かんじんなひび -3ページ目

離婚が成立しました。

去年の5月から別居に向けての話し合いを始め、8月に別居をしてから実に1年以上が過ぎたわけですが、10月26日、めでたく財産分割も含めて離婚の合意が成り立ち、離婚が成立しました。晴れて独身に戻りました。


今までの期間、いろいろな形で支えてくださった方たち全員に心よりのお礼を申し上げます。ことにKに対しては、いつも寄り添ってくれて本当に感謝をしています。


さてさて。


問題となっていた財産分割ですが、最終的にはわたしのほうが譲歩をする形になったと言ってもいいかと思います。でも、それでよかったのだと思うのです。


法廷での待ち時間に弁護士さんといろいろと話をしていて、財産分割についての考え方を説明していただきました。


確かに、主たる収入源を確保していた人の立場からすると財産をふたつに分けるというのは不公平に見えるだろうし、そういってもいいのではないかとわたしも思います。でも、財産分割は貢献度に対して公平なのではなく、今離婚してこれから他人として新しい人生をはじめる二人の出発点が公平であるように行われるべきなのだと法律では考えるのだそうです。


また、財産に対してわたしはexと同等の権利があると主張をしていたのですが、そのことに関しては裁判官に認めていただけました。その上で、認められた自分の権利を主張するだけが公平な結論を招くわけではないとわたしは理解しています。二人の年齢やそのほかのことを考えれば、わたしが今回した譲歩はよりフェアーな結論のためには必要であったと思っています。そして、自分自身でこれはフェアーな結論だと思えるものが成立したことがとてもうれしいです。


exは「俺の勝ちだ、どうだ」みたいな目線を送ってきていました。でも、わたしにとってはこれははじめから勝ち負けじゃないんです。自分の権利を正当なものとして認めてもらって、フェアーな結論を導き出したかったんです。


もちろん、今までexがしてきたいくつかのことについては今でも許すことはできずにいます。でも、復讐なんてしてもわたしは幸せになれないです。そして、もし、復讐が存在するのだとしたら、わたしが幸せになることでしょう。


わたしはいま幸せです。そして、自分がフェアーに取り扱われたこと、自分がフェアーに振舞えたことについてとても満足しています。


ありがとうございました。




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とりあえず、離婚が成立してうれしいのよぉ。これで、がたがたexからくだらない干渉を受けることもないし。チェシャー猫みたいに法廷でにまにましてしまったわい。

ばたばた・・・

大変にご無沙汰しています。お久しぶりです。

なにもしていない間も、ペタをありがとうございました。また、覗いていただいていた方もいらっしゃるようで、ありがとうございました。


どうもここしばらく心が変な感じで、外に向かってまったく関心を持てなくなり、感情がフラットになってしまっていました。とても変な感じでした。

そんなこんなで、少々、ボーっとしていました。そのボー状態から突如正気に返ったら、今週の日曜日からわたしは浜松にいることになっていました。Kに会いに行きます。家裁第二回目が10月の末にあるのですが、その前にちょっと脱出してきます。


そういうわけで、今週は出発前の準備で大騒動です。

汚水槽の汲み取りに来てもらい、ボイラーの点検をしてもらい、ついでに暖房用のオイルを500リットル(一年分)配達してもらい、歯医者に定期健診に行き。

出発前にすることのリストを作ります。掃除、洗濯、ゴミ捨て。出発の朝には、水道の元栓を閉め、暖房をホリデーセッティングにして、電気製品はすべてコンセントを引っこ抜く。空気抜き窓を開けていく。猫の出入り口は鍵をかける(先回は近所の猫が住み着いちゃって・・・笑)。

ええと、iPod Shuffleにも、BBCのラジオプログラムをうんとこさダウンロードしておかなくっちゃ。飛行機の中って暗いから本を読むのはつらいんです。かといって、映画見てもねー。音楽を聴いてるのも退屈だし。なので、ラジオプログラムがPodcastされているのはとってもうれしいです。

それから、おめん。




よよ・・・

よよよ・・・。

ボクは捨てられるんです・・・連れて行ってもらえないんです・・・。

いいえ。捨てたりしません。あんたをおいてったら、そこらじゅうでぎゃーぎゃー鳴いて、ご近所様に大迷惑です。ちゃんと猫ホテルに突っ込んで差し上げますよ。しかも、家中、ねずみの死骸だらけにする気でしょ!



ちぇ・・
ちぇ・・・。気ままな一人暮らしにあこがれるんだよなー。

今回は、手荷物だけで行くつもりです。洋服はKのを借りればいいので。わたし達、サイズがほとんど同じなんです(違うのはおっぱいだけだ)。こういうとき、同性のカップルってとってもらくチンでいいものです。

そういえば、今回は浜松なので中部国際空港を利用します。ここって、なんというか・・・空港というより一大レジャー施設?って感じです。展望風呂までついてるし。税関抜けたら速攻で風呂に行きます。旅塵を払います。ついていきなりKと二人で裸のお付き合い。・・・こういうのも、同性カップルのよさよねー。大浴場に一緒に入って大欲情、なんてお約束のくだらない駄洒落も飛び出しちゃったり。どうだ、異性カップルめ(ってなにを張り合ってるんでしょう、わたしは)。

今日は銀行に行って来たのですが、その途中でたまたま入ったお店で売っていたネックレスが気に入ってその場でお買い上げ。

ネックレス

こういうごろごろした感じのネックレスがすきなんです。

このネックレスで、胸元の開いたシャツを着て、Kの視線をわたしの白い肌に釘付けよ。今回も、この勝負はもらった(?)。



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というわけで、浜松に行きます。うなぎだ、うなぎだ。

どこかお勧めのお店ってありますでしょうか?



携帯電話をめぐる

「嫉妬した彼氏に携帯電話を折られた」


というようなことを聞いて、どうやって携帯電話を折るんだろう?とものすごく不思議に思ったことがありました。わたしが持っている(だけ)の携帯電話は白黒の小さな液晶画面がついていてその下に文字盤があり、小さいけれどもしっかりとしたつくりなので、それを折ろうと思ったらものすごい力が必要なのではないか、と、その力をついつい出してしまった「彼氏」の怒りと嫉妬の大きさに少々びっくりしました。


しかし、よく考えれば、日本の携帯電話の主流は折りたたむ式のようなので、あのちゃちそうなちょうつがい部分であれば折ることは非常に簡単なはず、と気がつきました。


なるほど、技術の進歩に伴って怒りや嫉妬の表現もいままでは考え付かなかったものがでてくるのだなあと感心しました。



わたしもKも携帯電話は使いません。一度、焼肉屋に二人で行ったとき、店員さんから


「携帯電話でクイズに答えていただくと・・・」


と何かのキャンペーンのお誘いを受けたのですが、見事なユニゾンで


「携帯電話持ってないんです」


と二人して言い放ったことがあります。店員さんは「見事にハモりましたね」と笑っておられましたが、後姿が「携帯電話を持ってない人っているんだー」という驚きを物語っていました。


携帯電話を持っていないのは、持つ必要性をまったく感じていないから、というのがおもな理由です。それと、いつでもどこでも誰かから連絡がくるかもしれない、というのがとても嫌なのです。また、それに対して、その場での対応を要求されるというのがどうにも苦手です。また、そういうことを相手に要求してしまうのが申し訳ない。もしかしたらデートの最中かもしれないし、浮気相手と会っている最中かもしれない。そういうプライベートな時間への闖入してしまうことが嫌なのです。


同じ理由で電話も大変に嫌いです。相手は食事中ではないか、お風呂に入っているのでは、などと考えると、電話をしなければと思いつつ、3日も4日も電話の前で悩むことがあるくらいです。


それでも一応携帯電話を持っているのは、長距離のドライブのときなどの緊急事態への対応のためです。友人からは


「ああ、持ち歩き公衆電話ね」


といわれ、なかなかうまいことを言うもんだ、と思ったことがあります。


PCでのメールは手紙よりも早く確実な方法で、しかも自分の時間で対応できるのでまったく気になりません。自分のプライバシーも他人のプライバシーも侵害している感じはしないです。どちらかというと、メールはかなりすきかもしれません。


それを考えると、メッセンジャーやスカイプもいつ誰から話しかけられるかわからない、という嫌悪感があります。なので、Kとの会話ではK専用のIDを作ってほかの人には教えないことにしています。こちらのほうは、Kと話すことを邪魔されたくない、という自己中心的な理由もあります。


こんな感じのわたしなので、これから先も携帯電話を持つことはないでしょうし、もし持ったとしてもKと息子にしか番号を教えないことは確実だな、と思っています。



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ちなみに、携帯電話を使わないわたしですが、ネットやPCはかなり使うほうだと思います。Kとの連絡も、娯楽も、すべてPCがこなしてくれています。なので、冒頭の話に戻りますが、もしKが嫉妬して怒って「折る」ものがあるとすれば、わたしのPCであることは確実です。


そこで、ノートPCの画面はどのくらいまで開くのか試してみました。わたしのものは180度開いたので、ちょっとびっくりしています。そんなに開く理由はいったいなんなんでしょうね。あんまり意味のない角度だなあ、と思いました。どうせなら360度開いてくれれば折られる危険もなくなるのに。


それと同時に、Kという人間は嫉妬をしても怒りくるって物を壊すような人ではない、と心の底から断言できる、なんて、またしても最後にのろけてみたり。

実は、わたしの猫ではありません。

誰にともなく、シャムネコ(血統書つき)を飼っている言い訳など・・・。




実は、おめんはわたしの猫ではありません。そのとき、わたしは黒猫のクロちゃんを飼っていました。クロちゃんはかわいくておでぶちゃんで、とても賢い猫でした。

友人の猫が去勢をする直前にお隣の猫と駆け落ちをして、挙句の果てに捨てられ、ぼろぼろになって帰ってきて産み落とした子猫です。

「お母様、やはり、お母様の言うとおりでした。あの人はわたしを利用するだけ利用して、わたしが病に倒れると、おなかの子供ごとわたしを捨て去ったのです・・・よよ」

と、泣きながら、弱りきった体でそれでも必死で産んだ子猫です。


その子猫をお星様になり損ねた母猫のためにもしっかり育てよう、と友人は思っていたらしいのです。が、その子猫は気が強く、母猫とテリトリー争いを繰り広げ、屋根の上で大立ち回りを演じて、二匹で団子になって落ちてきたのを見て、友人は子猫を里子に出すことに決めました。・・・このままではどっちかがお星様になってしまいます。


そういうわけで、赤ワイン一本と引き換えにクロちゃんはうちに来たのです。


でも、exは、どうしてもどうしてもシャムネコがほしい、とごね続け、ブリーダーを探し出しました。そして、exが選んだ猫がおめんです。そのとき、おめんの異母兄弟の片耳が聞こえないカジキマグロがいました。片耳が聞こえないため、臆病でバランス感覚もおかしいカジキマグロは引き取り手がいない。どこかいいおうちに引き取ってもらえないか、とブリーダーさんが話していたので、おめんと一緒に引き取ってきたのです。


というわけで、おめんは実はexの猫なのです。たぶん、シャム猫の血統登録でも飼い主はexになっているはずです。

しかし、別居したあと、息子からexがおめんに対してひどい態度に出ていることを知り、引き取ることにしたのです。exははじめは文句を言っていましたが、以外にあっさりとおめんをわたしに渡してきました。


その理由は・・・。


おめんがでっかい声で、ごはんだ、なんだ、かんだ、と一日中鳴いているのでうるさくていらいらしていたようです。実際、おめんはexの家で少々の虐待を受けていたようで、男の人を見るとものすごく怖がるようになりました。


実際、うるさいんですよ・・・おめん・・・。わたしもときどき、頭にきちゃうことがありますから。



こんな感じで、一日中、鳴いているんです。いや、違う。明らかに文句を言っているんです。

「あんたさー、飼い主としてどうなの?」

「ご飯をケチってんじゃないよ?」

「こっちに来て、なでなさいよ」

「あんた、耳が聞こえてないんじゃないの?」

「たまには肉でも食べさせなさいよね」

「血統書もないくせに、威張んないでよね」


ああ、かわいくない鳴き声。クロちゃんのかわいい鳴き声が懐かしい・・・。しくしく。



白目~

どうせ、かわいくないですよ~。


白目ではなく、瞬膜をむいてかわいくない顔をするおめん。かわいくないというよりも、怖いです。



よい赤ワインは室温で。

この前、珍しく鏡を覗き込んでひげを毛抜きで抜いていたとき、口のまわりや目じりにうっすらとでもはっきりと皺ができていることに気がつきました。肌もそういえばしみができています。


自分もそんな年齢になったのだなあと思うと、感慨深いです。


日本語でわたしのような年齢をさす言葉ってどうして美しい言葉がないのでしょうか。中年、という言葉も、熟年、という言葉も、音も美しくないだけではなく、


「もう、お前は若くないのだ」


と、ネガティブにいわれているような気がしてなりません。


熟女、なんて言葉にいたっては、本当に音がいやらしくて、腐った果物を連想させられます。自分がこんな言葉で表現されることに激しい抵抗感を覚えます。


それに対して、英語のMatureという言葉は好きです。年を重ねることはあるべき姿になっていくこと。自分の個性を獲得して、感情的にもバランスが取れて、より自分らしくなっていく。若さなんてまったく魅力がないことである、とアカンベーをしたくなります。


肌のハリを失ったのではなく、年を重ねることで皺を自分の一部として身につけることになったのだと思えます。自分の変化は新しくなにかを自分のものにしていくことであって、若さをなくしているわけではない。


「江ゐはきっとかわいいおばあちゃんになるんだろうな。そういう江ゐも見たいよ」


と言ってくれるKが一緒にいてくれるので、わたしはよい赤ワインのように何年もゆっくりと過ごすことができるのだと思います。赤ワインがその渋みも酸味も刺激のある匂いも失くすことなくすべてを調和させて深い味わいを持つように、シミも皺も自分の大切な一部にできるのだと思っています。




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と、いいつつ、とあるものを買いにいったとき、お店の人に、


「30歳以下の女性はこちらを使っていただくのですが・・・」


といわれたとき、自分の本当の年齢を言い放って、相手がびっくり仰天するのを見て、とってもうれしいわたしだったりもします。わたしの心は複雑なのよ。


ちなみに、日本では赤ワインが冷やされてでてくるのがとっても嫌いなわたしです。いい赤ワインは室温で。


ただ、最近気がついたのですが、ヨーロッパの室温って年間を通してあまり変わらず17度から24度の間くらいなんです。なので、赤ワインの飲みごろの温度が室温でいいわけです。日本の夏だとそういうわけには行きませんよね・・・。


飲みごろの17度くらいに冷やす、というのがいつの間にか冷蔵庫でよく冷やすに変わってしまったのかなあ、と思っています。しかし、冷蔵庫で冷やされた赤ワインなんて飲めたもんじゃないですよ・・・。お願いだから、赤ワインを冷やすのはやめてください。どっかの国会議員が、「赤ワインを冷蔵庫で冷やすという現状を変えるためにはどんなことでもする所存です」なんていったら、次の選挙では絶対に投票してあげるのに。

カテゴリーに対する根本的不信感

今日、たまたま同じ内容のコメントをまったく違うブログにしました。ひとつは、ホモフォビアに対して静かな悲しさを綴ったエントリーで、もうひとつは自分のセクシュアリティーのカテゴリーに対してすわりの悪い感覚を覚えているというエントリー。


その両方に、わたしは、他者を同等な個人として愛せるか愛せないかで分けてくれればいいのに・・・というようなことを書いたのです。同性愛が崇高なのではない。異性愛があるべき姿なのではない。異性愛が正しくて、同性愛は犯罪なのではない。わたしたちは人を愛することができる。それが大事なのではないか、と思うのです。


ほぼ同じ内容のコメントをスパムコメントのように二箇所に残したあとで、少し考えてしまいました。


わたしの考え方でいうと、自分が愛した人が誰でありその人と向かい合っている自分が誰かによって個人のジェンダーやセクシュアリティーは変わってしまうことになります。わたしはそれでいいではないか、と思います。


たぶん、本来であれば混沌としていてダイナミックでエネルギーにあふれていたものに名前(記号)をつけてしまったとたんに、それが固定化されてしまって意味を与えられて類型化されてしまう、というプロセスにものすごく不信感を抱いているのだと思うのです。だから、セクシュアリティーなんて、自分が何かについて考えて名前を与えたり類型化して仲間わけなんてしなくとも、そのときに自分が愛している人との関係性の中でどんどん変わっていけばいいじゃないか、と極論してしまいそうになるのです。誰を愛してしまうかなんて選べないしわからない。初めから、自分がゲイだとかヘテロだとか決め付けて選択肢を狭めるのもつまらない・・・なんて。


だから、「プリカちゃん」の登場人物のマチコさんが悩んでも(こちら )、それでいいじゃん、っていってしまうのだと思います。


でも。でも。でも。


三回も、でも、って書いてしまいましたが、それはわたしが「遅れてきた同性愛者」だからなのかな、とも思うのです。


思春期の人格形成期にわたしにとって大事だったのはわたしがわたし以外の誰とも交換可能ではないことを見つけることでした(それは今はKによって満たされています)。カテゴリーで分けられるようなものではなく、誰かに似ている自分(それはその誰かになりたいという不毛な望みを隠している)でもなく。なので、自分のセクシュアリティーで自分をカテゴライズすることにはほとんど興味がないのです。


そして、ほかの誰かにとっては自分が同性を好きになってしまったことを自分の一部として認めることができるようになることが自分の人格の形成にとって一番大事だったのかもしれない。そういう人にとってはセクシュアリティーというのは状況に応じて適当に変わるとか、固定化するなんて選択肢を自分から否定してるみたいなもんだ、人を愛せることだけでいいじゃん、なんてお気楽に言われると、人格を否定されたような気持ちになるのではないでしょうか。


・・・そんなことに、気がついて、急に言い訳めいたことを書いていたりするのです。


それでも、やはり、同性愛異性愛という対立構造的な類型を持って話を進めるから、ホモフォビアとか、同性愛者に対する人権の侵害なんかが生じてくるように感じているのです。だから、同性愛も異性愛も対立するカテゴリーではなく、両者が他者を愛せる人間である証明に過ぎない、と思いたいのです。


そして、この世の中には他者を同等の個人としては愛せない人間もいるのです。わたしは自分がそうなるのではないかいうことを一番恐れています。

満16年かあ~・・・。

わたしは1991年の9月5日に日本を出ました。


そのときには、1年たったら日本に帰って、就職して結婚して子供生んで家を買ってローンを払って・・・なんて想像をしていました。その頃のわたしに、


「16年後のあなたは、子供を産んで泥沼離婚して、女性のパートナーと遠距離恋愛をしていて、某国の100km圏内には日本人が一人もいない隠れ谷の築200年の家に猫と住んでいる」


なんていわれても、絶対に信じないでしょう。人生というのは常に常に思いも寄らない方向に向けて転がっていくものです。その冒険に常に心を躍らせていれることができればいいなあ。


・・・というわけで、ある2年コースで勉強を再開しようかと考え中。不惑を控えて惑いまくりの今日この頃です。




喉が裂けた?

今朝、朝ごはんをあげたにもかかわらず、もらっていないと大騒ぎをおめんが演じていました。いつものことなので、無視していたのですが、あまりにも大きな声で騒ぐのでちょっと頭にきました。


そこで、軽くおめんのおなかを足の甲で押し上げるようにしたのです(けったわけではありません)。


そうしたら、たまたまタイミングがよかったのか悪かったのか、またわたしが押した位置が悪かったのかよかったのか、おめんの鳴き声が信じられないくらい大きくなったのです。まさに喉が裂けそうな大声。


わたしもびっくりだし、おめん本人は自分の声にびびって銀河の彼方まで逃げてしまいました。


こういうことってほかの猫の使用人の皆様もご経験なさってます?


まさか、喉が裂けた、なんてことはないですよね???



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その後、おめんはびくびくしながら戻ってきました。




もう大丈夫だよ。握手しようよ。

握手

したくない・・・



じゃあ、足握手は?
足握手

やめてください・・・


じゃあ、しっぽで握手。
しっぽ握手

あーのーねー・・・!


けち。ひげひっぱちゃうからな。
髭引っ張り

・・・。



あ、逃げられちゃった~。あそぼーよー。
逃げられた

ぷい。




哀愁の横顔

困った使用人だよ・・・。まったく。




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1枚目や4枚目の写真でわかるかと思いますが、怪我はすっかりよくなりました(こちらの記事 の怪我です)。かさぶたがはがれたのですが、無理やりはがしたらしく(わたしははがしたい誘惑に必死で抵抗してたのに)、はがした部分が新たにかさぶたになっています。

おそらく、人はそれを愛と呼ぶ。

先日、ひとりでDVDを見ていました。


Laberinto del fauno, El

パンの迷宮


とてもいい映画でした。音楽もよかったし。この監督は確かデビュー作が「クロノス」というメキシコ映画だったと・・・。あ、こういう情報は一つ一つの映画には関係ないのであまり気にしないんです。


それで、その映画の最中にものすごく痛そうなシーンがあるんです。暴力的というよりも、とにかくものすごく痛そうなのです。そのシーンを見つつ、うぎゃーって心の中で叫んで、じたばたしてしまいました。しかも、そのシーン、引っ張るんですよ。すごく。で、途中で、ひとりで見てるんだし、一番近いお隣は1km先だし、好きなだけ叫んでも誰の迷惑にもならない、と気がついたので。


「うぎゃー、いてー、うおー」

「やめてー、ぎゃー」

「うひひー、うはー、だー」


と、ひとりで大錯乱。


すると、ぐっすり寝ていたはずのおめんが、起きました。まあ、あれだけうるさくしたら起きるわな・・・と思っていたら、ひーひー言っているわたしのところに駆け寄ってきて、


「江ゐさん、大丈夫かい?」


と顔を覗き込んできました。


そういえば、息子が赤ちゃんだったとき、その当時飼っていた猫のクロちゃんも息子が泣いたりすると心配してそばにいってなんか一生懸命に鳴いていました。


猫って自分勝手で孤高を愛する動物だけど、つらい目にあっていたり苦しんでいる人にはさりげなく優しいんだなーと、感動しました。


そこで、おめんをぎゅーっと抱いてぶんぶん振り回しながら


「あたたたたたたー」

「お前はすでに死んでいるー」

「ひでぶー」


などと、ちょっと違う感じの叫び声をあげつつ、そのシーンをやり過ごしたのでした。





ふふふん
ふふん、手間のかかる人間だぜ。

俺がいないと、やつは駄目なのさ。



・・・なんか、おめん、上から目線なんですけど。


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ちなみに、「パンの迷宮」は本当にいい映画でした。ものすごく悲しくて切なくて。きれいでグロテスクで。音楽も映画にぴったりでよかったです。

そういえば、最近、いい映画なのに最後に「テーマ曲」とかいって変なポップソングが流れたりする映画が多いですよね~。あれはなんというか、やめてほしい感じ。音楽業界と映画業界の癒着というかなんというか。まあ、お金稼がないといけないから仕方ないんだろうけどさ。なので、字幕がはじまるとさくっと席を立つことが多いわたしです。


「パンの迷宮」オフィシャルサイト(英語)

わたしの大切な人だったかもしれない。


いま、自分達が自分達のセクシュアリティーを隠さずにいることができて、それを理由に国家の殺人の対象とならないことは本当に偶然に与えられた幸運なんだろうと思う。同性愛は世界中でつい最近まで犯罪、宗教戒律違反、精神病、などのレッテルを貼られていたんだから。


Kもわたしも、同性愛が犯罪ではない国に住んでいる。だから、セクシュアリティーに対してオープンになることや、そこにある偏見や差別についていろいろと思うことはあるけれど、命の危険はない。でも、もし、わたしたちがほんの少し違う時代や違う国に生まれていたら。


公開処刑所において、鞭で100回打たれたのはKかもしれない。


石打の刑で死刑になっていたのはわたしかもしれない。


わたしが愛したことで、わたしを愛したことで、わたしの大切な人の尊厳や命が奪われる。


わたしが同性愛者であるというだけで、わたしはわたしの大切な人と生きていくことができない。


もしかしたら、難民となり心にいえることのない傷を抱えながらひとりで異国をさまよっていたのはKかもしれないし、わたしかもしれない。


国家により拉致をされ拷問や体罰や強姦を受けて、自分の愛する人の消息さえわからない暗闇に押し込められていたのはわたしかもしれないし、Kかもしれない。


そして、心から思いました。


Well tonight thank God it's them instead of you.


それはそれは自己中心的な気持ちなのだけど。


本当にKだったかもしれない。でも、Kでなくてよかった。


だから、ほんのちょっとでもいいから、自分にできることがしたいと思ったのです。



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イランでの女性の同性愛者に対する罰則は、公開処刑所で懲罰用の杖で100回打ち据えるものです。でも、Pegahさんの場合、政府筋のサイトで「秩序ある社会の敵」という烙印を押され、石打の刑、または首吊りによる死刑の危険が非常に大きいと考えられています。


Pegahさんの恋人は逮捕されたあと、拷問を受け、死刑の宣告を受けましたが、その後のことはまったくわかっていないそうです。


以上、電子版ガーディアン紙からの情報です。
http://www.guardian.co.uk/iran/story/0,,2155893,00.html


英語の一行は、Do thay know it's Christmas?から(歌詞はこちら )引用しました。わたしはこの一行がこの歌の中でもっとも力強く人間性にあふれている部分だと思っています。


署名もまだ受け付けています(こちらの記事 からどうぞ)。国内政治の圧力、国際政治の圧力、そして法的圧力が効果をあらわしはじめ、少しずついい方向に動きつつあるようです。長期戦の様相を呈してきました。ぺガーさんについての最新の情報はこちら です。


わたしが書いた記事に思いがけなくたくさんの方が反応をしてくださってうれしかったです。また、わたしのつたない署名の仕方の説明が役に立ったようで、それで1人でも5人でもの人が署名をしてくださったのだとしたら、こういうブログをしてきた意味もあるなあ、と思っています。本当にありがとうございました。