天皇制社会主義と戦争 | 日本の構造と世界の最適化

日本の構造と世界の最適化

戦後システムの老朽化といまだ見えぬ「新しい世界」。
古いシステムが自ら自己改革することなどできず、
いっそ「破綻」させ「やむなく転換」させるのが現実的か。

天皇制社会主義と戦争


先の戦争の原因が、軍部と財閥にあることを指摘する見解があった。それゆえ、「財閥解体」は軍国主義除去のひとつとして行われた。

*A級戦犯が罪を担い、国民と天皇は無罪となった


こうした占領軍の政策の基本は、コミンテルンの日本資本主義分析(絶対的天皇制・地主的土地所有・独占資本主義)となぜか瓜二つであった。
32年テーゼ『日本における情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ』
*似通っていたために戦後日本共産党・徳田球一は連合国を「解放軍」と呼んだ


しかし、軍国化は必ずしも財閥を利するものではなかった。財閥家と番頭に握り締められ、財閥の排他的独占と結束を可能としていた株式が、満州事変あたりから一般公開を迫られ、次第に統制がきつくなっていた。やがて、経済企画院による統制が本格化すると、財界は岸信介ら企画院メンバーを共産主義者呼ばわりする。
企画院事件(wikipedia)

こういう見方はどうだろう?


軍部(右翼)と社会大衆党(左翼)の合体(天皇制社会主義)があの戦争へ突き進む時代の背景にあったと。


マルクスとキリスト教と集団ヒステリア


■1920年代工業化が進展する日本

1920年代の学生・知識人を席巻したマルクス主義は、「完成された世界観」を提供した。第一次大戦に参戦しなかった日本経済は「漁夫の利」で輸出も盛況で次第に投機熱にも侵されていた。成金も台頭し資本主義経済国として、もはや江戸時代の延長ではなくなっていた。こうした中でロシア革命なども勃発し、知識人は新しい時代を読み解こうとしていた。

*日本軍は日露戦争前から、ロシア弱体化のために革命家の支援もしていたという皮肉がある


■人道的社会主義とマルクス主義の乖離

しかし、人道主から逸脱できなかった労農派は、結局は非人道的・科学的社会主義を受け入れられなかったようだ。一方、「党員でない者マルクスを語るべからず」といった雰囲気であった日本共産党は早々と官憲から弾圧される。しかしながら経済学と社会学についてはマルクス主義は学界で強固な根城を築いた。
*内村鑑三・幸徳秋水・杉山元治郎・安部磯雄・吉野作造・石田友治・山川均は社会主義運動の著名人であるが皆キリスト教徒であり、キリスト教人道主義の影響があるように思う
*マルクスを最初に紹介した河上肇(キリスト教徒)は、解釈が歪んでいると批判され、櫛田民蔵は「唯物史観」が本髄であるとした

・1918年武者小路実篤「新しき村(原始共産制)」開村

・1918年東大「新人会」結成(『現代日本の合理的改造運動に従ふ』)
  →新人会は各地の高校に「社会思想研究会」をつくる
  →「大正デモクラシー」で普通選挙運動を展開
  →第二次共産党の下部組織へ
・1924年「学生社会科学連絡会(学連)」結成(マルクス・レーニン主義)


■恐慌と集団ヒステリア(1920~30年代)

第一次大戦のバブル経済(日本がはじめて債権国になる)が終わると、日本は不況に悩むようになっており、閉塞感がただよっていたであろう。関東大震災からの復興の震災手形は、昭和金融恐慌(1927年)を巻き起こした。このうえ世界恐慌(1929年)は破壊的ダメージを与える。


○1930年代自殺ブームという世相

『コミック昭和史』を描き、赤紙で従軍した漫画家水木しげるは、1930年代の世相を「集団ヒステリア」と表現している。それは自殺ブームであった。坂田山心中事件(慶応大生と財閥令嬢が服毒死)が純愛として大きな反響を呼び、三原山噴火口心中事件も話題になった。政府は自殺をあおる歌などを禁止しなくてはならなかった。阿部定事件という性的事件も巷で騒がれた。都市部ではエログロ・ナンセンスなど猟奇的・性風俗文化も生まれるが、もちろんこれらは発禁処分・露出制限などの憂き目を見た。

コミック昭和史 (第1巻) 関東大震災~満州事変/水木 しげる

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天皇と国家改造・資本主義修正


■昭和維新と青年将校


権力システムと日本社会-北一輝 北一輝の「天皇制社会主義」もマルクスではない。しかし、「昭和維新による国家改造」として、官憲が介入しづらかった軍部に浸透し、「五一五事件」・「二二六事件」を巻き起こした。それは軍人による内からの現状打破でもあった。彼らは制度疲労を起こしている明治システムを破壊して新しい国民国家をつくりたがっているようでもあった。
<画像出展:Tokyo Metropolitan Library archives>


      明治システムの老朽化


■シナ浪人と満州国(外から日本を変える)

また田中智學(日蓮宗)らの影響を受けた石原莞爾らは「満州事変」をしこんで東アジアに新国家を成立させる。関東軍はもともとは諜報・警備などにあたる頭でっかちの部隊からはじまり、独断専行が目につくことから陸軍上層部から「シナ浪人」とも呼ばれていた。

*満州は「清王朝の故地」ということで漢人移住が禁止され、未発達の草原地帯であった。
*その後満州には中国軍閥が割拠して中華民国の統制が充分及んでいなかった。
*さらには、ソ連と日本がにらみ合っていた。
*「満州事変」についてイギリス等列強「ソ連がとるよりマシ」ということで当初は日本への批判は鈍かった。


権力システムと日本社会-満州国領域 石原莞爾らの野望は、「満州国」という新生モデル国家によって外から日本を揺さぶって国家改造を促し、そして東アジア全体に波及させるというような大それた発想だった。


満州を市場原理主義を排した統制経済の実験場とすることが念頭とされ、20年かけて満州を軍需産業国家にするなどの構想があった。ここへ赴任した岸信介らは満鉄では足りないので、新興の鮎川財閥をも呼び寄せた。また満州ではソ連の五ヵ年計画なども研究されたという。

<画像出展:GNU Free Documentation License 1.2またはそれ以降 Pqks758 >


しかし日中戦争が勃発すると、満州国はただの補給地になってしまい、しかも軍備も中国や南方へそがれていく。また石原莞爾は予備役へ左遷された。

*ソ連が日ソ中立条約を破って満州になだれこんだとき、ソ連は「天皇の軍隊を破った」と誇らしげだったが、関東軍はすでにもはや守備隊としてはきわめて貧弱なものになっていた


・1914年:田中智學「国柱会」結成(日蓮宗と皇祖神の合体)
1919年・1923年:北一輝『国家改造計画法案』(銀行国有化・児童教育無償化など)

満州国の経済「満州産業開発5カ年計画」(wikipedia)
・1921年:安田財閥の安田善次郎刺殺(富豪ノ責任ヲ果サズ)

・1931年:「満州事変」
1932年3月:「血盟団事件」(右翼が三井財閥の團琢磨を暗殺wikipedia)
1932年5月:「五一五事件」(海軍青年将校による政府要人暗殺wikipedia)
1936年2月:「二二六事件」(陸軍青年将校によるクーデター未遂wikipedia)


「昭和」をつくった男―石原莞爾、北一輝、そして岸信介/小林 英夫


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軍事社会主義の勝利


■国家総動員と社会大衆党
「農本主義」
といったもの地方にあったが、世界恐慌で打撃を受けた農村は右傾化していく。戦争は常にリベラル系を分裂させてきたが、満州事変をめぐる労農界の姿勢もやはりばらばらなものであった(不況に染まる日本を出て、大陸で一勝負という雰囲気もあったであろう)。


翼賛体制が少しずつ整備されていく中で、政党は労農運動を前身とした「社会大衆党」に集約されていく。「社会大衆党」は軍部の社会主義的傾向を歓迎し、国家総動員体制を受け入れる。こうして狂信的になっていく中で、従来の国家エリート・学者らの弾圧が起こる(京大滝川事件や天皇機関説事件など)。
1934年『国防の本義と其強化の提唱』(陸軍パンフレット:社会主義国家を提唱)
社会大衆党・麻生久(wikipedia)

国家総動員体制の中で、資源は統制され、企業は利潤よりも生産で国家公益に貢献するよう求められた(儲けよりもゼロ戦の生産機数のほうが大事だからだ)。下請けなども特約店などという形で過当競争のない状態に整理された。金融でも過当競争が排除され、地銀が小口現金を集め、財閥系銀行は産業投資専業へと国家による住み分けが強制された。


   総力戦に向けた経済全般の統制=社会主義化


さらに、社会大衆党が望んだ労働者年金制度が実現する(それまで軍人・官吏恩給など部分的にしかなかったが、これが厚生年金の原型となる)。また「源泉徴収」という形で、企業は徴税の請負を無償でしなくてはならなくなった。加えて、最低賃金制度まで導入された。社会大衆党は戦争協力と引き換えに労農運動の巨大な成果をなしとげたのである。
・1938年「国家総動員法」
・1938年「国民健康保険制度」
・1941年:真珠湾攻撃・日米開戦スタート

・1942年「労働者年金保険法」
・1942年「健康保険法改正」


  総力戦で全国民が兵士的待遇と保障=社会主義化


つまり、財閥が牛耳る経済構造は壊されはじめていた。われわれの多くは、日本の国家社会主義的構造が占領軍に強制されたものと勘違いしやすい。しかし、それは戦争を口実とした国家改造によってすでに開始されていたものだった。こういったものが、まさに野口悠紀雄氏の言う「1940年体制」として戦後に手渡されたのであろう。


一方、アメリカのニューディール政策も、世界大戦に突入してからようやく恐慌前の経済水準に回復することができた。戦時中に軍需産業従事者と軍・戦争関連の政府雇用をあわせると米就業人口の4割にまで達し、米国内完全雇用を実現してしまう。それは「大きな政府」ではなく「巨大な政府」である。また軍需産業に女性が従事したこともあって、女性参政権は戦後の欧米各国で実現していく。世界戦争は封建制の残存部分を破壊し、間接的に世界中に社会主義を仕込んだような気がしてならない。


日本においては、天皇制社会主義(マルクス主義でない)を望む「大衆の声」ではなかっただろうか?戦争によって過去の経済構造はまったく改造されてしまったのである。それは明治システムの限界からのリセットへひた走るものだった。


「東京裁判」ではA級戦犯による「世界侵略の共謀」などとされたがA級戦犯からしても「共謀などというご立派なものはなかった。軍人が突き進むと言い、政治家が困ると言い...」という当時の混乱を語っている。


軍部だけが悪とされたのは政治劇で、それは戦後復興には都合がよかったのかもしれないが、戦前からただよっていた日本の社会主義的傾向を等閑視するものだ。著名な憲法学者やマルクス教信者が北一輝などをまともに論じることはないが。。学術的・理論的には陳腐なのだろう。しかし天皇の名による革命・国家改造という事実と実体はあったのだ。


■奇妙な近衛文麿とコミンテルン陰謀説
陸軍は実は親ソ反米(日ソ中立条約など)であり、近衛文麿や吉田茂は親米反ソであった。


近衛文麿は敗戦濃厚な中で昭和天皇に上奏する。国家総力戦をさらに「一億玉砕」へもっていこうとしている連中は共産主義者の陰謀にはまっているというのだ。レーニンが遺した「砕氷船理論(ドイツを英仏と、日本を米中と戦争させろ、彼らは砕氷船のように世界を破滅させる。ドイツと日本は最終的に破れ、廃墟となった世界をわれわれがいただく)」はコミンテルン指令としてスターリンにも継承されていたという。たしかに本土決戦になっていれば列島全土が破滅的状況になり共産化していたかもしれない。
近衛上奏文1945年2月16日(wikipedia)
・1944年6月6日:連合軍が「ノルマンディー上陸作戦」
・1944年6月19日:「マリアナ沖海戦」で日本航空兵力に大損害
・1944年7月18日:東条内閣総辞職
・1944年10月9日:連合国が「国際連合」提唱
・1944年10月23日:「レイテ島の戦い」で日本海軍壊滅状態に
・1945年1月19日:ソ連軍がドイツ国境に到達
・1945年2月4日:「ヤルタ会談」(戦後世界の分割・ソ連の対日参戦)


*日米開戦の最後通牒「ハル・ノート」を起草し、「ニューディール政策」や戦後「ブレトンウッズ体制」の構築にたずさわったハリー・ホワイト財務次官補がいる。彼は非米活動委員会でソ連スパイ容疑をかけられ、死後に戦時中ソ連暗号の解読(ベノナ文書)からコミンテルン・スパイだったとされる


「ゾルゲ事件(1941年)」で近衛内閣のブレーン尾崎秀美がコミンテルン・スパイだったことが判明するが、同年に締結された「日ソ不可侵条約」をソ連が裏切ることは想定されていなかった。ソ連に対する過信があり、日米講和もソ連の仲介を期待していた。


■右翼と左翼というめくらましと転向

右翼と左翼が対決している構図は実は虚偽ではないか?


産経新聞創業者・水野成夫:元日本共産党員・コミンテルン極東政治局

              「三一五事件(1928年)」検挙され転向

               天皇制共産主義を掲げるが挫折

               戦後は経済同友会理事・経団連理事を歴任


読売新聞会長・渡邉恒雄:東大在籍中に日本共産党員

田中角栄秘書・早坂茂三:元日本共産党員

反米保守・西部邁:元全学連中央執行委員

反米保守・森田実:共産主義同盟(ブント)結成

「新しい歴史教科書をつくる会」・藤岡信勝:元日本共産党員



国家社会主義の完成へ


日本降伏後にはすでに米ソ対立がはじまっていた。米国民には昭和天皇を処罰したい感情もあっただろうが、米軍部はソ連と対決するためにも天皇を残すことに価値を見出す。


占領軍は「民主化」という名で国家改造を強行した。そこで、天皇は「マッカーサー勅令」などの形で利用された。内務省などは解体されたが、官僚機構はそのまま残り、間接統治はアメリカにとってすこぶるうまくいった。


■戦後復興はあたかも計画経済
戦後復興はあたかもソ連の第一次五ヵ年計画(鉄鋼生産特化)のようにはじまった。


マルクス経済学者(有沢広巳)が指導した「傾斜生産方式」は、復興資金を石炭と鉄鋼に集中させるものであった。日銀は、既存の軽工業に目もくれず一挙に工業大国をめざすような政策を嫌い、日銀の危惧したとおり激しいインフレが襲ったが、それは野口悠紀雄氏の説明するように、大地主や財閥一族など不労所得収入に頼る階層にダメージを与え、借地で事業を営む事業家・生産者の債務を軽くした。

*政治保守層は、農地改革で土地を手に入れた農民や中小事業者に入れ替わった

 
その後は石油産業(重化学工業)へも夥しい資金が投入された。
こうして日本は製造業に必要な素材を自前化していった。


復興経済における無理な投資は、赤字・インフレ容認の成長路線となるが、アメリカからドッジ・ラインという形で歯止めがかかった。その後、日本はデフレに沈んで痛んでいくと思われたが、朝鮮戦争勃発による特需でデフレから救われ、それどころか力強い成長をものにする。


60年代に全学連や日教組が岸信介を呪い学生運動が吹き荒れた頃、自営業者の国民年金も成立し、これで「国民皆年金」「国民皆保険」が完成した。そのようなものはアメリカにはない。


そして池田首相が「所得倍増計画(10年計画)」を発表し、全国の電化につらなって家電など製造業が急成長する。


60年代後半に佐藤栄作と全共闘の時代に入ったときは、すでに日本は分厚い経済基盤を構築していたのだった。急進的左翼(新左翼)の台頭は、天皇制社会主義国家の姿をますます見えないものにした。