A Minority in New York City

2010年春、これが最後になりました。

大平和登先生と。(伊藤雅章氏の写真と先生の俳句のコラボ展にて)


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演劇評論家・文筆家・俳人でもいらっしゃる大平和登先生がお亡くなりになりました。

79歳でいらっしゃいました。


悲しくて仕方ありません。

もう一度、もう一度でいいから、お会いしたかったです。



先生は、ブロードウェイミュージカル、演劇、映画を沢山日本に紹介して、日米の架け橋として

日本の演劇界に大変貢献をなさった方です。


作家の井上ひさし氏、小林信彦氏などを始め、ニューヨークを訪れる作家、文化人、演劇人は

先生のアテンドや情報を「あてにして」訪れる方々が少なくなく、そういう作家の方々の「NY旅行エッセイ」に、頻繁に名前が出てきていた方でした。


私が先生の名前を覚えたのも、ニューヨークに行きたかった時に私が読んだ

井上ひさし氏のエッセイででした。



その後、NYの読売カルチャーセンターでピアノ講師をお頼まれした時に、

そこで「ブロードウェイミュージカルの講座」を持っていらした大平先生に

センター主催のパーティーでお会いすることができました。


お人に紹介されて、ああ、この方が、あの大平和登先生なんだ!と。

実際にニューヨークに住めているだけでも嬉しいことなのに、こうして大平先生に繋がった・・・・・・

嬉しかったですねぇ。



ミュージカルが好き、ガーシュウィンが好きだというと、

先生がまず驚かれて、それから嬉しそうな顔をなさったのを覚えています。


そして、「それなら、あなたをお連れしたいところがありますよ」



そこは、主にブロードウェイの演者たちが、舞台がはねた後、飲みに集まるピアノバー&レストランだったのです。(今はありませんが)

広いレストラン兼バーで、たくさんの舞台関係者で賑わっていました。

グランドピアノに張り付いたカウンターに、先生とアシスタントの方と私が座ると、

ピアニストの男性が、弾き語りで、まさにガーシュウィンを歌うではありませんか。


先生と私は思わず顔を見合わせました。


しばらく楽しんだ後、

ピアノの上にあった彼の売り物である「ガーシュウィン弾き語りCD」をお買い上げになり

「記念ですから、これをあなたに差し上げましょう」と私に下さいました。


男性ピアニストが、休憩に入って、ピアノが空いた時、

大平先生が、「享子さん、どうですか、なにかお弾きになったら」


私は、いつもは、その手の突然の「振り」には、そして特にお酒が入っている時には、

通常はお答えしません。


しかし、さすがの大平先生のお誘いに水を差してもいけない、という気持ちが働いたのか、

そんな大勢の前で、それもガヤガヤしている飲み食い喋りの席で、

その上、お酒が入った状態で、

私は、ナント、ピアノの前に移動していくつか弾いたのですね。

(何を弾いたかがあまり定かでないのがヒドイ。

スカルラッティとガーシュウィンだったかなぁ・・・そうだとしたら、奇妙な組み合わせだが)


そうすると、場が静かになって(おそらくスカルラッティで)雰囲気が変わり、

ガーシュウィンのあと、拍手が起こった(ような気がした)のですね。


その様子は、その後、大平先生が、読売新聞のコラムにお書きになって下さっていました。




で、そのすぐ後に、タクシーの中でだったか、


「享子さん、カーネギーでデビューしましょう」



そうして、私のニューヨークデビューは、先生のお陰で、一瞬にして決まったのでした。