできないものである。

 しかし、ブリテンは、ネバーランドのピーターパンのように、少年のこころを持ち、夢想の世界で、永遠に少年として生きていたにちがいない。・・・そんなふうに確信できるのは、僕もまったく同じように生きているからだ。

 

 今回の向井くんによるレクチャーコンサートは、「少年」とは限定しないものの「子供」の「無垢と犠牲」がテーマである。彼がどのようなレクチャーをするのか分からないが、このテーマについて、僕なりにいろいろ考えるところはある。

 ブリテンでこのテーマだと、彼のオペラ『ピーター・グライムズ』や『ねじの回転』を思い描く人が多いかもしれないが、今回のメイン・プログラムは、カンティクル『アブラハムとイサク』である。アブラハム役(父)を僕が歌い、イサク役(子供)を高橋ちはるちゃんが歌う二重唱である。

 

 物語は旧約聖書からとられ、歌詞のほとんどは創作されている。

 僕はこれまで、ユダヤ人の祖「アブラハム」という人物をよく知らなかった。しかし、モーツァルト『レクイエム』の奉献唱で2度、印象的にフーガされる「quam olim Abrahae promisisti et semini ejus(かつてあなたがアブラハムとその子孫に約束したように)」の「アブラハム」と繋がった時、僕はようやく、彼がどんな人物だったか理解することができた。

 神(ヤハウェ)が地上に増えた人びとの堕落を見て、それを洪水で滅ぼそうとした「ノアの方舟」の後、人類救済のために、神によって選ばれ、はじめて祝福されたのが、アブラハムである。約束の地「カナン」(パレスチナ)を、神から与えられたのも彼だった。・・・しかし、なぜ、彼がその後、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教において、「信仰の父」と呼ばれる存在になったのか。それを理解するのには、カンティクル『アブラハムとイサク』で取りあげた旧約聖書の内容を知る必要がある。

 

 175歳で亡くなったとされるアブラハムは、なかなか子宝に恵まれなかった。しかし、奇跡は起きた。彼は神の言葉を聞く。その神の言葉通り、彼が100歳、妻が90歳の時、男子「イサク」が産まれたのである。イサクは、大切に育てられ、すくすくと成長した。

 しかしある時、神はアブラハムを試して、こう言われた――「アブラハムよ。あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさい(創世記22.1~2)」。「燔祭(はんさい)」とは、モーセが定めた供犠で、神を賛美し、感謝するために、羊や雄牛などを祭壇で焼き、それを神に捧げる儀式である。

 しかし、神が求めたものは獣ではなく、よりによって、燔祭の供物として、アブラハムの愛するひとり子を選んだのである。・・・アブラハムは、それを受けて、いったいどう考え、どういう行動をとったのか。聖書を読むと、アブラハムは、その言葉を聞いた時から、そして息子に手をかけようとするその時まで、神の言葉そのままを受け入れていたことが分かる。しかし、人間であるアブラハムは、もちろん、大変な葛藤があったと思うのだ。(そこのところは、聖書には詳しく書かれていないが、ブリテンは、その葛藤を作品の中でよく描いている。)けれど、最終的に、不安や恐怖、疑いや拒絶、憎悪などの気持ちよりも、神を信じる気持ちが勝ったのである。

 

 さて、では、イサクはどうであったのか・・・。若いとはいえ、イサクにも分別があっただろうし、それを受けて、大変な葛藤があったと思うのだ。未来のある自分が殺され、神に捧げられるのである。しかも、愛する父によって・・・。イサクは山に登る途中、父に言った――「父よ。火とたきぎとはありますが、燔祭の小羊はどこにありますか(創世記22.7)」。イサクは気付いていたのである。自分が供物になることを・・・。しかし、彼は、それをそのままに受け入れた。

 彼は、神を、そして神を信じる父を、疑わなかったのである。それは単に、彼が「無垢」の存在だからではない。大いなるものから引き継がれた魂、そして善良な両親によって育まれてきた健全な精神というものが、そのことを納得し、受け入れたからであろう・・・と僕は思うのだ。

 イサクの年齢についてはさまざまな議論がある。5歳という説や、13歳、37歳という説もある。ブリテンは、ずいぶん幼い歳に設定しているように思われる。

 

・・・つづく・・・

 

by.初谷敬史

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2016-11-28 01:40:40

レクチャーコンサート「無垢と犠牲」に寄せて・1

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 ベンジャミン・ブリテンを歌う時がきた。この日がくるのを、僕はどれだけ待ち望んでいたことか・・・。

 これまでも、歌おうと思えば、プログラムに組み込むことは可能だっただろう。しかし、その機会は作られなかった。僕は、ブリテンを歌うことに値しなかったのだ。いや、彼から許可がおりなかったのかもしれない・・・。

 

 ベンジャミン・ブリテン・・・。

 僕が彼を特別な存在として慕うようになったのは、もちろん、親友の向井大策くんの影響だ。大学2年生の時、同級生で楽理科だった彼と知り合い、彼が研究するブリテンに出会った。当時、僕は無知で、そんな作曲家がいることも知らなかったし、その時代の音楽すら聴いたこともなかった。ブリテンの音楽はあまりに高度過ぎて、理解しようとさえしなかった。しかし、向井くんと親しくなっていくにつれ、ブリテンの名は、僕の中で特別な響きをもってゆき、もっとも親しみをもち、もっとも敬愛する作曲家となり、彼の作品を演奏することが、僕の音楽する目標ともなっていった。

 僕は彼に近づくために、手始めに、イタリア語の詩による歌曲『ミケランジェロのソネット』を勉強しはじめた。高先生のレッスンに持っていくも、面白くない・・・と撥ねられた。もちろん、満足に歌うことはできなかった。僕の歌の技術では、どうにもならなかったのだ。

 ・・・しかし、僕はいつか勉強するときがくるだろう・・・と、足しげく図書館へと通い、ブリテンの声楽作品の楽譜をコピーし、収集しておいた。

 

 高先生のレッスン以来、自分での勉強はいっこうに進まなかったが、ラッキーなことに、ブリテンを公に演奏する機会を得られることとなった。僕が大学4年生の時、NHK交響楽団の定期演奏会で、ブリテン『春の交響曲』を演奏するのに、芸大声楽科に合唱の依頼があったのである。僕は当時、芸大合唱の全体のリーダー(インスペクター)をしており、NHK交響楽団との交渉からすべて、僕の手によって進めていくことになった。しかし、僕はブリテンのことについて詳しくなかったので、向井くんに手伝ってもらって、日本語訳や資料などを作ってもらった。

 

NHK交響楽団第1379回定期公演

1999年5月13(木)、14(金) NHKホール

指揮:アンドレ・プレヴィン

ソプラノ:シェリー・グリーナヴァルド

メゾ・ソプラノ:ロバータ・アレクサンダー

テノール:アンソニー・グリフィー

合唱:東京藝術大学(合唱指揮:ジョン・オリバー、田中信昭)

児童合唱:東京少年少女合唱隊(合唱指導:長谷川冴子)

 

 公演を終えて、思わぬ人が、舞台袖の僕らのところに現れた。小澤征爾さんだ。その日、たまたま客席で聴いていたのだ。そして、あまりに合唱が素晴らしかったので、興奮して舞台袖まで飛んできて、その感動を僕らに熱く語ってくれたのだった。

 ・・・この時の出会いが、小澤征爾さんが2002年のシーズンからウィーン国立歌劇場の音楽監督を務めるにあたり、オペラを通して若手音楽家を育てようと、2000年に設立したプロジェクト「小澤征爾音楽塾」へと繋がっていったのである。僕らは、その一期生として、創立から3年に渡ってプロジェクトに参加し、世界一流の歌手や演出家などを揃えた本物のオペラを、一から勉強させていただいたのだ。

 

 すこし脱線してしまったが、僕はいま、ブリテンを、生身の人間のように、とても近しく感じることができる。それは、もちろん、ブリテンを探しに、イギリスへ渡った経験からである。

 2011年8月、向井くんがブリテンの研究のために、ブリテンの家「レッドハウス」のある「オールドバラ」に長期滞在していた時、僕は彼を訪ねて、遊びにいったことがあった。ロンドンから、電車とバスを乗り継いで辿り着いたひなびた漁村。・・・そこには、ブリテンを感じるあらゆるものがあった。ひと夏の賑わいを見せる通りと礫の浜、使い古され役目を終えた漁船、自由を勝ち取ったかのようなカモメたち、荒々しい黒い海に吹き荒れる風、堰を切ったように打たれる教会の鐘の音・・・。彼はここを愛し、生涯離れることがなかった。

 そう、いまも、彼はそこに眠っている。親友のピアーズと共に・・・。彼らの墓は、墓地の奥にひっそりと、寄り添うように並んでいる。僕らは、まるで「かくれんぼ」のように、彼らの墓を探した・・・。大きな木の下で、ようやく彼らを探し当てた時、僕はほほ笑ましく思った。彼らの墓標は、すこし内側に傾いていて、まるで肩と肩を寄せあっているように見えたからだ。僕はそこでドキリとした。ブリテンの亡くなった年号「1976」が刻まれてあった。それが妙に浮き立って見え、何かを訴えているようであった。僕らの生まれ年「1977」と、何か関係があるように思えた・・・。

 

・・・つづく・・・

 

by.初谷敬史

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