2ndシーズン第22話「未来のために」で、刹那の乗るダブルオーライザーに、スサノオで挑んだブシドーことグラハム・エーカー。この当時のグラハムは“戦う者のみが到達する極み”というものを求め、その極みにある勝利のみを望んでいた。戦う事しか出来ない自分と少年(刹那)には、戦いの中で勝利を掴む以外に一体何があるのだと。

確かに刹那もかつて自分を「戦う事しか出来ない破壊者」だと言っていた。しかし、その後の刹那は成長して変わっていたのだ。刹那の戦う理由には、未来へと繋がる明日を掴む為という意識が芽生えていた。戦いはただ破壊するのみではなく、戦いによって作り上げられるものもあるはずだという境地だ。戦う事そのものを目的とし、勝利する為だけに戦おうとするグラハムとは異なる心境に達していた。そしてその勝利を得られず刹那に敗北したグラハムは、最早生きる意味無しとして死を望んだ。

だが、刹那はグラハムにトドメを刺すことなく、「俺は生きる…生きて明日を掴む。それが俺の戦いだ。生きる為に戦え!」とグラハムに告げた。勝利か死かを求めて破壊の為に戦うのではなく、これからは貴様も生きて明日を掴む為に戦えと。

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あれから2年。グラハムの心には刹那の言葉が刻み込まれたのだろう。無為に誤った解釈の武士道を極めようとするのを止め、軍人としての本懐と矜持を取り戻したようだ。ガンダムを目の敵にして追うのではなく、人間として刹那を精神的に越えようとし続けてきた。私が越えなければならないのはこの少年だと。越えるといっても今度こそ戦って勝つという意味ではなく、自分も本当の意味で未来を掴む為の戦いをしてみせるという気概だと思うが。

良い意味で刹那を目標にして追い続けたグラハム。その刹那が昏睡状態からの復活を果たし、再び戦いの場に帰って来た。それを見てグラハムは心躍ったに違いない。「待ちかねたぞ!少年!」と叫ぶほどに。

ところが刹那の様子がイマイチだった。刹那の目的はELSとの対話であることは明確だったと思うが、それにしても刹那の乗るクアンタの動きに冴えがなさ過ぎる。その理由はELSとの平和的な対話に固執するあまり、自分の身を守る戦いすら躊躇していたからだ。仲間(サバーニャやハルート)がELSを排除して作ってくれた進路を進んだまではいいが、そこから先になかなか進めないでいた。ELSの中枢(超大型ELS)に近づけば近づくほど、大中小ELSの数は半端じゃなく増えていく。ELS達は刹那の脳量子波に引かれて突進してくる。

それを「俺は戦いに来たわけでは…」と言いながら回避するのに精一杯になっていた。

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確かに、これから対話をしようという相手に攻撃するわけにはいかないと考えるのは普通だ。ELSを何の躊躇いもなく撃ちまくりながら、対話を求めているなんて言っても説得力を失う。人類側の平和使節としてELSのもとへと行くのなら、それを非戦という態度で示したいのもわかる。

だが、ELSとの対話をするのなら、対話の場に辿り着く前にやられてしまっては意味がない。刹那は自分とクアンタが今の人類にとって唯一無二の希望であることを理解して無いと思う。刹那は自分をそういう重要な存在だとは端から思いもしないタイプだし。でも万が一にも粒子貯蔵タンク型のダブルオーライザーの時のように、ELSに接触・同化されて取り込まれてしまったらもう終わりなのだ。刹那が死ぬだけで済む問題じゃない。今、すぐに活動出来るイノベイターは刹那しかいないし、ダブルオークアンタも代わりはないのだ。

だから、刹那の弱気で煮え切らない態度を見てグラハムは言う。「何を躊躇している!生きる為に戦えと言ったのは、君のはずだ!例え矛盾を孕んでも存在し続ける。それが、生きることだと!」と。

対話をすると言いながら、攻撃して戦ってしまうのは確かに矛盾ではある。しかし、まずは生き延びて存在し続けなければ、対話をするも明日を掴むも何もない。戦わなければ死ぬのであれば、矛盾があろうとも戦わなければならない時もある。対話をするのも大事なことだが、まずは生きる為に戦えとグラハムは刹那に言いたいのだろう。生きてこそ未来があるのだと。それを教えてくれたのは君ではないかと。

「行け、少年!生きて未来を切り拓け!!」

生きる為に戦う、生きて明日を掴む…それはグラハムが刹那から学んだこと。だから今は逆にそれを刹那に言いたいのだ。