小沢氏の不起訴処分については釈然としない人が多いだろうが、これはある意味で当然だ。
新聞報道が事実を書いているとすれば、捜査を担当した検察官は起訴すべきと主張し、上級庁が消極だったので結局不起訴という結論になった、ということのようである。
小沢氏を起訴した場合の政治的影響や、万一裁判で無罪となった場合の検察庁の責任などを考えれば、ほぼ有罪の立証が出来ると思っても100パーセントの確信が得られなければ、あえてリスクは犯したくないと考えるのが人情である。
捜査を担当した検察官の心証が重視されるべきだろう。
おそらく担当検察官は辞表を懐に捜査を進めてきたのだろうから、上級庁の判断には納得できなかったであろう。
かつての検察庁だったら、担当検事は辞表を提出して抗議の意思を表示したはずだ。
かつて特捜部の検事が弁護士に転進した。
二度と刑事事件には関わらない、ということで、経済取引専門の弁護士になった。
余りにも多くのことを知ってしまったから、刑事事件には関わらない。
そう覚悟したそうだ。
そういう覚悟を持った弁護士は、弁護士としても一流である。
さて、昨今の検事はどうか。
上級庁の判断よりも今は優先されるものがある。
国民の良識である。
検察審査会を通じて示される国民の良識を待って、自分の出処進退を決めたい。
これが、今の担当検事の思いではなかろうか。
不起訴処分について既に検察審査会への申立があったそうだ。
検察審査会が一件記録を読んでどう判断するか。
当然担当検事の意見も聴取するだろう。
捜査が不十分であるということになると、当然補充捜査も必要になる。
どんなにタブロイド紙や夕刊紙が現時点で、小沢シロ、検察の大敗北、などの大見出しを躍らせても、それだけでは検察審査会を動かすことは出来ない。
目下のところマスコミを巻き込んでの情報戦、宣伝戦の様相を呈しているが、司法の手続きは粛々と進むものだ。
決めるのは、国民の良識である。
私も懐に辞表を呑んでいるような心境で、国民の判断を待ちたい。