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2016年09月28日

八年目

テーマ:ブログ

9月の祭りシーズンが終わると、いきなりやって来る、ケヤキの落葉の季節でございます・・・

毎年の恒例ですが、

 

25日の天神さんの助勤を終えたら、翌日は午前中、ぼ~っとして、

 

その日の午後か、翌々日くらいから境内清掃を再開するのですが、

そっからは、だいたい毎日掃きソージ・・・ですね。

祭礼が続く間、神輿庫の裏に放置してあった山盛りの枝も燃やしてますので、昨日も今日も5時間ほど立ちっぱなしです。

 

渡御の間中も、ほぼ立ちっぱなしが、

 

まあそんなもんね、田舎の神主は・・・(;^_^A

 

 

 

で、

 

これもなぜか最近恒例の、お祭りがひと段落ついたら、餃子作り・・・???

別に誰が決めたわけでもないのに、掃除中に女房からメールが入り、

 

冷蔵庫にひき肉と、キャベツその他そろってる・・・???(-"-;A

 

次女もなぜか、「お父さん、今日は餃子なん?」

 

 

私はそんなことを言った覚えはないのですが・・・( ̄_ ̄ i)

まあアレです・・・

 

キャベツは白菜と違って、それほど水が出ないので、ラクっちゃラクですけどね。

お掃除から帰っても、延々立ちっぱなし・・・う~ん・・・(-"-;A

 

 

まあできました♪

 

 

今日は8年前に亡くなった、友人で、私と同い年の宮司の命日だったんですけどね~

 

 

別に何をするわけでもなく、

 

朝、神前を通して、遥拝するだけですが、

 

 

当時、4歳でまったくわけがわかっていなかった次女も、もうお年頃なのか、カメラを向けたら、フレームから外れておりました・・・(^o^;)

 

当家の家族も、誰も気が付いていないのか、それとも言うのをはばかったのか、亡き友については誰も何も言いませんし、

 

 

 

皆が寝静まってから、もう一杯呑んで寝ます。

 

 

 

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2016年09月26日

運動会だったようですが・・・

テーマ:社務日誌

25日は毎年恒例で、お隣地区の天神さん(菅原神社)の秋の祭礼の助勤奉仕に行っておりましたが、

 

次女が通う、地元の小学校では運動会が行なわれていたようで、家内と母は、早朝よりお弁当作って応援に出かけましたが、

 

助勤奉仕は午後の8時過ぎからで、日中は体が空いていたのですが、

 

例年、深夜に及ぶお祭りなのと、前日までの超ハードなお祭り続きで、寝不足が続いておりましたので、昼間は寝るやら起きるやらの、久しぶりにダラダラしておりましたら、

 

フェイスブックに、近所のHさんから次女の画像が届いておりました。

どうもアリガトウゴザイマスm(_ _ )m

 

そういえば、長女次女と、小学校の運動会は、ほぼお祭りと重なっておりますので、私は一度も行ったことはありません・・・(;^_^A

 

そういうわけで、午後8時過ぎ、それまで奉仕していたS井T倉彦神社禰宜さんと交代。

野々江町の天神さんは、200数十戸の氏子が7町内に分かれ、7基のキリコがお神輿に供奉いたします。

 

ここ数年で、ほとんどの町内のキリコが新しく新調されていて、どこもピカピカです。

うらやましい限り・・・

 

町の辻辻で氏子さんがお供えを持ち寄り、宮司が祝詞を奏上し、私が神楽笛、もう一人の助勤神職のM嶋氏が太鼓を奏でます。

そういう神事が、私と交代後も10数回あったのですが、実際は朝の9時からずっと続いております。

 

数年前までは、私も朝から奉仕していて、その頃は、終了が翌朝の4~5時ころまで続いていて、

 

助勤に来て、倒れられても困る・・・ということで、数年前から前後半に分けての奉仕になったわけですが(;^_^A

 

 

昨年くらいから、せめて神事だけでも0時前に、つまり、天神さんの縁日である25日内に終らせよう、という、宮司や総代各位の尽力が実って(?)

 

だいたい、予定通りに進んだようです。

しかし、最後の神事を終えて、神社までが長いです(^▽^;)

 

ほんの数十メートルを行ったり来たり・・・

 

もっともそれは、この地区に限ったことではなく、奥能登のキリコ祭りに共通した点ですね。

 

 

菅原神社に到着したのが、午前1時ころでしたかね~

 

ここからさらに1時間。

お神輿を鳥居下に停めて、1基づつキリコが乱舞しつつ境内に入ります。

画像が暗くてよくわかりませんが、実際はスゴイ人と喧騒です。

 

 

めでたく、お神輿が還幸し、みたまがご本殿に還られたのは、深夜の2時。

 

今年もお疲れ様でしたm(_ _ )m

 

 

そういうわけで、今日も一日ぼ~っとしておりましたのですが、

 

 

 

前日運動会でした次女が、今日は代休で家におりましたので、

 

 

朝から買い物に送れだの、お昼ごはんはパスタにせえだのうるさく・・・(-"-;A

 

 

 

ペペロンチーノにしたら、「カライ~っ!」と言っておりました・・・(^▽^;)

 

 

さ!

 

後は10月に1社、神幸祭を残すのみ!でございます!

 

 

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2016年09月25日

能登の山岳信仰

テーマ:社務日誌

本日は夕方から、お隣地区の天神さんの祭礼の助勤奉仕を依頼されているのですが、

 

23日の火宮神社の祭礼の翌日の昨日、貴重なお休みでございましたが、結局、一日羽黒神社の境内清掃に追われておりました。

 

その、羽黒神社も、言うまでもなく、羽黒派修験道の勧請社であり、殊に当羽黒神社は、弘化4年に白山神社を合併合祀しており、当時正院小路に二社鎮座していたお社は両社、山岳信仰のお社であったわけです。

現在は、キリコの町内名にのみ「白山」の名が記されております。

 

で、

 

23日に祭礼を奉仕いたしました火宮神社ですが、

神紋が輪宝(または法輪)という、あきらかに仏教の紋であることからお分かりのとおり、廃仏毀釈以前は神仏習合色が濃く、殊に、修験道の影響を強く受けたお社でございました。

 

もともと「火宮(ひのみや)」とは、奈良時代より勢力を強めていた能登の霊場、石動山系の勧請社で、

 

現中能登町石動山鎮座の、式内伊須留岐比古神社と、真言密教等が習合し、後に五社権現(大宮・客人・火宮・梅宮・剱宮)として五体の垂迹仏が当てられ、かつては衆徒(僧兵)3,000を超す一大霊場でありました。

 

珠洲の地に於いては、宝立山(ほうりゅうざん)に次いで、正院町岡田よりもさらに奥の八箇山山頂の石ヶ峰(いしがみね)を中心に修験の霊場が形成されていたらしく、この山の麓に、当兼務社4社を含む、火の宮の社が点在しているのでございます。

 

その名残の一つとして、珠洲の、特に内浦側の神社のお神輿渡御のほとんどに供奉する、法螺貝がございますが、

 

明治の神仏判然令以降、仏像をはじめとする仏具とともに、修験系の法具も、行政によってことごとく廃されてまいりますが、

 

今と違って、渡御に供奉する神具一式を、神社ではなく、一年ごとの輪番制の「当元」が預かっていたために、残った貴重な風習と存じます。

 

火宮神社の渡御に際し、岡田集落は山間の谷間の民家が多く、そういう地形を「谷内(やち)」というのですが、

この「坂東谷内」と呼ばれる奥には、「どんだけ」と呼ばれる場所があり、

 

最近聞かなくなったイッコーさんの「どんだけえ~」とはもちろん、まったくカンケイなく、

 

語源は「堂嶽(どうだけ)」でありまして、火宮神社がかつて鎮座していた社地といい、

 

安永年間の火災のため、現在地に遷座した、と伝えられています。

 

 

石動五社のうち、火の宮のみがやたらに奥能登に多いのは、その度重なる火災を恐れてのことかもしれません。

 

しかし、一旦焼き払われてしまった山の再生力はものすごく、近年にも奥能登で大規模な山火事がありましたが、数年で、以前にもましての雑木林が復活したと、報道でありました。

 

つまり、すべてを焼き尽くす、恐ろしい火と、大地を肥やす、恵みの火、との、両方の信仰が、修験道などと集合して、今の火宮神社の祭礼が形成されてきたのではないかと思うのであります。

 

集落の中ほどに立てられた幟を境に、奥をおもて、手前をうらで、といい、表裏の漢字があてはめられましたが、実はこれは、母手と浦手(または出)で、

 

太古には集落の南側はすぐに海で、岡田の住民は、修験道の台頭とともに、徐々に南下してきたのではないかと思います。

 

数か所設けられた休憩場所では、キリコの担ぎ手らにふるまいがあります。

 

今年のちゃんこも、うまっかったですな~≧(´▽`)≦

さ!

 

もう修験道から離れてしまってますが・・・(;^_^A

 

 

現在の火宮神社の社地に落ち着いたのは、200数十年前ですが、

 

当初は、現在キリコと神輿が駆け上がる、60数段の石段より、さらに30数段上の、

現在の本殿が鎮座している場所に拝殿があり、本殿はさらに奥にあったといいます。

キリコ祭りとなりましたのは、約100年ほど前で、

 

それ以前は、やぐらに太鼓を乗せた、いわゆる能登の「太鼓山」が主流で、

 

お祭りでは、やはり今と同じく、前後併せて100段以上の階段を、一気に曳き上げていたそうです。

 

きらびやかさは無くても、勇壮なさまは今と同じだったようですね。

 

修験道は明治5年に政令によって禁止となり、山伏はいなくなりましたが、

 

彼らが住民に伝えたであろう「感謝の祭り」は、今も受け継がれているわけであります。

 

 

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