検察審査会の慧眼と良識に敬意を表する | 早川忠孝の一念発起・日々新たなり 通称「早川学校」

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弁護士・元衆議院議員としてあらゆる社会事象について思いの丈を披歴しております。若い方々の羅針盤の一つにでもなればいいと思っておりましたが、もう一歩踏み出すことにしました。新しい世界を作るために、若い人たちとの競争に参加します。猪突猛進、暴走ゴメン。

裁判は難しいものだと改めて思う。

昨日の小沢裁判における石川被告の証言内容をMSNニュースで確認しているが、石川被告の証言の変遷をどう捉えるかが難しい。
石川被告が小沢裁判に悪影響を与えることがないように言葉を選んでいることは、よく分かる。
小沢被告弁護団と何度もトレーニングを重ねたうえでの法廷での証言だということも、よく分かる。

しかし、石川被告が明らかに嘘の供述をしているのかは、分からない。
供述に変遷があるときはそれだけで供述の信用性がなくなるのだが、それでも最後の供述が正しい可能性がない訳ではない。

石川被告の証言で明白になったことがある。

小沢事務所では、どんな政治団体の名義を使っても実態は一つ、全部の政治団体が小沢氏の財布だった、ということだ。
様々な政治団体の銀行口座が同一の経理担当者によって管理されていた。
複数の政治団体の口座間のやり取りは、単に右のポケットから左のポケットに移すようなもの、と認識されていた、ということだ。

石川被告が小沢氏の了解なく政治団体の口座からの出金や入金を勝手気儘に出来たのかどうかはまだ定かでないが、石川被告には数千万、数億円の金の出し入れを自由に差配する包括的な権限が与えられていたらしい。

そんな馬鹿な、そんなことはあり得ない、というのが政治の現場に10数年間いた私の感覚だが、裁判官がどう判断するか私には分からない。

陸山会政治資金収支報告書の不実記載の法的責任を、実際に収支報告書の作成を担当した小沢事務所の秘書や会計責任者に問うのは比較的易しい。
会計責任者の大久保被告がいくら自分が関わっていないと主張しても、自分だけ罪を免れるのは難しいだろう。

しかし、政治団体の代表者に収支報告書の不実記載についての法的責任を問うのは実に難しい。
いわゆる共謀共同正犯理論を使わない限り、政治団体の代表者までは届かない仕組みになっているからだ。

指定弁護士側のこれまでの立証活動を見ていると、共謀共同正犯理論を本件にそのまま当て嵌めるのは難しいように思う。
小沢氏と小沢秘書との間の主従関係がもう少し浮き彫りにならないと、小沢秘書は有罪だが小沢氏本人は無罪、などという結論になることも十分あり得る。

そのくらいに、この裁判は難しい。
なにそろ、先行する事件での大久保秘書の逮捕から石川被告の逮捕までに実に11か月余り経過している。
この間、小沢事務所側には次の捜査に対しての十分な備えが出来ていた、と見るのが普通である。

普通はどんな恫喝もどんな利益誘導も効かないような状況下で石川被告の取り調べが始まったようだ。
およそ石川被告が小沢氏に不利な供述をすることが想定されない状況下での捜査だから、この捜査は困難を極めたと思う。

検察庁が二度にわたって小沢氏に対して証拠不十分で不起訴処分にしたのは、法律実務家としては妥当な判断だったと思う。
あらゆる場合にリスクを最小限にすることをいつも念頭に置いているから、私も検察官の立場に立てば不起訴処分を選んだ可能性が高い。
これが、これまでの法律実務にどっぷり漬かってきた普通の法律実務家の感覚だったろう。
しかし、検察審査会は、検察官が収集した様々な証拠を吟味したうえで、普通の法律実務家が抱くであろう常識的な判断を否定した。

兎角私たちは、危険から逃げようとする。
危ないことはしたくないから、とにかく逃げる。
おかしなことに気が付いていても、目を瞑って逃げる。

検察審査会が、それではいけないと異議を出して、結果的に二度にわたる起訴相当の議決になり、強制起訴に至ったのである。
証拠不十分で無罪になる可能性は依然として否定できないが、政治団体や政治家の在り方を問うために強制起訴への道を開いた検察審査会制度の改革は、やはり大したもんだ。

法科大学院制度の導入や司法試験合格者の急激な大幅増員などはいささか失敗の感が強いが、国民参加の拡充に向けた裁判員制度の導入や検察審査会法の改正は着実に成果を収めている。

まずは、小沢氏に対する不起訴処分を無効化した検察審査会の慧眼と良識に敬意を表しておきたい。