国家賠償責任限定法の必要性 | 早川忠孝の一念発起・日々新たなり 通称「早川学校」

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弁護士・元衆議院議員としてあらゆる社会事象について思いの丈を披歴しております。若い方々の羅針盤の一つにでもなればいいと思っておりましたが、もう一歩踏み出すことにしました。新しい世界を作るために、若い人たちとの競争に参加します。猪突猛進、暴走ゴメン。

内心、皆さん不安に思っているはずだ。
私たちは、これからどの程度の負担に耐えられるだろうか。

民主党政権になって確実に変わってきているのは、国が比較的容易に国家賠償責任を認めるようになったことだろう。
裁判所の和解勧告にも素直に従うことが多くなり、裁判上の和解であっても広く未提訴の方々への給付まで和解条項の中に明記するようになった。
財布の紐がかなり緩いという印象である。

国に賠償責任があると裁判所が認めているのだから、賠償金の支払いそのものはばら撒きでもなんでもないのだが、訴訟の決着を待たずに補償金の支払いに応じる、裁判を起こしていない患者に対しても既に裁判を起こして勝訴判決を勝ち取った原告と同様の補償金の支払いを約束する、というのは考え物である。

B型肝炎訴訟の和解が成立し、国が原告患者のみならず未提訴患者の方々に対しても賠償金を支払うことになったが、賠償金の総額は1兆円を超え、今後30年間を見通すと3兆円に達すると推定されているということだ。
現在の国の財政事情からすると、賠償金の原資が不足することは明らかだ。
当然、増税ということになる。

私たちは、どの程度まで負担できるだろうか、ということをそろそろ真剣に考えるべき時に来ている。

この問題を取り上げればマスコミから激しく叩かれてしまうかも知れないデリケートな問題である。
相当言葉を尽くし、言葉を選んで慎重にものを言う必要がある。
しかし、いずれは誰かが言わなければならないことだ。

私があえて憎まれ口をきく。
国家賠償の履行と責任限定に関する特別措置法を作るべし。

国家賠償に関する専門機関を作って、あらゆる国家賠償について賠償責任の認定と不服申立て審査を一元的に行うことが必要だ。
賠償責任の有無や補償額の算定にあたっては、専門家による認定基準および算定基準を事前に公表し、公正かつ公平、迅速な補償を行うようにしなければならない。
国以外に賠償責任を負担すべき者がいる場合は、その者に負担を求める具体的で実効性のある仕組みも設ける必要がある。

そして、国民が到底負担に耐えられないような規模の国家賠償については国の賠償責任の限定ができるようにすることが必要だ、というのが、私の意見である。

最後の部分が物議を醸すだろうと思っている。
しかし、この最後の部分がこれから重要になってくる。
私は、東京電力福島第一原子力発電所の事故による被害は東京電力の負担能力を遥かに凌駕していくだろうと予想している。
東京電力にだけ被害の補償責任を負わせることは出来ない。
原子力発電推進政策を取ってきた政府が最終的に責任を負わなければならなくなる。
賠償請求の被告席に立つのは東京電力であり、国であり、さらには福島県だということになる。

国が無限の責任を負担することは出来ない。
どうしても現実的な範囲に止める必要が出てくる。
こういうことを視野に入れて、そろそろ国家賠償責任限定法の制定を検討すべきであろう。
数兆円に及ぶ国家賠償の履行を、行政府だけで決めるのは問題である。
財源の捻出方法を含めて、立法府である国会が決めるべき大事な問題であると私は思う。

ちなみに、私がよく読ませていただいている方のブログにこんな記載があった。
私は、これが多くの国民の本音ではないかと思っている。

「被害者救済の精神は立派なのだけど、税で肝炎患者さんたちだけに、大金が払われる空しさ。他の病気で死んでいく人の多いなか、何故肝炎患者だけお金がもらえるの。
 確かに予防接種を受けただけで、肝炎になってしまった方は、運が悪いだけでは済まされない。
ただ、その方たちへの償いをするのが、国民全員っていうのが、いまいち、腑に落ちない。何か、公金で賄うしか仕方がない・・・っていう論理をフルに使ってしまって、逆に世の中の不公平感を拡げてしまっているだけっていう部分は無いか?
 この手の裁判は、昔なら、公序良俗に照らして・・・という基準があった。国が賠償すべき範囲は、限定的に抑えられて、少ない額で辛抱してもらうケースが多かったのやないか。国民の負担が大きくなりすぎるからという理由が付きそうな話。国家賠償にそぐわないかどうか。公害、ヒ素ミルク、いろんな判例も、社会での公平さが個人の不利益より優先されてきた。それが今回、有る意味、覆された格好になっとるような気がする。
 国は、針の使い回しをしたら危ないっていうことを知っていたかどうか。知らなかったら国に落ち度はない。当時はまだそこまで知識がなかっただけで済んでいた話。雀の涙のお見舞い金を払って終わりというケース。でも、今回は原告の粘り勝ち。
 私には、何が社会正義なのか、判らない。何でもケツを国に持っていけばよい・・・という風潮が強まってくるのは、私はまともな社会を崩していくことになると思う。
 日本人は、公共のためなら個人が我慢する事を知る国民性があった。それがここ20年ほどで、米国のように、訴訟主義。訴えないと損・・・という個人主義的な価値観が、急速に育成されてきてしまったような気がする。これがあまりにも進むと、日本の国自身のサイフが、国民から、悪く言えば、金づるにされる世界を容認してしまうことになる。
 権利意識の拡大は、良い事やと教えられて来た。主張を通す事は、大事だと教えられて来た。生きるためには、相手に勝たないといけないと教えられて来た。でも本当に、みんな、そんな社会にしたかったのやろうか。」

あえて、このブログの筆者のお名前は紹介しない。