■「第3回紅白歌合戦~Tokyo Cantat 2017 オープニング・コンサート」
【日時】4月29日(土・祝)開演16:00
【会場】すみだトリフォニーホール・大ホール
【出演】☆紅組司会:竹下景子、白組司会:辰巳琢郎
    ☆特別ゲスト
    ・「六本木男声合唱団 ZIG-ZAG」(指揮:初谷敬史、ピアノ:岩井美貴)
       三枝成彰:男声合唱と管弦楽のための『最後の手紙~The Last Messege』より
    ・「神楽坂女声合唱団」(指揮:辻志朗、ピアノ:黒尾友美子)
       青島広志(編):女声合唱曲「ファンタジー・ワールド」より
【お問い合わせ】Tokyo Cantat 事務局:03-3985-0405
【ホームページ】http://www.ongakuju.com/t-cantat

■「志木第九の会 第18回定期演奏会」
【日時】5月14日(日)プレトーク13:30 開演14:00
【会場】和光市民文化センター・サンアゼリア大ホール
【曲目】ハイドン:オラトリオ『四季』
【出演】ソプラノ:黒澤明子、テノール:升島唯博、バス:大森いちえい
    管弦楽:「東京ニューシティ管弦楽団」
    合唱:「志木第九の会」(合唱指導:高橋淳、初鹿野剛、初谷敬史、高橋ちはる)
    指揮・プレトーク:三澤洋史

■Hakuju Hall主催「大萩康司プロデュース ギターと声 Vol.3」
【日時】5月27日(土)開演17:00
【会場】Hakuju Hall
【出演】大萩康司(ギター)、声楽アンサンブル「ヴォクスマーナ」
【曲目】・権代敦彦(b.1965):
      「AMORS~愛と死の歌 」ギターと声楽アンサンブルのための op.156(新作・初演)
    ・カステルヌオーヴォ=テデスコ(1895-1968):
      ロマンセロ・ヒターノ op.152(1951) ほか
【チケット】全席指定4,500円
【お問い合わせ】Hakuju Hall チケットセンター:03-5478-8700
【Hakuju Hallホームページ】http://www.hakujuhall.jp/syusai/94.html
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2017-04-25 12:25:59

クェゼリン慰霊の旅・9

テーマ:ブログ

(承前)

 

 「マーシャル諸島」・・・ここはやはり、日本人が忘れてはいけない国のひとつだと思う。なぜならば、日本人が多くここで死んだ・・・という前に、多くの日本人がここで暮らしていた・・・からである。

 みなさんは、この歌をご存知だろうか・・・。

 

一、私のラバさん 酋長の娘 

  色は黒いが 南洋じゃ美人

二、赤道直下 マーシャル群島

  ヤシの木陰で テクテク踊る

三、踊れ踊れ どぶろくのんで

  明日は嬉しい 首の祭り

四、踊れ踊れ 踊らぬものに

  誰がお嫁に 行くものか

五、きのう浜でみた 酋長の娘

  きょうはバナナの 木陰でねむる

(作詩・作曲:石田一松『酋長の娘』 昭和5年)

 

 僕はこの歌をまったく知らなかったが、マーシャル諸島へ向かう飛行機の中で、僕と同じ栃木県出身のロクダンのメンバーから教わった。・・・昔、お母さまが歌っていたのを聴いていて、とても印象に残っているのだそうだ。今回、慰霊ツアーの計画が持ち上がった時、「マーシャル」という言葉を聞いて、ふと、この歌を思い出した・・・と、僕に懐かしそうに話してくれた。

 「ラバさん」「酋長」「南洋」「首の祭り」「バナナ」・・・など、何とも想像を掻き立てる歌詞であるし、四拍子と三拍子が入り交じった節は、異国情緒たっぷりで、どこかウキウキする気持ちになる。(「ラバ」とは「Lover(恋人)」の意。「酋長」は現在、差別表現とされている。)

 ・・・この楽しげな大衆歌謡のヒットによって、当時、「マーシャル群島」の名が、一気に日本全国へと広まっていったようだ。

 

 しかし、現代日本人である僕たちにとって、この国はまったく馴染みがない。それもそのはずである。スマートフォンでGoogleマップを見てみても、ワードを入れて検索しなければ容易に探すことができないだろう。国土の広いアメリカや中国ならばひと目で分かるものの、グアムとハワイの間に位置するミクロネシアの国「マーシャル諸島」は、中西部太平洋に浮かぶ群島であり、ひとつひとつの島や環礁(29の環礁と5つの島)が、あまりに小さすぎる。たとえ、Googleマップを拡大して環礁の詳細が分かったとしても、俯瞰しようと縮小してしまうと、島は海に呑まれ、すぐに消えてしまうのだ。

 だから、現在、政治や経済的な結びつきがなかったとしたら、地理的な意味において、僕たち日本人の意識から完全に外れてしまっている国・・・だと言える。

 

 ・・・まさか僕も、生涯において、マーシャル諸島に行くとは、微塵も思っていなかった。

 僕は地図を見るのが好きで、幼い頃、よく地球儀をぐるぐる回したものだが、太平洋はどこまでも広く、そして青く、子どもの想像を遥かに超えるものだった。自分の住む日本列島は「赤色」だったので、「戦隊モノ」のリーダー「レッド」の影響かどうか分からないが、日本はやはり世界の中心だと思った。(どうみても、ほかの国よりは小さく、大陸からすれば辺境の地のような気もしたが、とにかく「赤色」だったので、世界のリーダーだと思っていた。)しかし、太平洋に浮かぶ島々は何色でもなかった。色など判別できないほど、島々は小さい。名前を知っているハワイと、それ以外の名もなき島・・・。それは、どこの国でもない、未開の地・・・とさえ思っていた。

 ・・・しかし、何か不思議な力・・・によって、僕と南洋の島々は結ばれた。・・・ここはかつて、日本と同じ「赤色」で塗られていた。そう、驚くべきことに、日本の「植民地」だったのである。

 

 この話をするには、「列強」などという散切り頭を叩いていた頃・・・の、古めかしい言葉を持ち出さなければならない。

 ・・・明治の初頭、世界から出遅れた日本は、西欧の列強諸国に、はやく肩を並べなければならなかった。なぜなら、「開国」の際、列強諸国によって「不平等条約」を押し付けられてしまったからである。これは、国家の主権そのものが侵害される内容で、国の独立を保つために、改正が急がれた。

 そうしなければ、これまでアジアを政治・文化の面で支配してきた大国「清」が、列強諸国によって半植民地化されてしまったのと同じように、日本も領土を分割され、植民地とされてしまう恐れがあったのである。それを脱するには、国内の「攘夷運動」を活発化させ、中国を中心とする旧来のアジアにおける「華夷秩序」(朝貢体制)から逸脱した新たなアジアの盟主となるべく、アジア初の特別な「文明国」として西欧諸国にアピールし、そして、自らが列強に並ぶ「帝国」として、西洋風の強大な軍事力をもって、アジアに「植民地」を持つしか方法はなかった。

 ・・・帝国主義の流れに、日本は巻き込まれていってしまったのだ。

 

 明治政府は「文明国」となるべく、西洋化を急いだ。例えば、男子の誇りであった古来よりの「ちょんまげ」は、1871年(明治4年)に「散髪脱刀令」の発布により、髪型が自由とされた。しかし、髷は風習であったし、大切なその人を判断する価値基準でもあったので、なかなか髷を落とすことができなかった。しかし、明治天皇が自ら髷を切り落としたことで、西洋風の「散切り頭」が流行したのだという。アメリカやヨーロッパ諸国に派遣された岩倉具視も、和服姿で髷を結った出でたちであったが、西欧人に「未開」で「野蛮」と思われて対等な関係を築くことができなかったので、途中でやむなく断髪した。

 文化だけでなく、政府そのものを見ても、まだ薩長藩閥だけで国政を担っていた時代であって、民主主義国家の基本である「国会」でさえ開設されていなかったところからのスタートだったのである。

 

 このように「文明国」となるべく、国内で着々と改革を進める一方、列強に並ぶ「帝国」となるべく、国外へと目を向けていった。当時、ある国家がほかの国家や人民に対して支配を拡大しようとする「帝国主義」の時代であったので、当然、日本もそう考えたのである。手始めに隣国であった朝鮮半島へ勢力を拡大しようと努め、戦争へとまっしぐらに突き進んでいったのである。

 その朝鮮半島の権益をめぐって、1894〜1895年(明治27〜28年)に起こったのが海外初の近代的戦争となった「日清戦争」だった。それに勝利した日本は、10年後の1904〜1905年(明治37〜38年)、大帝国であったロシアと「日露戦争」をはじめる。またもやこれに勝利し、日本は着実に列強の仲間入りを果たしていったのだった。

 

 こうした国内外での「不平等条約」打開のための努力が続けられていく中、力をつけた日本は、意図的だったかどうかは分からないが、次第にもっと大きな戦争の渦へと入り込んでしまうのである。日本軍が中国大陸や朝鮮半島だけでなく、太平洋に目を向け、「マーシャル諸島」を占領したのは、大正時代のことであった。

 「日露戦争」の10年後(なぜか日本は10年置きに戦争をしていた)、1914年(大正3年)7月に、ヨーロッパではじまった「第一次世界大戦」の最中、日本は「日英同盟」を理由に、ドイツに宣戦布告をした。そして、同年9月から10月という非常に短期間で、ドイツ領であった赤道以北のミクロネシア地域「マリアナ」「パラオ」「カロリン(ミクロネシア連邦)」「マーシャル」を占領してしまう。・・・ヨーロッパでの戦争に手一杯だったためか、ドイツ軍の抵抗はまったくなく、無血占領であったという。

 ではなぜ、日本は遠いヨーロッパで起こっている戦争に参戦し、ドイツ領を占領しなければならなかったのであろうか・・・。

 

 名目上は、同盟国であるイギリスが、ヨーロッパにおいて、安心してドイツ・オーストリアと戦えるように、太平洋のドイツ領「ミクロネシア地域」、そして中国「山東半島」を占領し、背後から援護しよう・・・ということだった。しかしこれは、日本が都合良く言ったにすぎないだろう。

 当時の日本の立ち位置を考えるならば、「本土防衛」の観点から、「日本の隣国はどこか・・・」ということが問題になる。これまでの歴史を振り返れば、それは当然、大陸と陸続きである「朝鮮半島」であった。

 

 朝鮮半島と日本との歴史問題は、根が深い・・・。隣りの国や家ほど仲が悪い・・・というのは本当である。能力や財力の差が歴然であれば、ライバル意識は芽生えず、さほど気にしないのかもしれないが・・・、そもそも価値観が違うのだから、お互いにそれを尊重し、大きな懐で思いやりを持って温かく見守り、干渉せず、本当に困った時は助けの手を差し伸べるだけの度量を持ち、普段は微笑んで挨拶を交わしあえばいい話である。

 しかし、西欧諸国に出遅れた日本は、あろうことか、列強が日本にしたと同じように、新たに導入した西洋式の軍艦や兵器を以て、軍事的近代化の遅れた李王朝「朝鮮」に開国を迫り、1876年(明治9年)、不平等条約である「日朝修好条規」を強要し、締結させてしまったのである。それは「領事裁判権」を認めさせ、「関税自主権」を奪うものであった。・・・そうした中、朝鮮政府の舵取りは、これまでの「華夷秩序」の通り、中国の影響下に入ろうか、新たに日本に着こうか揺れていた。

 なぜ、日本にとって「朝鮮半島」が重要なのか・・・。それは、島国である日本にとって、「大陸」とはユーラシア大陸のことであり、そこには、大国「清」があって、更に北には、もっと強大な「ロシア」があった。・・・歴史の教科書に載っていた日清戦争の頃の風刺画「魚釣り遊び」(フランス人 ビゴー筆)で、魚(朝鮮)を釣り上げようとする日本と清国、横取りをたくらんでいるロシアの構図は、特に印象に残っている。

 特にロシアは、「東の凍らない港」を欲して「南下政策」を推し進め、次第に朝鮮半島に迫ってくる。大量の武器や兵士を、モスクワから輸送することのできる「シベリア鉄道」が、極東のウラジオストクまで開通するのも、時間の問題となった。

 清国は、「日清戦争」の敗戦後、古代より続いてきた東アジアでの権威を完全に失い、代わりに列強諸国によって分割(瓜分)され、半植民地化された。・・・当時の日本にしてみたら、距離的に遠いはずのヨーロッパの脅威が、すぐ目の前までやってきたような感覚であったろう。この「瓜分」の中で、一番日本列島に近い地域を獲得していたのがドイツであった。

 こうした激動する中国大陸と日本とのちょうど中間にある朝鮮半島は、日本の防衛上、とても重要な位置にあり、朝鮮は日本にとって「味方」、もしくは「中立」の立場でなければならなかった。それと同時に、中国大陸におけるドイツ領「山東半島」を獲得することは、とても日本にとって意味があった。

 

 それと、この時期、もうひとつ新たな脅威が反対側から生じてくる。つまり、太平洋を隔てた隣国「アメリカ」であった・・・。

 アメリカは当時、「あまり植民地を持たない国」であったが、1898年(明治26年)のスペインとの戦争「米西戦争」に勝利し、その代償として、「フィリピン」と「グアム」を獲得していた。・・・日本ヘは、もう目と鼻の先である。「ペリー来航」以来、またもや、お互いに意識しあい、太平洋を挟んで両国間に緊張が走ることとなる・・・。

 日本が(曲がりなりにも)初めて欧米諸国に勝利した「日露戦争」(1904〜1905年)が終わってすぐ、1907年(明治40年)に、アメリカで「ウォー・スケア(戦争恐怖)」というものが起こったのだという。それは、「日本人が海を越えて攻めてくるのではないか・・・」という根拠のない恐れだった。・・・これは、これまで、東洋人である日本人を、どこか卑下し、差別してきたという無意識から生まれてきたものであったという。(「関東大震災」において、日本人が朝鮮人を大虐殺した心理と同じもの・・・と言えよう。)

 それに対し、日本が大国アメリカとの戦争を考えた場合、日本本土の安全保障上、ドイツの植民地であった「ミクロネシア地域」を、どうしても支配しておかなければならなかった。

 

 ・・・日本列島をぐるりと見渡した時、「たまたま」、ドイツ領が回りにあったのである。

 こうしたことを理由に、「第一次世界大戦」で日本がイギリスに味方し、ドイツと戦争することは好都合であったと言えよう。そして、ヨーロッパが血みどろの戦いをしている最中、日本はどさくさにまぎれて、漁夫の利のごとく、中国大陸や南洋諸島において、植民地を確実に獲得していったのである。

 

・・・つづく・・・

 

by.初谷敬史

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2017-04-25 11:51:51

クェゼリン慰霊の旅・8

テーマ:ブログ

(承前)

 

 コスラエの滞在時間は約1時間。出発時間になったので、ターミナル・ビルから飛行機に歩いて向かう途中、ロビーの子どもたちに、手を振って別れを告げた。みんな、通り過ぎるだけの短期滞在者である僕に、笑顔で手を振りかえしてくれた。そして、飛行機に乗り込んでよくよく見回してみると、花冠を誇らしく被った島民がたくさん乗っていた。

 ・・・さあ、目的地「クェゼリン島」まで、最後の滑走だ。ここから約1時間のフライトである。僕はどこか意気揚揚。コスラエに立ち寄って、ミクロネシアという土地が、ずっと近づいたように思えたからだろう・・・。

 ターミナル・ビルに1時間の滞在では何も分かったことにならないが、僕はここに、たくさんのこころ優しい人びとが住んでいる・・・ということを感じることができた。・・・彼らは、この島がある限り、この島と共に生きていき、愛する家族や大切にして、かけがえのない自然や命の尊い絆を、明日へと繋いでいくのである。

 

 座席に腰掛けると、不思議な安心感があった・・・。なぜなら、僕と機長は、楽しみにしていた「みかん」を食べられなかった「よしみ」であるのだから・・・。お札のたくさん入った財布をポケットから出して、とても残念そうにしている機長の顔を思い浮かべると、僕は可笑しくて、吹き出しそうになった。

 そんなことを考えながら、僕はようやく、日本から持ってきた「煎餅」と「パン」を、リュックから取り出してみることにした。すこし旅に慣れてきたのだろうか・・・、急にお腹がすいてきたような気がした。今朝は、グアムの空港で、「鮭のおにぎり」と「味噌スープ」、昼食は、貧相な「サンドイッチ」の機内食。僕はまた上空で寝てしまう前に、腹ごしらえをしておこうと考えたのだ。

 ・・・いや、この「食欲」の感覚は、もしかしたら、非常事態における無意識の判断なのかもしれない。この疲弊した身体では、クェゼリンに入ることはできない。だから、クェゼリンに入る前に、すこしでも体力を付けておかなければならないのだ。

 適度な食事と睡眠は、人間にとって、とても重要な要素である。ましてや、「慰霊」という目的がはっきりしているのだ。僕は、戦地へ向かう兵士のような心づもりで、この飛行機に乗り込んでいる。だから、慰霊「献歌」を全力で行えるように、自らのピークをクェゼリンにもっていくことができるように判断したのかもしれない。

 

 ・・・しかし、ミクロネシアの島を点々としているうちに、三半規管が麻痺してしまったのだろうか・・・、時間と距離、空間の感覚が、ずいぶん崩れてしまっていた。コスラエ空港の滑走路上で見るセブンイレブンの「塩揚げ餅」も「いちごのジャムパン」も「バターレーズンロール」も、パッケージや形状、色彩、感触からして、まるで、どこか別の惑星の食べ物であるかのように思われた。すべてがあまりに人工的過ぎて、健康な人が口にする食物ではないように感じられたのである。

 ポンペイやコスラエの空港の売店で見た「手作り弁当」や「手作りお菓子」など、その時はどうみても美味しそうに見えなかったが、それら素材そのものの簡素な色彩や形状などが、無意識のうちに僕の脳や感覚を教化してしまったのかもしれない。そして、決定的だったのは、口にすることのできなかったコスラエみかん「タンジェリン」である。その酸っぱさと素朴な甘さを想像すると、もう身体全体――唇や歯、味覚を司る舌や鼻、食道や胃、腸のひだ、直腸や肛門までもが・・・、いやもっと、意志をもった細胞のレベルにおいても、その野生の味、生の味、土の味、風の味、光り味、潮の味のすべてを味わい尽くしたいと、枯渇した砂漠の砂が水を求めるように、自ずと求めてしまう・・・。

 ・・・よくもいままで、こんなけばけばしいものを食べていたものだ。僕はしみじみとそう思った。すっかり南洋の人になってしまったかのような気持ちになって、僕は科学的な味のするそれらを、しぶしぶ口に運んだ・・・。

 

 勢いよく離陸するとすぐに、窓の外に美しい景色が広がった。人の手が入っていない森が海まで迫り、サンゴ礁のエメラルドの周りに白波が立っていた。・・・しかし、この島を印象づけているのは、やはり切り立った峰であろう。折れ線グラフのような尾根は、複雑な高低の推移を示すように幾重にも連なっている。そして、無数の山頂は、競って空を目指していた。

 ・・・万物にとって、空は憧れである。輝くばかりの光、透きとおる青、風と鳥の自由・・・。それぞれの峰は、白く大きな雲を従えている。これは山の性だ。山はいよいよ隆起し、雲を越えようと努力する。石のようにとても静かに、そして、時に火のように荒々しく、山は空を求め続けている・・・。

 ・・・到着した時に、霧のように見えたのは雲だったようだ。南の島では、雲がとても低い。それは、出来たばかりの赤ちゃん雲だからだ。・・・飛行機は一気に高度を上げ、さまざまな雲の層を越えていく。下方の乱れた雲は、次第に整った雲へと変化していく。生成の過程で、漫然と拡散していたものが、ある同じ性質を拠り所にして次第に集まり、雲として完全な形、安定した関係を目指すのだ。(・・・「諸行無常」の典型としての雲は、形なく流れていくだけの存在であるが、それぞれはやはり、「完全さ」を目指しているが故の「不完全さ」なのだ。しかし、不完全だからこそ、完全を目指せるのである。それは、アメーバが「円」になろうと努力するのと、人間が「悟り」を得たいと努力しているのと同じことだ。)

 いよいよ1万メートルの高度に達すると、気流が落ち着き、安定した雲が横一列に並んでいた。・・・そこには、「単純」で「明快」な世界があった。何もかもから解放されて、地上よりもずっと爽やかであった。・・・文明を離れた暮らし。・・・池澤夏樹の処女作、小説『夏の朝の成層圏』(1984)。

 

 

 彼はかつて、マーシャル諸島で理想の夢を見た・・・。・・・それは、現代のロビンソン・クルーソーのような生活者になるために。

 彼が書き溜めた詩集『塩の道』の物語――船から南洋の海に落ち、一度は死にかけた青年が無人島に漂着し、原始の生活をおくる――は、この小説に結実した。・・・「人」と「自然」、「文明」と「原始」、自分の「外側の世界」と「内側の世界」の関係。青年はその狭間で生き、一見、成功したかに見えた――「ここで暮らすのは、まるで地上を離れて高い空の上で、成層圏で暮らすようなものだった。暑い、さわやかな、成層圏だ・・・」。・・・しかし、彼は「恐ろしい夢」によって、思い描いていた理想が打ち砕け、瞬間、すべてを悟ったのだった。ここは、「自分」に代表される「文明」の力によって、すべてが破壊されてしまった・・・ということを。

 

 僕が「マーシャル諸島」、そして「クェゼリン島」を知ったのは、この小説を読んだのがきっかけだった。・・・この本はまるで、マーシャル諸島の「ガイドブック」のような存在であると思う。

 例えば、小説の中で、主人公の青年が漂着し、彼によって名付けられた環礁内の架空の島「アサ島」、そして順に「ヒル島」「ユウ島」が登場するが、正に、マーシャル諸島の島の命名にふさわしい。マーシャル諸島は、29の環礁と5つの島が、南北に2列に連なって並んでいる。東の列は「ラタック(日の出)列島」、西の列は「ラリック(日の入)列島」と呼ばれている。ちなみに、首都マジュロのあるマジュロ環礁は、「ラタック列島」にあり、クェゼリン環礁やビキニ環礁は、「ラリック列島」にある。

 ・・・太陽や月、星や星座といった天体の動きを把握することは、古来よりマーシャルの人びとにとって、欠かせないものだった。羅針盤をもたない彼らが、カヌーで環礁を行き来する時、肉眼で島影を見ながら航海する「沿岸航法」ならば問題ないが、何十キロも離れた海上を渡っていく「外洋航海」をするためには、天体の動きを把握することが、とても重要だったのだ。(マーシャル諸島では古来より、星座コンパスのほかに、潮の流れや波のうねりを表した伝統的な海図も使われていたという。)

 したがって、日の出と日の入りの方角は、カヌー生活の中から自然に生まれた名前なのである。(ちなみに、日付変更線のすぐ西に位置するマーシャル諸島は、世界のどこよりも早く、朝を迎える。もし、日本史上に、「遣隋使」ならぬ「遣麻(馬)使」があったとするならば、聖徳太子は、マーシャル諸島の大酋長に対して、「日没する処の天子、書を日出づる処の天子に致す」と国書を送ったことだろう。笑)

 また、小説における青年の島での暮らしの記述は、マーシャル諸島の「風土」を知る上で、正確で、より明確なイメージを僕らに与えてくれる。・・・環礁の穏やかな風景、激しいスコールや空気感、多様な植物や動物・魚たち、椰子やバナナ、パンノキ、タロ芋といった食文化、土地所有の原則、カヌーとラグーン、精霊との交信・・・。

 そして何よりも、マーシャル諸島が背負わされてきた歴史問題だ。アメリカ軍の「ミサイル実験」に伴う強制移住、「原水爆実験」による被爆と永久的な強制移住、静岡県焼津港のマグロ遠洋漁船の被爆・・・。・・・このように、池澤は、自らの創作の原点である「現代日本社会への痛烈な批判」を、小説にしたためたのだった。

 

 ・・・僕にマーシャル諸島を、教えてくれたのは池澤だった。そして、僕をマーシャル諸島に引き寄せたのも、間違いなく池澤だった。

 

・・・つづく・・・

 

by.初谷敬史

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2017-03-23 03:04:15

クェゼリン慰霊の旅・7

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(承前)

 

 ポンペイ国際空港の待合室は、いくつかの棟に分かれており、無機質で粗雑な雰囲気のメインのロビーと、奥のゆったりしたログハウス風のロビー、そして独立した喫茶室があった。喫茶室には、民芸品や手作り弁当、スナック菓子、カップラーメンなどが売られていた。ある旅人は、カップラーメンにポットからお湯を注ぎ、ある旅人は、椅子に座って荷物を降ろし、ペットボトルの水を飲んでいた。

 約1時間、特に何もすることがなく、僕らはこのターミナル・ビルで待機し、また同じ飛行機に乗り込んだ。

 

 

 離陸すると、ポンペイ島は美しいサンゴ礁に囲まれている「裾礁」であることが分かった。何万年も経つとこの島は海底へと沈んでいき、チューク諸島のように「堡礁」になり、やがて、美しいまでの完璧な「環礁」になるのだ・・・。僕の死んだずっとずっと後に・・・。

 ・・・僕は、池澤夏樹の詩集『塩の道』の「環礁」の一節を思い出していた――「沈船は身の内に錆を養うばかり 船艙の暗い一隅にまんまとかくれて ゆっくり揺れている幸福な死体・・・」。・・・いったい、死体の主は何者なのか・・・。文明によって殺された島民なのか、それとも死んだ日本兵か・・・。なぜ、死体は幸福なのか・・・。幸福なまま死んだのか・・・。それとも、現在の状態が幸福なのか・・・。まさか、平穏な海底に溺れる死体は、魚と共に、夢を永遠に見続けるとでもいうのだろうか・・・。揺れている。揺れている・・・。

 ・・・僕はまた、1時間の深い眠りに入ったようだった。

 

 

 ・・・どちらにしても、ここでたくさんの人が死んだことは間違いない。

 日本による委任統治の時代を経て、太平洋戦争がはじまると、「チューク諸島」「ポンペイ島」「コスラエ島」「ヤップ島」といったミクロネシアの島々に、「植民地防衛」のため、日本兵がたくさん送り込まれた。そしてそれは、「本土防衛」に直接繋がるものだった。ここが落ちれば、次は本土が攻められる・・・。だから、彼らは与えられた島を、ぜったいに死守しなければならなかった。彼らが公に発言するとすれば、「神の国」を穢されることは許されなかった・・・と言うだろうし、ごく個人的に語れば、ふるさとの父母を、この手にかけて、どうしても護らなければならなかったのである。

 

 両軍初の陸上戦となった「ガダルカナル」に勝利したアメリカ軍は、二手に分かれて、いよいよ日本本土を目指す。一方は、パプアニューギニアからフィリピンを辿る左回りの北上ルート。もう一方は、ギルバート諸島から島伝いにマーシャル諸島・ミクロネシアと辿り、グアム・サイパンを目指す右回りの北上ルート。

 中部太平洋を横断する右回りの北上ルートは、「飛び石作戦」という戦法がとられた。(奇しくもこの作戦は、グアム・ハワイ間を往復する便と同じく、アメリカ軍に「アイランド・ホッパー」と呼ばれている。)この作戦は、それぞれの島をしらみつぶしに攻撃するのではなく、ある時は素通りして、兵力を温存する形で軍を先へ進められた。

 ・・・しかし、これには日本軍は、拍子抜けだった。ミクロネシアの各島を死守すべく、島を堅固に要塞化して、敵を待ち構えていたのである。アメリカ軍の圧倒的な艦砲射撃、陸上部隊上陸時の激しい水際作戦、そして洞窟やトーチカを利用した日本軍の得意とする持久戦・・・を覚悟し、それに備えていたからだ。

 アメリカ軍は、この作戦によって無駄に戦力を消耗することなく、グアム・サイパンを最短で目指したのである。

 

 ミクロネシア地域は、ほとんど地上戦が行われなかったそうだ。その代わり、圧倒的なアメリカの航空戦力をもって、激しい空襲が行われた。トラック島にも、ポナペ島にも、クサイ島にも・・・。

 この戦いで、日本の輸送船は、アメリカ軍の潜水艦や航空戦力によって、次々と撃沈された。これによって、島に駐留していた日本兵は、完全に食糧や物資の輸送を遮断されてしまう。こうして、ほかの島から完全に孤立した彼らの多くは、終戦を待たず、餓死することとなってしまったという。

 ・・・いまでも、島の周りには爆撃を受けた多くの船(軍艦はもちろんのこと民間の輸送船も)が沈没したままになっており、戦車や高射砲は、それを操る主を失ってそのまま山に放置され、軍服や銃を身につけた遺骨は、ジャングルに置き去りになっている・・・。・・・僕は、『TIO’S ISLAND』(写真:竹沢うるま、物語:池澤夏樹)の「海の向こうに帰った兵士たち」を読み返す度に、彼らの想い――還りたかったけど、還れなかった・・・――を、けっして忘れてはいけない・・・と、改めてこころに刻み直すのである。

 

 ・・・またもや、大きなバウンドの衝撃と急ブレーキに叩き起こされた。もうそれは、驚きや恐怖や疑問を通り越して、僕らの日常になっていた。きっと、パイロットは、とても優秀なのだ。彼は雨の日も風の日も、週に3回もここを往復しているのだから・・・。・・・いや、これは、一種の儀式に違いない。この衝撃の洗礼を受けることなしに、外部からの侵入者が、島へ入ることは許されないのだろう。・・・僕らはこの衝撃とともに、この島のことを深く記憶する。・・・そう考えれば、この儀式も悪くないと思えてくる。

 窓の外を見ると、切り立った山が霧をまとって頭を覗かせており、それによって、島の神秘的な雰囲気が演出されていた。

 ミクロネシア連邦「コスラエ島」(旧称「クサイ島」)の「コスラエ国際空港」に降り立った。僕らは例によって、手荷物をもって飛行機を降りた。

 

 

 朱色の二段屋根を真ん中に一段屋根が左右に対をなす小さなターミナル・ビルへと向かった。近づいてみると、二段屋根の建物には壁がなく、空港の外から入れる総合ロビーになっているのだろう。そこで、島の子どもたちが色とりどりのTシャツをきて、こちらを見ていた。幾人かの子どもたちは、コンクリートの仕切り壁の上に元気に座っていて、ビーチ・サンダルをブラブラしている。そして、めいめいにこちらに手を振ったり、笑ったり、友だちとおしゃべりしたり、まるで、お祭りのような賑わいだった。

 ・・・彼らが待っているのは、一体誰だろう。島に還ってくる人、島を離れる人、そして通過するだけの旅人たち・・・。

 

 

 そういえば、飛行機の中で、ひとつ気になったことがある。・・・ミクロネシア人と思われる人びとが、頭に「花冠」をのせていたのだ。男も女も、老いも若きも一様に・・・。

 草花の種類や組み合わせ、そして編み方など、それぞれ個性があり、それらは、本当に美しいものだった。きっと家族や村人たちから、「はなむけ」として贈られたものなのだろう。彼らは花冠を、とても誇らしく頭にのせている。・・・けれど、それを機内で被っていると、本当は厄介であろう。まず、座席の背もたれに、頭をもたれさせることができないし、茎や葉っぱなどですこしチクチクして、時おり頭を掻いたりもしている。しかし、それでも彼らは、花冠を取らずにいる。

 

 ・・・僕は、機内で花冠を大切に被っている島民の様子と、空港で大切な人を見送ったり、そして、今か今かと還りを待ちかまえたりしている子どもたちの嬉しそうな笑顔が、重なって思えてきた。彼らは、同じ気持ちを共有しているのだろう・・・。

 ・・・島では、人は、自らの自由や個人的な幸福を追求する一個人である前に、家族や集落といった共同体の一部として生きているのだろう。共同体では、個人の幸福よりも、全体の幸福が優先される。共同体における全体の幸福とは、共同体の維持と繁栄である。その共同体の意志が、世界とどのような関係をもってくるのか・・・ということになると、とても複雑になってくるが、単に、島の共同体そのものを見たならば、僕たち現代人が忘れかけている生活が、まだここにある・・・と言えるだろう。

 かつて、ここにやってきた日本人も、彼らと同じだったと思うのだ。だから、彼らは、ふるさとに還らなければならなかった。・・・なぜ、いまも、海の中で死体がゆらゆら揺れていなければならないのか・・・。なぜ、いまも、ジャングルの中を魂がさまよい続けていなければならないのか・・・。

 

 コスラエ国際空港の待合室は、これまでの空港以上に小さく、簡素だった。・・・僕は待合室の売店へ急いだ。コスラエの名物「タンジェリン」を食べてみたかったからだ。

 しかし、売店には、赤い布の上に、平べったい形や餃子の形をしたパイ包みのお菓子、饅頭やかりんとうのような手作りお菓子が並んでいるだけだった。僕は、花飾りを頭につけた売店の女性に聞いてみようと思ったが、先客であるパイロットも、財布を片手にとても残念がっている・・・。優秀なアメリカ人パイロットも手に入れることができないのだから、仕方がない・・・。

 お菓子の並んだテーブルの下のブリキのゴミ箱に目をやると、食べ残しの緑色の皮が捨てられていた。「タンジェリン」とは、緑色の皮をした「みかん」のことで、委任統治時代に、なんと、鹿児島の人が持ち込んだものだそうだ。皮がゴミ箱に捨てられているということは・・・、帰りにもう一度、チャンスがある・・・。

 

 

・・・つづく・・・

 

by.初谷敬史

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2017-03-23 02:54:17

クェゼリン慰霊の旅・6

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(承前)

 

 

 ・・・僕は初めて見る環礁を見ながら、またすぐに眠ってしまったのだろう。あの愉快で不思議な夢を思い描きながら・・・。そう、僕をここ「南洋」へと導き、結びつけたのは誰でもない。・・・池澤夏樹である。

 

 2014年、「足利市民合唱団」のコンサートで、木下牧子作曲の混声合唱組曲『ティオの夜の旅』を取りあげたことがある。作曲された5つの詩「祝福」「海神」「環礁」「ローラビーチ」「ティオの夜の旅」は、池澤夏樹(1945年〜)の青春の結晶である詩集『塩の道』(1978年)から選択されたものである。

 詩集のあとがきを読むと、この19篇の連作詩には、それぞれ独立しながら、全体としてひとつの物語――「一人の青年が都会から海辺へ出ていって、南洋の島々へ渡り、何かを探して島から島をさまよい、どこかで溺死して、再生する物語・・・」を形成しているという。・・・この主人公は、池澤本人なのであろう。彼は実際に、幾度も南洋の島々を旅した。彼は「ある風土を描きたい」と思い、更に「それを物語にしたい」と考えていたようだ。

 ・・・僕はそのストーリを頼りに、ひとつひとつの詩を理解しようと試みたが、言葉の意味を繋ぎあわせてみても、はたして何を言わんとしているのか、正直さっぱり分からなかった。そこで、この世界観をもう少し勉強してみる必要があったので、手始めに、終曲のタイトルにある「ティオ」の名が付けられた、池澤が児童向けに書いた連作短篇小説集『南の島のティオ』(1992)を読んでみることにした。

 

 ・・・サンゴ礁に囲まれた南の島で暮らす少年「ティオ」。自然豊かな島でのこころ豊かな生活・・・。草色の空に巨大なウミガメ、十字路に埋める宝物、天を支えていた木、カマイ婆の予言、勝手に動き出す小さな戦車・・・。

 島で生きていくことは、都会の生活とはまったく違うだろう。自然そのものやそこに住む精霊、魅惑的な魔法や先祖からの知恵・・・などと共に生きることである。もうすこし踏み込めば、外からやってくる「文明社会」と島本来の「原始生活」の間で暮らすこと・・・とも言える。古来よりの島の掟、「土地」や「酋長」を中心とした人間社会、ほかの島との交流(貢献・貿易・婚姻など)、新しい物、古くからの物、そして外から入ってくる者と出て行く者・・・。

 こうしたバランスをうまく保ちながら、少年ティオは懸命に生き、成長していく。・・・僕はティオの不思議な物語に、グイグイと引き込まれていった。・・・これはきっと、池澤オリジナルのファンタジーなのではない。彼が実際にどこかの島に行って、島で起こったことや島民に聞いた話からヒントを得て書かれたものにちがいない・・・――僕は、そう思った。もちろん、彼のロング・インタビュー『沖にむかって泳ぐ』(1994年、新井敏記・池澤夏樹)でも語っている――「自分の体験」を書いたヘミングウェイは「岸にそって泳ぐ」タイプ・・・、「失敗への勇気」を持つ池澤は「沖にむかって泳ぐ」タイプ・・・――ように、自らの実体験のみではなく、さまざまなイメージによって創作されたことは間違いないけれど・・・。

 僕は「ティオ」の本の見返しに、島の地図がイラストで書いてあったので、試しに世界地図で同じ形のものがないか、調べてみた。・・・すると、偶然にも、太平洋上に、そっくりな島が見つかったのだ――「ポンペイ島」。

 

 僕はそこに行ってみたい・・・と思った。すぐにインターネットで、ポンペイ島へ旅行することができるのかどうか調べてみた。すると、「アイランド・ホッパー」と呼ばれる飛行機の情報が見つかった。

 ・・・この島は、「ミクロネシア連邦」の首都のある島で、想像していたよりもずっと文明社会であるようだ。(物語で、少年ティオの親が経営するホテルも、ずっと近代的なのかもしれない・・・。)気候は海洋性の熱帯で、降水日がなんと300日・・・という、世界的でも屈指の多雨地域らしい。この辺りは、海水温が高いので、水蒸気をふくむ上昇気流がうまれると、それが風に乗って、島のほぼ中央にそびえるミクロネシアの最高峰「ナーナラウト山(大きな山の意)」(標高798メートル)にぶつかるのであろう。

 (・・・長年の僕の研究によると、日本にやってくる台風のほとんどは、ポンペイ近海で生まれている。なぜなら、島に「台風じいさん」が住んでいるからである。彼は嫌われもの高利貸しをしていて、島民ともめったに交じらない。だから、いつもひとりで、海沿いを散歩している。島民がじいさんのことを噂にすると、きまって、彼はくしゃみをする。・・・くしゃみは、ほんの小さな空気の渦をうむ。やがてそれは、台風へと成長するのである。笑)

 ほかのサイトでも、「せっかく行ったのに、雲が多かった・・・」との旅行者のコメントが載っており、僕は行くのを断念した。僕の思い描く南洋のイメージと違っていたからだ。(・・・ポンペイは、晴れていなければならなかった。なぜなら、南洋の青い空と青い海のステキな写真を撮りたかったからだ。そうして、足利市民合唱団のコンサートで『ティオの夜の旅』を演奏する時に、それらをバックに投影しようと考えていたのである。)

 

 ・・・僕のティオを巡る愉快な夢は、もう絶頂に達し、「紙飛行機を離陸させ、千年王国に君臨・・・」(終曲「ティオの夜の旅」の歌詞)するところまできていた。・・・その時、僕はふいに眼を覚ました。身の危険を感じたのだ・・・。窓の外を見ると、見覚えのある山――・・・「ソケース・ロック」だ。僕は急いでカメラを取り出し、シャッターを切った。しかし、次の瞬間、突然の衝撃と急ブレーキ。左右の揺れも、さっきよりもひどかった。僕は、またこれか・・・とばかり、ひとつ大きく唸り、愚痴を言う余裕はなかった。・・・それよりも、僕はあの岩山(『南の島のティオ』では「クランポク山」)と対面できたことに、幾分、興奮していた。

 

 

 飛行機はミクロネシア連邦の本島「ポンペイ島」(旧称「ポナペ島」)の「ポンペイ国際空港」に着陸した。僕は手荷物を持って、いそいそと飛行機を降り、一度見たらけっして忘れないあの不思議な岩山に挨拶した。きっと、ここにやって来た兵隊さんも、そうしたにちがいない・・・。・・・たしか、あそこには、日本軍が守っていた高射陣地があったはずだ。ここでも、あの忌まわしい戦争があったのだ・・・。たくさんの人が死に、たくさんの人が悲しんだ・・・。還りたくても還れない魂が、島中にたくさん残っている・・・。

 ・・・僕は急に現実に引き戻された気がして、雲を背にしたソケース・ロックを横目で見ながら、朱色の正四角すいの屋根がいくつも連なった小さなターミナル・ビルに入っていった。

 

・・・つづく・・・

 

by.初谷敬史

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2017-03-23 02:37:17

クェゼリン慰霊の旅・5

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(承前)

 

 ここから、島から島へ「飛び石」のように渡っていく「アイランド・ホッパー便」で、目的地マーシャル諸島「クェゼリン島」を目指す。この便は、グアムとハワイを各駅停車で結ぶ飛行機で、週に3回往復しているという。

 機内へと乗り込む。島をひとつずつ巡っていくと聞いたので、小さなプロペラ機を覚悟していたが、ユナイテッド航空の立派なジェット機だったので、すこし安心した。しかし、座席は満席で、とても息苦しく思えた。白人が4分の1、残りは、僕ら慰霊団と、まるまると太った浅黒いミクロネシアの人びとだった。

 ・・・次の空港、ミクロネシア連邦「チューク環礁(チューク諸島)」へは、約1時間のフライト。

 

 ・・・今朝はとても早かったので、飛行機がグアムを発ち、上空で安定する前に、僕は深い眠りに入ってしまったようだ。かつて、写真で見たあの雄大な光景――日本統治時代にトラック諸島の中心であった「夏島」(現在は「トノアス島」)の軍港に、誇らしげに並んで停泊する戦艦「大和」と「武蔵」の勇姿――を思い浮かべながら・・・。

 

 ・・・この環礁は、かつて日本人に「トラック諸島」と呼ばれていた島々で、日本の植民地だった。(後述するが、「南洋群島」がかつて日本の植民地だったことは、僕も含め、いまの日本人はみんな忘れてしまった・・・。)

 「第一次世界大戦」終結後の1919年(大正8年)、戦勝国であった日本は、「国際連盟」によって、ドイツの植民地だったミクロネシアの島々(北マリアナ諸島・パラオ・ミクロネシア連邦・マーシャル諸島)の委任統治を託された。その後、パラオのコロール島に置かれた「南洋庁」の支庁が、トラック諸島にも設置された。統治の仕方について、「ヴェルサイユ条約」によって武装化は禁止されていたというが、日本は、1933年(昭和8年)の国際連盟脱退を経て、1941年(昭和16年)から始まる「太平洋戦争」に突入すると、いよいよ、連合艦隊主力が進出し、トラック諸島は、太平洋における日本海軍の一大拠点となる。

 日本が、トラック諸島を重要な拠点としたのには理由がある。トラック諸島は、当時アメリカの植民地であった「フィリピン」と、アメリカ軍太平洋艦隊の母港であったハワイ「真珠湾」を東西に結ぶライン上に位置していたということ。そして、環礁の内海「ラグーン」が広大で、かつ水深も充分あったので、連合艦隊の停泊地として、絶好の条件を備えていたことが挙げられるだろう。

 

 

 ・・・「環礁」とは、なかなか聞き慣れぬ言葉だが、熱帯や亜熱帯の海域には、環礁と呼ばれる島々がたくさん存在する。環礁は、グアム島やサイパン島のようなひとつの大きな島と違い、その名の通り、サンゴ礁が堆積してできた小さな陸地「礁」が、ドーナツ型に「環」になって点在している地形である。「礁」は、ほとんど起伏のない真っ平らな土地で、平均海抜が数メートルであることが多い。(地球温暖化による海水面上昇が問題になっている。)

 環礁の形成は、とてもユニークである。・・・海底噴火によって、火山の頭が海面にひょっこりと顔を出す。そして、噴火を繰り返すうちに、陸地が徐々に形成されていく。島の周りには、サンゴ礁が生成され、次第に堆積していく。やがて、火山活動が終息し、地下のプレートが動いたりする地殻変動や海面上昇などで、中央にそびえる火山島が徐々に沈下し、水没していくと、周囲に堆積したサンゴ礁が、浮き上がってくるのである。サンゴ礁は、上へ上へと成長する性質がある。(火山が水没していく様子は、まるで熱いパイの上に、冷たいアイスクリームを乗せるも、すぐに跡形もなく溶けてなくなってしまったかのようであろう・・・。パイの縁だけが残り、一面、甘く白い海が広がっている。)

 

 礁の陸地は「外礁」と呼ばれ、防波堤となって、外洋と内洋を分けている。外洋は、「礁」が太平洋に対して縁のようにそそり立つ地形をしているので、波がとても荒々しい。一方、内洋は「礁湖」、もしくは「ラグーン」と呼ばれ、湖のように波もなくとても穏やかである。外海と内海とは、サンゴ礁の切れ間である「水道」で繋がっていて、船が往来することができる。・・・ミクロネシアの地域では、古くからカヌーを使用して、広範囲の島々を自由に往来し、交流していたと言われている。(マリアナ諸島の石柱群「ラッテ・ストーン遺跡」、巨大な石貨が無数に残るヤップ島、ポンペイ島の水の都「ナン・マトール遺跡」、そしてナン・マトール遺跡と多く類似するコスラエ島「レル遺跡」など、巨石文明が築かれていた。)

 

 チューク環礁は、東西60キロ、南北50キロ、周囲が200キロもある壮大な環礁で、環礁内に250の島がある。ここにはかつて、ひとつの大きな火山島があったが、長い年月をかけて沈下している最中なのであろう。これら250の島々は、その山並みの峰なのである。

 環礁は、その過程において、三つの呼び名がある。沖縄のように、島の周囲にサンゴ礁が取り巻いているものを「裾礁(きょしょう)」と呼び、島が沈下するのと同じくしてサンゴ礁が周囲に浮き上がり、島とサンゴ礁の間に礁湖(ラグーン)ができるものを「堡礁(ほしょう)」と呼ぶ。チューク諸島は、この堡礁である。(オーストラリアの「グレートバリアリーフ」も広大な堡礁の一種である。)そして、やがて中央の島が全部沈んでしまうと、ドーナツ型にぽっかりと穴が空いたようになり、これが「環礁(かんしょう)」と呼ばれるものになる。

 日本統治時代には、トラック諸島のそれぞれの島に名が付けられ、春夏秋冬が付けられた四季諸島「春島」「夏島」・・・、曜日が付けられた七曜島「月曜島」「水曜島」・・・、また、植物や十二支が付けられた島「竹島」「丑島」・・・などがあった。

 

 ・・・それは、突然のバウンドによる衝撃と、これまで体験したことのないくらいの急ブレーキだった。僕は身の危険を感じ、寝ぼけながらも、身体にあらん限りの力を入れた。もしシートベルトをしてなければ、身体は前の座席に勢いよく体当たりしてしまっただろう・・・。僕は急いで、窓の外を見た――飛行場だ・・・。急ブレーキはまだ続いていたが、そうこうしている内に、今度は、飛行機が風に煽られてとても不安定になり、翼が地面とぶつかってしまうのではと思うくらい左右に大きく揺れた。・・・前後左右に大きな重力を身体に受け、僕はまったく生きた心地がしなかった。生きることを少し諦めかけたその時、飛行機は何とか減速できたようだった。滑走路を飛び越えて、海に落ちる一歩手前だった。飛行機は雑にUターンして、パイロットのテクニックを褒めてくれ・・・とばかり、悠々と滑走路を引き返した。ターミナルの前で無事に停車しが、僕らは顔をしかめて、お互いに顔を見合わせた。

 ・・・ジェット機が着陸するには、あまりにも滑走路が短すぎる。もしかして、プロペラ機時代の滑走路なのだろうか・・・。それとも、小さな島のために長く延ばせないのだろうか・・・。これでは、命がいくらあっても足りない・・・。愚痴もそこそこにドアが開いたので、僕らは手荷物を持って、しぶしぶ飛行機を降りた。

 

 

 チューク諸島「ウェノ島」(旧称「春島」)の「チューク国際空港」(ここは、日本軍がつくった飛行場の跡)。・・・飛行機を降りて、まず僕たちを迎えてくれたのは、まっすぐ照りつける強い日差しと、生暖かいが爽やかな風、そして、南国の赤い花だった。とりあえず、深呼吸して気持ちを落ち着かせた。

 僕はすっかり気分も晴れ、駐機場で1〜2枚写真を撮った。しかし、すぐに「中に入れ!」と職員に促された。二日に一便だけの、まったく危険のない空港であるが、辺りを散策することは許されなかった。仕方なく、ターミナル・ビルとは名ばかりの朱色の平屋根の小さな待合所で、出発の準備が整うまで、待機させられた。

 室内は、冷房がきつくかけられ、大型の扇風機がまわっていた。白が基調の明るいロビーで、球場のベンチのような備え付けのプラスチック製の椅子が並んでいた。トイレが汚いので注意・・・とツアーガイドに聞いていたが、全館リニューアルされていたようだった。小さな売店がひとつあり、民芸品や飲み物を売っていたが、どこを見ても、殺風景だった。ゆっくりと用を足したが、窓越しに飛行機を眺めることしか、何もすることがなかった。

 ・・・ここでの滞在時間は約45分。また同じ飛行機に乗り込み、滑走。次の島まで、約1時間のフライト。

 

 

 機体が上空へふわりと浮き上がるとすぐに、僕は窓越しに夢中になった。待合所での退屈など、ウソだったかのように・・・。打ち寄せる白波とサンゴ礁が作り出すエメラルドグリーンの美しい曲線・・・。外洋の深さとラグーンの幻想的な輝き・・・。どこまでも続く環礁の奥行き・・・。

 

・・・つづく・・・

 

by.初谷敬史

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2017-03-23 02:18:56

クェゼリン慰霊の旅・4

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(承前)

 

 2011年、フィリピン「レイテ島」の「カンギポット峰遥拝所」と、「ルソン島」の「マバラカット西飛行場跡」で、戦没者への慰霊献歌を終え、僕らはこの活動の継続を願った・・・。

 願いが叶って、2012年には「第2回戦没者慰霊献歌ツアー」として、ソロモン諸島「ガダルカナル島」へ。ガダルカナル島の飛行場奪還を巡る戦闘における激戦地(昭和46年以降、政府派遣遺骨収集団による焼骨場)である「アウステン山」中腹に建つ「ソロモン平和慰霊公苑」(ガダルカナルをはじめ、全太平洋の永遠の平和と繁栄を祈りたいという願いを込めて建立された・・・)にて。そして、飢餓や怪我、病気に苦しみながら生き残った兵士たちの撤退地「エスペランス岬」(撤退を知りながらも、自力でそこに辿り着けず、途中で自決した者や、取り残された者もいる・・・)にて。

 2014年には、「第3回戦没者慰霊献歌ツアー」として、パラオ「ペリリュー島」へ。敵に完全に包囲され兵力弾薬もほとんど底をつき、玉砕をつげる電報「サクラサクラ」が本土に送られ、司令部が自決をとげた地「大山洞窟陣地」へ行き、慰霊献歌を執り行うことができた。

 

 そして今回、ブログ「新春に・4」(2017年1月23日の記事)に記したが、ロクダンのメンバーである朝香誠彦(あさか ともひこ)殿下のご希望により、殿下のおじさまである音羽正彦王(おとわ ただひこおう)が戦死されたマーシャル諸島「クェゼリン島」へ、慰霊に訪れる計画がねられた。そして、「六本木男声合唱団 ZIG-ZAG」の有志と、「マーシャル方面遺族会」のメンバーによって、マーシャル諸島・ギルバート諸島方面で亡くなられたすべての人を弔いに、「第4回戦没者慰霊献歌ツアー」が実施されることとなった。

 

 旅は、1月26日(木)から1月29日(日)までの、慰霊のためだけ、その他は寸分の隙間もない、過酷な弾丸ツアーとなった。たぶん、考え得るかぎり、東京・マーシャル諸島間の最短日程であろう。

 ・・・若いメンバーだけでない慰霊団を考えると、身体への負担が相当であったと思うが、僕らは強い気持ちでそれを乗り越え、兵士たちの眠る南洋の孤島へとたどり着いた。そして、彼らの亡骸が、アメリカ軍によって無造作に打ち捨てられた区画の上に立つ慰霊碑の前で、こころを込めて、ふるさとの歌を歌ってきた。

 ・・・歌い終えた時、それに彼らが応えてくれた・・・と僕らは感じた。そして、僕らはひとりひとり、そこで、彼らの想いをしっかりとこころに受け止めた。一体ここで何があったのか・・・、そして、ここで無念にも亡くなって、二度と日本へ還ることができない彼らがいた・・・ということを改めてこころに刻み、僕らは日本へと還ってきた。

 

 そもそも、このツアーは、昨年2016年11月末に実施される予定だった。しかし、2016年9月9日、北朝鮮が5度目となる核実験を行ったために、残念ながら延期となってしまった。なぜなら、アメリカがそれを、「挑発的な行動」「重大な脅威」とみなし、両国間に、これまでにない緊張が走ったからである。

 クェゼリン島は、現在、アメリカ本土防衛のための、迎撃ミサイルを配備した太平洋における最重要基地となっている。もし、北朝鮮からワシントンへ、大陸間弾道ミサイルが発射されたならば、クェゼリンから直ちに迎撃ミサイルが放たれ、太平洋上で撃ち落とされるのである。

 核実験を受け、基地は迎撃態勢が一層強化されたのだろう。それら軍事機密を守るために、軍関係者以外の立ち入りが完全にできなり、僕たちの渡航にも制限がかけられてしまった・・・。

 しかし、昨年の年末に、もう一度、計画がねられた。アメリカ軍への打診の結果、年明けになって、正式に僕らに入国許可が下りた。けれど、出国直前の2017年1月21日、ドナルド・トランプ氏が新アメリカ大統領に就任し、大統領の言動や政策による国内外の反応、北朝鮮の動向などを世界が見つめる中、僕たちの渡航がどうなるのか心配されたが、予定通り、ツアーは実施されることとなった。

 

 1月26日(木)

 慰霊団の先発隊である「マーシャル方面遺族会」の9名に遅れること約6時間半、僕ら「六本木男声合唱団 ZIG-ZAG」の慰霊献歌団11名は、成田空港からユナイテッド航空で、グアム島へ向けて旅立った。グアムが、マーシャル諸島方面への乗り換え拠点となる。

 その日の夜中にグアム島へ到着し、空港からホテルへ専用バスで移動。ホテルに着くと、もうかなり遅い時間であったが、マーシャル方面遺族会の会長、高林芳夫さんが、ロビーで僕らを出迎えてくれた。明朝早い便なので、さっそくそれぞれの部屋に分かれた。部屋に入るや否や、シャワーを浴びて、そのまま就寝。

 

 1月27日(金)

 夜中3時半に起床。起床とは名ばかりで、2時間程度の仮眠であった。

 なぜ、こんなに早起きしなければならないのか・・・。二日に一遍しかないマーシャル方面へのフライト時間が朝一であるのと、それが国際線であるために、出国に時間がかかるのである。「アメリカ合衆国」であるグアムから、「ミクロネシア連邦」を経由して、「マーシャル諸島共和国」へと入るという行程。(「マーシャル諸島」は独立国家であるが、沖縄と同じように、アメリカ軍の駐留部隊の基地がクェゼリン島にある。島そのものが基地であるので、僕たちは再度、アメリカへ入国することになるのだろう。)

 

 ・・・ホテルのロビーに、全員が時間通り集合すると、すぐに「グアム国際空港」へ、専用バスで移動した。・・・みんな、昨夜、部屋に分かれた時とまったく同じ顔をしていた。顔はパンパンにむくみ、すこし酒の匂いがした。外はまだ真っ暗だった。長い一日になりそうだ・・・。・・・それにしても、お腹がすいた。昨夜は機内食だけだったので、僕はひどくお腹がすいていた。旅行会社が、簡単な朝食を空港で手配してくれているという。

 空港に着くと、スーツケースを転がして、チェックイン・カウンターへ向かう。朝一であるのに、ロビーは意外にも人びとでごった返していた。ここからさまざまなところへ乗り継ぐのだろう。チェックイン・カウンターを待つ列が、どこまでも伸びていた。

 僕らは、チェックインを終えると、空港にあるフードコートに移動した。和食レストランのカウンターで、コンビニ風の鮭おにぎりふたつと、インスタントの味噌スープが手渡された。僕らは共有のテーブルと椅子に腰掛け、それを無言でほおばった。・・・けっして美味しいものではなかったが、日本兵のつもりになってありがたくいただき、覚悟を決めた。(これから先、日本から持参した非常食だけが頼りである。)

 

・・・つづく・・・

 

by.初谷敬史

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2017-02-27 14:07:08

クェゼリン慰霊の旅・3

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 先日、NHKの番組を見た。イタリア・ベスビオ火山の麓の都市「ポンペイ」のように、日本にも大噴火によって、そのままの姿で埋まってしまった村があるという。

 群馬県に聳える榛名山の麓の村で、鎧を着た一人の成人男性が、うずくまった状態で見つかったそうだ。調べてみると、古墳時代に、この地を治めていた王である可能性が高いという。彼はなぜ、鎧を着て、そこにうずくまっていたのか・・・。彼の周りには、おびただしい数の足跡が残されていた。それらは一様に、榛名山から遠ざかる方向に向いている。しかも、走ったのではなく、歩いたものであるという。

 村人たちは、噴火の予兆を感じ、落ち着いて避難したのだろう。それは王の指示だったかもしれない。しかし、王はそこに留まった。彼は、榛名山の方角に向かって、鎧を着て、ひざまずいたのだ。なぜか・・・。番組は推測する――王は、王の象徴である立派な鎧を着て、火山鎮火のために、祈りを捧げていたのではないか・・・。祈りは、王として大事な役目であったのではないか・・・、と。

 これがもし本当であるならば、僕は王に、最大の敬意と、こころからの弔意を捧げたい・・・。王は、自らの想いをそこに残して、村人への希望をそこに残して、火砕流にのまれてしまった。・・・王の想いと希望は、そのまま土地に染み付き、永遠に榛名山へと向いている。もしかしたら、王は、榛名山がそのまま永遠に鎮まっているように、そして、村人たちが代々、ここで平穏に暮らせるように、いまでも、そこで祈っているかもしれない・・・。

 

 戦地に行くと、兵隊さんの行動した痕跡は至るところにある。死に場所は、果たして自分で選べただろうか・・・。兵隊さんの想いや夢、思い出や希望のすべてが、土地と密接に結びついている。

 フィリピン「レイテ島」でもソロモン諸島「ガダルカナル島」でも感じたのは、よく伸びたヤシの木を見ると、その下には日本兵が眠っているのではないか・・・、ということ。ヤシの木は、何か親しげに、僕に挨拶してくれるように思えるのだ。・・・僕は、そこで風を感じる。さわやかな風は、僕に微かに想いを届けてくれる。この風は、そこにしか吹いていない。東京でいくら地図を広げても、決して風は吹いてはくれない。

 だから、僕は慰霊に出かける。・・・兵隊さんと同じようにはいかないが、日本でそれなりに心身ともに準備をして、家族に別れを告げ、飛行機に乗り、島の土を踏む。土の感触、日差しと空の雲。空気と風にごく微量に含まれる懐かしさの記憶・・・。それを頼りに、僕は彼らの元へ行く。そして、そこで彼らに想いを馳せ、声の限り歌う。ふるさとの歌を・・・。空気がやさしく振動し、まっすぐに彼らの魂に入っていく。・・・・・・・・・。まるで時が止まったかのような「無音の音」が流れる。終わった途端、きまってつむじ風が起こる。彼らのすすり泣きは、少しばかり浄化へと向かうのだ。僕らは役目を果たし、無事、帰還する。それで、僕らの慰霊の旅は終わる・・・。

 

 ・・・僕らは行って、そして還ってきた。しかし、彼らは行ったきり、還ってこられなかった・・・。還ってきたかっただろう・・・。間違いなく全員が・・・。

 第十四方面軍司令官、山下奉文の訓示「死ハ易ク生ハ難シ」は、けっして「生きて還れ」という意味ではない。「永久抗戦」のためである。・・・「永久」などと司令官は簡単に言うが、それは「全滅」、「死」を意味している。(「マレーの虎」などと呼ばれ、国民的な英雄となった山下は、戦後、生きのび、戦犯として軍事裁判にかけられ、死刑となった。)・・・兵士たちは、まるで消耗品として扱われたのだ。南方で持久戦にて時を稼ぎ、その間に本土決戦の際の戦力を貯え、アメリカ軍の本土上陸の好機を捉え、逆転一発の大打撃を与える・・・というはかない望みに、日本の運命を託していたのだ。兵士たちは、もしかしたら、アメリカ兵に殺されたのではなく、日本軍の指揮官や参謀によって殺された・・・と言ってもいいかもしれない。

 

 還ってきたかったのに、還ってこられなかった彼らを、日本人全員が弔うことはできない。だから、機会を与えられた者が、しっかりと役目を果たすことが大切である。そして、その土を踏み、風を感じて、無事、日本へ還ってきた者は、彼らがいたことを決して忘れないように、南の島に置き去りにされた彼らの想いを代弁するように、ことある度に、語り伝えることが大切であろう。なぜならば、これらのことはやはり、日本人が決して忘れてはいけないこと・・・と思うからである。

 

・・・つづく・・・

 

by.初谷敬史

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2017-02-27 14:05:18

クェゼリン慰霊の旅・2

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 激戦地と言われる太平洋の島々へ実際に行き、その場に立ってみると、いろいろなことを感じる・・・。(それは、霊感の有無に拘わらず・・・。)いや、行ってみなければ、何も理解したことにならない・・・と、僕は断言したい。

 戦記において、どこからどこに移動した・・・という文章を読んで、僕たちはただ単に「移動した」としか思わない。しかし、実際は、天候、温度や湿度、地形の起伏、道の状態、荷物の重量、体力、空腹、健康状態、精神状態・・・など、人が感じるすべてのことがある・・・ということが、すっかり抜け落ちてしまっている。もちろん、敵の眼を避けるように、気配を押し殺したりしなければならないのだ。

 ・・・そして、兵士の命は、どこかで息絶える。身体は次第に硬くなり、無数の虫がたかり、恐ろしいスピードで腐っていく。白骨と衣服と持ち物はそこに残り、こころも永遠に残った。しかし、魂だけは、死んだことを認識せず、未だジャングルを彷徨っているかもしれない・・・。

 置き去り――僕ら日本人は、悲しいことに、そういうことがあったことをすっかり忘れてしまった。

 

 大事なことはこうである――「人は自然の中にいる生き物であるということ」。これは、大岡昇平『レイテ戦記』を読むにあたって、池澤夏樹が語った言葉だ。

 池澤は、戦記を読み始める前に、付録の地図の拡大コピーと色鉛筆を用意したのだという。僕もレイテ島へ慰霊に行く前、上・中・下に分かれたこの長編を読んだ。一字一句漏らすことなく読み切ろう・・・と、こころに誓い、付録の地図を見返すこと、何百回・・・。

 日米両軍の膨大な情報を含むこの戦記は、このように書かれている――「二十八日、第一師団は西海岸の町ビリヤバで米第七連隊と交戦した後、東南方台地に退いた。同夜半、〇二〇〇、軍参謀部井手正之大尉が、タオグの司令部に到着した・・・」。

 ・・・戦記とは、このように書かれるべきものであろう。いつ、誰が、どこで、何をしたのか・・・。事実は、それが起こった順序にしたがって「平面的」に羅列される。しかし、その事実が発生したのには、その前と後と、そして空間的に離れた場所であっても、さまざまな事柄が複雑に入り組み、お互いに「立体的」に作用しあっている。それは、単に人的な要因のみでなく、天候や風向き、温度や湿度、地形や潮の流れ・・・など、自然そのものが大きく関わっていることは間違いない。また、人びと、更に時代を大きく包み込んでいる全体の空気感や流れ、機運ということもある。

 従って、「もし・・・ならば」は、戦史において無意味――という大岡の言葉は正しい。あるひとつの事柄だけを取り出して議論することは、さまざまな因果関係を吟味していないことになるからだ。その時点で、いくつか選択肢があったが、そうするしか方法がなかった・・・と、僕たちは考えるべきなのである。(開戦は、当時、誰も止められなかったし、「レイテ沖海戦」で、戦艦「大和」を有す栗田艦隊は、レイテ湾突入前に反転するしか方法はなかったのだ。)

 

 ・・・池澤は更に語る――「物事には順序がある。裸の魂の背景に自然がある。自然が先にあって、そこにぼくたちは放り込まれ、その条件の中で生きていく・・・」、と。・・・正にそうだ。だから、大本営が立てる机上の作戦は、現場ではまったく意味をなさない。それどころか、ガダルカナルで飛行場奪還のために、等高線のない地図を頼りに、方位磁石のみでジャングルを切り開いて歩いていった無謀な山越えや、パプアニューギニアで、ポートモレスビーの攻略のために、3000メートル級のオーウェンスタンレー山脈を徒歩で越え、多くのいのちを失ってしまった・・・などという本当にバカな作戦が実行されてしまったのだ。

 都会に住んでいると、忘れてしまいがちであるが、人間の行動や生活におけるすべての判断や思考は、自然のなかで経験的に無意識のうちに行われるのである。

 

 〇〇年、〇月〇日、〇〇部隊、〇〇人、〇〇にて玉砕・・・。結果のみの報告は、あまりに悲しい。・・・僕が兵士になって、どこかの部隊に所属していたとしたら、さまざまなことを語り、伝え、残しておきたい・・・と思う。

 ・・・僕という人間が、この世界に生きていて、いろいろなことを考え、頑張っていたのだ、と。僕は、南の島で無惨に死ぬために、生まれたのではない。しかし、日本はこのような状況におかれ、僕のような健康な男子が、国民を代表して戦わなければならなかったのだ。僕は何のために戦って、何のために死ななければならないのか、実際のところ、よく分からないのだ。けれど、それは、明日を生きていく日本人のため・・・、僕の還りをこころまちにしている家族や恋人のため・・・、と言うしか、僕自身を半分偽り、仕方なしに納得させる言葉が思いつかない。僕は死にたくなかった。けれど、死ななければならない。友だけをここで死なせるわけにはいかないのだ。僕は先に逝くが、どうぞ、達者で自分の人生を生き抜いてほしい・・・。

 ・・・僕は、日本で出兵の準備をし、ふるさとに別れを告げる。南の島へは、何日も掛かって鮨詰めになって輸送される。砂浜で荷を下ろし、武器や食糧を徒歩で運び、慣れないジャングルで野営する。虫や小動物と格闘し、熱帯の暑さと湿気に耐え、命の次に大切な米や飯ごう、水筒と、重い銃器や自らを守る刀を担ぎながら、切り立った山や底なしの沼、人を寄せ付けない断崖や蛭の多い濁った川の道なき道を切り開いて進む。部隊の結束は絶対で、夜には友と語らい、時に鼓舞しあい、さまざまな恐怖や不安を胸に、敵前へ出る。突撃の朝、最後の覚悟を決め、号令がかかると物量勝る得体のしれぬ敵陣地へ、無我夢中で突っ込んでいく・・・。「お父さん!」「お母さん!」と少しつぶやき、こころの中で目一杯、叫びながら・・・。

 

・・・つづく・・・

 

by.初谷敬史

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2017-02-27 14:03:12

クェゼリン慰霊の旅・1

テーマ:ブログ

 「ジャングルに向かってほえろ!」・・・この三枝さんの思い切った呼びかけが、僕たちの魂の奥深くにあるものを震わせ、何かを呼び起こす・・・。このアイデアは、三枝さんが若い頃から、こころの中でずっと温めてきたものだそうだ。これまで、オペラ『Jr.バタフライ』(2004年)や、六本男声合唱団倶楽部10周年記念委嘱による『最後の手紙~THE LAST MESSAGE~』(2010年)といった自身の作品で、自らが想い、感じる戦争に向き合い、2011年1月、ついに実現したのが、「第1回戦没者慰霊献歌ツアー 〜フィリピン・レイテ島(カンギポット峰遥拝所)、ルソン島(マバラカット西飛行場跡)」であった。

 このフィリピンでの慰霊献歌の経験を経て、2013年には、オペラ『KAMIKAZE-神風-』が作曲された。関行男大尉の率いる神風特別攻撃隊「敷島隊」の5機は、ルソン島「マバラカット飛行場」から飛び立ち、レイテ湾のアメリカ艦隊に突っ込んでいった。これが、神風特別攻撃隊の第1号であった。

 

 当時、僕は先の大戦のことについて、正直、何も分からなかったし、知ろうともしなかった・・・。太平洋戦争・・・、もう、埃が被っていてもいい事柄である筈なのに、まだ何となくその話題は生々しく、口に出してはいけないような雰囲気も周囲にあるように思え、しかし、僕にとっては、親戚からもそういう話はあまり聞いたことがなく、また、歴史の教科書にこそ載ってはいたが、授業で詳しく勉強した記憶もなく、・・・そうは言っても、僕ら日本人にとって重要な事柄であることは分かっているが、何となく難しく、複雑な感じがして、積極的に知ろうとは思えなかった。それどころか、何故か煙たがって、そういう話には敢えて近づかないようにしていたとも思う。

 しかし、三枝さんは言うのだ――「あの戦争で、戦死してくれた人がいるから、いまの僕たちがこうして生きていられる」・・・と。・・・けれど、僕はこの言葉に対して、半信半疑だった。・・・確かにそうかもしれないが、僕には、まったく実感がない。戦争はもちろん、戦後の復興も、高度経済成長も、僕は経験していないのだ。

 

 ・・・僕はその言葉の意味を、繰り返し考えた。見ず知らずの戦死した兵士と僕とは、一体どのような関係があるというのだろうか・・・。彼らが死んだことと、僕が生まれたことに、何か因果関係があるのだろうか・・・。彼らが死ななかったら、僕はいま、果たしてこのように生きていられなかったのだろうか・・・。そもそも、なぜ彼らは死ななければならなかったのか・・・。唯一の自分の命までかけて、守りたかったものがあったというのか・・・。

 ・・・僕は最終的に、次のような疑問に辿り着いた――「僕は一体、何者であるのか・・・」。この疑問に、正確に答えるためには、自分がどんな時代に生まれ育ち、どんな土地に住んでいるのか・・・、縦横の軸を考察しなければならないし、更に、それらはどんな関係の上に絶妙に均衡を保ち、成り立っているのか・・・を、多角的に捉え、調べてみる必要があるだろう、と思った。

 例えば、明治維新や鎖国、源平の合戦、仏教伝来、古墳群と銅鐸・・・のような歴史上の事柄とて、肉体や遺伝子、また、風土、文化、道徳、習慣、感性、更に、もっとスピリチュアルな意味での魂や因縁のレベルにおいて、僕という人間を形成するにあたって、少しなりとも関係しているのだとすれば、約70年前に日本国民が総力をあげて戦った戦争が、ましてや、何百万人もの軍人と何十万人の民間人が亡くなった戦争が、僕にまったく関係ない筈はないのである・・・。

 

 何よりも僕のこころに引っ掛かったのは、人の「死」という問題であった。

 父親を癌でなくした僕は、ひとりの人の「死」が、どれだけ残されたものにとって悲しく、どれだけその人の命が尊いものであったのか、身に沁みてよく分かる。

 ・・・ひとりの人が、病気や老衰で亡くなったのではなく、(たとえそうであっても、家族にとっては一大事であり、精神的にも、物質的にも、生活のすべてが変わってしまうことであるのに・・・)、兵隊さんは、生きていたかったのにも拘らず、日本の「国体」を護るために・・・、そして、ふるさとに残してきた家族や大切な人を守るために・・・、過酷で残虐な戦闘によって、ましてや、あろうことか飢餓によって、ひとつの大切な命を落とさなければならなかったのだ。・・・この事実には、ひとりの日本人として、けっして眼を背けてはならないと思うし、「命の尊厳」と「死」について、ひとりの人間として、最大の「敬意」とこころからの「弔意」とを持たなければならない・・・と思った。

 

 戦争を考える上で本当に大事なことは、受験生が年号や箇条書きを暗記するような歴史的な出来事ではない。英雄でも、戦果でも、勝敗でもない。僕らが見つめなければならないのは、世界の根底・中心であるところの「民衆」ひとりひとりの存在、生活、想い、絆、希望、喜び、愛・・・である。世界は、何のためにあるのか・・・。それは、民衆ひとりひとりの「命」のためにあるのだ。

 僕たち日本人が、眼を背けたくなるようなこのことに・・・、忘れられるならば忘れたいこのことに・・・、知らなかったと眼をそらせ、無関心を装いたいこのことに・・・、三枝さんは、ひとりの音楽家として、ひとりの日本人として、ひとりの人間として・・・、真っ向から向き合ってきた。三枝さんは、けっして器用ではない。だから、自分の想いをストレートに表現できる方法をとる。

 ・・・そう、そこで亡くなった兵隊さんの魂に向けて、あらん限りの声で、ふるさとの歌を叫ぶのだ。帰ってきたくとも、帰れなかった兵隊さんの魂に、哀悼と、感謝と、決意を込めて、叫ぶのだ。

 

 僕はそこで、その時、一体何が起こったのか・・・、なぜその人が、そこで死ななければならなかったのか・・・、ひとつずつ勉強させていただくつもりで、この活動に参加したいと思った。そして、二度とこのようなことが起こらないように、この眼で過去をしっかりと見ておきたい・・・と強く思い、ツアーに申し込んだ。

 何もできない僕ではあるが、還ることのできない兵隊さんの悲しみや無念の気持ちによりそって、ふるさとの歌なら歌うことができるから・・・。

 

・・・つづく・・・

 

by.初谷敬史

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2017-02-20 01:30:44

ヴォクスマーナ第37回定期演奏会

テーマ:ブログ

第37回定期演奏会 (創団20周年シリーズVol.3 未来を担う男性作曲家)

3月5日(日)開演14:30

東京文化会館小ホール

 

川上 統(b.1979):怪獣 (委嘱新作・初演)

藤井健介(b.1979):「Sèlèh II」 ヴォーカルアンサンブルのための(委嘱新作・初演)

近江典彦(b.1984):「Khon-mXahuvona」 pour vocal ensemble (2014委嘱作品・再演)

北爪裕道(b.1987):「Multiplex」 for 12 voices (2013委嘱作品・再演)

 

sop. 稲村麻衣子、神谷美貴子、花嶋千香代、日野祐希

alt. 入澤希誉、高橋陽子

ten. 金沢青児、清見卓、櫻井元希、初谷敬史

bas. 小野慶介、松井永太郎

指揮:西川竜太

 

ホームページ●●● http://vox-humana.wix.com/vox-humana

Facebook●●● https://www.facebook.com/voxhumana1996

twitter●●● @voxhumana_info

 

◇問い合わせ:ヴォクスマーナ事務局 E-mail:voxhumana_info@hotmail.com

◇チケット取扱:東京文化会館チケットサービス 03-5685-0650 http://www.t-bunka.jp/

 全席自由 前売:3000円 当日:3500円 学生:1500円(大学生)1000円(高校生以下)

 

 

■ヴォクスマーナ「新作委嘱活動支持会員」募集のご案内

 ヴォクスマーナでは、第37回定期演奏会の「新作委嘱活動支持会員」を募集いたします。私たちの活動の取り組みをご理解くださり、ご支援くださいますよう、よろしくお願いいたします。

 

新作委嘱活動支持会(第37回定期)

・会費:一口 / ¥10,000

・特典:公演のチケット1枚(座席指定)を贈呈、公演のプログラムにご芳名を掲載、公演のプログラムを贈呈、新作委嘱作品の楽譜の贈呈、公演のCDの贈呈

 

●申込方法

(1)Eメールでお申し込みください。

 ヴォクスマーナ事務局 E-mail: voxhumana_info@hotmail.com

(2)申込後、以下の口座にお振込みください。

 振込先:三菱東京UFJ銀行 浅草橋支店 (普)0086923 ヴォクスマーナ代表 初谷敬史

 

by.初谷敬史

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