太田資正の失敗⑥~米中抗争新時代の日本の道のヒントとして」の続きです。

AIIB(アジアインフラ投資銀行)を巡るやり取りによって、覇権抗争が新たな段階に入ったことが明らかになった米中両大国。そして、その間で苦しむことになる日本。
本稿では、この三者を、戦国時代(永禄年間)の上杉謙信、北条氏、そして武州岩付(岩槻)の戦国領主・太田資正に置き換えるアナロジーを採用。その上で、上杉謙信と北条氏という新旧二大勢力の勢力争いの舞台となった関東で、同地の戦国領主・太田資正(岩付時代)が、いかに振る舞い、どのように敗れていったかを追っていきます。そこに、これからの日本の進むべき道を考えるヒントが溢れていると信じて。

本シリーズも(岩付領主時代の資正編は)いよいよ終盤。
前回は、武州松山城の陥落後の上杉謙信の怒濤の反撃による関東勢力図の塗り替えについて語りました。また謙信の帰国後に再び太田資正が窮地に追い込まれたことにも触れました。

今回は、資正による対北条氏の最後の大規模合戦である、国府台合戦について述べようと思います。
岩付(岩槻)領主時代の資正が最後に仕掛けたこの合戦。それは、“本土防衛戦”に追い込まれた資正が打った乾坤一擲の大博打でした。

※ ※ ※

1.太田資正の失敗
力での封じ込めの破綻(続々々々々々)

⑧北条氏との合戦の推移(永禄六年末から七年)

⑧ー1.資正の地政学的・戦略的敗北(永禄六年秋)

前回述べた通り、上杉謙信が、北関東の北条方の領主らを軒並み再服属させた大反撃があったにも関わらず、謙信が帰国すると、太田資正の岩付領(岩槻領)は再び苦境に追い込まれます。

謙信の援護の甲斐なく資正が窮していったのは何故か。その理由を再度考えてみます。

岩付領は、そもそも北条氏の領国と“国境”を接する地です。
北条氏の武蔵国支配は、
・武蔵野台地北端の河越城を中心とした河越領、
・武蔵野台地東端の江戸城を中心とした江戸領、
によって武蔵野台地を面で押さえる、というもの。河越城と江戸城を結ぶラインが北条氏の勢力圏の“国境”であり、そのラインはそのまま太田資正の岩付領の“国境”でもありました。
即ち、河越城から江戸城に至る長い“国境線”で、岩付領は北条氏領国と直に接していたのです。

【参考】岩付領と北条氏領国の“国境線”
北条氏領国と岩付領の国境線

資正の岩付領と国境を接する北条氏。その北条氏の軍事力は健在でした。自らの関東における評判を落としてまで、謙信の反撃進軍との接触を対決を避けたことで、北条氏の主力部隊は無傷で保つことができたのです。
北条氏は、謙信の帰国後、この主力部隊を以て、速やかに反撃を開始することができました。その標的が、北条氏領国と直接“国境”を接する岩付領だったのです。

確かに北関東の北条味方衆の領主達は、謙信に再服属しましたが、北条氏を向こうに回して戦う資正を合戦で助ける程の覚悟はまだありません。
資正は、謙信が去った関東で、再び単身で北条氏の圧力に晒されることになったのです。

もっとも、岩付領が北条氏から直接圧迫される状況は、永禄四年後半から断続的に続いてきたもの。いつもの風景と見ることもできるかもしれまん。しかし、永禄六年夏の岩付領は、それ以前とは違った状況に追い込まれていました。
永禄三年に北条氏に対してハンキヲ翻して以降、資正北条氏から奪った北西の松山城、南東の葛西城を領外の要害として前“本土”を守る形を取っていました。しかし、今や両城は北条氏に奪還されています。岩付領は、本土をむき出しにされていたのです。
元から存在した南西の“国境”線からの攻撃に加え、北西の松山城筋からの攻撃と、南東の葛西城からの攻撃、合わせると、合計三方から、北条氏に攻められる境遇に、岩付領は追い込まれたのです。

【参考】岩付領、三方から攻められる
岩槻、三方より攻められる

もとより、北条氏に比べ動員できる兵力の面において、圧倒的に不利だった資正です。資正の「岩付千騎」に対して、最大三万騎を動員できた北条氏が三方から攻撃を仕掛ければ、資正は押される一方となったはず。岩付千騎だけで防衛できるものではなかったに違いありません。

それ故、資正は、直前の謙信の北関東“平定”の助けがあったにも関わらず、急速に追い詰められていったのです。



この時の資正の置かれた状況は、太平洋戦争において硫黄島を米軍に奪われた時の大日本帝国のそれによく似ています。
硫黄島を押さえた米軍は、以降、この島を拠点としてB29を飛ばし、日本本土に大規模な空襲を仕掛けることが可能になりました。

硫黄島を奪われるまでは、日本人にとって戦場は海の向こうの島々でした。しかし、硫黄島を失った後、日本全土が“前線”になったのです。

大日本帝国は、戦術的にはまだ打てる手は残されていた(特攻もその一つです)ものの、戦略的には既に敗北していたと言えます。太田資正の岩付領も、本土をB29の空襲に晒されたかつての大日本帝国と同じ状況に追い込まれたと見てよいでしょう。


⑧ー2.岩付領の本土防衛戦(永禄六年末)

戦略的には既に敗北していたに等しい永禄六年夏場以降の資正ですが、戦術的には北条氏の岩付領攻めを、個別迎撃していたようです。

この時代のことを記述しているのかは定かではありませんが、資正の三男・太田資武は、後に『太田資武状』の中で、父資正と北条氏康の岩付城を巡る攻防をこう書き残しています。

岩付之城属氏康手ニ候儀は、兄ニ候源五郎、親を楯出申後之儀ニ御座候、三楽岩付ニ在之内も、氏康以猛勢被攻候得共、城堅固ニ持、寄手幾許被討及難儀申ニ付而、

資正が氏康の岩付城攻撃をたびたび撃退した、というこの『太田資武状』の記述。該当する時期が他に考えにくい(参考:『太田資武状』が語る岩付城(岩槻城)の攻防)ため、真実ならば、永禄六年のことであろうと私は見ています。

資正は防衛対象を、本拠地・岩付城に絞ることで、北条氏との攻防戦を再度「局地戦」に持ち込んでいたのかもしれません。
平城の岩付城ですが、
・周囲を巡る広い沼を濠代わりとし、
・東からの攻撃には荒川(元荒川)が障害に、
・西からの攻撃には見沼の大湿地と岩槻支台の斜面が障害となり、
実は意外にも堅城であったと言われています。

※1 『岩槻巷談』という江戸時代末期に書かれた軍記物に登場する加倉畷の合戦は、この頃のことだったのかもしれません。
※2 “シンボリ”と呼ばれる北西の土塁・空堀も岩付城防衛に役だったかもしれません。

【参考】岩付城を防衛する地形
①東西の攻撃に対して
岩槻城の防衛ライン①

②北からの攻撃に対して
岩槻城の防衛ライン②

③南からの攻撃に対して
岩槻城の防衛ライン③

守りに徹することで、北条氏の攻めを都度撃退するという場面は、ある段階までは、繰り返されのではないでしょうか。


⑧ー3.岩付城を急襲せよ(永禄六年末)

しかし、そんな資正・岩付衆も、永禄六年秋頃にはある危機を迎えます。それは、兵糧の欠乏でした。
本土防衛戦に徹したこの年、もしかすると岩付衆は、米の栽培・収穫を例年通りには行えなかったのかもしれません。
というのも、近年、この時期に、・資正が房総里見氏から兵糧を調達しようとしたこと、しかし里見氏は兵糧を市川付近まで運び込んだものの兵糧の価格交渉がまとまらず、結局、里見氏の兵糧は岩付城に運び込まれなかったこと、が一次史料から明らかにされているためです。

房総里見氏から兵糧を調達しなければならない程、この時の岩付領は、穀物自給においても窮していたようです。

同盟国から兵糧の支援が行われようとしていたことは、興味深い行為です。それが結局は実現しなかったことで、このことは、我々にあることを教えてくれます。
国力の源泉となる価値を生み出す経済活動の継続が不能となった時、その国は存続できなくなります。同盟国が支援しようとも、国を成り立たせている根幹の経済活動の代替はできないのです。



“資正、兵糧に貧して里見に支援を請う。されど交渉まとまらず。”
その報は、岩付⇔里見の連絡路である市川付近を東から扼す北条方の小金衆・高城氏、西から扼す江戸衆の知るところとなります。

高城氏が、今こそ岩付城攻撃の好機と北条氏康に報告すると、氏康はすかさず小金衆・江戸衆に岩付城攻撃を命じました。 兵糧は三日分も集めればそれでよい、すぐに進軍して岩付城を攻めよ、と。氏康がそう指令を下したことは、一次史料から確認できることです。
しかし、その後岩付城の急襲が実際に行われたのかは、史料からは確認できません。

史料から分かるのは、この直後、太田資正が兵を率いて岩付領を後にしたこと。資正は、房総里見氏が滞在していた下総国の国府台城に合流し、ともに江戸を攻める姿勢を見せたのです。

黒田基樹等の研究者は、兵糧が調達できず岩付城籠城の道が途絶えた資正は、北条勢が現れる前に城を出て、里見氏に合流したと見ています。

籠城が叶わないと悟り降服するのではなく、逆に攻撃に転じた資正。戦略的には敗北してもなお、戦術的に打つ手があれば、そして僅かでも大逆転の可能性があれば、その手に賭ける。
この判断は、資正が勝負師であることを示しているものと言えるでしょう。

結論から言えば、この時の資正の戦術的決断は、彼の戦略的な敗北をひっくり返すには至りませんでした。しかし、北条氏に思わぬ大損害を与えることには成功したのです。


⑧ー4.謙信は何をしていたのか(永禄六年末)

関東における己の片腕である太田資正が窮地に追い詰められていった永禄六年の後半、上杉謙信は何をしていたのか。

謙信は、この年の四月に関東から越後に戻ったばかりでしたが、実は秋には再び関東に姿を見せていました。

しかし、進軍した先は、資正が追い詰められていった南関東ではありませんでした。謙信は、自身の関東統治の拠点であった上野国(群馬県)の西部に入り、その地の武田勢力の排除に注力したようです。

上野国西部は、信濃国から攻撃を受けやすい地。永禄四年から、北条氏を助けるため、武田信玄はこの地にたびたび進出し、足場を築いていました。その信玄の足場を攻め、排除することは、謙信が関東南部を伺うには必須の前捌きだったのです。

しかし、謙信が西上野攻めにその身を奪われたことは、南関東で奮戦する太田資正が北条氏との独力での戦いを強いられたことを意味しています。

房総里見氏の岩付支援を謙信差配によるものとする見方もありますが、謙信自身が進軍できなかったことは、大きな後退として、関東の味方衆から見られた可能性があります。

謙信と結ぶことで北条氏に対抗しようとする資正の戦略は、これまで謙信が適宜適切に駆け付けてくれない場面があったものの、資正自身の奮戦でそれを補い、形としては継続してきました。
しかし、資正自身が追い詰められ、謙信がその救援を行えない状況が露になったことで、この戦略が完全に崩壊したと言えます。


⑧ー5.国府台合戦(永禄七年)

地政学的・戦略的に追い詰められ、謙信との同盟も頼れなくなった窮地の資正で曽田が、房総里見氏との共闘に賭け、主力部隊を率いて下総国・国府台に向かいます。
北条氏江戸衆が岩付城を攻める、という状況の中、居城を後にして江戸衆を根拠地・江戸城を攻める策に出たのですから、これは豪胆な振る舞いです。
永禄六年の年末のことです。

国府台は、江戸湾に流れ込む数々の大河(この時代は利根川も江戸湾に注いでいます)を挟み、東から江戸城に向かい合う城。今日の千葉県側から江戸城を攻撃するには、これ以上無い要害でした。

当然、北条氏の支配下にあった国府台城でしたが、里見氏はたびたび房総半島を北上してこの城を奪い、江戸城を攻める起点としました。 この時も国府台城は里見氏によって、江戸攻撃の拠点となりました。江戸城はふいに東の国府台から牽制されることになったのです。

北上して岩付城を攻撃するつもりだった北条方の江戸衆は、どうやら岩付城攻めを中止し、国府台の里見・太田連合を討つことにしたようです。岩付城を守るために江戸を攻めるべく岩付城を出て国府台に向かった資正の判断は、奏功したと言えます。

松山城から国府台へ<

国府台合戦の展開は、江戸時代に書かれた諸軍記物(『北条記』『関八州古戦録』等)において、
・一日目は里見・太田が国府台の傾斜を活かした戦術で勝利。しかし、
・二日目に、北条氏が夜襲を仕掛けたことで里見・太田は総崩れとなり敗走した。
と描かれています。

一日目の戦術とは、
・里見・太田が江戸衆に野戦を仕掛け、わざと敗走、
・里見・太田勢は、国府台城の坂道を登って逃亡し、江戸衆の追撃を誘う、
・江戸衆が深追いし、国府台城の傾斜を登ってきたところを城内から鉄砲で狙い撃ちにする、
というもの。
武州松山城で奏効した、籠城側による鉄砲活用法を応用したものでした。
(参考:太田資正が鉄砲活用法を確立した ~『兵器と戦術の日本史』(金子常規)から

この戦術は勝ちを急いだ北条勢江戸衆を罠に嵌める形となります。里見・太田側は勝利し、大きな戦果を得たとされています。

なお、古くから採用されている、この国府台合戦二日間説ですが、近年、永禄六年正月と永禄七年正月に行われた二年連続の合戦が、二日間の出来事だと誤って伝承されたとの説も有力になっています(→「千野原靖方『国府台合戦を点検する』を読む」)。しかし黒田基樹、市村高男ら著名な研究者が、通史においては依然として二日間説を採って記述を行ってることから、本稿も従来からの二日間説を採用することにしました

【参考:『関八州古戦録』が描く国府台合戦一日目】


この一日目の合戦で、北条氏側は、江戸衆の指導者である江戸城代の遠山綱景・隼人佑親子、そして城将の富永康景ら、重要家臣を失います。
関八州古戦録』は、江戸衆の指導者である遠山綱景、富永康景が、里見・太田に江戸を攻められる失態を犯したことを恥じたとし、早期に状況を打破するため、北条氏康の着陣を待たずに里見・太田の挑発に乗ったために敗北を喫することになった、と記述しています。

真偽の程は分かりませんが、討死した遠山綱景は、北条配下の中でも名の知れた名将。いずれにせよ、北条氏は、追い詰めたはずの窮鼠に噛みつかれ、大きな痛手を負ったことになります。



関八州古戦録』等軍記物によれば、翌日、北条氏は作戦を変更します。合戦場に到着した北条氏康が、国府台城を正面から攻めるのは危険と判断し、側面からの夜襲を命じたのです。
北条勢は、夜半になってから「がらめきの瀬」(後の矢切の渡し付近)を渡ります。そして、国府台城の北の斜面を登って、里見・太田勢を急襲し、壊走させたと言われています。

【参考:『関八州古戦録』が描く国府台合戦二日目】


軍記物の多くは、里見・太田勢が初日の大勝に気をよくして酒を飲んで警戒を怠った、としていますが、やはり真偽は分かりません。

強敵だった江戸衆の指導者二人を討ち取った金星を喜び、心に隙ができたことは考えられなくもありませんが、さすがに酒を飲んで警戒心を解いたというのは、劇画的過ぎる描写に思えます。
江戸衆は撃退したものの、その後ろからは、北条氏康が更なる軍勢を率いて現れていたことを考えれば、そこまでの油断はできなかったはずです。
しかし、初日の合戦で痛手を受けた北条勢がまさか間をおかず夜襲を仕掛けてくるとは、里見・太田側も読んでいなかったのでしょう。

大勝利の後の心の緩みを氏康が突いた、という意味では、軍記物が述べる国府台合戦二日目の顛末は、史実に近いのかもしれません。



夜襲を受けた里見・太田勢は、大混乱に陥ります。
豪将・北条綱成の突撃を里見勢が押し返す場面もあった、と『関八州古戦録』は述べます。しかし、里見勢の大将・里見義弘も、太田資正も討死寸前まで追い込まれたことを考えるならば、大局的には里見・太田陣は北条氏の夜襲の前に崩壊したと見てよいでしょう。

里見義弘は、敵三騎を切り捨て、さらに五人に手傷を負わせたものの、馬を射たれやむ無く徒歩に。「今はせんかたなし」と自害を決意したところに、家臣・安西伊予守実元が現れ、主君に馬を差し出した、という物語を『関八州古戦録』は紡ぎます。
安西伊予守は、「我こそは里見義弘なり」と叫んで敵中に切り込み、里見義弘を救ったとされています。

太田資正の状況は更にきびしいものでした。資正は敵将によって組伏せられ、まさに首を刈られる寸前まで追い詰められたと伝えられています。
太田家譜』を引用します。

三楽モ自身苦戦シ数ヶ所疵ヲ被ル敵大将ト見テ馳来テ組ケルガ三楽勇力タリト云トモ痛手有バ組舗シ即ニ首ヲカカレル時敵喉輪ノアルヲ不知シテ掻之故不切、此時三楽喉輪アリハズシ切レト云、敵驚テ是ヲ取ントスル時ニ、郎等舎人孫四郎野本与次郎両人馳来三楽ノ上ニノリタル敵ヲ引ノケ救之、三楽終ニ彼ノ敵ヲ討取也

己の首を刈ろうとする敵将のあまりの不器用さに、「首輪がある。それを外して刈られる切れ」と忠告する資正。乾坤一擲の最後の大勝負に負けたことで、やるだけのことはやった、もはやこれまでという想いがあったのかもしれません。

しかし、天は、この時の資正に死を与えませんでした。
資正が可愛がった若武者、舎人孫四郎と野本与次郎が主君の危機を察知して駆け寄り、資正を組伏せていた敵将を討ち取ったのです。

資正は九死に一生を得て、合戦場から逃走することに成功します。


⑧ー6.岩付追放(永禄七年)

国府台合戦の敗戦後、資正はしばらく岩付領に戻れなかったようです。国府台から岩付領に至る道は、すべて北条氏によって押さえられ、これを突破することができなかったのです。

里見氏とともに上総国に逃れた資正が、岩付領に帰還したのは、国府台合戦の五ヶ月後、永禄七年五月でした。しかし、城主・資正が、国府台合戦への進軍、敗戦、上総への敗走で城を空けた約半年の間に、岩付領は変わっていました。

後に資正の三男が書き残した『太田資武状』は、岩付城に対して北条側から懐柔工作が行われたことか述べられています。
氏康、大道寺駿河と申人、未若輩之砌、城中へ被投籠懇望之間、不及是非、取懸候人数為挙申由候、此段之事多儀ニ候条、筆紙ニ者不被申上候事

対北条強硬派だった当主・資正が、敗走し城主不在となった岩付城を、北条氏康は力攻めすることなく、懐柔・調略によって落とそうとしたのでしょう。

ことに、資正の嫡男・太田氏資は、上杉謙信の越山の前には、氏康の娘と婚姻を結ぶことを約束していました。資正を排除し、氏資を婿として取り込むことで岩付領を北条氏勢力下に納めるという考え方は、氏康にとって自然なものだったはずです。  
恐らくは、資正が帰還した永禄七年五月までに、氏資を新当主に担いで北条氏に臣下するという策は、氏康と氏資の間で協議されていたことでしょう。

そこへ帰還した資正。
悲しいかな、資正は、岩付城に残した息子や家臣達が、己を排除し北条氏に付く策を検討していることに気づきませんでした。

気づいていたなら、宇都宮氏(一説には里見氏)に援軍を求めるための使者として、当主である資正自身が城を空けることはしなかったはずです。
しかし、資正はそれをしてしまったのです。

国府台合戦で多くの兵を失った資正にとって、岩付領防衛には、周辺領主の協力が要りました。その有力候補が、去年(永禄六年)謙信とともに北関東の親北条領主を攻めた宇都宮氏でした。使者を送るのではなく、自らが出向いたのはそれだけ資正側に危機感があったことの証左です。あるいは、宇都宮氏側が、ただ使者を送っただけでは動かなかったのかもしれません。

いずれにせよ、資正は、浜野修理亮ら少数の側近を連れ、岩付城を出て、宇都宮に向かいました。
そして、これを機会として氏資は、家臣達の推挙を受ける形で、岩付領当主への就任を宣言します。父・資正の「楯出」(追放)も同時に宣言されたようです。

革命が起きたのです。

戦略的・戦術的に追い詰められた当主資正にもはや付いていけないとして、息子・家臣らが起こした政権交替。
この政権交替により、永禄三年の秋から始まった「岩付領主・太田資正」の北条氏との四年弱に渡る抗争は、終止符が打たれたのです。

資正はその後、常陸国片野(茨城県石岡市)に拠点を移し、北関東の反北条勢の中核として復活することになります。しかし、それは、岩付領主・太田資正の物語ではなく、“片野の三楽”の物語。その戦略は、また追って語りたいと思います。

【参考】国府台合戦後の資正の動き

国府台合戦後の資正の動き


※ ※ ※

太田資正は、なぜ北条氏に勝てなかったのか。資正の戦略は、どこが間違っていたのか。
それは、この「太田資正の失敗」シリーズを書き進めながら、その都度書いてきたことです。

しかし、資正奮戦の四年間の顛末を書き終えた今、再度整理することが必要だと感じています。

その整理を、次回(最終回)の課題にしたいと思います。

(続きます。あと一回 ⇒ 太田資正の失敗⑧