自民党の原爆被爆者救済施策を大きく前進させた立役者 | 早川忠孝の一念発起・日々新たなり 通称「早川学校」

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弁護士・元衆議院議員としてあらゆる社会事象について思いの丈を披歴しております。若い方々の羅針盤の一つにでもなればいいと思っておりましたが、もう一歩踏み出すことにしました。新しい世界を作るために、若い人たちとの競争に参加します。猪突猛進、暴走ゴメン。

私は、自民党の原爆被爆者問題対策委員会の第二代委員長を務めさせていただいた。

今にして思えば、大変な役割を頂戴したものだと、改めて感謝している。

私が委員長時代に、被爆者援護法の改正と原爆症認定基準の見直しが実現している。

短期間に法の改正やら行政実務の大改革を実現できたのだから、私たち国会議員にとってこれほどありがたいことは無い。


まさに、委員長である私の成果だ、と誇りたいところだが、実はこの成果は、すべて事務局長を引き受けられた広島選出の寺田稔衆議院議員(当時。現在落選中)のお蔭である。


被爆2世である寺田稔議員の活躍なくしては、自民党の中でこれほど大きく原爆被爆者問題が取り上げられることはなかった。


当時、全国各地で原爆症認定訴訟が継続しており、各地の裁判所で国が敗訴していた。

いわば原爆症の認定基準について、行政の判断と司法の判断が乖離している、という事態になっていたのである。

しかし、担当の厚生労働省はいずれの裁判所の判決にも不服で、控訴はもとより、万一控訴審で敗訴した場合は最高裁に統一した見解を出してもらわなければならない、という意気込みで臨んでいた。


そのような状況の中で、「被爆者の方々の高齢化が進み、訴訟係属中にお亡くなりになる方も出ており、いつまでも裁判所の結論を待っているわけにはいかない。どうしても政治主導で、行政の判断と司法の判断が乖離している状況を速やかに是正しなければならない。」という声が澎湃として沸きあがったきた。


そういう状況を作り出したのが、寺田稔議員だった。

議員連盟を作り、自分がそのスポークスマンになって、世論を盛り上げてきた。


認定基準の見直しを求める意見書も殆ど自分で起案し、厚生労働省の担当者を激しく叱咤しながら自民党の議論を纏めていった。

まるで寺田議員は原告団そのもの、被団協そのものだと批判されながらも、自民党の多くの議員を説得し、一連の改正を実現したのである。


寺田氏は、まさに自民党の被爆者救済施策推進の立役者である。

そんな寺田氏を、昨年の衆議院選挙で、広島の選挙民の方々は何故落選させたのだろうか。

私には、不思議でならない。


広島原爆忌の今日、このことを特に記しておく。