埼玉県さいたま市の岩槻(旧称「岩付」)を拠点とし、関東の覇者・後北条氏に立ち向かった戦国武将・太田資正。法名「三楽斎」としても、知られる人物です。
小身ながら、北条氏康、上杉謙信、武田信玄ら戦国の大大名達と渡り合った知恵者であり、意志を貫いた不屈の男。その生涯は、知略と武勇、そして反骨の精神で彩られています。
そんな太田資正(三楽斎)の生涯を、勉強しながら辿るのが、このブログエントリのシリーズ「太田資正のこと」。
今回は、資正が北条氏に服属していた時代の第4回目。弘治年間の出来事を追います(前回までは天文年間)。
この頃から、資正は関東の外交・軍事の表舞台に立つようになります。
北条氏への服属は続くのですが、資正独自の動きも目立ち始めるので、タイトルの趣向を変えてみました。
※
資正が、父・資頼の受領名「美濃守」を名乗ることにした翌年、元号が代わった。24年続いた天文年間が終わり、弘治年間が始まったのだ(天文24年10月に改元され弘治元年となる)。
父の代の領地の大半を回復し、また受領名「美濃守」を名乗ることにした資正も、新しい元号の訪れに、己の人生の新たな展開を予感していたかもしれない。
実際、弘治年間に入ってから、資正は、関東の政治・軍事の表舞台に立つようになった感がある。
北条氏康に服属することになった天文17年以降、資正の足跡は彼自身が領国内で発行した書状や判物でしか辿らない時期が続くのだが、これが弘治年間に入ると様相が変わる。第三者や外交の相手が資正のことを記すことが増えてくるのである。
※
資正が表舞台に立ったことを示す最初の出来事は、外交であった。
弘治元年。
陸奥白川(今日の福島県白河市)の領主・白川晴綱が、北条氏の動静を探るべく、岩付の資正に密書を送ったのだ。
以前より白川氏は、常陸国北部の領主・佐竹氏と苛烈な抗争を繰り広げていた。この抗争を少しでも有利に展開するために、白川氏は小田原の北条氏と結び、佐竹氏を背後から脅かす外交策を取っていた。
しかし、弘治年間に入った頃から、その佐竹氏が、北条氏康に取り入り、縁組みによる同盟に動き出したとの噂が広まっる。
慌てたのは白川晴綱である。
佐竹氏と戦うために同盟を結んだ北条氏であるのに、その北条氏が佐竹と手を組むとなれば外交戦略が根本から狂うことになる。
事の真偽を確かめるために白川晴綱は、情報集めに懸命になった。この時わ晴綱が問い合わせた相手が、太田資正だったのである。
もっとも白川晴綱は、資正に書状を送る前に、氏康や氏康の側近らにたびたび書を送り、佐竹氏との同盟の真偽を尋ねている。
しかし、返答の内容はいずれも「根も葉もなきこと」。晴綱はそれを素直に信じる気にはならず、資正に目をつけたのである。
資正は、北条氏に服属しており、その内部事情には精通しているはず。加えて、他国衆という立場故、北条氏本国とは一定の距離を保った存在でもある。北条氏に隠れて本当のことを聞こうとすれば、尋ねるべき相手は資正を置いて他にいない。
白川晴綱はそう考えたらしいのだ。
しかし、この時の資正の対応は、晴綱を失望させるものだった。
資正は、晴綱の密書とも謂うべき書状をそのまま小田原の氏康に送ってしまう。そして、晴綱への返書の内容を相談したのだ。
それどころか、氏康から「この文面で返書せよ」と指示する書状が来ると、それをそのまま晴綱に送りつけている。
資正だからこそ語れる北条氏の真の内部事情を知りたいと考えていた晴綱にとって、これほど落胆させられる対応はなかったことであろう。
もっとも、北条氏が佐竹氏と同盟するとの噂が事実無根だったのは、その後の歴史が示している。白川晴綱の懸念は、杞憂であった。
※
この出来事から分かることが二つある。
一つは、資正が、北条氏に服属していながらも、独自の外交を行う半独立勢力と見なされていたことである。
白川晴綱は、北条方の忠実な国衆としての取次以上の振る舞いを、資正に求めていた節がある。
本稿で述べてきた「資正は方便として北条氏に服属した」という考え方は、口にはしないものの、周辺の領主らは皆内心思っていたことだったのかもしれない。
もう一つ分かることは、資正が、この段階では律儀なまでに北条氏への忠節を尽くしていることだ。
資正の振る舞いは、白川晴綱の期待をあっさり裏切り、ただ北条氏に忠実な国衆としての外交取次に終始している。
力を付ければやがて再び反旗を翻すのではないか、と疑惑の目で見られないようにするため、資正は慎重すぎる対応を取ったのではないだろうか。
関東管領・山内上杉憲政は、越後に逃げたまま音沙汰が無い。まだ、立つべき時でないことは明らかだったのだ。
※
この白川晴綱との外交取次は、少なくとも資正が一人前の戦国領主として、関東の政治・外交の世界に登場したことを裏付ける出来事だったと見てよいだろう。
そして、この翌年、弘治二年には、資正の評価を大いに高める更に大きな出来事が起こる。
海老島合戦である。
この合戦で、資正は、江戸城代・遠山景綱とともに先陣を務め、目覚ましい活躍を見せたのだ。
「戦上手の美濃守(資正)」の評が、再び戦国関東を駆け巡ることになる。
これについては、次稿で語りたい。
■次稿→「太田資正のこと ~18.資正、表舞台へ②~」
■前稿→「太田資正のこと ~16.北条服属時代③~」
■目次→「太田資正のこと ~序~」
※
資正と白川晴綱との外交については、丸島和洋の「戦国大名の『外交』」を参照しました。
小身ながら、北条氏康、上杉謙信、武田信玄ら戦国の大大名達と渡り合った知恵者であり、意志を貫いた不屈の男。その生涯は、知略と武勇、そして反骨の精神で彩られています。
そんな太田資正(三楽斎)の生涯を、勉強しながら辿るのが、このブログエントリのシリーズ「太田資正のこと」。
今回は、資正が北条氏に服属していた時代の第4回目。弘治年間の出来事を追います(前回までは天文年間)。
この頃から、資正は関東の外交・軍事の表舞台に立つようになります。
北条氏への服属は続くのですが、資正独自の動きも目立ち始めるので、タイトルの趣向を変えてみました。
※
資正が、父・資頼の受領名「美濃守」を名乗ることにした翌年、元号が代わった。24年続いた天文年間が終わり、弘治年間が始まったのだ(天文24年10月に改元され弘治元年となる)。
父の代の領地の大半を回復し、また受領名「美濃守」を名乗ることにした資正も、新しい元号の訪れに、己の人生の新たな展開を予感していたかもしれない。
実際、弘治年間に入ってから、資正は、関東の政治・軍事の表舞台に立つようになった感がある。
北条氏康に服属することになった天文17年以降、資正の足跡は彼自身が領国内で発行した書状や判物でしか辿らない時期が続くのだが、これが弘治年間に入ると様相が変わる。第三者や外交の相手が資正のことを記すことが増えてくるのである。
※
資正が表舞台に立ったことを示す最初の出来事は、外交であった。
弘治元年。
陸奥白川(今日の福島県白河市)の領主・白川晴綱が、北条氏の動静を探るべく、岩付の資正に密書を送ったのだ。
以前より白川氏は、常陸国北部の領主・佐竹氏と苛烈な抗争を繰り広げていた。この抗争を少しでも有利に展開するために、白川氏は小田原の北条氏と結び、佐竹氏を背後から脅かす外交策を取っていた。
しかし、弘治年間に入った頃から、その佐竹氏が、北条氏康に取り入り、縁組みによる同盟に動き出したとの噂が広まっる。
慌てたのは白川晴綱である。
佐竹氏と戦うために同盟を結んだ北条氏であるのに、その北条氏が佐竹と手を組むとなれば外交戦略が根本から狂うことになる。
事の真偽を確かめるために白川晴綱は、情報集めに懸命になった。この時わ晴綱が問い合わせた相手が、太田資正だったのである。
もっとも白川晴綱は、資正に書状を送る前に、氏康や氏康の側近らにたびたび書を送り、佐竹氏との同盟の真偽を尋ねている。
しかし、返答の内容はいずれも「根も葉もなきこと」。晴綱はそれを素直に信じる気にはならず、資正に目をつけたのである。
資正は、北条氏に服属しており、その内部事情には精通しているはず。加えて、他国衆という立場故、北条氏本国とは一定の距離を保った存在でもある。北条氏に隠れて本当のことを聞こうとすれば、尋ねるべき相手は資正を置いて他にいない。
白川晴綱はそう考えたらしいのだ。
しかし、この時の資正の対応は、晴綱を失望させるものだった。
資正は、晴綱の密書とも謂うべき書状をそのまま小田原の氏康に送ってしまう。そして、晴綱への返書の内容を相談したのだ。
それどころか、氏康から「この文面で返書せよ」と指示する書状が来ると、それをそのまま晴綱に送りつけている。
資正だからこそ語れる北条氏の真の内部事情を知りたいと考えていた晴綱にとって、これほど落胆させられる対応はなかったことであろう。
もっとも、北条氏が佐竹氏と同盟するとの噂が事実無根だったのは、その後の歴史が示している。白川晴綱の懸念は、杞憂であった。
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この出来事から分かることが二つある。
一つは、資正が、北条氏に服属していながらも、独自の外交を行う半独立勢力と見なされていたことである。
白川晴綱は、北条方の忠実な国衆としての取次以上の振る舞いを、資正に求めていた節がある。
本稿で述べてきた「資正は方便として北条氏に服属した」という考え方は、口にはしないものの、周辺の領主らは皆内心思っていたことだったのかもしれない。
もう一つ分かることは、資正が、この段階では律儀なまでに北条氏への忠節を尽くしていることだ。
資正の振る舞いは、白川晴綱の期待をあっさり裏切り、ただ北条氏に忠実な国衆としての外交取次に終始している。
力を付ければやがて再び反旗を翻すのではないか、と疑惑の目で見られないようにするため、資正は慎重すぎる対応を取ったのではないだろうか。
関東管領・山内上杉憲政は、越後に逃げたまま音沙汰が無い。まだ、立つべき時でないことは明らかだったのだ。
※
この白川晴綱との外交取次は、少なくとも資正が一人前の戦国領主として、関東の政治・外交の世界に登場したことを裏付ける出来事だったと見てよいだろう。
そして、この翌年、弘治二年には、資正の評価を大いに高める更に大きな出来事が起こる。
海老島合戦である。
この合戦で、資正は、江戸城代・遠山景綱とともに先陣を務め、目覚ましい活躍を見せたのだ。
「戦上手の美濃守(資正)」の評が、再び戦国関東を駆け巡ることになる。
これについては、次稿で語りたい。
■次稿→「太田資正のこと ~18.資正、表舞台へ②~」
■前稿→「太田資正のこと ~16.北条服属時代③~」
■目次→「太田資正のこと ~序~」
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資正と白川晴綱との外交については、丸島和洋の「戦国大名の『外交』」を参照しました。
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