トランザムライザーとの戦いにより、継戦能力を奪われ敗北が決定的となったブシドーのスサノオ。緊急脱出機能がオートで作動したのだろう。コックピットが排出され、刹那の目の前に姿を現したブシドー。


「戦え少年…!私を切り裂きその手に勝利を掴んでみせろっ!」と叫ぶブシドー。恐らく、戦いに敗れたからには敗者の死をもって決着をつけ、全てを終わらせるのが道理だと思っていたのだろう。しかし刹那はブシドーにトドメを刺そうとせず、そのままビームサーベルを収め、トランザムを解除した。「なぜだ!?なぜトドメを刺さん!?」と問うブシドー。勝利した者がトドメを刺さないのはおかしいとばかりに言うブシドーだが、それはブシドーだけの理屈に過ぎない。そもそもブシドーと戦いたいとも倒したいとも思っていない刹那からすれば、そんな理屈に付き合う謂れもない。


刹那はそんなブシドーに告げる。「俺は生きる。生きて明日を掴む…それが俺の戦いだ。生きる為に戦え!」と。刹那の戦いは勝負そのものを目的としたものでもなく、相手を殺す為でもない。今の刹那は生きて明日を掴み取る為に戦うつもりで、それとは無関係の殺生をするつもりはない。だから、お前も生きる為に戦え!とブシドーに諭しているのだと思う。死に場所を求めるかのような戦いではなく、生きて未来に繋がるような戦いをしろと。死ぬ必要もないのに、負けたからといって死のうとするのは命の無駄遣いだ。それを“生き恥を晒す”なんて見下すように言う人間もいるだろうか、それでも生きることこそ戦いだとも言える。


生きる為に戦え!とブシドーに告げて、その場を立ち去る刹那。その刹那にオーライザーに乗る沙慈は、何故か「ありがとう」という一言を送る。刹那は沙慈に対して礼を言われるような事は何もした覚えがない。なので、「何を?」と聞き返しながら戸惑う刹那だったが、沙慈は「そう言いたい気分なんだ」とだけ答えた。多分沙慈は、刹那がブシドーにトドメを刺さず殺さなかったこと。そして、刹那の言葉に感銘を受けたのだと思う。刹那がこれまで度々口にしていた「戦う」という言葉を、これまでの沙慈は「=人殺し」だと解釈している面があった。だから、刹那から戦え!と言われると、人殺しをしろと言うのか!?と反発していた。でも、刹那の言う戦いは、必ずしもそうではなかったのだと、改めて実感として感じたのではないだろうか?生きる為、生きて明日を掴む為に戦う。その姿勢に沙慈は共感を覚え、それを行動として示して見せてくれたことに、感謝にも似た気持ちを覚えたような気がする。


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だが、ブシドーはまだ思い悩んでいた。ここ数年、純粋に戦いのみを求め、戦って己の持つ力を鼓舞して、そして勝利する為だけに自分の全てを賭けてきた。なのに、刹那に敗れ、そして命を賭したはずの戦いの後も自分はまだ生きている。それはまるで敵に情けをかけられたかのようで、虚しさと情けなさに塗れてもいただろう。この残された命に何の意味があるのかと。もう、目標も生きる意味も見失ってしまった。ただ生き長らえていても無駄ではないかと。


目の前に漂う短刀を手に取り、自分の目指してきた道を振り返る。「武士道とは…死ぬ事と見つけたり…」そう呟きながら自らの命を絶つことを考える。これまで自分は敗北は死だと考えてきた。生きる事は即ち戦って勝利することであると。しかし戦いに敗れた後、敵は自分の命を奪ってはくれなかった。ならば!自らの手で自分の命を絶つ。それこそが潔い終わり方ではないかという理屈が脳裏を過ぎったのだろう。武士は死を恐れてはならない。死ぬことこそが武士道だ。そうミスター・ブシドーは信じてこれまで邁進してきたのかも知れない。


山本常朝という人物が示した武士の心得を、田代陣基という人が記した書物に『葉隠』というものがある。この中に「武士道と云ふは、死ぬ事と見付けたり」という有名な一説がある。ミスター・ブシドーが呟いたのはコレであり、ブシドーはもしかすると葉隠を読んで武士道を学び、その思想に傾倒して行ったのかも知れない。この一説を字面だけで理解すると、武士は命を惜しまず、躊躇わずに死を目指すことが道を極めることのよう読めてしまう。ブシドーことグラハムは西洋人であり、ロジカルで言葉通りの解釈や捉え方をする文化圏の出身である。その為、こういった言葉もそのままに、ある意味素直にダイレクトに理解して吸収したのかも知れない。しかし、本当の(というか古来の)日本文化は字面の裏や文章の行間に込められたものを読み取る文化体系だと思う。直接語られている言葉だけではなく、文脈全体から言外に見え隠れする意味すら読まなければ真髄には辿り着けない場合も多い。


※まぁ、わたしゃ葉隠を流し読みすらしていませんが(苦笑)。


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武士道は、決して武士に命を粗末にする事を推奨するモノではない。必要以上に死を美化するような心得でもない。むしろ、最終的にはその逆を唱えるものだという気がしている。


武士道の精神は、主君に対する忠義、下位の者や弱者への慈しみ、敵への憐れみ、自らを厳しく律して節度を持つことが基本のように思う。確かに武士たる者は、事があれば主君の為に命がけで戦わねばならず、命を惜しまずに死ぬ覚悟も必要となる。戦ともなれば、負けるとわかっていても自分の命を投げ打って、国の為に戦って死ぬことで、それが名誉となることもあると思う。しかし、「武士道と云ふは、死ぬ事と見付けたり」という言葉は、武士に無闇やたらに戦って死ねと言ってるわけではない。


武士は必要に応じては自らの命を顧みず、捨て身で戦わなければならないこともある。自分の命を迷わずに捨て、敵の命を躊躇わずに奪わなければならない時もある。しかし、武士道は殺人鬼や戦闘中毒者を生む為の教えではなく、むしろ無闇に敵を作らず無用な戦いをしない為の心得でもあると思うのだ。本当に命を懸けるに値するものは何かを、正しく判断するのも武士道ではないだろうか?確かに、自分の命を惜しんで死を恐れて逃げるばかりでは武士とは言えない。「身を捨てれこそ浮かぶ瀬もあれ」という故事もある。全てを投げ打つ覚悟で事に臨めば、道が開けることもある。しかし、それは自分の死に場所を求めて、わざわざ自殺行為をするような意味とは違う。大切な目的の為に命を投げ打つのであり、生きる為の活路を見出す為に死をも一旦覚悟するということだと思う。


武士は武の人であり、戦闘要員であることも間違いない。そして、戦うからには勝つつもりじゃなければならない。戦では基本的に勝利を求められる。それには己の強さを磨かねばならない。体を鍛え上げ、腕を磨き、精神的にも勇敢さや猛々しさを備えねばならない。戦えば死ぬかも知れないが、それを恐れない心も必要とされる。でも、己の腕を磨く為だけに、わざわざ意義もなく人殺しをするのは武士ではない。戦意のない相手に無理矢理戦いを強要し、自分の強さを試す為に自ら戦いを生み出すのは武士としては本末転倒なことだと思う。どうしても避けられぬ戦いの為に、自らを修行で磨いて備えるのが武士だ。自分の戦闘能力を磨いて極める為に戦いを起こすのは、主旨を履き違えているといわざるを得ない。


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勝負に負けたから潔く自らの命を絶つ…という行為も、実は武士道とはあまり関係ない気がする。自暴自棄、または、ただの自己満足に過ぎない格好付けだと思う。ただの感傷的・感情的な自決は、武士の本懐とは全く別物だからだ。、「武士道と云ふは、死ぬ事と見付けたり」、しかし、その死はただ命を粗末にしただけの無駄死にへの覚悟を促すものではない。物事に失敗して挫折したからといって、簡単に諦めて無駄死にを選ぶのは潔さでもなんでもない。


武士道とは、自分の命を如何に意味あるものとして使うかを探究する道だと個人的には思う。その為に、普段から己を律して磨き上げ、自分の命も他人の命も大切に育てていく。そして、本当に必要に迫られた時には、保身に走って怯んだり逃げ出したりすることなく、大事の為に有意義に命を使う。武士であれば、いつか誰かの命を奪わざるを得ない場合もある。だからその分、必要もない殺生を普段は決して行わない。己を磨く為に誰かを傷つける必要などない。本当の真の敵に対して全力で戦う為に、日頃は無闇やたらに殺気を放って必要以上の敵を自ら作らない。


自分の命は勿論、他人の命も粗末に扱い、カッコつけて死など恐れない!と強がるのが武士道ではない。武士の道を極めるのは、ただ武力としての強さを求めることでもない。死ぬ気で向かってくる相手は確かに手強いし恐ろしい。でも、無意味な死を避けようともしない相手は、放って置いてもその内自爆して虚しく無駄死にする。そんなのが武士道だとはとても思えない。ブシドーの目指した武士道は、誤解で歪んだ武士道だと思う。武士道などにまったくカブレもせず、ただ、自分の戦いの意味を常に考え続けてきた刹那・F・セイエイの方が、むしろ知らず知らずに武士道の本質を体現していたような気がする。


ミスター・ブシドー、いや、既に心の仮面が取り払われつつあるグラハム・エーカーは、その事(刹那こそが会得しているもの)を理屈ではなく感覚としてようやく理解したのではないだろうか?だから、自決しようとした瞬間に刹那の言葉が脳裏に浮かんで思い留まった。「生きる為に戦え!」という一言が心に鋭く突き刺さる。そして、このまま自決することこそが、拾った命を無駄にする真の敗北だと気づいたのでは?と思う。