一昨年、夏に帰宅した時に冷蔵庫に同じおかずがいくつも入っていた。
中には1カ月前のものもあった。

自己都合退社に追い込もうとする会社に対抗するため、
父独り残して住宅手当のでない転勤命令に従って長野から神奈川
まで引っ越した。同時期に2人がやめた。ちなみにその年度の
自己都合退職者は18人で、そのため会社は3年連続の赤字を
かろうじて回避できたようだった。

認知症は前頭葉を使う会話をしないと、進むと言われている。
今思えば断るべきだったかも知れない。

若者でさえ正規雇用は難しい昨今、
断ったところで昔なら定年まであと数年の気だけは若い年寄りを
正社員で雇うところなど皆無。転勤後1年探してみて派遣の仕事
は幾つかあったが、正社員採用は面接にさえこぎつけなかった。
大企業に属して自己鍛錬を行っていないので資格も何もない。
当時の技術は陳腐化して使いもにならない。
技術で生き抜くには常に自己鍛錬が必要なので
力のあるものは独立する。
出世欲もなく名誉職にたどり着けないものの末路は悲惨である。
その現実は、求人の多いと思われる都市部でも変わらない。

対策として、できるだけ家賃の安い物件をネットで3日かけて
探し出した。駅から徒歩分の7畳のワンルームマンション。
通勤にはドア to ドアで100分かかる。
破格なのは、寮として使っていた会社が撤退して部屋が
大量に空いたためだった。
敷金礼金なしもありがたかった。クロ-ゼット、ユニットバス、
トイレ、IT調理器付き(ガス使用禁止)、壁が薄く楽器禁止、
夏場はゴキちゃんと遊べるオプションあり。
低層階の鉄筋の頑丈な作りの建物で1990年建立。

コンビニ(711)、スーパー(LIFE)、ホームセンター
(コーナン)、郵便局があり、引っ越した次の月に生鮮魚屋が
新規開店するなど、生活するのに何に不自由ない環境。
必要なら敷地内に駐車場も借りられる。

健康のため徒歩20分歩きで通勤定期を2駅余分に申請。
ただし、6カ月定期の月割支給なのでそうしないと赤字になる。

最初の一年は長期休暇の時に父の様子を見に帰える程度だった。
その時は、父もまだ車の運転もできて、スーパーにも買い物に
行き、施設に預かってもらっている母の洗濯物を取りに週2回
は施設に顔をだしていた。自炊ができないのではないかと心配
していたが、弁当やお惣菜を近所のスーパーで買っているようだった。

母は3年前大腿部骨折して以来、車椅子生活でリハビル目的で
介護施設に入居したが、回復せず、認知症が進み現在、介護度
4である。

父の変化に気づいたのは昨年のゴールデンウィークあたり。
冒頭の冷蔵庫の話に戻る。

離れて住んでいる妹と相談し、役場が警備会社と提携している
独居老人用緊急通報管理システムを設置した。
年収によりある程度経費が安くなる。週に一度、役場から
確認の電話が入り、もしもの時には救助要請ボタンを押せば
警備会社の人が駆けつけてくれる。

念のため近所の理容師さんの所に家の合鍵を預けて
何かの時の緊急対応をお願いした。

夏に毎年行っている原村星祭のため帰宅した時には特に
何も感じなかったが、趣味でスクラップしていた新聞の
棋譜の切り抜きはしていないようだった。
そのあと母の居る施設から洗濯物を取りに来なくなったと
電話があったので洗濯は施設に依頼することにした。

そして、秋に父が払っていた母のいる施設への入金が
2カ月途絶えていると連絡が入ったとき、妹が心配して
東京出張の祭、様子を見に長野まで行ってくれた。
施設、役場と相談し近所のケアマネージャーさんを経由して、
母の入っている施設にデイサービスをお願いすることにした。
人と接するようになれば認知症の進行を多少でも遅らせる
ことができるだろうとの配慮だった。

すっかり出不精になっていて、最初は難色を示していた
父もさすがに自分の置かれている状況がわかってきた
ようでこの時は素直に従ってくれた。人と関わるように
なれば少しはマシになるのではないかと言う期待があった。

そして、ひと段落したと思われた1カ月後の11月の末に、
私の携帯が鳴った。