『 逮捕当時を振り返る、大野病院事件の加藤医師 』 | 脱奴隷小児科医の刹那主義

『 逮捕当時を振り返る、大野病院事件の加藤医師 』



毎日暑い日々ですが、いかがお過ごしでしょうか。


中国の列車事故ですが、埋めたり掘り起こしたりスゴイことになっていますね。
いちいち細かいことまで気にしていられないといった感じなのでしょうか。


まあ、いいや。



では、本題です。

我々医師が忘れてはならない大野病院事件を振り返る加藤先生のお話です。



『 逮捕当時を振り返る、大野病院事件の加藤医師

  「検事の取り調べは、本当に精神的につらかった」



  7月24日の日医総研シンポジウム、「更なる医療の信頼に向けて―無罪事件から学ぶ―」で、
  福島県立大野病院事件で業務上過失致死罪に問われたものの、無罪になった加藤克彦医師
  (国立病院機構福島病院産婦人科)は、「実際は、思い出したくもない、というのが本音」と
  前置きしながらも、同事件、特に逮捕当時の状況や心境を語った。

  加藤医師は、所属医局の教授で、2010年6月に逝去した佐藤章・福島県立医大産婦人科教授を
  はじめ、関係者へのお礼で講演を始め、同じくお礼で締めくくった。「裁判期間中は、とても
  不安で、いつまで続くのか、本当に心配だった。この状態が続けば産婦人科医として、臨床の
  場には戻れないとも考えた」と語る加藤医師。盛大な拍手の後、加藤医師の話に耳を傾ける
  静寂さに包まれた中で始まった講演は、医療刑事裁判の当事者になることのつらさ、厳しさが、
  随所にうかがえる内容だった。


$元奴隷小児科医の刹那主義


  初めに、亡くなられました患者さんに、深い哀悼の意を表し、ご冥福をお祈りします。逮捕、
  勾留から公判前整理手続き、裁判、判決までの間、医師会の先生方、日本中、世界中の方々に、
  応援、ご支援いただきまして、本当にありがとうございました。この場をお借りして、厚くお礼
  を申し上げます。また応援、ご支援に対し、どのようにして感謝の意を表していいか分からず、
  結果として挨拶が遅れましたことを、深くお詫び申し上げます。応援してくださった方で、
  本日、ご来場いただけなかった先生方にも、お伝えいただければ幸いです。

  今回、このような機会をいただきまして、講演をさせていただきましたことに、大変感謝して
  います。誠にありがとうございます。おかげさまで、臨床現場に復帰しまして3年目となりました。
  臨床の勘、感覚が戻るには、多少時間がかかりましたが、現在は、地域周産期医療を頑張らせて
  いただいています。

  このような場に出て話すのは得意ではないのですが、佐藤章教授、お亡くなりになりましたが、
  佐藤教授に相談すれば、「時間も経ったから、話して来い」と言われると思いまして、まいり
  ました。

  福島県立大野病院で経験したことをお話させていただくのは、初めてのことでございます。
  今回のテーマで、「更なる医療の信頼に向けて―当事者の立場から―」という演題を与えていた
  だきましたが、少しずれて、私は当時の状況、心境について、少しだけお時間を頂戴し、お話を
  させていただければと思います。すべての状況、心境をご紹介するのは無理がありますので、
  特に身柄拘束中についてのご紹介とさせていただきます。実際は、「思い出したくもない」と
  いうのが本音でもあります。


  私は平成16年4月から、県立大野病院の産婦人科医として働いておりました。月1回の週末以外は、
  毎日がオンコールでしたが、とても充実していました。平成16年12月17日に、私が執刀していた
  帝王切開術で、術中に患者さんが亡くなってしまいました。
  主治医として大変つらい出来事でした。

  平成17年3月、病院の方に、発表前の、でき上がった県の医療事故報告書を見せていただきました。
  この時に、「これでは僕が逮捕されてしまいます」と、病院の方に話をしたのですが、「ご遺族が
  補償を受けられるように、このような書き方になりました」と返答されました。
  その後、警察署で数回、事情聴取を受け、平成18年2月18日土曜日に、「家宅捜索が入る」という
  ことで、「自宅にいるように」と、警察署の方から病院事務の方に連絡が入りました。

  念のため、大学医局に半日のバックアップのお願いをしておきました。家宅捜索後、「警察署で
  話を聞きたい」と言われまして、普通乗用車の後部座席の真ん中に座らせられまして、隣町の富岡
  警察署に連れていかれました。車を降りて、駐車場で、大学医局の准教授に電話をして、「話を
  聞くから、と警察署に連れてこられた」と連絡をしました。取り調べ室に入って、椅子に座った
  瞬間に、逮捕状を読み上げられまして、逮捕、手錠、腰縄の状態でした。「このことで逮捕に
  なると、医療界は大変なことになると思います」と警察の方に話をしたのですが、もちろん無視
  されました。

  入院中の患者さん、週明けの外来診療のバックアップのことが気にかかりまして、電話をしよう
  としましたが、「もうできません」ともちろん言われました。逮捕のことを病院に連絡して、
  大学医局に伝えてもらうことをお願いしました。実際に連絡してくれたどうかは分かりません。

  身柄拘束中、検事から取り調べを受けたのですが、この取り調べは、本当に精神的につらいもの
  がありました。このような時が、いわゆる寿命が縮むと言うのだな、とも感じました。

  監視員の方から、新聞を貸してもらって、読めるのですが、富岡署管内の事件の記事は、黒い
  マジックで消されているのです。前日に逮捕、拘束となった人は、翌日の10行弱の記事ですが、
  黒マジックで消されている。(加藤医師の場合は)一面から三面まで、記事が切り抜かれて、
  フラフラな状態の新聞であったり、時には一面がないような時もあって、ここからも私の件は、
  反響が大きいのかなと感じておりました。

  また身柄拘束中に、弁護士の先生方に、毎日接見に来ていただいたのですが、警察からは、
  「金目当てで、弁護士が次々にやってくるから、気をつけろよ」みたいな感じで、言われていま
  した。通常拘束中は、1、2週間に1回ぐらいの接見らしいのですが、連日、いわき市や東京都内
  から、弁護士の先生方に接見に来ていただきました。佐藤章教授や准教授が、呼びかけて、お忙し
  い中、交通の便の悪い富岡の方まで、私が不安にならないようにご配慮していただいていたという
  ことでした。

  身柄拘束中は、名前ではなくて、番号で呼ばれていました。僕は「7番」という番号を付けられ
  まして、数字的には悪くないな(注:会場の笑いを誘う)、と思ったのですが、4、5日は番号で
  呼ばれていたのですが、なぜか途中から「先生」と呼ばれるようになりました。これは、なぜか
  分からないのですが。他の拘束された方ともほとんど顔を合わせることもなく、朝夕の布団の出し
  入れの際、挨拶程度の会話しかしませんでした。

  電気かみそりは共用、歯磨きに使用するコップは、「7番」と書いてあって、発泡スチロールの
  コップでした。食事の際に、その同じコップにお湯をつがれて、それを使用していました。
  入浴は週2、3回。洗濯も2日置きで、自分でたたんだり、ということもしていました。

  弁護士の先生方に、供述に関して、「いろいろ聞かれたことに関して、記録をしておいた方がいい
  」と言われました。監視員の方に筆記用具を借りましたところ、持つところのプラスチックの先端
  のところが丸くなっていて、ペン先が2、3mmしか出ていないようなボールペン。
  斜めにすると書けない、立てないと書けないような、自殺防止のペンだったんですね。「こういう
  ペンもあるんだな。こうしたところまで気にしているんだな」と、その当時は思っていました。

  部屋に4人入ることもあるのですが、私の場合は、1日だけ二人になったのですけれども、ほとんど
  一人で入れられていました。監視員のちょうど目の前の部屋で、部屋移動もなく、ずっと監視され
  ているような状況でした。他の部屋には鉄格子のところに、防寒用の白いプラスチックボードが
  あり、寒くないようになっているのですが、僕のところは、監視しなくてはならないので、寒い
  状況でした。

  起訴となってしまって、身柄拘束を解かれる時に、監視員の方に話を聞いたのですが、やはり
  「自殺させないように、厳重に監視しろ」と上から言われていたそうです。時期的に寒かったので
  、厚手のフード付きのパーカーとジャージを着ていたのですが、やはり自殺防止のために、パーカ
  ーやジャージの紐は全部外され、ズリズリといった状況でした。

  平成18年の3月10日に起訴されてしまいまして、14日に身柄拘束を解かれました。弁護団を作って
  いただいたのですが、弁護団の先生より、「今後数年間、場合によっては十数年の長期戦になる
  かもしれない。なので覚悟しておいてください」と聞かされました。また県の方から、弁護団を
  通して、「起訴休暇を取るか、他の県立病院に勤務するか」を選択させられたのですが、保釈条件
  に抵触する可能性もありまして、起訴休暇を選択するしかありませんでした。よって、裁判が終わ
  るまでは、一切、診療はできない状況でした。

  裁判期間中は、とても不安で、いつまで続くのか、本当に心配でした。この状態が続けば産婦人科
  医として、臨床の場には戻れないな、とも考えておりました。また弁護団の先生より、「絶対無実
  だから、自殺しないでください」とも言われました。ちょっとドキっとしたことを覚えています。

  思い返せば、私にはこの2年半(注:2006年2月の逮捕から、2008年8月の福島地裁判決まで)は
  とても長くて、知らないことが、次から次へと起こって、現実味が薄くて、まるで異国の地で過ご
  しているかのような状態でした。無罪になって、ほっといたしました。

  最後になりますが、私がつらい裁判を闘うことができましたのは、ひとえにサポートしてくださっ
  た皆様のおかげです。特に私の指導教授でありました、福島県立医科大学産婦人科学の、故佐藤
  章名誉教授に感謝したいと思います。佐藤章教授は、私を命がけで守ってくださいました。
  教授に対する感謝の気持ちは、言葉で言い尽くすことはできません。

  福島県の産婦人科医会、県医師会の先生方からは、様々なご支援をいただきました。地元の先輩、
  後輩からのご支援にも心を打たれました。本当に感謝しています。

  またインターネットを通じまして、様々なご支援をしてくださった全国の先生方、医療関係者にも
  心よりお礼を申し上げます。先生方の応援が私の心の支えでもありました。また、平岩敬一先生を
  はじめ、私の弁護を引き受けてくださった弁護団の先生方、さらに特別弁護人として、毎回裁判所
  に出廷し、応援し、励まし、勇気を与えてくださった、澤倫太郎先生、証人として法廷で証言して
  いただいた、大阪府立母子保健総合医療センターの中山雅弘先生、東北公済病院の岡村州博病院長
  、宮崎大学医学部附属病院の池ノ上克病院長、裁判を支援してくださった日本医師会、各学会、日
  医総研の先生の方々、職員の方々、都道府県医師会、郡市医師会の先生方、日本産科婦人科学会の
  吉村泰典前理事長をはじめ多くの先生方にも、心から厚くお礼を申し上げます。

  拙い話で本当に申し訳ないのですけれども、本日は、ご静聴をいただいて誠にありがとうござい
  ました。 』



  本当にお疲れ様でした。

  そして今もなお地域の産科医療に貢献されておられ、本当に頭が下がる思いです。
  
  これからもお身体をご慈愛ください・・