日本を本当にダメにしたのか/「日本をだめにした10の裁判」を読んで | 早川忠孝の一念発起・日々新たなり 通称「早川学校」

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弁護士・元衆議院議員としてあらゆる社会事象について思いの丈を披歴しております。若い方々の羅針盤の一つにでもなればいいと思っておりましたが、もう一歩踏み出すことにしました。新しい世界を作るために、若い人たちとの競争に参加します。猪突猛進、暴走ゴメン。

チームJの日本をダメにした10の裁判(日経プレミアシリーズ)という新書を読んだ。


これからの日本の司法を考える上で重要なヒントが示されているので、忘れないうちにコメントしておく。


第1章の「正社員を守って増える非正社員の皮肉」、第2章の「単身赴任者の哀歌」は、ふーん、そんな見方もありか、という程度。

第3章の「向井亜紀さん親子は救えるか?」は、現在私自身が代理母問題に取り組んでいる関係で、ほぼ共感できる。


第4章の「あなたが痴漢で罰せられる日」は、まさにそのとおり。

実際に検察実務を行ったものでなければ、こう明確には書けない。

執筆者に元検事の渡邉元尋弁護士の名前があったが、さすがに法律家の指摘は的確だ。


第5章の「公務員バリアの不可解な生き残り」は、私が1999年に出した「時代にあった新しい憲法を創る」、という本の中で主張したことと同旨である。

公務員が個人的な賠償責任を免れていることで、様々な公務員の不祥事が絶えないのではないか、公務員の規律を取り戻すために、不法行為によって国民に損害を与えた公務員の個人賠償責任を明記すべきではないか、というのが、私の年来の主張であった。

周りを公務員に取り囲まれ、そんなことを言い出すチャンスがなかったが、私と同じような問題意識を持っていた弁護士がいた、ということを知って心強く感じた。


第6章の「企業と政治の強い接着剤」、第7章の「なぜムダな公共工事はなくならないか」は、そんな分析もあるかな、という程度。


第8章の「最高裁はどこへ行った?」、第9章の「裁判官を縛るムラの掟」、第10章の「あなたは最高裁裁判官を知っていますか」は、この本の圧巻である。

まさに日本の司法が抱えている問題を的確に抉り出し、さらにその解決策まで提示している。


寺西裁判官分限事件に言及している第9章を読んだときは、読んでいるうちに腸が煮えくり返ってくるような怒りを覚えた。

こんな不正義、理不尽が罷り通ってはならない。

私は、そう思う。


本当に、裁判所でこんなことが罷り通っていたのか。

寺西裁判官に対して、当時救いの手を差し伸べることが出来なかったのが、悔やまれる。

寺西事件に触れた第9章の中の、「国際的な人権救済の道も与えられていない」という一節に、次のような文章があった。


「次に、国際的に救済される道がないかを考えてみたい。

私たちが人権保障を学ぶとき、必ずと言っていいほど耳にする国連人権規約である。

人権規約には、「経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約」(社会権規約)と、「市民的及び政治的権利に関する国際規約」(自由権規約)とがあり、日本は両規約とも79年に批准しており、私たちは国際的な人権保障の枠組みの中にいる。

日本の裁判でも、これらの規定を直接引用して人権保障が求められることは多い。しかし、それが認められることはほとんどない。

寺西裁判官の事例でも、公正な裁判を受ける権利を定めた自由権規約第14条に違反する、という主張が寺西裁判官側からなされたが、最高裁はあっさり退けている。」


「ここで指摘したいのは、この自由権規約に付随して作られた「第一選択議定書」を、日本が批准していないことである。

この議定書を批准していれば、権利を侵害されたと主張する個人が規約に基づいて設けられている人権委員会に直接通告し、審理をうけることができる。」

「2007年7月現在、自由権規約を批准しているのは160カ国であり、そのうち、多くの先進国を含む109カ国が第一議定書を批准している。」

「従来、日本はこの追加議定書を批准するよう、国連人権委員会からも指摘されているが、そのたびに、我が国の司法制度との関係から難しい、と返答している。

しかし、批准している他国も司法の独立を保障している。日本にのみ存在する「司法制度との関係」とはなんであろうか。」


この章を担当執筆した西垣淳子女子はデューク大学とシカゴ大学のロースクールを終了し、世界平和研究所の主任研究員を務めている方である。

その指摘は、鋭い。


この一節を読みながら、日本の司法の本当の争点は、わが国が国連人権規約自由権規約の第一選択議定書の批准をするのかどうか、になってくるのではないか、と気がついた。


これからの日本の社会をどう創り上げていくか、まさに懸命に模索している最中に大変大事な示唆をこの本から頂戴した。


さらにこの本の著者は、最高裁判所の裁判官の国民審査のあり方を見直すべきである、という提言をしている。


もっともである。

現在の国民審査は形骸化しており、いくら国民審査だといっても、一般の国民は審査に参加した実感が得られないような仕組みだ。

こんなところにも立法の不備があったか、と、目が覚める思いだった。


法の支配を社会の隅々にまで広げる、ということは、立法府においても、「法の支配」に忠実でなければならない、ということだ。


なんで皆、こんなことに気がつくんだろう。

いやあ、勉強することが次から次へと出てくるな。

そんな思いである。