震災が起こってから、私は、すこし変わりました。
もっと正確に言うと、震災が起こって、自分とおんなじ人々に突然おとずれた『悲惨』を目の当たりにして、それなのに、それなのに、何ひとつ、誰ひとり助けることもできずに、毎日と生きていく自分を知って、私は、すこし変わりました。
日常のどんなささいなことにも『これは、価値を生む?』と自分自身に聞くようになりました。
夫とのささいな口喧嘩 ー 「これは価値を生む?」 ・・・しなくなりました。
犬と遊ぶこと ー 「これは価値を生む?」 ・・・よくするようになりました。
家事を後まわしにして、娘の遊びにつきあう ー 「これは価値を生む?」 ・・・よくするようになりました。
友達にいいたい愚痴 ー 「これは価値を生む?」 ・・・しなくなりました。
誰かに伝えたい元気 ー 「これは価値を生む?」 ・・・率先してするようになりました。
一般的な周囲に対する批判 ー 「これは価値を生む?」 ・・・しなくなりました。
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「光の方をみよう」と言い続けてくれる人のサイト
を、羅針盤のように読んで暮らしています。
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批判って、つい、心が見たがる方向なんでしょうね。
それをするのは、ほんとうに簡単なのですから。
光の方をみるのは、意識していないとできない。
そこには強い意志がいる。
それに、人間だから、どうしてもコメントは出ます。
でも、誰かのした悪いこと、あるいは至らない行為、それを諭すのなら、せめてマイナスのエネルギーを生み出す方法ではなくて、プラスのエネルギーが、すこしでもそこに、光が生まれる方法でそうしたい。
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被災地で窃盗が相次いでいるとニュースで読みました。
そこには、いろんな事情があったとしても、なんて貧しい、悲しい行為だろう・・・。
そこまで切羽詰まっていたのだろうか。
それとも、利を得ようとしたのかな。
それが人間なのだな、と冷徹な視線でみる自分もいて、はっとします。
そのどちらも、私。
ここで話せるのは、わたし自身のただひとつの経験です。
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ギリシャに来て間もないころ、夫ひとりの収入でやっと暮らしていたアパートのドアが壊され、空き巣が入りました。
日本から持ってきたPC、翻訳機、パスポート、現金、すべて持っていかれました。
いちからのやり直しでした。
あんなに悔しかったことはなかった。
現実に受けた被害よりも、こんな理不尽なことがあっていいのか、という思いに打ちのめされていました。
そんな私に、友達は言ってくれました。
「歯を食いしばってでも、前をむきな。」
それで後ろを向くなんて悔しすぎる。それが相手の思うツボだから。砂を噛んででも、空き巣に感謝してやりな。その空き巣は、あんたに今までつきまとっていた貧乏だって、きっと一緒に持っていってくれた。だから、あんたにはこれから、パソコンも、お金も、しっかりした家も、絶対に全部手に入る。求めなくても手に入るようになる。だから、歯を食いしばってでも前を向きな。
そういう彼女に散々八つ当たりして、泣いてわめいて気が晴れてから、私は彼女の言う通り、歯を食いしばってそう思うことにしました。
あれから6年たった今、その通りになりました。
求めずして、本当に・・・。
あの時の空き巣には、今では本当に感謝しています。
そして同時に、ぞっとしてもいます。
私の貧乏神をもっていって、きっと他の人のもたくさん担いで持っていって、今頃、どんな大変な思いをしているだろう・・・。
本気で、そう思えてくる。
だから、きっとそれは本当に起こっていることなのだと思います。
でも、その人だって、自分で決めてそうしたこと。
だから、どんなことがあっても、それはその人が払い戻していかなければならないもの。
被災地の泥棒さんたちにも、わたしは伝えたい。
絶対に、ぜったいに、あなたたちのしたことは、残る。
あなたたちの人生に、食い込むように、残るでしょう。
これからは、それを払い戻す人生を生きてください。
何度生まれ変わったとしても。
私も、そうします。