いま、アガサ・クリスティーの作品を最初から読み直しています。

今回のタイトルがふっとこれに浮かんだのもそのせいかもしれません。

私はやはりブロガーの端くれなので、

記録のためにも書いておこうとおもいました。

事務的なこともあらかた済んで自宅に戻った途端、

それまでの疲れが出てダウンしました。

死亡診断書によると死因は「肺炎」です。

お年寄りの死因の9割近くこれだそうです。

いま思い返すと、

「ああすれば」「こうすれば」みたいな

たらればの反省や後悔は山ほどあります。

しかし、個々の人生というのは、

自分で責任を負うものであって、

たとえ長年連れ添った配偶者であっても

血縁のある子であっても

どうすることもできません。

父は一昨年のお盆あたりから食べる量が減り、

あんなに好きだったお酒も飲まなくなり、

気力体力がどんどん失われていました。

それでもひ孫の成長を楽しみに、

それを生き甲斐としていたようです。

そんななか今年の夏に病気がみつかり、

7月末に11時間に及ぶ手術をうけました。

いっときは車いすに乗ってリハビリも少しできていたのですが、

誤嚥性肺炎を起こし、それをなんどか繰り返して、

胸水がたまり自発呼吸ができなくなって人工呼吸器をつけることになりました。

しゃべれない、というのは本人にとってもつらかったようです。

ホワイトボードで筆談も試みましたが、

いろんな管をさされてむくんだ指は力が入らず、

書いても判別不能で、それもお互いに悔しい思いをしました。

そのうちに腎機能が落ちて全身状態が悪くなりました。

先月の25日には「覚悟してください」と医者にも言われていました。

それががんばってがんばって、

私の手帳の予定していたスケジュールが全部クリアできたタイミング、

マークの仕事がひと段落して、これからまた忙しくなる過渡期のタイミングに

お浄土へと旅立ちました。

わが父ながらそのタイムマネジメントの凄さには

あっぱれとしかいいようがありません。

大手術から約4か月、本人も苦しかったですが、

毎日のように片道1時間バスに揺られて病院に見舞っていた母は、

会うたびにやつれていきました。

原因不明の難聴(おそらく睡眠不足とストレス)にもなりました。

父も母もそれぞれに体力気力の限界だったとおもいます。

 

 

父は昨年に自分が死んだときのためにと、

写真を選んでいたようです。

そしていま圧倒的に多い「家族葬」ではなく、

ウチの宗派に添った正式なお葬儀を希望していました。

新聞の全道版にお悔やみ広告を出してほしい、

と母にへそくりを預けていたようです。

これはきっと、父の生きた証として。

また生前に関わりのあったすべての方々へきちんと

お別れの挨拶をしたいという父の矜持だとおもいます。

父くらいの歳となれば現役を離れて長く経ち、

友人知人も先に逝かれたかたが多く、

家族葬でこじんまりするのが「一般的」なのでしょうが、

私たちは父の希望をすべてかなえるスタイルで

お葬儀を執り行わせていただきました。

 

お悔やみ広告には「供花はご遠慮します」の一文を入れたのですが、

それでも届いてしまって、

斎場で断り切れなかったお花は、

有難く飾らせていただきました。

 

 

 

ウチの宗派はお花を飾り立てたりしない

シンプルなお荘厳です。

 

 

 

 

 

学校関係者や教え子さん達からのお花

 

焼き場は広くてキレイでした。

授乳室やキッズコーナーもあって、

長女は助かっていました。

 

 

斎場を出発するときは初雪(それも吹雪)でしたが、
収骨を待つ間にどんどん晴れてきて青空が。

 

 

胡蝶蘭の鉢は5つ、斎場からひきあげてきて、
ふたつは実家の出窓に。
ひとつは通夜から還骨勤行まですべてにお参りいただいた、
母の兄に。
この伯父は、自宅にランのための全ガラスばりの小部屋をもつ
ランのスペシャリストなので、安心してお任せできます。
ひとつは弟の職場に。
残りのひとつは我が家に引き取らせていただきました。
 
悔しいこと
残念なこと
腹の立つこともたくさんありました。
不思議な出来事もありました。
 
それについては追々・・・
書ける範囲で書きます。
 
耳の遠くなった料理や家事がほとんどできない母を
この先どう見守っていくか、
悩みは尽きません・・・