先日読んだ「大山倍達正伝」で知った、知られざる戦後空手史について、その中で私が面白いと思ったものを紹介していきたいと思います。


1.船越義珍と組手試合

沖縄から初めて日本本土に空手を伝えた「空手の父」船越義珍。
彼は伝統的な型稽古を重んじ、組手試合を行おうとする弟子たち(大学空手部)の取り組みに否定的だったと言われていました。
しかし「大山倍達正伝」では、その船越が、拓殖大空手部を引き連れ、立命館大空手部と組手試合の対抗戦を行ったという証言がでてきます。
時は1935年、船越義珍67歳の時です。

“意気揚々”立命館に乗り込んだ船越だったが、防具付の組手試合では、組手慣れした立命館の剛柔流空手の前に拓大からは怪我人が続出。事実上の負けを目にして船越は組手否定派になっていったというのです。

船越義珍が学生を連れて組手の対抗戦を行ったという話自体、定説のイメージとの違いに驚かされます。対抗戦が事実としても、引率したのは若く血気盛んな船越義豪氏だったのでは? という気がしなくもありません(義豪氏であれば当時29歳。対抗戦でもやってやろう、という年齢です)。

ただ、戦後空手史の謎を見事に説明する逸話ではあります。
「謎」とは、空手の競技化に最も向いていると考えられる防具付ルールが、なぜか本土本流の船越門下ではあまり探求されず、今日の「寸止め」ルールが前面に押し出されてきたこと。
船越門下が苦戦した防具付ルールでの組手対抗戦の存在は、その謎の答えになのかもしれません。