今回の東北大震災は地震災害というより津波災害であったということは周知のことです。

マスコミではいつの間にか勝手に「1000年に1度の大災害」などと言っていますが、全然そんなことはありません。この三陸海岸は歴史上繰り返し大津波の洗礼を受けてきました。

「三陸海岸大津波」


hamachanの走(run)日記

この本は明治29(1896)、昭和8(1933)、昭和35(1960)3度の大津波について、経験者の証言や当時のさまざまな資料を基に、甚大な津波被害の実態が淡々とした筆致で綴られた「災害文学」とも言うべきものです。(以前取り上げた「方丈記」(2009710日参照)は災害文学の古典というべきものですが、京都なので津波は登場しません)

もちろん今回の津波を受けて書かれたものではなく、作家の吉村昭氏によって1970年に書かれた書物が1984年に中公文庫から出され、さらに2004年に文春文庫から再び文庫化されたものです。(残念ながら作者は今回の津波被害を知ることなく、2006年他界されたそうです)

ふだんならこんな地味な本が注目を集めることはなかったはずですが、今回の震災で俄然注目を集めて大増刷され、どこの本屋でも平積みされているのでご覧になった方も多いかと思います。(姉妹版の「関東大震災」もありました)

岩手県の山田町で見てきた津波の爪あとの印象が強く、思わず本屋で手にとってみました。

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日清戦争の戦勝ムードが冷めやらぬ明治29(1896)615日、数日前から異常なほどの豊漁が前兆として見られていたそうです。午後8時ごろ、弱震があったあと、20分ぐらいして津波が押し寄せたそうです。この間「ドーン」という大砲のような音や海上に閃光が走ったという証言が残っています。

突如黒々とした波の壁が人々に襲いかかりました。波の高さは10m15mとなっていますが、4050mという推定もあるそうです。

死者は青森、岩手、宮城をあわせて25000名あまり(今回の死者・行方不明者とほぼ同数)で、中でも岩手県の被害が最も多く、住民の90%以上が亡くなった村もあったそうです。

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そして世界恐慌に続いて戦争に突き進む暗い世相の中の昭和8(1933)33日、午前2時半過ぎ突然強烈な地震がこの地域を襲いました。約30分後から、まず強烈な引き潮で海底の岩が露出したあと、津波が巨大な壁となって3~6回にわたって押し寄せました。

津波の高さは地域によって10m25mと推定されています。

このときも前兆としての豊漁や発光現象、大砲のような音が記録されているそうです。

死者は青森、岩手、宮城をあわせて3000名。

このとき明治の津波の経験から「冬季と晴天の日には津波は来ない」という言い伝えがあったそうで(よく考えればそんなはずはないですよね)、それを信じた多くの人が亡くなったそうです。やはり人間は直近の経験の記憶に左右されるのでしょう。

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さらに戦争が終わりようやく復興の兆しが見え始めた昭和35(1960)521日、南米チリ沖で巨大地震が発生し、津波はその後およそ2日間をかけて午前4時半頃日本に到達しました。

このときもまず強烈な引き潮があったあと、10分ぐらいでゆっくりふくれ上がるように押し寄せたそうです。「海水がふくれ上がって、のっこ、のっことやって来た」と表現した人もいました。

はるか遠くから伝わってきた波の波長は長く、第1波と第2波の間隔は30分程度で、引き潮の間に子どもたちが海底の魚を手づかみで拾ったあと高台に避難して助かったというぐらいゆっくりした周期だったそうです。

このときの津波による死者は105名だったそうです。

それまでの津波は強い地震に引き続いて起こったので、「地震のない津波」というイメージは人々の頭になかったようです。しかしこの三陸地方には古くは平安時代からの津波の記録があり、江戸時代にも大小あわせ、数々の津波の記録があります。さらに外国の記録をつき合わせれば、過去にも南米の地震に伴う津波の記録がみられるそうです。

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これだけの津波にたびたび遭遇してきたこの地方の人たちの防災意識は、我々とは比べ物になりません。山田町でもあちこちに避難経路を示す看板がありました。


hamachanの走(run)日記

それでも今回の津波は最後の昭和35年からでも50年を経過していて記憶が薄れていたこと、そして10mを越す防潮堤を過信したことが被害を大きくしたようです。沿岸部の人は敏感に反応して避難したのに対して、逆にやや内陸部でチリ地震のときもここは大丈夫だった、という人が逃げ遅れたそうです。

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100年のうちに3回も悲惨な津波を経験しながらも、人々がこの地域に住み続けたのは、やはり三陸沖の豊かな漁場があればこそでしょう。だから復興会議では「住宅を高台に作って」などといわれていますが、いずれまた人々はきっとこの土地に戻ってくるでしょう。

これは何も東北に限りません。先日訪れた和歌山南部の勝浦漁港なども状況は同じです。

津波は100年に2度か3度、しかも季節も時間帯も選ばず突然襲ってきます。

津波の対策に100%はありえません。(100%を目指すと非現実的な対応になります)

地震自体の予知は無理でも、現在のように1日も2日も日本中に出っぱなしの「津波警報」(これではオオカミ少年です)の精度を上げて、局地的な警報を流すことは可能かもしれません。そのほか避難場所の建設などハード面の対策はもちろんですが、やはり最後に重要なのは一人一人がどう生き延びるかという意識の問題なのでしょう。

現在85歳になるおばあさんが語り部として、昭和のはじめの津波の恐ろしさを紙芝居にして小中学生に伝える活動を紹介した番組がありました。このおばあさんの「命てんでんこ(自分の命はそれぞれが自分で守る)」という言葉が印象的でした。