子どもの心に種を蒔く: その2 | カイとわたしの場合~オーストラリアx自閉症xシンプルライフ

カイとわたしの場合~オーストラリアx自閉症xシンプルライフ

高校生になった自閉症児カイと、シングルマザーのわたし。オーストラリアはメルボルンにて、ふたり暮らし。そんな私たちの毎日を綴っています。

昨日の記事の続きです。注)ちょっと今回は重い話かも。そして長いです。

 

 

片腕でも自立した一人暮らしをしていた祖父にも、ひとつだけ出来ないことがありました。

 

と言っても、今思えば車の運転とか、祖父に出来ないことってもっと色々あったと思うのですが・・・

 

常に代替の手段を駆使して工夫していたので、不便があるとは子どもの私は思っていませんでした。実際祖父は、自分の出来る範囲ですべて生活を賄っていました。

 

なので、子どもの頃の私は、おじいちゃんに出来ないことはたったひとつだけ!と思っていました。

それはお風呂に入った時、自分の左腕を洗うこと。

 

右腕のない祖父、ヘルパーさんなども特に頼んでいなかったので、左腕を洗うのがとても難しかったんです。

だから、祖父の家に遊びに行った時や、私たちの家に祖父が遊びに来た時は、必ず私たち三姉妹や父が順番で祖父の左腕や背中を洗ってあげるというのが、我が家の習慣でした。

 

 

左腕を上手く洗えない以外は、全部自分の身の回りのことが出来る祖父でした。

 

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さて、祖父の住んでいた同じ県内に、親戚一家が住んでいました。

血縁関係はそんなに近くなかったと思います。祖母の方の本家だかなんだか・・・でも家はそれほど遠くなかったので親戚付き合いがありました。

 

そこはおばあさまと、息子さん夫婦、そしてその一人息子S君の三世代で暮らしている家庭でした。

 

このS君、私より5歳くらい年上で、私たちが帰省した時にお家に挨拶に行ったりした時・・・・S君はお客様が嬉しくて居間に来るんですが、そうすると「お前は部屋にいなさい」って言われていました。

 

私は子どもながらに、なんでだろう?って思っていましたが、だんだんわかってきました。

 

S君は軽くはない知的障がいがあったんです。

今思えば、自閉症だったのかもしれません。

 

S君は外にもあまり行かせてもらえていませんでした。

きっと、外で奇声をあげたり、おかしな動きをしてしまうから、でしょうね。

ご家族は世間の目が怖かったのかも知れません。

 

40年も前の日本の田舎で、障がいのあるお子さんを育てるのってとても難しいものがあったとは思います。

ご家族は、S君の障がいを周りのひとに知られたくないんだ、ということが子どもの私にも分かりました。

 

特におばあさまが、S君をあまり外に出したくないって思っていたようです。

 

 

祖父はS君が小さい頃からそんな様子を見ていたので、ずっと言っていたそうです。

「子供なんだから外で思いっきり遊ばせてあげればいいんだ」

実際は、家を抜け出したS君が公園などで遊んでいても、すぐに家族が探しに来て連れ戻されちゃったとか。(祖父が目撃)

 

当時はすでに養護学校(今の特別支援学校)というのがあったので、そこに入学させればいいよと言っても、ご家族は聞く耳を持たなかったそうです。

 

今なら障がいのある子が一般の学校に通う際に、色々選択肢やサポートがあると思いますが・・・

40年前ですから、そんなものはありません。

一般の小学校に入学させて、おばあさまが毎日一緒に学校に行き、最初から最後まで授業に付き添っていたそうです。

 

でもやはり、そのやり方も長くは続かず・・・S君は学校の勉強にまったくついていけなくなり。

その後は小学校の途中から学校に行かせるのを断念して、家にいるようになったそうです。

養護学校には絶対に行かせたくなかったみたいです。この辺りは後から聞いた話でした。

 

お家の中では、S君はちゃんと衣食住を確保されて大事に育てられてたのは分かりました。

でも、家族以外の外部との関わりがほとんど無い状態。ただ毎日家にいるのです。

 

祖父がいくら言ってもご家族は話を聞いてくれないので、私たちが帰省した時にはよく父も加わって親族会議みたいな話し合いをしていたのを覚えています。

 

 

「障がいがあっても他の子と同じように学校行く権利があるんだから」

「養護学校なら専門の就職訓練とかしてくれるから」

「もっと外に連れ出してあげないと可哀想」

 

 

特に教師だった父は、この状況を何とかしてあげたいと思っていたようです。

でも、肝心のご家族が聞いてくれないし、遠方に住んでいる自分にはどうしようもなく・・・。

 

せめて自分に出来ることを、と帰省した時には時々S君を車でちょっとした中距離ドライブに連れ出してあげていました。

普段お出かけ出来ない分、高速道路に乗って足を延ばして・・・

 

S君もお出かけがすご~く嬉しかったようで、父が迎えに行くと「○○おじちゃん、○○おじちゃん」と喜んでいました。そのことは私もよく覚えています。

 

興奮しすぎて、サービスエリアでお土産を沢山買わされた・・・と父が苦笑いしながら帰ってきて、私はS君すごく嬉しかったんだろうな~と思いました。

 

 

私が子どもの頃は毎年のように祖父のところに帰省していましたが、年齢があがると共に部活や他の用事でだんだん行く頻度が減っていき・・・

祖父も私たちのところに遊びに来てくれたりしたので、私が秋田に行くことも数年に一度という感じになっていきました。

 

そんなわけで、S君とはほとんど会わず・・・私が大人になってからここ20年弱では、1、2回会って挨拶をしたくらいでしょうか。

 

父と祖父はかなり長い間S君のご家族に話をし続けたようですが、S君が成人した後くらいからは、説得を諦めたようです。

 

 

今はもう祖父も田舎を出て私の両親と暮らしているので、私がS君に会う事って今後あるのかな・・・わかりません。

 

 

 

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私の人生の中で、このS君と実際に関わったのって時間で考えるととても少ないです。

 

そしてもう長年会っていなかったのもあって、私の中でS君のことはほとんど忘れていた・・・と思っていました。

 

でも実際は、このことは私の潜在意識の中にものすごいインパクトを残していたようです。

 

インナーチャイルドとは少し違うと思うのですが、子ども心にS君をなんとかしてあげたいって思っていたのだと思います。

 

そして、父と祖父が一生懸命S君のご家族に話をしている姿を見てきたので、障がいのある子の権利を守ることは自分にとって自然なことだと感じていました。

ただ、大人になるまでそのことを強く意識することもなかったのですが・・・

 

S君を助けてあげたいって思っていた子ども時代の自分は、その後自分の中でひっそりと姿を隠してました。 

 

 

でも自分の息子が自閉症だと診断され、その隠れてた自分がまた姿を現したんですよね。

その事に私も最初は自分で気づいていなかったのですが。

 

 

 

 

※すみません・・・また終わらなかったので、さらに続きます。汗