1stシーズン第25話「刹那」にて、グラハム・エーカーはGNフラッグを駆って刹那の乗るガンダムエクシアと念願の戦いへと突入する。


「会いたかった…会いたかったぞガンダム!」と、AKB48の歌のような言葉(?)を吐きながら、背中の擬似GNドライヴとビームサーベルをケーブルで直結し、それを構えてガンダムに向けて突進して来た。「ハワードとダリルの仇、討たせてもらうぞ!」と言うグラハム。まずは、その思いも決して嘘ではないだろう。これまで何度も苦渋を飲まされ、部下を仲間を次々と失ってきた。その仇を討つのも自分の使命だとグラハムは思っていただろうから。刹那の乗るエクシアに…というよりも、ガンダム全般に対する恨みを晴らさねばならない思いがある。


しかし有視界通信でガンダムパイロットとの通信を試みたところ、驚く事にガンダムに乗っていたのは以前アザディスタンで見かけた少年…刹那だったのだ。「何と、あの時の少年か!?やはり私と君は運命の赤い糸で結ばれていたようだ。そうだ!戦う運命にあった!!」…アザディスタンで出会った時にも、グラハムの心には何かピンと来るものがあったのだろう。どんなに民間人を装っても、その目には戦う者のみが持つ独特の光が宿ったりする。あの時の少年がCBのガンダムマイスターだとまでは思いもしなかったが、ただの素人ではないとグラハムの戦士としての鋭敏な直感が嗅ぎ取っていたに違いない。ガンダムに乗る刹那の顔を見て、グラハムは得心と同時に歓喜のようなものを覚えたのではなかろうか?好敵手の姿を確かめて、より一層戦意が高揚したはずだ。


もしも、ガンダムに乗っていたのがサーシェスのような交戦的なタイプの大人だったりしたならば、グラハムの戦意は当初の通り“ハワードとダリルの仇討ち”として燃えたのかも知れない。しかしガンダムに乗っていたのは中東の小国で出会った、鋭い瞳が印象的なあの少年だった。グラハムはあの時(1st第13話「聖者の帰還」)、少年にこう問いかけた。「少年!君はこの国の内紛をどう思う?」と。「君はどちらを支持する?」とも。それに対する少年の答えは、「支持はしません。どちらにも正義はあると思うから。でも、この戦いで人は死んでいきます。沢山…死んでいきます」と。グラハムはこの時、少年の言葉に同感した。この少年は戦っていると感じたが、少年の言葉は戦いを好んでいる者の台詞じゃない。善人を装った言葉でもない。そういう感じの印象をグラハムは受けていたのではないだろうか?だから、アザディスタンの受信アンテナを攻撃した機体は、PMCから奪われたイナクトだという情報を少年に漏らしたりした。


その少年が乗るガンダムであれば、まさに自分の好敵手に相応しいと、グラハムは悦びを禁じ得なかったのでは?憧れ続けてきたガンダムは、やはり自分と戦う運命で結ばれていたのだと確信して。


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これまでグラハムは、ユニオンの一軍人としての職務でガンダムと戦ってきた。内心は個人的な関心や趣味にも走っていたが、一応自分なりに軍人としての立場を弁えて任務を遂行してきたつもりだ。軍人としての立場や使命が第一義としてのベースにあり、それと自分の欲求の利害が一致した形で戦い続けてきた感じだったはず。しかし、今のこの戦闘は軍からの命令による任務だろうか?恐らく、建前上はともかく本質的には違ったはず。最早、軍務とは別の次元でグラハムはガンダムと戦おうとしている。刹那の顔を見て歓喜した自分の内面に対し、グラハムは自分の本心に気付き始めたのかも知れない。


「ようやく理解した。君の圧倒的な性能に私は心奪われた。この気持ち…まさしく愛だ!」


この台詞に刹那は「愛?!…」と思いっ切り絶句して引いてたが(笑)。これは、グラハムにとっては、これまでガンダムに心惹かれ、ガンダムを追い続けてきた自分の当初の内面を解き明かしたのかも知れない。しかし、惹かれた思いがそのままではないことも事実だった。「だが、愛を超越すればそれは憎しみとなる。行き過ぎた信仰が内紛を誘発するように!」…これは刹那が信仰心の厚い中東出身者であると見越しての言葉だろう。行過ぎた信仰が内紛を誘発する…それは君にも恐らく思い当たるフシがあるだろう?と。グラハムはガンダムに憧れ愛し続け、それ故に自分から色々と奪って行ったガンダムを憎んでいる。いや、憎んでここまで来たのだが、本当はどうだかわからない。ただ、ともかくグラハムはガンダムと戦いたかった。

「それがわかっていながらなぜ戦う?」と刹那は問う。刹那は別にグラハムと戦いたいとも思っていないからだ。行き過ぎた信仰が内紛を誘発する事があるとしても、それが良いだというわけではない。愛が憎しみに変わった方が良いわけでもない。むしろ、そうならない方が望ましく、そうしないように努力する事こそがあるべき道だ。しかし、グラハムはその議論にマトモに乗る気はない。「軍人に戦いの意味を問うとは、ナンセンスだな!」と突っぱねる。本来なら、軍人にも戦うにはそれなりの意味がなければならない。意味なく軍を派遣する国はないし、理由なく戦争を始めるのはただの暴力好きの愚か者だ。


しかし、グラハムはそれをナンセンスと言う。つまり、今のグラハムは実は軍人ですらなく、軍務として戦っているわけでもない。ただ、戦いたいから戦っている。敢えて理由を述べるとしたらそれしかないのだろう。だからいちいち理由など求めるのはナンセンスなのだ。グラハムは恐らく、殺人が好きなわけではない。ただ、戦う事は好きなのだ。戦いの中に高揚感と快楽を見出していて、命がけの本気の戦いの中に命の煌きを感じたい。もはや刹那やガンダムが憎いから戦うわけですらない。グラハムは自分の本性の中に、『ガンダムとの勝負そのもの』を求め続けていた自分に気付いてしまったような気もする。


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「貴様は歪んでいる!」と刹那が言えば、「そうしたのは君だ!ガンダムという存在だ!」とグラハムは返す。「だから私は君を倒す!…世界などどうでもいい。己の意思で!」…そう世界などどうでもいい。それが今のグラハムにとっては偽りのない本音なのかも知れない。世界の為に、祖国の平和の為に戦っているのでもない。戦いながら興奮状態で叫び合っているので、この言葉の全てが本気とは言い切れない。ともかくグラハムは刹那に言い負かされるのが嫌だったから、ああ言えばこう言う的な押し問答と言うか、主張がいつまでも平行線のままなのだ。刹那はもしかすると議論する事で戦わずに済ませたかったのかも知れない。しかし、グラハムは何があっても戦わずにいられない心境だったのだろう。だから、刹那の言葉に応えてはいるが、内容には聞く耳を持っていないのだ。


そして、刹那とグラハムの戦いは、相打ちのカタチで終焉を迎える。双方共に剣で互いを貫き合い、戦闘不能状態に陥って。それは一応の決着がついた形だが、グラハムにとっては満足して終わるカタチにはならなかったのだろう。恐らくは、機体が大破して死をも一度は覚悟したのだろうが、幸か不幸かどちらも生き延びた。刹那にとってはこれで終わりのはずだった気がする。別に、刹那側にはグラハムに対する恨みも因縁も何もない。しかし、顔に傷を負いながらも、生き延びたグラハムは更なる戦いを求めずにいられなくなっていた。ガンダムとの戦いを通して、グラハムは自分の本性、本懐に気付いてしまった。自分が何を求めているかを。自分自身の真の欲求と、それを満たすことで得られる快感に。


自分が生きていたということは、ガンダムに乗っていたあの少年も生き延びた可能性がある。CBもこれで終わりというワケでもないだろうと推察出来る。いつかCBは、ガンダムは、復活して活動再開する可能性が高い。ならば、その時まで自分は待たねばならない。それまで自分を更に磨き上げながら。恐らく次に現れるガンダムは、さらに強くなっているに違いない。しからば、それに十分対抗出来るように、グラハムは自分自身の戦闘力を極めて高めて行かねばならない。そして、ガンダムが再び現れるそのときには、自分はガンダムと真っ向から戦える場所にいなければならない。


それをビリー・カタギリの叔父であり、地球連邦軍司令官でもあるホーマー・カタギリに直訴する機会を得る。グラハムのパイロットとしての腕が確かである事はホーマーの耳にも評価が届いていただろう。何よりも、CB活動再開の暁には、ガンダムを倒す事はホーマー自身の目的にも合致する。ビリーの親友であることも、グラハムには有利に働いた事だろう。ホーマーは、自分やイノベイターからの特命があった際には、その任に最優先であたることを条件に、グラハムにワンマンアーミーとしてのライセンスを与えた。これで軍の命令に縛られず、自分の意志で戦地に赴く事が出来る。


さらに、カタギリという名が表すように、ホーマーは日系であり日本文化に造詣が深い。なので、グラハムに武道の修行を受けてみるよう進めるなどの影響を与えた可能性がある。剣術や武士道の心得を学び、精神鍛錬の為の修行を重ねたグラハムは、日本古来のサムライのような戦い方に次第に傾倒して行ったのかも知れない。こうして、グラハムの言動は時代劇のように芝居がかったスタイルとなり、いつしか世間ではミスター・ブシドーと呼ばれるようになったのでは?本人はその呼び名を気に入ってはいないような口ぶりだが、断固否定してないところをみると、実はまんざらでもない気分なのかも知れん。