志木第九の会
テーマ:ブログ月には香りがあるような気がする。一日の終わりに、言葉にならない言葉を僕は人知れずそっと洩らす。・・・出来事のあれこれを内側に留めないように。いい雰囲気だったなぁ・・・とか、とんでもなく最低だ・・・などと、町なかで大声で叫んでしまうこともしばしば。通りすがりの人は、あの人きっと頭がおかしいのね・・・と、白い目もこちらに向けてはくれない。それでも、僕は悲しくなんてない。これは僕の個人的な感想であり、反省であり、明日への合の手なのだから。たぶん僕はそこで部屋の空気を一掃するのだろう。うまく吐かせたあとは、空気をいっぱい吸わずにはいられなくなる。そんな時、いつも鼻先にあるのは「月」。僕はそのまま月を見上げながら、鼻の奥をふくらます。甘美。それを味わい尽くそうとする。ただ僕はその香りを、太古の、異空間の、人間を超越した香りであると思っている。そしてその不思議な香りをかいだ自分を、少しだけ褒めてあげる。もっと褒めてもいいのだが、ツケアガルのでやめておく。月はそんな僕を鏡のように明るく映している。

2月7日(日)に「志木第九の会 第14回定期演奏会」がある。
指揮は三澤洋史(みさわ ひろふみ)先生。
ソプラノは「バッハ・コレギウム・ジャパン」メンバーでおなじみの藤崎美苗(ふじさき みなえ)ちゃん、アルトは「新国立劇場合唱団」メンバーの素敵な佐々木昌子(ささき まさこ)さん、テノールは「犬」から「宇宙人」まで幅広いレパートリーを持つ初谷敬史、バスは我らが初鹿野剛(はつかの たけし)さん。
オルガンは、普段合唱団の稽古ピアノをしてくださっている矢内直子(やない なおこ)さん。
「東京ニューシティ管弦楽団」、「志木第九の会合唱団」で、バッハ「カンタータ4番 キリストは死の縄目に掛けられた」、モーツァルト「レクイエム」(バイヤー版)を演奏する。
実は・・・いま、楽しい。まず、歌うことが楽しい。「歌うこと」にこれまで何年も苦しんできたが、上手くいく、いかない・・・は別として、やっと本気で楽しいと思えるようになってきた。僕のレガートが、自由の翼を得て、ようやく羽ばたきだした。やっぱり、歌が自由でなければ、本当の僕ではない。それって、僕にとってとても重要なことなのだと思う。そして、たぶんこのことが、その他の事柄に多大な影響を及ぼしている。
それから、何といっても仲間がいい。三澤先生の音楽に「ファミリー」でこころおきなくどっぷり浸かれる幸せ。みんなひとつになってその方向を向いた時、安心感と充実感と期待感とが僕のなかで花火のようにハチャメチャに入り乱れるのだ。
そして、偉大なバッハとモーツァルトの至高の音楽。理解が深まれば深まるほど、それは僕に無上の喜びを与えてくれる。しかし、天才は僕に試練を与える。バッハとモーツァルトは、実際とても遠い。歌ってみて初めて気がつく。音そのものの成り立ちがまったく違う。この遠さはいったいどこからくるのだろう・・・。もちろん、別の時代の人だし、生きていた環境がまったくちがう。とりあつかう題材も違ければ、宗教観、作曲技法だって違う。だから、この遠さは当たり前の話だ。でも、僕としては、天才同士の「近さ」――ある種の同質感――がほしいと思うのだ。そこを掴みとることができなければ、僕はひとつのコンサートで並べて歌えるほど器用にできてはいないのである。
23歳のバッハは、十字架上におけるキリストの「死」と「復活」の意味について、真剣に向き合っている。カンタータ4番は「復活祭」のためのカンタータであるが、その音楽はまるで苦悩しているかのように感じられるのだ。きっと、キリストの「受難」の苦悩を、バッハ自身が共にしているせいだろう。肉体の死と、永遠の生命の戦い。バッハは、ルターの古いコラールを使い、ドラマをさまざまに描き分ける。そうして、カンタータの意味を変容させていく。いや、カンタータと共に、バッハ自身が変容していくのであろう。さて、バッハの音楽はいったいどこへ向けられていたのか・・・。それは、自らの奥の奥から、一直線に神の光へと向けられていたに違いない。
一方、最晩年35歳のモーツァルトは、迫りくる自分の「死」と真剣に向かい合っている。「レクイエム」は、死を恐れ、神に魂の救済を懇願しながらも、また同時に死に共感するモーツァルトが存在しているように思えてならない。その音楽は、小川が流れ微風がそよぐように自然だからだ。しかし、その声は誰のものでもない。自らの声、人間である彼自身の声だ。それを「啓蒙」と結び付けるのは安易だが、彼の音楽に親しんでいると、彼こそ本当に人間を愛し、自分を愛した人なのだろうと思えてくる。だからこそ彼は、肉体をもった自分はいつか死ななければならないということをいつも念頭においていたのだと思う。生と死は、手を取り合って同じ道を歩んでいかなければならないのだ。「死は真実で、最良の友・・・」というモーツァルトの有名な手紙があるが、彼ははたして死の先に何を見ていたのだろうか。死はゴールではない。彼の頭のなかで鳴り響いていた音楽の先には、救済の光が見えていたと思う。僕にも同じ光が見える。
僕は思う。バッハもモーツァルトもあの「月」を見ていた。そしてその時、月の香りを存分に味わっていたのだと。
by.初谷敬史




」・・・また、この日がめぐってきた。僕は正直、おどおどしていた。携帯を常に目の届くところにおいていた。いつ如何なることにも対応できるように・・・。あの日と同じ、夜は予定を何も入れていない。身ひとつで、どこにだって飛んで行くことができる。服装も持ち物も、身軽だ。

山田和樹くんが指揮してくれること。
あけましておめでとうございます
本年もよろしくお願いします

