「コール・エッコ」と「足利第九」 | 孤独な音楽家の夢想

「コール・エッコ」と「足利第九」

 12月15日(土)にあったふたつの本番を、無事に終えることができた。ひとつは、ブログで紹介した岩舟町文化会館コスモスホールでの「混声合唱団コール・エッコ第24回定期演奏会」。もうひとつは、足利市民会館大ホールでの「吉谷宗夫・追悼音楽会~足利の音楽の未来へ」のステージ。


 前足利市長の吉谷宗夫(よしたに むねお)さんが、今年の初めに亡くなられた。もともとは歯科医師をしていたが、1979年から政界に入り、2001年までの6期を、栃木県議会議員を務め、そして、2001年から2009年の任期満了まで足利市長を務められた。「モーツァルトと麻雀が好き」と語る吉谷さんは、大のクラシック音楽好きで、足利の音楽文化の発展に尽力された。僕は特に、「足利第九演奏会」でお世話になった。
 年末の恒例となった群馬交響楽団足利市民合唱団「足利第九演奏会」は、今年で33回目となるが、そもそも、この演奏会が始まったのは、吉谷さんらの計らいによるものである。群馬交響楽団のお膝元、群馬県前橋市(1973年)や高崎市(1974年)で第九合唱団ができたとき、その第九の演奏に感銘を受け、「足利で第九をどうしてもやりたい!」と、吉谷さんらが集まって、合唱団を立ち上げた。そして市民の力を結集し、1980年、念願だった足利の第九を、佐藤功太郎(さとう こうたろう)さんの指揮で、群馬交響楽団と開催した。満員の聴衆は歓喜に沸き、感動的なフィナーレであったという。(このときにできた合唱団が、現在の「足利市民合唱団」である。)しかも、吉谷さんは、演奏会の立ち上げをしただけではない。議員活動の傍ら、合唱に参加し、第1回と第3回にテノールとして出演している。「選挙で声をつぶさなければ・・・」と、口癖のように言っていた。第九の打ち上げでは、いつも僕の隣の席で、気さくにいろいろな話を聞かせてくれた。
 そんな吉谷さんが大好きだった「第九」の第4楽章の抜粋と、全体合唱「上を向いて歩こう」を、追悼コンサートの最後に、僕が指揮をする。オーケストラは、足利市民交響楽団。合唱は、足利市民合唱団だ。正真正銘、市民の手による、市民のための第九である――僕は、「いつか、こんな日がくるといいなぁ・・・」と夢みていたが、まさか、こんな形で実現するなんて、何という巡りなのだろう・・・。吉谷さんの置き土産だろうか・・・。吉谷さんが、みんなと一緒に、もう一度、第九を歌いたいのかもしれない・・・。


 指揮を引き受けてみたものの、いろいろな意味で、実際にはとても大変だった。まず、スケジュール的に難しかった。足利市民交響楽団は、10月28日に、大きな本番――「創立60周年記念演奏会」マーラー「復活」を終えたばかりである。精根尽き果てているだろう。しかも、「復活」を大成功へ導いたコンサートマスターが、ケガのため出演できない(たぶん、頑張りすぎたのだ)。スケジュール的に言って、第九の練習が満足にできているとは、到底思えない。その上、僕のスケジュールと、オケの稽古スケジュールが合わず、僕の稽古は、オーケストラ練習を1回と、合唱合わせが1回だけである。
 足利市民合唱団も忙しかった。「復活」を終えてから、11月11日「足利市民音楽祭」の出演、12月2日の「アピタ」での「クリスマス・コンサート」、そして、12月23日には「群響第九」を控えている。しかも、合唱団員には大変申し訳ないが、群響のマエストロ稽古がこの前あったのにもかかわらず、その翌週には、「僕流」のぜんぜん違う第九を歌ってもらうのだ。僕としては、せっかくやるのだから、「僕の第九」を是非ともやりたいと思っている。稽古でも、「群響用」の練習と「僕用」の練習を、隔週で分けてやらなければならなかった。
 演奏会当日の僕は、文字通り、分刻みのスケジュールだった。午前中は、コール・エッコのゲネプロ。流れと内容(演出付きなので、当日のホールで、確認しなければならないことが山のようにある)をひとつひとつ確認した。万全の形で、15:30から本番(本当は開演時間がもう少し遅かったのだが、追悼演奏会に出演するために、むりやり前倒ししてもらった)。ゲネプロを終えて、息をつく間もなく始まった本番だったが、ここぞとばかりの集中力で、僕はコンサートを成功へと導くことができた。
 岩舟町から足利へは、車で約1時間(土曜日の夕方は、道がとても込む時間帯だ)。僕はコンサートで汗をたくさんかいたまま、着替えをすることもなく、車に乗り込んだ。追悼演奏会は18:00に開演してしまう。僕が到着するのが、どうしても18:30。舞台でのゲネプロは当然できないので、ゲネプロなしで本番に臨むことになっている。それでも、僕らの出番が、幸運にもプログラムの最後なので、リハ室で約1時間、オケだけの練習ができる。本当はそこで合唱と合わせたいのだが、小さなリハ室はオケでいっぱいで、もう入りきらない。だから、合唱は別室にて、ピアニストの田部井美和子(たべい みわこ)さんに頼んで、最終確認をしてもらっている。僕はホールの響きと、合唱のボリュームを想像しながら、リハ室でできることを精一杯やった。


 僕はここ一週間、「この本番前の1時間のオケ練習を、どうしたものだろうか・・・」と、ずっと考えていた。けれど、困ったことに、明確なイメージがまったく湧いてこなかった。それとは対照的に、コール・エッコの演奏会の組み立てが、だんだんと僕のなかで固まっていって、それが、僕のなかでどんどん面白いように深まっていった。コール・エッコの演奏会は、僕にとって早くもなく、遅くもなく、ちょうどいいピークを迎えていた。それは、出演者たちのコンサートに対する意識や、想いの高まりによるものが大きいだろうと思っている。
 演奏会は、指揮者ひとりではできない。雨の日も風の日も、1年かけて練習してきた団員ひとりひとりの、この日に賭ける意気込みと集中力がなければ、このピークを迎えることはできなかった。コール・エッコのみんなが、いつも全力で舞台にあがるのは、けっして悔いのない演奏にしたいからである。それは、各自のこころに秘めるプライドにかけて、そうするのだ。だから、本番はいつも凄まじい。その凄まじさは、たぶん、録音には残らない。そういう種のものではない。
 今回の本番は、前回の定期演奏会に比べると、かなりステップ・アップしたと思う。音そのものが、こぢんまりまとまることなく、世界に向かって開いている。それは、あたかも、音が「疑問符」や「感嘆符」を携えて、空間に放たれているような感じがする。音の切れ味がさっぱりしていて、後腐れがなく、さわやかだ。・・・僕は意識的にそうしたかったし、実際にそうしてきた。僕は改革を行い、みんなもうまくそれに乗ってきた。だから、いままで表現できなかったようなことが、いとも簡単にでるようになったのだ。変化したのは、合唱だけではない。団内ピアニストで、いつも合唱の稽古を支えている荒井俊子(あらい としこ)さんも、かなり意識的に、自らの奏法を高めてくれたと思う。・・・ここで、今回のステップ・アップを、更に高めてくれた二人を紹介しないわけにはいかない。
 まず、プーランク「グローリア」のソプラノのソロを歌ってくれた茂木美樹(もてぎ みき)ちゃん。話すと長くなるが、彼女は、コール・エッコの前任の指揮者である茂木信義(もてぎ のぶよし)先生の娘さんである。茂木先生は素晴らしいテノールで、高校の音楽の教師をしている。僕が高校2年生だったとき、音楽の授業で、僕の音楽的感性を見出し、「音楽の道に進んでみないか?」と、音楽を志すきっかけを与えてくれた恩師である。先生が声をかけてくれたお陰で、いまの僕はある。・・・プーランク「グローリア」は、ソプラノのソリストにとって、本当に難曲だと思う。譜面ヅラは、そうでもないのだが、歌ってみると持続が困難なのである。それを彼女は、いとも簡単に歌ってみせる。並外れたテクニックをもっているのだろう。いや、この曲を歌い切るために、かなりテクニック的に研究を重ねたにちがいない。僕が指揮をするとき、僕自身が声楽家なので、必ず歌に配慮する。歌手に合わせて、テンポやブレスや強弱などのバランスを最終的に決めるのだ。しかし、彼女は違った。僕がどんなふうに振ろうが、彼女は僕の指揮にピタリとついてくるのだ。しかも、自分の豊かな音楽性を崩さずに・・・。だから僕はソロに特別に配慮することもなく、僕の音楽を存分にやらせてもらったのである。
 そして、「グローリア」のピアノを弾いてくれた大野久美子(おおの くみこ)さん。彼女とは、横浜の合唱団「サウンド・ブリッジ」で、いつも一緒に活動をしている。・・・彼女が弾くものを「ピアノ」と言ってはいけないだろう。「オーケストラ」と言わなくてはいけない。この曲は、もともと大編成のオーケストラのために書かれた曲なので、一台のピアノで演奏するには限界がある。当然、10本の指の範囲でしか弾けないので、複雑に絡み合ったオーケストラのパートを全部弾くことなんて不可能だ。「第九」のオーケストラパートを、コンサートのメイン・ステージで、ピアノ1台で演奏するようなものである。僕は「グローリア」を選曲した当初、ピアノ1台では、あまりにもプーランクの色彩感に欠けるし、スケールも小さくなるので、管楽器を数本プラスするか、オルガンを入れるか、エレクトーンを入れるか、はたまたピアノ2台か、連弾か・・・といろいろ考えていた。結論を言えば、彼女のピアノは、オーケストラそのもので、それに余りあるものだった。その魅力を絵画で例えるなら、「水彩画」ではなく、「水墨画」のようだった。墨の濃淡だけで現わされる世界は、力強さや繊細さを表現するだけでなく、大気そのものの深さや広がりを現わしているようで、とても精神性が高い。もしかしたら、水彩画以上に、鮮やかに色を映しだしているかもしれない。・・・ピアノとは、そういう楽器だ。彼女はピアノという楽器をよく知っている。尚かつ、プーランクの音楽に対して、明確なイメージがあるのだ。けれど、彼女には、大きなプレッシャーがあったと思う。不可能なことを可能にしなければならないし、大きな期待に応えなければならないからだ・・・。僕はまるで、素晴らしいオーケストラを指揮しているようだった。
 というように、この舞台のために、それぞれが自分の限界を越えることに挑戦してくれた。それは、並大抵の努力ではなかった筈だ。だからこそ、いいものができた。みんながそうしたからこそ、お互いを高めあうことができたのだ。・・・プーランクは、完全に僕のものになっていた。僕はみんなの力を借りて、プーランクの意図した世界を、この空間に呼び出したのだ。・・・コール・エッコの舞台は、そんなふうであった。


 追悼演奏会について、事前に情報不足であったし、実際やってみなければ分からないことがたくさんあって、僕は明確なイメージが掴めずに不安だった。けれど、僕にはなぜか、自信のようなものがあった(そのくらいでなければ、指揮者は務まらない)。第九のオーケストラこそ指揮をしたことはないが、第九は完全に僕のものになっている。声部に関しては隅々まで知っているし、演奏中、どこでどんなハプニングが起こりうるかも分かっている。僕は合唱指揮者として、さまざまな第九の本番を踏むなかで、アプローチの仕方や解釈など、いろいろと勉強をしてきたのだ。それが、今回活かされる。
 僕は、足利市民合唱団のことを、はっきり言って心配していなかった。ぜったいに上手くやってくれると信じているのだ。ふだん足唱は、僕の指揮で歌っているので、多少のことがあっても、僕と何とかコミュニケーションが取れるという安心感がある。・・・そして、ここが他とは比べ物にならないところなのだが、足唱の歌には、愛情が満ちみちているのだ――「この大きな舞台で、僕に恥をかかせたくない・・・」というみんなの想いが、その歌声から、ひしひしと伝わってくる。僕も、足唱は絶対にやってくれると信じている。そう、僕たちはとても長い間、いろいろなことを一緒に経験してきたので、根っこのところで繋がっているのである。
 けれど、足利市民交響楽団は、何度か指揮をさせてもらってはいるものの、僕の指揮にあまり慣れていない。逆に言えば、僕も、足響がいつもどのようなプロセスを踏んで、どのように本番に向かい、どのように演奏するのか、あまり分かっていない。事前の2回の稽古を終えても、足響も僕も、お互いに手さぐりであった。まあ、仕方のない話だ・・・。そもそも、残念ながら、僕には2回の稽古で、シンフォニーをまとめ上げるような実力はない。そして、どちらかというと、そんなふうにざっと作り上げてしまう演奏が、僕は嫌いだ。
 僕にとって、「音楽をする」という行為は、「1フレーズをどのように演奏するか、熟慮すること」なのである。僕は徹頭徹尾、プレイヤーの目線だ。僕はそこを、稽古を通じて、みんなと共感したいと思っている。ひとりのプレイヤーは、1パート=ひとつのメロディを、責任を持って奏でる。この責任は、自分の人生をかけたものでなくてはならない。よく考慮し、自分の価値観に照らし合わせる。だから、納得のいくフレーズを作ることができるまで、満足してはいけないし、満足すべきではない。だから、そのメロディが、ひとつずつ折り重なって、有機的に結びつくことができたとき、それは感動的な瞬間を迎えるのだ。これは、形ばかりを整えた演奏とは、まるで違う。だから僕は、ひとりひとりの力を、ひとりひとりの違った人間性を、とことん信じているのである。
 これを言うとみんなに笑われてしまうと思うが、本番直前の約1時間の練習で、僕は約50分間、「プレイヤーひとりずつに弾いてもらう」という練習に費やした。本来であれば、これはゲネプロなので、「通す」ことが何よりも大事な筈なのに・・・。僕は、あの部分がずっと気になっていた――第1楽章、第2楽章、第3楽章のテーマを低弦が否定をし、低弦が自ら、「あの」メロディを奏でだすところ。第九の変奏は、あそこから始まるのである。地の底から湧いてくるようなポジティヴなエネルギーが、すべてを巻き込み、やがて天上=神の前にまで達する・・・その原初のところだ。・・・僕は弦楽器奏者が何人いたか分からないが、メンバーひとりひとりに、ひとりずつ弾いてもらった。上手くいくこと、いかないこと。みんな、そのメロディに耳を傾け、さまざまな感じ方をする。残念ながら、管楽器や打楽器は、ファゴットを除いて、みんな待ちぼうけである。けれど、僕が望む本当の第九を演奏するには、どうしてもこの時間と作業が必要だった。僕は僕の第九をしたい。けれどそれは、同時に、みんなの第九でもある。僕はみんなから、自由で歓び溢れるメロディが湧いてくるのを、じっと待っていた。そんななか、みんなのこころに、少しずつ、第九の精神が芽生えていくのが手に取るように分かった。・・・僕はこれが、ベートーヴェンの求めた第九なのだと思った。市民による、市民のための第九。


 本番。オーケストラは見事に解き放たれた。みんな、自らの第九を存分に奏でていた。合唱は力強く、そして希望を高らかに歌った。・・・凄い第九だった。僕らにしかできない足利市民の第九だ。僕は市民会館の大ホールが、こんなにも充実して鳴っているのを聴いたことがない。それは、まるで一瞬の花火のようであった。僕は指揮をしながらテノールの方を見ると、吉谷さんが一緒に歌っているような気がした。気が付くと、会場は、ブラボーと拍手と笑顔で溢れていた。・・・自分でも考えられないが、何か凄いことをやってしまったような気がした。
 「上を向いて歩こう」は、オーケストラの伴奏で、会場のみなさんと一緒に、吉谷さんのやさしい面影を思い出しながら、こころを込めて歌った。みなさん、とても温かく、そして明るかった。
 僕は思う――僕たちは、いま、何か変化しようとしている。いや、たぶん、世界がどこかに向かって変化しようとしているのだ。どう変化しているのか、誰も、何も、分からない。けれど、僕たちは、生命の根源的力のようなもので、何かを微妙に感じ取っている。世界の変化に付いて行き、誰もが幸福になければならない・・・と、誰もがおぼろげながら思っている。けれど、誰もその方法が分からないでいる。でも、このように、多くの人が集まって何かをしようとする時、そして、「音楽」という人類最高の叡智の結晶を、みんなで一緒に願い、求める時、明日を幸福に生きるためのヒントが、そのなかに垣間見えるような気が僕にはする。
 僕たちは、未来に向かって変わっていかなければならない。ひとりで変化してもいいが、できれば、みんなで一緒に変化していきたい。孤独なベートーヴェンが、はるか昔にそう考えたように・・・。僕はやはり、関わりあうみんなと影響しあい、思い切って世界を高めていきたい。それが、音楽でできるなら・・・言うことなしだ。僕はここで、それができそうな気がしてならない。そのために、僕は生まれ、音楽をしているのではないか・・・と思ってしまうほどだ。


by.初谷敬史