帰国が数日後に迫ったある夜。
「今度はいつ来られる?」
待合室で、ファンツンにこう訊かれた。
「分からない。」
こう答えるしかなかった。
この会話の少し前、日本に電話をかけた時、
娘が中耳炎になったと聞かされた。
風邪を引いたらしい娘を
母が病院に連れて行ってくれて分かった。
私は、娘が中耳炎になった理由が
何となく分かるような気がした。
いつもとは違う生活環境。
それに加えて、いつもいる母親が
そばにいないこと。
そういったことに不安を感じて、
体調を崩してしまったんじゃないだろうか。
無理もない。まだ4歳だ。
たとえ娘のことがなかったとしても、
両親に子供たちを預けたまま、一切合切を任せ、
ずっと家を空けておくわけにいかないとも思う。
お金のことも
考えなければいけない。
渡航費や滞在費が必要だ。
私にとっては、何でもない金額ではなかった。
今回は、往復の飛行機代だけで
6万円くらいかかっている。
私にしても、先生のそばで
様子を見ていたい。
遠く離れた場所でやきもきしているよりも
毎日先生の顔を見られる方が、どんなに気持ちが楽だろう。
でも、生活の基盤は日本にある。
お金のことは、
きっと何とかなるだろう。
いや。何とかする。
でも、子供たちの毎日の生活には、
やっぱり私が必要だろうと思う。
中3の長男はともかく、
次男は1年生。
娘は保育園の年中だ。
なるべく早くここへ戻って来たいとは思うが、
こればかりは、家族みんなと相談して
決めなければならない。
両親への負担もある。
こういったことを、筆談を
交えながらファンツンに伝えた。
「日本に戻ったら、毎日うちに電話して。」
私の帰国後も、午前の面会はバオメイが、
午後の面会はファンツンが行ってくれるのだろう。
先生の様子を、毎日電話で伝えると
言ってくれているのだ。
とても有難かった。
少なくても、先生は
毎日家族に会える。
ひとりぼっちにならずに済む。
「うん。分かった。」
もう、腹をくくるしかない。
子供たちが待っている。
とにかく一旦、日本に
帰らなければならないのだ。
5月下旬のある土曜日。
今日も台北の空は、
毒づきたくなるほどの快晴だ。
桃園空港から小松空港への便は
午後2時台だった。
午前の面会は11時だが、その時間では
面会を終えて空港へ向かっても
フライトに間に合わない。
この日は、ICUにお願いして
面会時間を早めてもらった。
「先生。今日、日本に帰らないといけないんです。
飛行機のチケットが2週間有効のもので、今日がその2週間目なんです。」
体温を感じるほどの距離まで
顔を近づけ、先生の顔を覗き込んだ。
帰国する日を前もって
師匠に話しておく勇気はなかった。
ベッドに横たわっている師匠の
バイタルサインと血圧は落ち着いている。
昨日の夜と変わった様子はない。
帰国しなければならない私にとっては、
それだけでも救いだった。
今度は、いつ来られるか分からない。
しばらく来られないかもしれない。
そう思うと、切なくてたまらなかった。
そんな自分の気持ちを紛らわせたくて、
私は師匠にたくさん話しかけた。
それなのに、何を話したのかを思い出そうとしても、
ちらちらと断片的にしか蘇ってこない。
娘が中耳炎になったけれど、
きっとすぐに良くなるだろうこと。
先生のそばにいられなくなることを
申し訳なく思うこと。
先生は絶対に良くなると
信じていること。
日本にいても、祈り続けること。
恐らく、こんなことを話したと思う。
とにかく、話せるだけ話そうと、
色々と話したはずなのに、私の記憶からは、
ほぼすっぽりと抜けてしまっている。
もしかしたら、私はこの時、
先生の髪を撫でたかもしれない。
頬に触れたかもしれない。
額にキスしたかもしれない。
私なら、誰が見ていようが
やっていそうなことだ。
実際、面会のときには
よくそうしていた。
でも。
自分でも不思議なくらい、
この日のICUで自分が何をしたのか、
何をしなかったのかを覚えていない。
恐らく、この日のことは、私の脳にとって、
よほど不快なものだったのだろう。
だから、特に印象の強かったこと以外は
あまり覚えていないんじゃないかと思う。
この時の記憶の大きな部分を占めているのは、
先生を残して帰国するという不安と
後ろめたさを強く感じたこと。
でも、何よりも一番強烈に
私の記憶に残っているのは、
ICUの窓から師匠のベッドに
刺し込んでいた太陽の光だ。
この時の私は、どうしても
太陽が許せなかった。
ここまで明るくて眩しいなんて、
嫌がらせにもほどがある。
もういいから引っ込んでろ。
我儘が通らず駄々をこねる子供のように、
心の中で悪態をついた。
「私はね、体は台湾に戻っても、心はいつもここに置いていってるよ。」
台湾と日本を行き来することの多かった師匠が、
日本の自宅にいる時、真顔でこう言ったことがある。
先生。私も同じです。
体は日本に戻っても、
心はここに置いていきます。
もう言葉にならない。

