今日の記事、マジやで。しかも長いで。
今、物騒な話になっている、C国のこと。
HanaBanana家で見た・聞いた・知った物語、
お伝えしたいと思います。
両親共に、風変りな生活の歴史を持ってますので
あまりめったにある話でもないだろうから。
見聞きした限りで。
ワシの母は、C国の上海に育ちました。
上海という都市は、いまだその色を残していますが
イギリスやフランスやアメリカが、1920年から30年に
かけて、それぞれの租界(外国人居留地)を持ち、
各々が独自の行政を持ち、第二次世界大戦まで
発展に発展を重ねた、C国の中でもちょっと違う都市。
また、ロシア革命後、国を追われた貴族だった人々が
逃げてきた土地でもあり、この間まで伯爵夫人だった人が
キャラコという生地を売りにきたり、そんな行商人も暮らす
様々な国の文化がミックスされた街でした。
そこに1935年に産まれた母。第二次世界大戦が
激化した数年は、日本に戻っていたようですが
母の父、ワシの祖父が、日本企業の上海支社の
責任者でもあり、また戦後、C国政府から技術支援を
依頼された立場でもあったので、母は青春時代を
上海で過ごしたのです。
あ、うちの祖父は危険な技術を提供していたワケじゃ
ないよ。石鹸とか、そういうモノです。
ともあれ、上海は、歴史上、自国民も、他国の民族も
受け入れる、雑多な街。
祖母が先見性のある考え方だったので
戦後と同時に、「これからは英語の一つもできないと」と
即、カソリック系のインターナショナルスクールにぶち込まれ、
そこで様々な人種と学び舎を共にしました。
当時のロマンティックな話は数あるのですが、
それは別な機会にします。
今日はそこのボーイズスクールに通っていた
両親共に日本で教育を受け、医師となった両親のもとに
育った、母の幼馴染の男性について書きたいと思います。
彼は英語名はジョージといいます。
もともとは台湾人です。
両親は日本で教育を受けていますが、
お母さんは、昭和皇后のご学友にも選ばれた
台湾総督の末裔にあたる人で、
非常に見識が高い、親日家の人でした。
お父さんも日本で青春を過ごしたので
お二方とも、中国語よりも日本語の方が得意だったので
家庭も中も日本語で話していたそうです。
ジョージは、3人兄弟の真ん中で、母が通っていたスクールの
ボーイズスクールに通っていたそうです。
C国は、1960年あたりに、文化大革命という
社会主義文化の推進運動が始まるのですが
50年に入った頃から徐々にその色は見え始めていたそうです。
主に「吊るしあげ」という大衆運動が目についたそうですが、
医者、弁護士、学者などの知識人や
資本家層などの特権階級は、弾圧の的となったそうで、
往来で、C国の若者が自分の親を
「うちの親は金の延べ棒を隠しもっていたー!
裏切り者だ!反革命分子は人民裁判だ!」と
そこらへんの人を扇動し、全員で石つぶてを持って
半殺しにあわせたり・・・
普段、C国のローカルな生活とは接する機会がない
母も、「これからどうなっていくんだろう・・・」と
不安に思ったそうです。
その影響から、ジョージや母が通っていたスクールは
徐々に閉校に追い込まれ、母は20歳になる前に
シスター総出で授業を進め、単位を取らせて
繰り上げ卒業させてくれたそうです。
母一家は、父(ワシの祖父ね)を残して、日本に帰国せざるを得ず、
ジョージや、付き合っていたボーイフレンド、親友達が
引上げ船の横を小さい手漕ぎボートで、追いかけて追いかけて
涙涙の別れをしたそうです。
ジョージや、殆どの学友とは連絡が取れなくなり、
また、自分の父親さえ、連絡や送金が途絶えがちになってきて
中国の政情の変化を感じたそうです。
その後、親友がアメリカに帰国し、その人とだけは連絡を
取っていました。
母が40代後半の頃、その親友を通して、ジョージから
手紙が届いたのです。
ジョージは香港に住み、お兄さんと一緒に会社を設立し、
順調に暮らしていました。
「会いましょう!」ということになり、母は香港に行きました。
ちなみにジョージは、母が10代の頃、何度かコクって
ふられた経験があり、母はジョージの初恋の人だったのです。
で、香港で会い、ジェントルマンなので、いきなりということは
なかったですが、1年間かけて、プロポーズしてきたのです。
その間、財産全部費やしてんじゃね?くらい、
ダイヤやらなんやらのリングやイヤリングやブレスレット
毛皮など、プレゼントされてたよ。しかも、うちの母、
ダイヤの指輪1個、手袋はずした時か何かに
どっかに失くしたりしてんの。なんつぅヤツだよ。
当時、両方ともバツ1、ジョージには2人娘がいました。
ワシもいるので、結構な大所帯なファミリーになります。
で、そこでジョージが望んだことは、
「香港はいずれC国に返還される。その前にどうしても
日本にいきたい。日本人として死にたい。」
ということだったので、母は引き受けました。
母は会社経営しており、バブルで羽振りも良かったので
ジョージを社員にし、娘達も引き取ったのです。
ジョージはお兄さんに会社をあげて来日したので
貯金は少しあったものの(母に使い切ったんか?)、
その後の生活は、母の腕一本でした。
日本語の話せない娘を2人私立に入れ、日本語教室にも
通わせ、ワシも海外に留学していたのでネ。
母は、好きとか愛してるとかいう感情よりも
「この人を幸せにしてあげなきゃいけない」という
気持ちが強かったのです。
何故、彼はそんなに日本人になりたかったか。
もちろん、母の存在もあったと思います。が、
背景にC国での経験があったのです。
母が日本に引き揚げた後、ますます文化大革命が激化し、
両親共に医者であり、台湾国籍、台湾の重要一族の末裔で
なお且つ日本語を話すジョージ一家の弾圧は
ものすごかったそうです。台湾国籍も、その時に取り上げられた
そうです。
まず、お父さんと弟は強制労働に連行され、来る日も来る日も
ブロックを運び、それを元の場所に戻すという意味のない労働、
寝食・トイレをする場所は、中腰でしか立てない高さの檻に
閉じ込められ、中国語の漢詩か何かを書かされたそうです。
数年間の強制労働、2回か3回、行かされたそうです。
その後、強制労働から帰ってきてからも、一生、
腰が曲がったままでした。
お母さんは、堕胎専門医として政府に雇われ、
一日何十人もの堕胎手術をし、とうとう手が動かなくなりました。
その上、視力もなくしたそうです。
最初、ジョージの兄が香港に逃げました。
兄の生活の目処がついた知らせを受け、ジョージも逃げました。
最後まで、お母さんを置いていくのに後ろ髪をひかれましたが
お母さんが「いいから、行きなさい。」と彼を追い出したそうです。
どう逃げたと思います?
密航船で香港近くの湾岸まで来て、岸まで50M以上ある海に
おろされるんです。
そこを泳ぐんです。集団で。中国の沿岸警備隊に後ろから
撃たれながら。
着いたベイは、牡蠣の殻で埋め尽くされています。
そこを裸足で逃げるんです。血まみれになりながら。
だって、後ろから撃ってくるんだもの。
そして3日3晩かけて、山中を歩いたそうです。
一緒に逃げた人達と一列で。
上空から軍機に発見されても、「蛇」に見られるように。
「はっ」と気付いた時は、墓石の上に寝ていたそうですよ。
ワシ、その牡蠣殻のベイに、高校生の時に連れていかれ
この話を聞きました。
ドラマの話みたいな感覚でした。
5年後、ジョージは日本で在日外国人として
一生を終えました。
日本の外務省に、日本人に帰化したいという書類を
提出していたのですが、これ、知ってます?
ものすごい膨大な書類を出すんですよ。
何故、日本人になりたいか、とか作文もあるんですよ。
クロード・チアリも言ってたけど、なっかなか許可がおりない。
母なんて、「そんなに日本人は偉いのか?」って
怒っていました。
でね、ジョージはガンで亡くなったんですが
最後の申請は自分では行けなくなっていたので
母が行きました。「本人は末期ガンで来れないので
代理で来ました」って言ったら、帰化する許可がおりたんですよ。
日本のこの外国人に対する対応、呆れ果てましたネ。
このあたり、日本における深い差別意識と
排他主義が根ざしていると、ワシは思っています。
そして、彼が闘病している間、特に最後、モルヒネで痛みを
殺している時期は、C国での弾圧時代が幻覚として見えるらしく
「アカが来る、アカイ牛が来る・・・」とか言ってたそうです。
当時、毛沢東を支持する労働層の学生から出来た紅衛兵という組織、
富裕層、知識層を何万人と虐殺した事をいってたのでしょう。
最後の言葉は、母に
「いいよ、僕は日本人になれなかったけど
Man of the earth(地球に生まれ落ちた人)として死んでいくから」
でした。
娘2人は、結局、香港のお母さんの所へ帰りました。
本人達、まだティーネージャーで、お父さんが亡くなった後
継母である母の元で暮らすのも、息苦しかったのもあるでしょうが
C国人は子供を財産と見なすのです。
それまで、まったく連絡のなかったお母さん(再婚してる)が
「娘達を帰してほしい」と電話してきたし、ジョージのお兄さん、
彼女達の叔父にあたる方からも、「帰ってらっしゃい」と。
今、その妹達が、どこで何をしているのか、わからないけれど
幸せに暮らしていたらいいのになと
思っています。
ワシ、C国に関しては、ジョージ一家の辿った運命が
国としての体制なのだなと理解しています。
じゃぁ、ワシは日本について、どう思っているか?
自分が暮らす国として、外交、政治、経済の
実力がある国であってほしいと思っています。が、
ワシもMan of the earth感覚が強いんです。
何故か?
時代は戦中、今度は父方の一族にまつわる話です。
父方の一族、ワシの曾祖父は、アメリカに日本領事館を
作った使節団にいたんですネ。
なので、曾祖父の子供であった、ワシの祖母とその兄弟は
アメリカ育ち、そもそも曾祖父もカーネル大学だか何だか
忘れたけど、アメリカの大学卒業してるんです。
この一族もロマンティックな話は数あるんですが
今日はそれは置いておいて。
そんな一族、アメリカに暮らした事がある一族でしたので
曾祖父がもう亡くなって、大叔父が当主を継いでいた
戦中、曾祖母は、「あんな大きい国に勝てるワケがない!」と
言いきって、家を官憲に見張られてました。
大叔父も当然、戦争反対派で、戦前から、GEっつぅ
アメリカの会社の取締役かなんかしてたらしく
年齢もそう若くなかったので、戦争にはいってなかったんです。
独身で、曾祖母、祖母(離婚して出戻った)、大叔母(未婚)×2を
養っていました。
が、戦争末期、殆どの若者が戦死や戦場にいってたので
とうとう大叔父も召集されてしまいました。
何か手を使って、行くことを阻止しようとしたのですが
そうなると、女ばっかりの家、国だけじゃなく
近所から「裏切り者呼ばわり」され、周りからどんな
陰湿なイジワルに合わされるのか、目に見えていたので、
南方の島へ行かされました。
うだるような暑さ、食糧や水も少なく、病気で倒れる者も続出、
そこで、イギリス軍と対峙、とりあえず撃ってるけど
当たらないように撃ち、膠着状態。
誰もが、「この戦争は終わりだな。負けるんだな。」と
わかってる雰囲気が蔓延していたそうです。
大叔父は、上長にかけあいました。
「この状態では、失わなくてもいい命さえ失います。
ここは一つ、先方に休戦をかけ合って、体力温存を優先し、
お互いに自国の再建に人力を使うべきかと思います。
幸い、僕は英語が出来ますので、交渉は僕がやります」と
訴えたそうです。
上長は当然、「負け」と「無駄骨」を一番感じていたので、
「それならお願いしよう」ということになったそうです。
丸腰でホールドアップでイギリス軍に向かう大伯父。
イギリス軍も、銃を下げました。
あとちょっとで、敵の陣地に入ろうかという所で
「ニッポングン、バーンザーイ!」
という声と
パァァーン
という銃声が響き、大伯父は死にました。
日本国家のプロパガンダに染まり、
物事と状況をよく考えない狂気の日本兵が
大伯父を撃ち殺したのです。
その後、大叔父の骨(と称して、小石が入った骨壷)を
持ってきた、同じ隊にいた人が、曾祖母に伝えたそうです。
「最後まで立派でした」と。
何が立派だ?
むざむざと犬死しただけじゃないですか。
当然、撃った兵士は罪をとがめられず、「仕方なかった」で
片づけられ、生還しました。
当主をなくした父方一族の悲しみと苦労、計り知れないです。
ワシは日本で暮らし、働き、子供を学校に通わせていますが、
命を落とすことは無いにしても、
日本人の狭い了見を感じることは多々あります。
はっきり言いましょうか。
日本人的な事、苦手なことが多いです。
暮らしづらいこと、多いです。
今回のような事があると、自国について考えざるを得ないのですが、
常に、上にお話しした事が、脳内にあるので、
どこの国に肩入れをするとか、一刀両断、断罪するとか、ではなく
あくまでも、どの国がどういう背景で今の状況になったのか、
それを踏まえて、自国をどのように守っていくのか、
視点をそこに置いた方が、無駄がないと思います。
とりあえず、外にはあまり語られない物語2つ、
心に留め置くものでもないので、書きました。
そんなワシは、何人なんだろうか?
Man of the Earthで良いんではないだろうか?と
最近思っています。