『 スーパーコンピューター 「 京 」 』 | 脱奴隷小児科医の刹那主義

『 スーパーコンピューター 「 京 」 』


最近、「まあ、いいや」の前置きが長めになっておりますが、いかがお過ごしでしょうか。


先日テレビで、日本のスーパーコンピューター『 京 』の番組がありました。

人間の頭で考えたことをコンピューターを使って具現化する技術と、コンピュータの頭脳を
使って人間の行動のように具現化する技術に取り組んでいるということでした。

例えば、外科医が頭の中で考えた手術を、実際にコンピューターが行うようになるとか。
また、実際に生きていた一人の人生を全てコンピューターに記録させることにより、その
人の行動や言動、またクセや思考までも分析し、こういう場面ならこういう行動を取るだろう、
こんなことを言うに違いないというデータを蓄積し、その人が亡くなった後もコンピューターに
記憶されたデータを元に会話が出来たり、はたまたヴァーチャルな世界で一緒に遊んだりする
ことが出来るようになったりと。
つまり人間の身体は無くなっても魂だけは永遠に生き残るというわけです。

そこの研究員の方がおっしゃっていました。
では、コンピューターには出来ない人間らしいこととは何か、という問いに対して、

「 何かを大切に思う気持ちや、人同士がその感情などをやり取りしながら成長してくこと 」

と。


私はここにちょっと疑念を抱きました。

確かに今はそうかもしれませんが、いずれコンピューターが人間と同じ心や感情を持つ日が
来るだろうと思っています。
どんどん進化していくのは、コンピュターの最も得意とする分野ですから。
いずれ人間と同じように感情を持ち、感情を表し、感情をぶつけ合う日がくるはずです。
いわゆるシュワちゃんの映画ターミネーターがそういう話ですよね。
まあ、近未来を予測しているわけです。


では人間には出来て、コンピューターには決してマネ出来ないことって何でしょうか?



  ・・・・・



これが、私の得意分野である「 まあ、いいや 」です。


つまり、「 腹8分目で満足する 」ということは決してコンピューターには出来ないはず
です。なぜなら、コンピューターが自ら諦めて動作を停止することはあり得ないからです。
逆にマシントラブルで停止しそうになったら、全力で自ら復旧にかかるでしょう。
(まあターミネーターでは、シュワちゃん自ら停止していますが・・・笑)

とすれば、「 ある程度の達成感を持って満足する 」ということが人間には出来て、
コンピューターには決してマネできないことだと考えています。

私の「 まあ、いいや 」にはそういう深い意味があったのです(笑)。






 【 それなりに自分の人生を生きることができて、私は本当に幸せであった。

   いろいろと迷惑をかけることもあったが多くの人に見守られ、ありがとうと言いたい 】


このような満足感、達成感、至福感を持って、自分の人生を終えることが出来ることが
人間の人間たる所以であり、決してコンピューターにはマネ出来ないことだと考えます。
そう考えれば、スーパーコンピューターの「 京 」って可哀そうですな。


 ・・・・


しかし、いまや臓器移植に幹細胞移植、そして再生医療に人工臓器とどんどん人間が
死なない方向へ向かっています。

まるでスーパーコンピューター「 京 」と一緒です。
それが我々人間にとって不幸な方向へ向かっているのに、どうして反対する人が少ない
のでしょう。もちろん全て不幸とは言いませんが。

前に物議を醸しだしましたが、私の個人的な考えでは、「人間自らモノが喰えなくなったら
それで終わり」というのが自分にとって一番幸せなことなんじゃないかと考えているわけです。

では、このままスーパーコンピューターも人間も互いにどんどん進化を続け、お互い不老不死へ
向かっていくのでしょうか?


 ・・・・


決してそうはならないと思っています。

スーパーコンピューター「 京 」と人間の決定的な違いがありますから。

それは、「 あきらめる 」ということです。

人間には出来て、コンピューターには決して出来ないこと、「 あきらめる 」ということ。


言いかえれば、「 腹8分目で満足しなければならない 」ことに人間は気付くことが
出来るということです。
いや、出来るはずなんです。
(まあ今の日本の医療界を巡る訴訟問題を見ると、ちょっとほど遠い感じもしますが)


では、気付いた人間はどうするのか?

その時、人類はどういう選択肢を取るのか?





実は、この続きを昔ブログで書いています(笑)

ちょうど昨年の今頃ですね。

2011年6月28日の『 臓器移植と玉手箱 』。

興味にある方はどうぞ・・・