最近、個人商店の悲鳴が一段と大きくなった。
売り上げがどうしても伸びない、先が見えない。
大型店舗に客を取られて、戻ってこない。
アメリカの経済が失速したら、日本の経済はどうなるだろうか。
組合員の数も半減した。
あの店も廃業した。
若い者は、店を継ごうともしない。
いったい自分たちは、どうしたらいいのか。
先日の小売酒販組合新年懇親会、昨日の食品衛生協会新年懇親会で聞こえてくるのは、こんな声である。
大規模店舗が進出して、商圏が大きく変化した。
そのこと自体は経済の自然の摂理であり、これを頭から否定するようなことはできない。
構造改革路線は、規制改革の大きなうねりの中で、経済活動を制約する様々な条件を取り除き、大規模資本の活動分野を広げ、さらに一層の、資本の集約化と効率化を果たしてきた。
大規模店舗の進出に伴う零細個人商店の淘汰は、その直接の結果である。
これを止むを得ない、と見るのか、それとも、なんとかしなければならない、と思うのか。
弱肉強食の、むき出しの市場主義、冷酷な資本主義に委ねてよいかどうか、の選択が問われていると思う。
経済自由主義の立場に立つと、それは自己責任の問題ということになろうか。
自分で解決するしかない、ということになる。
しかし、こうした悲鳴を上げている現場の声に応えられなければ、政治はその責任を放棄したことになる、と私は考えている。
人口が増加し、経済規模が拡大する一方の社会では、皆、自分のことだけ考えていても、結果的に社会的な調和が実現していた。
しかし、人口が減少し、高齢化が進んでいる社会では、個人主義は最終的に「孤人」主義になってしまう。
「孤人」主義社会は、とても社会とは言えない。
社会の調和を実現するためには、政治や行政が特別の配慮をしなければならない。
だから、構造改革の後に続くのは、「新しい社会」主義。
私は、そう思っている。
「新しい社会主義」、端的にそう呼んでもらってもいいくらいだ。
規制にもいい規制と、悪い規制がある。
悪い規制は廃止し、いい規制は強化する、それが本来のあり方だ。
自由主義の欠陥が如実に現れてきている時代である。
発想の転換、政策の転換を図る必要がある。
採算無視の赤字出血サービスで個人商店の顧客を根こそぎ奪おうとするような不当廉売に対しては、これを独占禁止法上の違法行為として取り締まりの対象とし、課徴金を課せるようにしようとしているのは、まさにその現れである。
中心市街地の活性化を阻害する郊外への大規模店舗の進出を一定の条件の下で抑制しようというのも、その現れだ。
温もりの感じられる社会、これを実現していかなければならない。
高齢化が進む日本である。
高齢者の手の届く距離にある個人商店が生き残れるような施策を推進する必要がある。
温もりを感じられる距離に様々なサービスが用意されていることが大事だ。
そして、政治も、国民が温もりを感じられるものでなければならない。
効率優先の構造改革、市場原理主義の構造改革から、調和社会を実現するための「新しい社会主義」への大転換が今、始まっている。
私には、そう思えてならない。
皆さんは、どう思われますか。