プライベートな内容はもう書かないと申しましたが、

もう少し父の話をさせてください。

今回は宗教的な内容になります、

苦手なかたはどうぞスルーなさってくださいね。

 

父は空知の片田舎の寺の次男として生まれました。

毎年お盆と正月は父の実家である寺に行って過ごす子供時代でした。

お経お線香あたりまえの日常でしたので、

特に己が仏教徒であるという自覚もなくずっと過ごして参りましたが、

本家を継いだ住職の従兄から一昨年、

「レンケン受けてみない?」と言われました。

簡単に申せば「仏教のお勉強会」へのお誘いなのでした。

ちょっと迷いましたが、マークのほうが乗り気になってしまって、

約1年半にわたり全12回のレッスンを受けました。

その内容は宗祖親鸞聖人を知る、ことから始まって、

ウチのお作法や教本のよみかた。

仏教とはなんぞや、ということを、

お導師さまのお説法やグループでの話し合いで、

深めていくということでした。

空知各地のお寺をまわりながら、

すごく有意義な時間をすごさせていただきました。

知ってたつもりで実はわかってなかったことも多々あり。

 

そして今年の秋に全過程を修了しました。
仕上げに京都の西本願寺で「応用編」を受ける資格が与えられました。
修了式には証書と記念品として本山からのお念珠を賜りました。

 

 

マークも一緒に修了したので、これと同じものを
ナツキも持っていました。
いました、と過去形なのは、
 
病院になくされた、からです。
 
私は病床の父を見舞ったある日、
いつも身につけていたこのお念珠を
『これはレンケン終えてご本山から記念としてもらった
お念珠だよ。
わたしいつもそばにいられないから、
これわたしと思って、お父さんに預けるね』と、
父の左手首にはめました。
もちろん担当のナースさんに了解を得たうえでのことです。
父はそのとき、もう話す事はできませんでしたが、
自分で布団から手を出して
顔に近づけてお念珠を眺めて確かに微笑んでおりました。
 
その次に会いに行ったとき、ふと見るとお念珠がありません。
ナースさんたちが外してどこかにしまったのだろうと
病室のあちこち探しましたが見つかりません。
事情を話しましたが、「わからない」と言われて。
おそらく自分で外すことは不可能だから、
病衣を着替えさせるときに外れたのではないか?と
思ってクリーニング業者に確認したいのでおしえてほしいと
言いましたが。
それはこちらで連絡するので、と言われて。
結果、お念珠はクリーニングのところでも見つからなかったそうです。
 
なんと申しますか。
これは私にとってお金には代えられない
大事なものだったわけです。
だからこそ寺の子である父に身につけてほしいと、
思った気持ちがあだとなりました。
 
お念珠が粗末に扱われたように
父も病院でそのような扱いを受けていたのか?という
気持ちにも陥りました。
 
おそらくはゴミとして処分されたのでしょうね。
 
かなしいです。