寡黙な小沢一郎氏が雄弁、能弁なオザワイチローに変身するとしたら今である。
オザワイチローかく語りき。
今日の公判は、日本の裁判史、政治史に残る歴史的な裁判が始まる日である。
斎戒沐浴し、ご自分の政治生命のすべてを懸けて、誤魔化しのない本当の小沢一郎の姿を国民の前に示して欲しい。
言葉を選ぶ必要はない。
自分にとって不利になるとか、誰かの迷惑になるとか、周りが困るだろうなどという小さなことに拘る必要はない。
あれこれ計算して言葉を選んだつもりが、大体は逆の効果を及ぼすということがある。
言葉を選ぶ人は計算高い人、本当のことを言わない人に映る。
言葉を選ぶ人は、奸智に長けた人に映る。
ごく自然に、本当のことを淡々と語ることである。
これから小沢氏が語る言葉が小沢氏のすべてになる。
徹底的に、懇切丁寧に語ることである。
語りはじめたら最後まで語ることである。
ここで言いよどんだら、そこに何かがあると皆、思う。
言いよどむのは、そこに語れない何かがあること、説明のつかない何かがあることになる。
どんなに上手に弁明しても、言いよどむ時は言いよどんだことの中身が真実だということになってしまう。
人の錯覚を利用しようとする人は、わざと言いよどんでみたりする。
言いよどんだ箇所に相手の関心を集中させ、もっと大事なことから目を逸らさせる、などという高等テクニックを使う人もいる。
しかし、こんな高等テクニックは使う必要はない。
徹底的に事実に即して真実を語ることである。
すべての事実を語ったうえで、その法的評価は国民に委ねるのが正しい。
その謙虚さが正しい評価を勝ち取るための最大の手段となる。
本当のことを徹底的に語ることが小沢氏の最大の武器になる。
一番いけないのは、何も事実を語らないで、只管今回の裁判の不当性を言上げし、不当な起訴だから自分は無罪だと短絡的に結論付けることである。
裁判の不当性をいくら論難しても裁判が終わるわけではない。
検察審査会の二度にわたる起訴相当議決を口を極めて非難しても起訴が取り消されるわけではない。
そういうことは、法律の議論が得意な人たちに任せればいい。
小沢氏にとっては何の足しにならないのが、こういう小手先の議論である。
オザワイチローが何を語ったか。
オザワイチローが何を語らなかったか。
本来ならば政治倫理審査会で1時間も2時間もかけて歴史に残る独演会をやるところだったが、小沢氏も小沢氏の参謀もどうやら間違えてしまった。
私たちは、耳をそばだて、目を皿にして今日からの小沢一郎氏の一挙手一投足を見ていく。